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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

供贄の黄金

59/128

059

「なんだかうまくねえなあ」
 直継はつぶやいた。
 荷物から出したボロ布で〈銀嶺の宣誓の鎧〉アーマー・オブ・シルバー・オース〈獅子王の剛盾〉ガーズ・オブ・ライオンハートから汚れを拭い取る。装備の全ては先ほど〈召喚術士〉(サモナー)が呼んだ水精霊(ウンディーネ)のシャワーで丸洗い済みだ。モンスターの体液は装備品を痛めるものもある。戦闘後のこまめな洗浄はかかせない。

「うまくないってなにがですか? 直継さん」
 隣では同様に腰を深く折ってファンシーなステッキを洗うてとらがいた。
 同じ第二パーティーということもあって、最近は班行動の多いふたりだ。デミクァスは気分屋でいつもひとりでいるし、ルギウスとフェデリコはやはり〈シルバーソード〉のメンバーであり、他の班との伝言や連携などやることがある。シロエはこのフルレイドの相談役というか参謀役的なポジションに落ち着いたようだ。しょっちゅうウィリアムに呼び出されている。
 そうなると必然的に直継はてとらといることが多くなるのである。
「もしかしていくら洗っても血の染みが落ちないですか。呪いですか」
「おまえ自称アイドルのわりには言葉エグいよな」
「ボクみたいなカリスマは自然体で大人気なんですよ。かわいいですから」
「そうですか祭り」
 まだ今日の探索は終わりというわけではない。昼過ぎになったので、探索を休憩して食事をしようかと準備中である。装備の手入れをしているのも、もちろん手入れの意味もあるが、半分は手持ち無沙汰だからだ。
「装備の話じゃないんだけどな」
「そうですか。もしかしてボクのこと意識しちゃいました?」
「それはないわ」
 直継はあっさり否定する。

 好きか嫌いかで言えば、てとらのことは嫌いではない。
 どちらかと言えば好きな部類に入るだろうな、と直継は思っている。
 とにかく話をしていて気楽で疲れることがない。特にこうして気の抜けた会話をしているときはいいやつだなあ、と思う。脳を全く使ってないじゃれあいのような会話はある意味リフレッシュそのものだ。バカって言うのには偉大なる癒やしの効能があると直継は思っている。趣味でぱんつぱんつと受けを狙っているわけではないのだ。
「元気ないですね。ぱんつみますか?」
「見ねえよ」
「ボク、ホットパンツじゃなくて、ミニスカのほうが良かったのかなあ」
「そこから離れろよ」
「いえむしろ粘着的にからかいます」
 くふふふ、とテトラは悪巧みをするような、いつもの得意そうな笑顔で直継にくっついてきた。直継は「ええい、離れろ、うざい」と引き剥がす。こうやってじゃれつかれるのは、正直困る。てとらは小さいし、身軽かつしなやかであっという間に直継は懐に飛び込まれてしまうのだ。力づくで迎撃するわけにもいかないからいつも後手に回る。
 てとらは直継のためらいをわかっていてあえてからかいに来るのだ。つまり嫌がらせである。性悪だ。本人も自分が可愛いのを知ってるあたり、たちが悪い。
「だいたいあれですよ。ぱんつ見えると嬉しいじゃないですか」
「お、おう?」
 あんまりにもその言葉は自然に放たれたため、直継はうまく返すことが出来なかった。
「なんかこう、ラッキー! ツイてるなって感じでしょ? ボクみたいな可愛い子のそれになると、今日も一日頑張れるっていうか、神様とハイタッチ! みたいな、そんな気分になるじゃないですか」
 別段直継をからかおうというわけでもなく、素直に言うてとらの言葉に、表面はともかく、直継は同意せざるをえない。本当にそのとおりだと思う。もちろん態度には出さないが。
「といってもお前なあ」
「そういう気持ちが誰よりもわかるボクっ! やっぱり天性のアイドルですねっ! ときめいてもいいんですよっ」
 そう言って鼻息荒く得意げな笑顔になるてとらを見て、こいつ大物だわ。と思う直継だ。他の細かいところはともかくとして、この〈施療神官〉(ドヤ顔ヒーラー)は本当によく笑う。
 それは大きな美点だ。笑顔でいるっていうのは、女の子が周囲へできる最大級のプレゼントだと、直継は固く信じているのである。

 それでてとらに絡まれると、マリエールのことを思い出すのだろう。
 笑顔つながりだ。
 その頻度は結構高い。もっともてとらが居なくてもマリエールのことはかなり思い出す。
 けっしてあのむにゅっという柔らかな圧迫感を求めているわけではないのだが、それはそれで困ったものだなどと思う。
 元の地球だったら色々と簡単だった。直継は就職に成功していたし、生活も安定してきたタイミングだった。彼女無し期間だってそこそこ長かったわけで、障害はなかったのだ。〈冒険者〉生活は楽しいしやりがいもあるのだが、そういうこと(、、、、、)を考えるには不安定すぎるように思う。暴走だ。マリエールの側の気持ちが重要なわけで。あんまり時間をかけるとかえって良くないというしなあ、などと直継は頬を掻いた。

「うわあああ。そういうことじゃないってんだよ!」
「わぁっ!? なにいきなり叫んでますかっ」
 そろそろと直継に再接近していたてとらはびっくりして、小さなおしりを遺跡の冷たい石床に打ち付けてしまう。直継はごまかすように手を振ると、「そうじゃない、そうじゃない。けどごめんな」と手を貸して助け起こした。
 直継は、考えていた事を誤魔化すように「そういう人生もあるんだよ祭り」とつぶやいた。
「直継さん、小学生のテストで美人の先生宛に告白したのを、クラスメイトに見られてバレちゃったみたいな顔してません?」
「なんだよその妙に具体的な指摘はよっ」
「うへへへ。で、なにがうまくないのさ」
 逃さないぞ、という表情のてとらだが、直継本人としてはむしろそっちを追求してくれたほうが、何倍も助かる。だからその誤解にまんまとのっかってみる。
「ああ、実はなシロのことだが」とことさら難しい表情を作ってだ。
 てとらは自慢そうな表情をさらに輝かせる。その意味するところは「さすがボク! クリティカルな質問を発しちゃって賢い!」というあたりだろうか。意味もなく胸を張るてとらはどうしようもなくバカっぽかった。

 さて、直継の方はてとらに癒されてばかりはいられない。
 うまくない、とは本当なのだがどう話したものかと考えてしう。
「おう、メシだぜ」
 そんなとき近寄ってきたフェデリコが箱のような食器をつきだした。中には茶色のシチューとアスパラガスがたっぷりのようだ。考え事をしていた直継は気がつくのが一拍おくれたが、てとらのほうは満面の笑みで「フェデリコさんありがとう!」と早速受け取っている。
 さすがにアイドルを名乗るだけあって、てとらの人気は高い。このレイドメンバーにもあっという間に受け入れられたし、可愛がられている。ほのかにファン的な存在さえいるようだ。
 その証拠にフェデリコの方も髭面に笑みを浮かべて「いいってことよ」とにこやかだ。二人分を手渡して去っていった様子を見ると、見た目によらず付き合いやすい人物なのかもしれない。デミクァスやルギウスにも届けるのだろう。〈シルバーソード〉の二人組はこういう雑用を進んで引き受けてくれている。前評判なんて当てにならんものだと直継は思うのだった。

「はやく食べよう。直継さん。そしてなにがうまくいかないのか白状しよう」
「あー」
 直継は生返事をして座るのに調度よい場所を探す。
 ここはこのゾーン〈奈落の参道〉(アビサルシャフト)に無数にある小部屋のひとつだ。小部屋と言ってもそれはダンジョンの規模に比較した時の言葉であって、実際には十五メートル四方はある、小さめの体育館を正方形に切ったようなサイズの空間だった。巨大な柱には華美ではないが彫刻が施され、雰囲気としては、宗教的な施設か宮殿のようで、かまぼこ型の屋根は高く淡い光を放っている。
 この近辺にはこの空間に似た部屋が無数にあった。今日の探索に入って半日、そんな区画を虱潰しにして、現れるモンスターを排除し続けているのだ。
 調度良く崩れて砕けた花崗岩の柱をベンチ代わりに二人は腰を掛けた。
「いただきますっ」
「いっただっきまーっす」
 受けとったシチューにはびっくりするほど大きな肉が顔を出した。それを頬張りながら直継は考えこむ。なかなか説明は難しい。シロエが問題の中心にいるのは確かなのだが、うまくないというのは感覚的な話なのだ。
 簡単に切り取ってみるのならば、シロエがなんだか苦しそうだ、ということになる。

 しかしシロエという人間は苦労性でいつだって多くの荷物を背負い込んでは仕事に追われているような部分がある。そのせいか、直継以外のひとの見ているシロエはいつだって少し困ったような顔で苦しそうに見えるらしい。
 直継はそんなことはないと思う。
 小難しい顔をしていたって、シロエはいろんなことを面白がっているし、結構手を抜いたりだらけたりすることもある。ふてくされて机で寝てることだってしばしばだ。
 でも、親しくないその他大勢からはいつも難問を抱えているようにみえるシロエは、本当に苦しんでいるときにも理解され難いという弱点がある。普段からうんうん唸っていつつ、それでも結局最終的に問題を解決してしまうシロエの、本人だけではどうにもならない限界に気がつくのは難しい。それを周囲に説明するのはもっとだ。
 なぜなら、どういう顔の時は厳しい表情だけどポーズなのか、どういう顔の時は本当にピンチなのか、その見分け方を直継も説明はできないからだ。直継には判る。だがそれは、なんとなくだ。
 今シロエは、見た目よりずっと苦しんでいるだろう。
 でもそれさえなんとなくだ。
 説明はできない。

「シロがよう」直継はゆっくり話しだす。「なーんか、ピンチっぽくてなあ」
「ぽいんですか?」
「おう」
「じゃ助けに行こうそうしよう」
 アスパラガスをフォークで串刺しにしたてとらはあっさりと決めてみせた。
 そんな気楽に言うなよ、難しいんだぜ、と直継は応える。
「あの眼鏡は世間じゃ腹黒だなんだっていわれてるけど、腹黒ってより見えっ張りなんだよ。助けを呼んでいいのかどうなのか? 自分なんかがこんな仕事をして良いのかどうなのか? そんなことぐちぐち考えてるんだ」
「そっか。ココロが引きこもりですね」
「ひきこもりなのは否定出来ないなあ」
「アイドルが必要ですね!」
「そりゃ間に合ってると思うぞ」
「じゃなんでこんなド田舎の穴倉の中まできてるんです?」
 そりゃ金が必要だから、と答えかけて直継はそれがなんの答えにもなっていないことに気がついた。シロエには金をためて眺めて喜ぶような趣味はない。金は何かに使うための道具なのだ。〈クレセントムーン〉の時だってそうだった。では、今回、なんのために使うのかという疑問が発生するのだが、そういえば直継は答えを知らない。
 〈円卓会議〉の時は、銀行のゾーンを買い占めるためだった。でも銀行を得ることだってシロエの目的ではなかったのだ。あれは、アキバの〈冒険者〉を交渉の席につかせるために、武器が必要だっただけだ。
 金を得てなにに使うのか? その使い道にはどういった意図があるのか? 考えてみれば、直継は、それをシロエに聞いていない。知らなくても信用できるのがシロエという親友だ。だが第三者(てとら)に説明するとなると困るのだった。
(理由、理由ねえ……)
 首をひねっていた直継に、天啓のような言葉が降ってくる。
「たぶんだけどな、家を守るためだな」
「家、ですか」
「物理的な建物のことじゃないぜ。住んでる場所、みたいな意味で」
「つまりギルドですか?」
「ギルドだけじゃねーんじゃないのかなあ。よくわからんが」
 直継はシチューに浸したパンをかじりながら、思いつくままに会話を続ける。
「俺ら暮らすためには、やっぱ飯だの屋根だの必要だよ。それから、仲間な。仲間と一緒にいられる場所は、どうやったって必要だ。元の世界なら家族だろうし、いまのこの世界だと身内だとかギルドだってことになるだろうな」
 直継は、マリエールと〈三日月同盟〉をこの半年の間見てきた。
 みんなが安心して過ごせる場所。起きだして、仕事をして、夕食をとって、みんなで騒いで、今日も一日おやすみなさいと眠れる場所。
 その大事さも、暖かさも、それを支える優しい笑顔も。
「でもさ、そういうのにも、やっぱ居場所が必要なんだよ」
「はあ?」
 わかってないてとらを説得するように直継は言葉を続けた。それは直継が直継自身にもわかっていなかったことを、自分の深い場所から汲み出す作業だった。

「家の家っていうかさ、つまり、アキバだよ。なんもない世界に自分のギルドが一個だけあってもダメなんだよ。いろんなもんはつながってるからさ。ギルドにだって、居場所が必要なんだよ。役目や、仲間のギルドや。そういうのが繋がってる場所があって、うまくいえないけど、それは大事にしなきゃいけない」
 多分、そうなのだ。
 それが〈円卓会議〉成立のあの騒ぎの中で、シロエが必死に声を振り絞った理由なのだろう。
「街ってのもでかい家みたいなもんなんだよ。街が幸せじゃないと、そこにあるたくさんの(ギルド)は幸せになれない。その家に住んでる人間みんなだってしょんぼりしなきゃならない。シロエは自分の小さな家を守るためには、街だってそれ以上だって相手にするやつだよ」
「――住処ですか」
 自分の説明がちゃんと伝わったかどうか心配でてとらを見た直継は、そこに予想とは違う表情を見つけた。それはいつもの自慢気でえらそうな、そして優しげで強い微笑みだった。
「住居を守るのは、大事ですよ。それはボクら狼にとって一番大事です。直継さんにそこまで期待されてるシロエさんは、すごい人なんだなあ。――聞いてたとおり、それ以上ですよね。ボクらのおうち(ギルド)も、どうすればいいのやら」
「そっちの〈ライトインディゴ〉はうまくいってないのか? あんまし聞かないギルドだけれど〈大災害〉でメンバー激減とかか?」
「いえそんなことはないんですけどね。それにさっきの説明に合わせると、〈ライトインディゴ〉はギルドでもお家でもないですね。待機所というか職場というか」
「なんだそりゃ、アイドル養成所か」
 直継は混乱して尋ねた。しかし、てとらは「ごちそーさまでした!」と四角い食器に手を合わせると、にやにや笑いながら直継の頬をぷにぷにとつつく。
「だいたいアイドル養成所ですね。僕らみんなのココロの居場所を守るアイドルですもん。やっぱりついてきて正解でしたね! ボクのカリスマセンサーがびびっときただけのことはあります。〈ライトインディゴ〉の件は抜きにしたって、ボク、このレイドに、最後まで絶対付き合いますよ!」
 よくわからないてとらの自慢げな笑顔に、直継も「おう、たのむ」としか言えないのだった。





「ぴんくちゅっ」
「あらあら、乙女ではないくしゃみですわね」
「鼻むずむずしてもうたんやもん」
 温かいダイニングのテーブルでマリエールはヘンリエッタからたしなめられた。
 どこからか冷たい空気でも流れこんできたのかとあたりを見回すが、〈三日月同盟〉の食堂は平和そのものだ。
 ギルドの全員で食事ができるように願ったダイニングは天井も高く広々としている。〈三日月同盟〉はいまや四十名を越える立派な中堅ギルドなので、さすがにその数を収めるのは難しい。それでも、十六人がけテーブルふたつは用意出来たし、椅子をかき集めれば全員だって入れる。
 食事時ともなれば大騒ぎになるこの部屋は、浅い夕方であるこの時間、ギルドマスターであるマリエールとその腹心ヘンリエッタのふたりきり。のんびりした空気が流れていた。

 〈大災害〉からこちら、アキバの暮らしは多事多端だった。
 苦しいこともたくさんあったし、踊りだしたくなるほど嬉しい事もあった。さまざまな出来事を通して、この街は〈天秤祭〉の前後からゆっくりと自分自身の本来あるべき姿を思い出してきたようだった。〈円卓会議〉結成直後の弾けるような笑顔ではないけれど、毎日が安定して安心して暮らせる幸せや豊かさを噛みしめるような表情の人々が街を歩き始めた。
 元の世界より寒気が厳しい冬ではあったけれど、アキバの街は穏やかな時間を過ごしている。
 マリエールもそうだった。
 半年くらいの間ギルドマスターとして気を張り詰めていたけれど、最近は楽をさせてもらっている。ヘンリエッタに「そんなに難しい顔をしていては、ピリピリおばさんになってしまいますわよ?」と言われたのがきっかけだ。そのお説教をされた瞬間、ギルドの家族たちがマリエールから目をそらし、小さく笑ったのは忘れられない。自分ではそんなつもりはなかったのだが、緊張し過ぎていたのだろう。
 反省しなければと、マリエールは柔らかい溜息をつく。
 お説教の当人、ヘンリエッタのほうも最近では少し楽になったようだ。
 出納管理の仕事は明日架が手伝っているらしい。〈円卓会議〉実務の仕事にも関わっている分、出かける頻度は高いがこうしてゆったりした午後を過ごせる程度の時間はある。
 二人の旧友は、そんなわけで手のひらを温めるように、分厚いマグカップの中のココアを一口づつ飲むのだった。

「……? ……?」
「あら、ナナミ? どうしたの?」
 戸口から顔をのぞかせて、とてとてと走ってきた幼い少女にヘンリエッタは声を駆けた。そのヘンリエッタを小さく迂回して、マリエールの横から遠慮がちにテーブルの縁から目をのぞかせる少女は、きょろきょろと瞳を動かす。
 最近ギルドへと入ったこの少女はまだまだ加入から日が浅く人見知りが激しいのだ。
 その原因のひとりヘンリエッタは、視線をふせてクールにココアを飲むふりをしているが、唇のはしがひくひくしているのをマリエールは見逃さなかった。
 ナナミがこのギルドにやってきた日、狂喜乱舞をしたヘンリエッタは、まるでコインランドリーの大型乾燥機のような勢いで少女をもみくちゃにして、三十から先は数えるのも面倒くさくなるほどの着せ替えの餌食にした。とうとう彼女が泣きだして、〈暗殺者〉の飛燕に猛烈な抗議を受けた親友は、それから猫かわいがりを自制している。
 しかし、ヘンリエッタが反省しても、当のナナミにとっては軽いホラーだったのだろう。こういうとき、ちょっと腰が逃げているのだ。
「お膝来るか?」
 マリエールはナナミの腰に腕を回し、膝の上にひょいと抱き上げた。
 まだまだ幼いナナミにとって、それでやっとテーブルの上が広く見渡せるようになる。
 十六人掛けということもあり広くて長いテーブルには、マリエが作業をしていた彫刻刀などの木工道具と目の詰まった楓の端材。それにヘンリエッタがのんびりと計算をしていた収支予想の概算書、二人分のココア、布袋などが広がっている。彫刻刀を袋へと戻して安全確保するのはヘンリエッタだ。こういう部分が流れるようでいつもマリエールは感謝している。
 好奇心に目を丸くしてもじもじと動くナナミのおしりを抱き寄せたマリエールは、自然と頬がほころぶのを感じた。具体的になにがどうとはいえないが、いろいろなことがとても愛おしく思えたのだ。
 柔らかい魔法照明に照らされて、リビングは暖かくて穏やかだった。大きな開口部からはキッチンの一部が見えて、中ではふたりの料理人が夕ご飯の支度に腕をふるっている。耳を澄ませば廊下を歩く話し声、外から帰ってきた仲間の挨拶に、それを迎える明るい返事。
 ナナミは洗いたての洗濯物の匂いがした。おそらくマリエールも一緒だろう。それはマリエにとって、家族の絆のようなものだった。

「ココアを飲みます? それとも飛燕をお探し?」
 小首をかしげてマグカップを差し出すヘンリエッタにびっくりしたナナミは、その顔を見上げて、ココアを見て、もう一度ヘンリエッタを見た。どうしようかと尋ねるように振り返る幼女にマリエールは「もらっとき」と微笑んだ。
 こぼさないように手を添えて受け取ったマグカップは、ナナミにはやはり大きく、両手を使って慎重に飲むのがやっとのようだった。
「!」
 その甘さが衝撃的だったのだろう。
 ナナミはびっくりした表情で固まっている。
 この娘は〈冒険者〉から見れば世間知らずの塊で、目に入る物のすべてが珍しく、知りたくてたまらないようだった。それを面白がる〈三日月同盟〉のメンバーは、彼女をかわいがっていろいろなことをさせてやるのだ。しかし、ナナミ本人はというと、やはり最初に知り合った飛燕が一番大好きのようだった。飛燕がいないところでは臆病でもじもじしているし、その視線は頼りになる兄貴分の姿をいつも探している。
(そんなんも、ゆっくりゆっくり、安心していけたらええんやけどなあ)
 マリエールは、ナナミが膝からずり落ちないように気をつけながら、そんなことを考えた。
 こくこくと飲んでいたナナミが突如固まった。
 困ったような気配に覗きこむと、ココアは、残り一口のところまで減っている。
 自分一人で飲んでしまった、どうしよう、ヘンリエッタのものなのに!! ――とでも思っているのだろうか、バツが悪くて挙動不審になるナナミに、マリエールは微笑いかける。
「んな気にしなくてもええやん。梅子はそんなんでおこったりせえへんよ」
「梅子という呼び方に怒ったりはしますわよ」
 底冷えのするつっこみに、マリエールは大げさに怯えてみせる。その表情を交互見比べて怯えるナナミが可愛らしくて、ふたりは吹き出してしまう。そのやりとりで、ヘンリエッタも自分と同じように温かい気持ちを感じてくれているのだと確信し、マリエールは余計に嬉しくなった。うち(みかづき)は、ええギルドやんな、それが誇らしい。

――おーい、外寒ぇぞ!
 帰宅の挨拶ともいえないような内容の元気が良い声で、ナナミはバネ仕掛けのように背筋を伸ばしあたりを見回す。
「飛燕のようですわ。玄関ホールでしょう」
 ヘンリエッタのさりげない得点稼ぎの思惑など気づかないナナミは感謝の表情でうなづくと、ぴょんとマリエールの膝から飛び降りた。微笑みかけるマリエールにぎゅっと抱きつくと、少々危なっかしい足取りで玄関ホールへと去ってゆく。
「もうっ」
「どうしたんや?」
「あの飛燕がもてもてだなんて、少し妬けちゃいますね」
「そないなこというたって、梅子がホラーでおっかながらせるから……」
「マーリーエー」
 そしてくすくすと笑い合うふたり。
 こうやって昔からの親友をからかえることが、マリエールはたまらなく嬉しいのだ。
「――では先ほどのくしゃみは、直継様でしょうか」
「ひょわ!?」
 しかしその天下は短かった。
 心が通じあった笑みを浮かべていたはずの親友は、こんどこそ意地悪なにやにや笑いを浮かべて追求を仕掛けてくる。
「直継様ですか、直継様に噂されてたんですか?」
「そんなことわかるわけないんやん!」
 いくらここが魔法の世界だといったところで、そんなことが即座に直感できるほどのファンタジーはないのだ。
「わかりました、今念話で確認します」
 ファンタジーを冒涜するようなクレバー対応に、マリエールは追い詰められた。
 この親友に恋バナ相談をしたのは、もしかして間違いだったのではないかと、マリエールの後悔はは百回を超えたような気もする。ヘンリエッタはたしかに有能な働き者で毎日膨大な量の業務をこなすけれど、それにふさわしいほど趣味の人でもあって、その代表が少女のきせかえとマリエいびりなのだ。姑だ。怖い。

「ひーん。堪忍したってやあ」
「なぜです?」
 なぜですっていわれたって、そんなのいけずやん。マリエールは、口の中でもごもごとつぶやく。どんな顔をしていいかわからなくて、視線を逸らしたまま、それでも抵抗の意思を込めて、右手の指先を左手の指先とぐねぐねこねあわせた。
「せやって」
「はい?」
「念話は一日一回、夕飯後の二十一時なんやもん」
「……」
 マリエールが投下した言葉を、受け止めてゆっくり消化して咀嚼するような沈黙が続いた。そしてそのあと、ヘンリエッタは気の抜けたような声で「はあ」と答えた。
「はあっ!?」
「に、二度もいうことないやんっ!」
 口を四角く開けた珍しい表情のヘンリエッタに、マリエールは言い返す。
「だって、あっちは大規模戦闘(レイド)なんよ? 厳しいお勤め中やん! 生きるか死ぬかゆーか、死なんけど! でもでも、直継やんもきっと一生懸命戦っとるんやし、シロ坊やて必死に考えてるんやろうし、うちが邪魔するわけにはいかへんやん。だから野営ができてる夜だけ念話っていう約束で――」
 こめかみに指先を当てて頭痛をこらえるようなヘンリエッタはため息を付いた。
 まったく失礼な親友だ。マリエールの心遣いが伝わっていないらしい。
「そんなことを聞いてるわけではなくて、いえ、そういうことなのかもしれませんけど……。それで、毎日念話を?」
「せやよ」
 よくわからないマリエールは頷く。
「アキバの様子とかな、アカツキちゃんの様子とかな、報告するんよ。そいえば、昨日はナナミのお話したんよ。ナナミに新しいスモック作ったげたやろ? あれの話な。あと、ゴム長を一緒に買うてきて、飛燕とナナミちゃんが玄関で踊ってた話もしてな。それにそれに、新作タンドリーチキンの話もしたんよ。一緒に食べたいなー、食べたいなーって直継やんといいあって。直継やんは身体おーきいから、きっと三枚たべられるやろ? スパイシーやから四枚かも! そしたらラッシーも美味しいよなあって話になって、やっぱしふたりで食べに行きたいなあって、なんやもうえらい時間使ってまうてん。なあなあ、ヘンリエッタもタンドリー、美味しかったと思わへん?」
「はあ」
 なんだか胸焼けをしたような表情でヘンリエッタは立ち上がった。
「どしたん?」
「わたし、夕食前に〈生産者ギルド連絡会〉へと届け物をしてまいります」
「そっか」
「このままではおなかがいっぱいで夕飯が入りませんわ。本当にマリエったら、もう……なんていうか……」
 書類挟みを抱いたまま肩を落としてリビングを出て行く親友をマリエールは手をふって見送った。これが〈三日月同盟〉の最近の日常である。
 マリエールはマリエールも気づかないまま、ヘンリエッタ脳内の勝ち星表で白星ひとつを追加した。
 こちらの勝敗も大規模戦闘に負けず劣らず、熾烈な星の取り合いになっていた。








 斥候班が報告してきたとおり、すり鉢状の巨大コロセウム中央には、くすんだ暗紫の甲冑がひざまずいたような姿勢で静止していた。一〇〇メートル以上の距離を〈砲撃士〉の〈ロックオンサイト〉で計測すれば、その身長はおそらく十六メートルほどになるだろう。おそらく、ゴーレムもしくは巨人の類だ。
 レイドボスの感知範囲は広大であるが独特でもある。おそらくこの場合、ウィリアムたち一行がコロセウムの闘技場内に入ったところで戦闘開始となるだろう。
 敵は〈七なる庭園のルセアート〉。
 ウィリアムにとっては〈ヘイロースの九大監獄〉で何度も戦った〈七なる監獄のルセアート〉と同じ姿を持つ敵。おそらくその能力や戦術も強化されつつ、特徴を残しているのだろう。斥候班の強行偵察によれば〈七なる庭園のルセアート〉にも白騎士モードと黒騎士モードが存在するようだ。ふたつの性能を切り替えながら攻撃をしてくる難しいボスだと記憶している。
 ウィリアムは肩の高さに手を挙げる。
 それだけでレイドメンバーの視線が集中するのがわかった。
 打ち合わせは事前に済ませてある。偵察班は何度か突撃し、死亡しながらも貴重な情報を持ち帰ってくれたのだ。それらを重ねあわせた戦術構築は〈記録の地平線〉のシロエも「勝率は五分五分」と認めている。それは初戦にしては悪くない数字である。
 じわり、と背後で熱気が膨らんだ。
 その機を捉えてウィリアムはまっすぐ手を振り落とす。
 指示に従って、堰を切られた川のように部隊は流れた。第一部隊を先頭に白灰色の観覧席を駆け下りる。
 荒れ果て崩れ落ちた壁を滑るように降りて、前へ、前へ。

 一般的に言ってモンスターの攻撃範囲はその巨大さに比例する。
 身長一四〇ほどしかない〈緑小鬼〉(ゴブリン)の攻撃範囲は、素手なら数十セントメートル、足さばきや槍を計算に入れても一メートルほどでしかない。しかし、それが身長二メートル級の〈灰色大鬼〉(トロウル)ともなれば振り回す棍棒の射程は三メートルを見こまなければならないだろう。眼前の巨大なレイドボスのサイズを考えれば、その攻撃範囲はかなり広範囲だと思わなければならない。
 シロエの発案でここ数日の間、一〇メートル、一五メートル、二〇メートルといった基準点を目測と体感で覚えこむ訓練を〈シルバーソード〉の一行は繰り返している。それによりこの巨大な敵への目測を誤ることはない。
 しかしそれも、まずは一撃加えてからのこと。まずは相手の攻撃範囲に潜り込み、前衛はその最前線へたどり着き、脆弱な魔法使いや遠隔攻撃手を外側の安全地帯に配置しなければならない。たとえ戦闘中、ひっきりなしに攻撃位置を変更しなくてはならなかったとしても、その駆け引きには彼我の射程の差というものがある。あるいは死角による位置取りといった戦術を駆使しない限り、後衛職がレイド級ボスの攻撃を凌ぐことはできない。彼らの一撃は、それほどまでに重いのだ。
 濁流の先頭を走るディンクロンが切り裂くように二〇メートル圏内へと突進した。突如生命を吹きこまれたように立ち上がる〈七なる庭園のルセアート〉。機械鎧にも似た面頬の隙間から漏れる真紅の光を液体のように流れさせ、巨大な斧槍(ハルバード)を振りかぶる。盾を構えたディンクロンが歯を食いしばり、衝撃に備えるのが見えた。その努力は実り、重装甲に身を固めた〈シルバーソード〉の〈守護戦士〉はレイドボスの初撃を食い止める。
 ダメージは軽微だ。総HPの一割程度といったところか。
 しかしだからといってそれは敵の攻撃力が低いということを示しはしない。戦闘開始前にディンクロンが受けた〈禊ぎの障壁〉はダメージ遮断魔法である。高位の〈神祇官〉(カンナギ)が付与したその呪文は、対象が受けるはずの四五〇〇程度のダメージを無効化する。つまり、無効化してなおダメージを受けたのだ。そのバリア呪文がなければ、今の一撃でHPの三割以上を失っている。
 恐ろしい攻撃力だった。
 しかしそれさえも織り込み済みだ。解除されたダメージ遮断はすぐさま再付与される。

 第一パーティーの先頭〈守護戦士〉ディンクロンはこの部隊の先端、矢でいえば最硬度の鏃だ。次々と重なる回復呪文をうけた鋼の戦士は〈七なる庭園のルセアート〉の足元へたどり着き、〈アンカーハウル〉〈タウンティングシャウト〉といった挑発特技をたてつづけに使用した。
 ここからが戦闘の始まりである。
「攻撃、開始っ!」
 ウィリアムは第三パーティーから全員に通達する。
 〈吟遊詩人〉の援護歌を受け、色とりどりの魔法や射撃攻撃がレイドボスへと降り注ぐ。これだけの大規模戦闘では確認も難しいが、いまルセアートには凄まじい数の弱体効果が蓄積していっている。全十二職業をフルレイドに組み込む意味はここにもある。同一の弱体効果は例外を除き累積しないが、様々なクラスによる多方面的な包囲網は強大な敵にこそ効果を発揮するのだ。
 立て続けの攻撃に一瞬視界が曇り、大地を揺るがすような重苦しい爆発音がした。
 周囲十数メートルをえぐるようにルセアートが鋼色の巨大武器を振り回したのだ。その一撃で二名が死亡し、近接戦闘を挑んでいた数名が瀕死の状態に落とされる。
 ディンクロンでさえ、そのHPの半分を失う凶悪な一撃だった。
 しかし〈シルバーソード〉の戦列は瓦解しない。
 〈神祇官〉の固有蘇生呪文〈魂呼びの祈り〉により、死亡者は術者の足元に転移されて蘇生する。安全距離までの退避と復活を同時に行える便利な呪文に加え、〈紅玉獣〉(カーバンクル)を召喚した〈召喚術師〉(サモナー)が〈ファンタズマルヒール〉を詠唱する。魔法攻撃職の中でも例外的なこのHP回復呪文は、本職の回復呪文には及ばないが、彼らの負担を軽減するには十分な活躍を見せる。
 〈神祇官〉以外の回復職は傷ついたメンバーの回復を最優先、そしてその間もディンクロンはルセアートの攻撃に一歩も退きはしない。

 先ほどの周囲をなぎ払う強力な一撃はレイドボスの必殺攻撃だろう。
 いま、〈シルバーソード〉のメンバーはその一撃を瞳に焼き付けた。ウィリアムの隣でフワフワとした可愛らしい哺乳類(カーバンクル)の首根っこを掴んだむさ苦しい〈召喚術師〉が鋼のように断固とした声で数字を数え始める。その響く声を全員が耳にしている。
 レイドボスの巨大な攻撃には例外なく条件が存在するのだ。
 そのメジャーな条件のひとつが、プレイヤーである〈冒険者〉風に言う再使用規制時間(リキャストタイム)だ。強力な攻撃は連続では放てない。技ごとに独自の冷却的な期間が存在する。その時間が十秒なのか三十秒なのかはわからないが、その冷却時間は存在するはずだ。
 〈召喚術師〉は打ち合わせに従い、それを計測するためにカウントを行っている。もちろん魔法攻撃の手を緩めず、戦闘状況への対応も怠らずだ。
 〈エルダー・テイル〉がゲームであった時代、このようなカウントは外部プログラムか、ローテクな対応だとしてもモニタの横にさげたストップウォッチでよかった。レイドボスのすべての行動はプレイを録画した参考動画からミリ秒単位で分析され、ログと照らしあわされて、攻撃のダメージ、属性、範囲、間隔、モーション、貫通率、クリティカル率、すべてを丸裸にされた。
 戦に挑む者(レイダー)たちはクラウドサービスでその情報を共有化し、チャットルームで検討し、もっとも効率的な最新の戦術をもって攻略にあたっていたものだ。

「一八、一九、二〇、二一……」
 掠れてはいるが張りのあるテノールが、剣の音や激突する鋼の響き、空中を走る雷鳴や火炎の音に重なる。
 メンバーは五感を研ぎ澄ませ、その声を聞き漏らすまい、目の前の敵を見失うまいと必死に食らいついてゆく。
 すべてが混沌に飲み込まれてしまったこの世界で、それでもなお戦い続けた〈シルバーソード〉は、こんなにも原始的で無様な戦術を再構築したのだ。
 かつての強豪ギルドの零落した姿と言えるかもしれない。
 泥臭く、みっともなく、それでもどん欲に勝利を望む祈りがそのカウントには込められている。
 肉声で数えるカウントが二六に達した時、〈七なる庭園のルセアート〉は鋼の大斧槍を振りかぶった。先ほどの恐ろしい一撃が来る。
 しかしウィリアムの仲間たちに恐れはない。
 〈暗殺者〉(アサシン)〈盗剣士〉(スワッシュバックラー)が宙を舞った。
 〈吟遊詩人〉(バード)〈森呪遣い〉(ドルイド)は弾かれたように距離をとった。
 耐える選択をした戦士たちへと〈施療神官〉《クレリック》が矢継ぎ早に防御力向上の呪文(バフ)投射(キャスト)する。
 二回目でこの対応は上々だ。
 唸りを上げる暴風が通り過ぎたあと、今度の攻撃では、少なくとも死亡という意味の犠牲者がでなかった。
 HPの多くを失ったものはいたが、回復部隊の呪文がそれを癒していく。
 まずは一手、敵の攻撃をいなしてやったのだ。
 ウィリアムの唇の端が凶暴に釣り上がる。
 こんなものではない。鎧そのものが刃物であるような姿をしたこのレイドボスは、まだまだいくらでもひねくれた攻撃方法を隠し持っているはずだ。こいつはまだ姿を変えてさえいないのだから。
 だが悪くない。ここまでは悪い流れではないと思いながらウィリアムは矢を射る。
 その喉はウィリアム本人が意識しないうちに「DPS(ダメージ)あげろ! ちんたらやってんじゃねえ、回転上げて削れえ!!」と獰猛な叫び声を発している。

 呆れるほどの矢をはなった。
 攻撃陣は砕けよとばかりに刀を叩きつけ、あるいは火炎の呪文をはなち、光や闇に染まる範囲呪文にルセアートを巻き込んだ。
 ウィリアムには判る。レイドゾーンに出現するようなボスモンスターは例外なく莫大なHPを持っている。その量は気が遠くなるほどだ。〈シルバーソード〉のような超一流のレイドギルドの九四レベル〈守護戦士〉ディンクロンは一万八千弱のHPをもっているが、レイドのボスモンスターはその千倍から二千倍に及ぶHPをもっている。
 もし〈七なる庭園のルセアート〉のHPが、メーターなどで可視化されていたとしよう。そうすれば見えるだろうが、こうして攻撃陣が間断のない攻撃を繰り出していても、その減少具合は本当に微々たるものだ。そのじわじわとした低下はメーター上、肉眼では認識できないほどであろう。しかし、それでも、それを継続することだけが連中を打倒する唯一の手段なのだ。

「気をつけろ、足元だ!」
 鋭い声がかかる。この声は〈盗剣士〉のフェデリコだ。
 突如動きの鈍くなった〈七なる庭園のルセアート〉の足元から、黒い靄とも液体ともつかないものがあふれだす。うねくるような動きを見せたそれは闘技場の床を浸すように急速に広がってきた。
「ダメージあり、属性〈邪毒〉っ! 行動、いや、移動阻害っ。攻撃速度も威力も低下っ」
 ディンクロンの報告の声が届く。見ればその足元では、黒い粘液のようなものが僅かな電光を発しながら、ディンクロンのプレートブーツを絡め取ろうとしている。
 ウィリアムは一瞬ためらう。
 ダメージ有りとはいうものの、それは軽微だ。
 きらめく電光はダメージ遮断に弾かれた攻撃である。あれだけ小さな輝きが連続で起こり、障壁が突破されていないということはダメージが小さい証明だ。それは防御力においてディンクロンに劣る近接攻撃メンバーでさえ深刻なダメージを受けていないことでも判る。
 その程度のダメージしか与えない、しかも移動阻害特殊攻撃――ウィリアムが危機感をおぼえた刹那、〈七なる庭園のルセアート〉は重々しい足音を立てて歩き始めた。
 その動きを阻止しようとディンクロンが〈アンカーハウル〉を重ねる。しかしそれは無効化される。いつもとは違う弾かれるようなエフェクトを立ててルセアートの鎧の表面を流れ落ちたのだ。
 ダメージの少ない広範囲拘束攻撃。
 その意図に気がついたウィリアムは叫ぶ。
「範囲遮断っ! 範囲回復っ!」
 その叫びがスイッチを叩き入れたように部隊が動く。
 半透明のドームにも似た障壁、淡く輝く防御呪文、反応起動回復を表す橙色の薄片はしかし、一撃で吹き飛ばされた。蹂躙を開始した〈七なる庭園のルセアート〉の金属の身体は、モンスターというよりも、兵器だった。巨大な建築機械が猫類の敏捷性を得て跳ねまわるのだ。地面を舐めるように振り回されるハルバードは〈シルバーソード〉を葦か藁束のように刈り取ろうとする。

 しかし、それでも。
 半分以上のメンバーが残る。
 そして傷みに怯みながらも退かない声がカウントを続ける。
「第一の回復役(ヒーラー)は前線維持っ! 二班下がって蘇生復旧、三、四はダメージ落とせ七割だ、復旧優先っ!」
 ウィリアムは喉の奥で抑えきれないように笑った。
 舐めあげれば鼻の脇を垂れてきたそれは血の味がした。
 鉄を煮詰めたようなそれはウィリアムが求める大規模戦闘の味だ。
 敵は強い、想像通りに、予想を超えるほどに。
 そしてウィリアムたちはまだ立っている。
 戦いは始まったばかりなのだ。

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