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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

供贄の黄金

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061




 転移に付きものの立ちくらみにも似た感覚のあと、シロエは広大な白い砂浜に立っていた。
 朝焼けにも似た清澄な光が波打ち際を照らしている。
 ゆっくりとくりかえす波はレース模様の泡を引いてかすかな音を奏ていた。
 遠く視界の果てまで続く白と青の境界線。
 一歩を踏み出して、ミルフィーユを崩したような足元の音にシロエは驚いた。
 穢れのない砂浜を畏敬にうたれながらシロエは歩き出した。
 じっとしていても仕方ないからではあるし、何かに導かれる様でもあった。

 頬を打つ風に視線を上げると、大きな影がシロエの後方から天頂へと向う。
 あの優美な翼は何かの海鳥だろうか?
 暗いコバルトの空の中で、白い姿が同類と戯れるように舞っている。
 風をつかまえたその飛行はなめらかで、シロエは昔読んだリチャード・バックの小説を思い出した。あのカモメのように海鳥はどこまでも羽ばたいてゆく。

(それにしても不思議な場所だな……)
 臨死体験にしても見覚えがない。
 幼少期にでも来た場所なのかな? と考えた。人間は記憶を失わない、引き出せなくなるだけだと何かの記事で読んだ覚えがある。人間の記憶は暗号化されたシナプス間の接合なのだから、それが解号できなければ失われたとみなしてもいいのじゃないか? とひねくれたことを考えたシロエだが、この場所はやはり記憶になかった。
 だが例え記憶にはなくともここは美しい場所だった。
 澄み切った冬の大気が無限に広がるような砂丘。
 穢れのない淡いクリーム色と言葉にするのが惜しくなるように澄んだ群青のコントラストが目に染みるほど鮮やかだ。
 シロエは一人で、その波打ち際を歩いた。
 アイボリーの砂の上には、数万年ぶりに記されたようなシロエの足跡がある。それはシロエの歩みに追随してくるひとつの記録(ログ)だった。

 あの公園のベンチにおいてきたからだろうか、それとも歩き続ける銀砂に吸い取られたのか、シロエの胸の中にもう無力感はなかった。
 ただ淡い罪悪感は残っている。それは蘇生のあとに返さなければいけない借りだ。
 長い間歩いたシロエは、考えを整理しながら海を睨んだ。
 足元から光の粒子が波紋を広げていく。
 水晶のような独特の響きにシロエは疑問を覚えた。
 砂浜を照らす瑠璃の惑星は、写真でしか見たことのないコバルトにマーブルの雲を浮かべているのだ。月だとばかり思い込んでいた天の明かりは、青い惑星だった。

(――ここは、月なのか?)
 周囲を見渡せばそれが正解のように思われた。
 乾ききった恐竜の骨のように色の砂丘も、それを浸す夢幻のような碧光も、儚い幻想のような光景だ。
 素早くゾーンを確認したシロエは、ここが噂にだけは聞いていた十四番目のサーバーであると確信した。
 ゾーンの名は〈Mare Tranquillitatis〉。
 まだ自動翻訳システムに登録されていないのだろう。原文のままの表示を信じるならば、ここは〈静かの海〉。
 ここはおそらく〈アタルヴァ社〉が用意した開発中のコンテンツが満載されたテストサーバーなのだ。それが〈大災害〉でこちら側にやってきてしまったのか、それとも何か別の事情があるのか、シロエにはわからなかった。
 調査する方法も持っていないシロエは、呼吸可能なことを感謝しながら記憶を探る。

 〈ハーフ・ガイアプロジェクト〉により地球近似世界を実装している〈エルダー・テイル〉はその全域を十三のサーバーで分割管理している。テストサーバーはそこには正式に加わっていない十四番目のサーバーだと言われていた。
 しかしなにも、それは非公開という意味ではない。
 ユーザーは自由にテストサーバーにキャラクターを作成することができる。テストサーバーで作成したキャラクターは、一般のゲームサーバーへ移動することができず、果てしない迷宮の広がる地下世界を探索することができるだけだ。
 だがこれはユーザーにも開発会社にも両方に利益がある仕組みだった。
 開発会社は現在開発中のシステムを、〈エルダー・テイル〉のプレイヤーという基礎知識のある優秀なデバッガーに、無料で検査してもらうことができる。戦闘特技や武器のダメージバランスなどはシミュレーションで数値バランスを取るだけではなく、実際ユーザーに遊んでもらい感想を尋ねるのが最も確実にクオリティを高める手法なのだ。
 ユーザーから見た場合、このテストサーバーは近日中ゲームに導入される要素をいち早く無料で体験できる場所であった。戦闘バランスの変更や、新しい特技、アイテム、モンスターの導入はゲーム環境に変化をもたらす。そういった新情報を一足先に入手するのは、テストサーバーのデバッグに参加をするのが最も確実だ。
 そんな両者の思惑がテストサーバーの運営を可能にしていた。
 〈エルダー・テイル〉開発元の北米〈アタルヴァ社〉が、こうしてテストプレイヤーと協力し合い、全世界共通コンテンツの開発や、システムのアップデート研究を行うためのシステムがこのテストサーバーなのだ。

 シロエ自身もこのテストサーバーにはサブキャラを常駐させている。
 それが女性の召喚術師だったいうことを考えると、メインキャラ(シロエ)のほうで〈大災害〉に巻き込まれたのはまだマシだったのだろう。
 だが、テストサーバーについてはそこそこ知識のあるシロエであっても、テストサーバーに「地表」があるということは知らなかった。海外の情報サイトでもそんな情報はなかったはずだ。
 テストサーバーはその名の通りテストのための環境なのだ。
 新旧様々な、時には没になったようなダンジョンなども連結され、数字のエリア名だけで区切られた地下迷宮世界というのが、シロエの考えるテストサーバーだったはずだ。
 うろ覚えだが、そもそも新拡張パックがリリースされるこの一週間、テストサーバーの管理人員も拡張作業へ振り向けるために、ログイン不能になっていた気がする。

 シロエは知り得た情報を咀嚼してみたが、新しい推論は得られなかった。
 そもそも臨死体験でテストサーバーへ来るなど、シロエは聞いたことがない。
 他の〈冒険者〉たつはテストサーバーであることに気が付かなかったのだろうか?
 その可能性はあるだろう、とシロエは思った。
 テストサーバーが管理する地域が〈ハーフ・ガイアプロジェクト〉にない以上、それは月にでもあるのではないか? という話題は海外の掲示板で数度議論になった程度であり、日本人プレイヤーの間でメジャーな知識だとはいえない。
 シロエだって知っていなければ〈Mare Tranquillitatis〉が「静かの海」だとはわからなかっただろう。ラテン語だったはずだ。

 そこまで考え込んだシロエは、突然自分を至近距離で見上げる姿に気がついた。
 ちらちらと雪がふるように乱れた姿に目を凝らしてみれば、それはシロエのよく知る少女、アカツキ以外の誰でもなかった。
 キャメル色のダッフルコートに身を包んだ少女は、少し困ったような、警戒するような、そのくせ懇願するような表情でシロエを見上げていた。
 懐いてくれないくせにいつも側に来てくれた近所の猫を思いだす。
 シロエが頷くと、アカツキも同じように安心してくれたようだった。
 すねたように上目遣いの彼女が微笑むと、とても優しい表情になるのをシロエは知っていた。
 満足そうな、楽しそうな、そしてはにかんだような笑顔だった。
 シロエはアカツキを誘うように、砂浜を再度歩き始めた。この場所にとどまっても得られる情報は他にはなさそうだったし、波打ち際でくるりと回っているアカツキは先へ進みたさそうだったからだ。

 二人は時間をかけて砂浜を進んでいった。
 この場所にはまったく害意も敵意も感じなかったが、それでも見知らぬ場所ではある。
 シロエは注意深く周囲を観察していたが、一方でアカツキは落ち着いているようだった。
 振り返れば腰を折ってじっと砂浜の足跡を見つめている。
 シロエがそれに気づいて振り返り立ち止まると、重力を感じさせないような軽やかさで追いかけてきて、シロエの周りでふわりと回った。
 そして二人はまた歩を揃えて進み、時にはアカツキが先行したり、波打ち際を確かめたり、大きな鳥が羽ばたく姿を指さしたりした。

 燕のような少女のキャメル色のダッフルコートは可愛らしく、とても似合っていた。
 少し寒いのか、頬を淡いりんごの色にそめて、時には催促するように先行する。
 ここはやはり〈エルダー・テイル〉ゆかりの世界なのだろう。巨大な大気が存在し、それがゆっくりと動く戸外特有の風鳴りが低くひびいていた。潮騒の音と唱和するそれはこの世界の基調背景音であり、それ以外の物音は二人の足音だけだった。
 何かが少し怖かったのか、アカツキの歩の進みはゆったりとなり、遅れがちになった。
 シロエは焦りもせずアカツキをゆっくりと待った。
 待つのは苦にならなかった。

 いつの間にか、天からははらはらと真白い燐光が舞い降りてくるようになった。
 どこまでも白く淡いその光は、砂丘にも、海原にも、シロエにも、アカツキにも、等しく静かに降り注いでいた。
 びっくりしたシロエは指で触れてみて、夢の様なはかなさに胸が痛くなる思いがした。
 子どもの頃に触れた雪とそっくりに、捕まえたと思っても掌を確かめれば姿がない。
 目を丸くしているアカツキにシロエは頷いた。
 今ふたりは同じ不思議を見ている。
 同じ不思議に触れているのだ。
 それは訳もなく静かな満足感をシロエにもたらした。
 恐怖や、怒りや、後悔が、静かな冬の浜辺へと溶けてゆく。ふたりは静寂の前に無口になり、その清朝さに洗われた。

「こんなに静かなところだとは思わなかったよ」
 澄み切った青い入江の浜で、シロエは足を止めてつぶやいた。
「うん」
 隣のアカツキは答えてくれた。
 短い言葉だったが、シロエはその声のなかに自分と同じ畏敬の念を感じた。
 遠い遠い海原の彼方から教会の鐘のような音がかすかに響いてきていた。
 それは生まれてから数万年を孤独に過ごす見知らぬ種族が、仲間に向かって存在を告げる旧い信号のように思えた。
 なんの根拠もなかったが、シロエはこの入江が特別な場所なのだと確信した。
 隣に立つアカツキがわずかに震え、悲痛そうな吐息をついた。
 シロエはこの時初めて、アカツキも“死”に巡りあったのだと思いあたった。
 仮初ではあったが“死”は“死”なのだ。それは無残にアカツキの上を通り過ぎ、刻印を残した。おそらく苦痛だったのだろうと思う。悲嘆も、屈辱もあったはずだ。
 しかしアカツキはシロエが知っているよりもちょっと大人びて、ずっと強い瞳をしていた。
 ウィリアムがいうように“死”が何かを教えてくれるのであれば、シロエたちはそれを無駄にはしない義務がある。なんのための義務なのかもわからぬまま、シロエはそれを胸に強く誓った。

 もしこの入江が、そのために記憶を奪うのならば、それは対価として自ら差し出したい。
 シロエはそう願った。
 昨日より少しだけ何かがわかった自分になるために、後悔を超えて願った何かに近づくために、それは必要な儀式なのだ。
 シロエはポケットから小さな刃物を取り出して記憶の欠片を自ら切り取った。
 それを見たアカツキもポニーテールの先端を切り取り、海原に流した。
 天から降る雪も、この青い海原も、すべては想いの欠片で出来ているのだ。
 可視化された魂の一部が液体状のエネルギーとして潮騒を奏でている。
 この入江までこなかった〈冒険者〉たちが流した涙もこの海は飲み込んでいる。それは推測というよりも確信だった。シロエはこのとき、〈魂魄理論〉(スピリット・セオリー)をその目で見ていたのだ。
 小さな手がシロエのコートを握った。
 シロエは海から視線を外さないまま「すごいね」と囁いた。
 頷いたアカツキとシロエは胸の動悸が静まるまで、海原の方向を見つめていた。
「アカツキは倒れちゃったの?」
 シロエの言葉にアカツキはびっくりした表情をしたが、こくりと頷いた。
 アカツキはシロエを必死に見上げて、その小さな口を開いた。
 開こうとした。
 でもそれは彼女にとっては難しいらしく、何度か挑戦して、やがて一文字に結んだ。
 見上げるアカツキには涙が滲んでいたが、それは悲しさであるというよりも、悔しさのそれだった。アカツキは自分自身の胸の痛みをひとりで抱え込んで、シロエに漏らさなかった。
 シロエはその表情に胸が痛くなった。アカツキはとてもむずかしい問題に挑み、敗れたのだ。それを助けてあげたかったが、シロエはその場にいなかった。
「そっか。僕もなんだよね。死んじゃった」
「主君もか」
「うん」
 目を瞑ればよみがえる。〈シルバーソード〉の張りのあるカウントの声。
 叩きつけた剣の響き、燃え盛る火炎といてつく冷気の魔法。
 勝てなかったことが悔しいわけではないのだ。
 そのために最善を尽くさなかったこと。為すべきを為さなかったことが、後悔なのだ。
 しかしアカツキの燃える瞳は微塵もひるんではいなかった。
 アカツキは敗れたかもしれないけれど、負けてはいなかった。
 何が起きたかはわからないけれど、シロエは彼女を見て、自分と同じだと感じた。その痛みはアカツキの宝物なのだ。戦う決意をした者が持つ取り返すべき誇りだ。
 だから慰めは必要なかった。
「失敗した。見込みが甘かった。――信じ切れなかった」
 言葉を惜しんだ。
 手をとることを惜しんだ。
 最善を惜しんだ。
「わたしはわかっていない」
 今にも泣き出しそうな自分を必死に励ますような声に、シロエはいいたかった。大丈夫。僕がわかっている、と。アカツキが頑張っていることは、僕がちゃんとわかっている。いずれわかるということを、わかっている。今はちょっと迷子になっているかもしれないけれど、それはアカツキにとって必要な回り道なのだ。
 でもそれはまだいえない。この少女は戦っているのだ。シロエも戦っている。ふたりの戦い(レイドバトル)は、終わっていない。
「不思議だなあ。ここでアカツキに会えるだなんて思わなかったよ」
「うん。主君。不思議だ」
 だからアカツキの小さくて丸いおでこに触れた。伝わらないすべてが伝わるようにこの入江に祈った。
 過ちは消すことが出来ない。しかし〈冒険者〉である自分たちは再び立ち上がり、挑戦することが出来る。
「だから、もう一度やろうとおもう」
「僕ももう一度かな。――みんなに教えられた」
 そんなふたりの上に、無数の燐光がふりしきった。
 この世界はすべての想いを刻み込み無限へとつながっていくひとつの地平線なのだ。
 その理解が世界の輝きをさらに冴えさせた。
 遠くから潮騒の音が押し寄せてくる。
 輝く渚が氾濫して、シロエたちの足首を洗った。
 シロエはアカツキに微笑みかけた。この時間が終わるのだ。
 でもそれは再会へとつながっている。
 シロエはアカツキの頭に載せた手を少し動かして、困る。いつもならこのへんで、アカツキの飛び蹴りが来るはずだ。子ども扱いするな、とか。それが来ないうえ、アカツキは真剣な表情をしているから、やめるきっかけが見つからないのだ。
 アカツキはきょとんとした表情で何かを言いかけた。その声は水の音楽で聞こえなかったが、シロエは気にならなかった。指先にはひんやりした細い絹髪の感触が残っている。
 その柔らかさに、シロエは確かに救われていた。







 目が醒めたウィリアムは視界に霞むほど高い天井を見上げた。
 喉がひりついて嗄れた声が溢れる。
 自分がどんなに情けなく、しみったれた顔をしているのかはわかっていたが、漏れだすような低い声を我慢することはできなかった。せめてもの抵抗に腕で乱暴に目の上をこする。確認するまでもなく濡れていた。
 子どものように泣いていたのだ。そのみっともなさに胸がつぶれる。
 周囲では低いうめき声が次々と上がった。
 〈シルバーソード〉のメンバーが次々と自動蘇生しているのだ。
 ここは〈奈落の参道〉(アビサルシャフト)の侵入口、ゾーンの開始地点だ。
 ウィリアムたち一行は全滅し、この地点まで引き戻されて蘇生した。
 それは大規模戦闘につき物のお定まりの全滅であり、そして違うことでもあった。

 レイドボスが三体も現れてウィリアムらを蹴散らしたのだ。
 それはふたつの事実を〈シルバーソード〉に指し示した。
 ひとつ目のそれは、この戦いには絶対勝てないという指摘だ。
 そもそもレイドとは、勝てるか勝てないかのギリギリのバランスの上に構築されているのだ。装備を整え訓練を重ねたギルドが、薄氷を踏む戦闘の末に勝利する。それがレイドだ。だからその大規模ボス戦闘が、三っつも連鎖して起こるのならば、勝てる可能性は誇張ではなくゼロとなる。大規模戦闘に慣れていればいるほどそれは明確に理解されるのだ。
 この戦いに勝利できる可能性はない。
 それはウィリアムの胸を真っ黒に塗りつぶす絶望だ。
 そしてふたつ目は、それにも輪をかけて――いや、比較にならないほどに悪い報せだった。もしレイドボスがああして徒党を組む様になったのだとしたら、それがどこででも起きているのだとすれば、もはや、〈シルバーソード〉が勝つことのできるレイドはこの世界にひとつもないことになる。
 もちろん非常に低レベルの、たとえば五〇レベル程度が挑戦するレイドであれば、ボスが二体に増えたところで対処できるかもしれない。しかしそれは、ウィリアムたちが考える「大規模戦闘」ではない。弱いエネミーを見つけ出していたぶるために徒党を組んでいるわけではないのだ。
 ウィリアムたちの望み同レベルの血がたぎるような大規模戦闘の挑戦であり、それはいま死に絶えた。
 ウィリアムは吐き出す息が冷えきり、なんとも言えない脱力感が苛むのを感じた。
 そしてそれは彼の仲間たちにもいえる。低く潰れたような声がとどまることなく漏れているのだ。
 ウィリアムが理解した程度のことは〈シルバーソード〉の誰もがわかったはずだ。
 全滅するまでもなく、コロセウムの大門からレイドボスが増援として現れた時、その瞬間レイドメンバーは理解させられた。
 この世界はウィリアムたちを拒否したのだ。

 ウィリアムは萎えきった身体を無理やり動かして上半身を起こした。そこで見たのは、いままさに潰えつつある〈シルバーソード〉だった。戦友に情けない表情を見られたくないだなどという戯言を言える光景ではなかった。ただの全滅ではこうはならない。心をへし折られて、立ち上がる気力もないメンバーが、伏せたまま、あるいは身を丸めてたまま、すべての活力を奪われて苦しんでいる。
 肉体の苦痛は〈冒険者〉にとって致命ではない。世界から追放された烙印が魂を焼くのだ。
 すすり上げる音が聞こえた。大の大人が漏らすみっともない泣き声だ。
 ウィリアムはその理由を知っている。ウィリアムだって先程まで、それに触れていたのだ。
 記憶を失うなんて些細な事だ。安全マージンをとって動く〈D.D.D〉よりも、強い連帯で攻略を進める〈黒剣騎士団〉よりも、クソ平等主義の〈ホネスティ〉よりも、ウィリアムは断言できる。間違いなくこのサーバーで最も全滅したレイドギルドである〈シルバーソード〉だからこそ言えることがある。
 “死”と蘇生の間で自らの失策と不備を気付かされる瞬間、あの魂の冷えるような思い出の奔流が仲間たち(レイダー)の魂を削っていくのだ。そこそこに勝てればいい。いくら失敗を重ねても、それらを訂正できて、成長できたのだと、新しい一歩を踏み出せる。しかし、償いきれない失敗や、振り払えない後悔は、どうやって打ち消せばいいのだ。

 過去からの山彦のような声が胸に響く。
(で、それってなんの役に立つの?)
(へー。ゲーム、ふーん)
(今どきPCで? ソシャゲでよくね?)
(休日に家にいるの?)
 くそくらえだ。
 ウィリアムは吐き捨てた。

(おまえカラオケとか誘われなさそうだもんな)
(それってPCに喋りかけるんでしょ? わー)
(もっと将来の役に立つ趣味にすれば?)
(まあ、そういう人もいるよね。いいんじゃね?)
 くそくらえだ。
 ウィリアムは乱暴に顔を拭った。

 勢いよく立ち上がろうと思い、情けないことに膝が笑った。
 叫ぼうとしたが、仲間を励ますような言葉が自分の中に少しもないことにウィリアムは気がついた。次は勝てると鼓舞でもするつもりなのか。そんなことはできない。それは嘘だ。では気を取り直して別のレイドへ行こうぜと誘う? ここから逃げ帰って。無理だ。
 いつもの様にしかめっ面でにらみつけて「言わせておけばいい」と言い捨てられるか? そんなことできるはずがない。仲間が無力感に突っ伏しているのに、そんな言葉では届かない。
 ウィリアムは口を開けたまま、迷子のように視線を彷徨わた。
 ディンクロンを見た。東湖をみた。順三を見た。エルテンディスカを見た。
 仲間を順番に見つめた。
 そしてやがて足元をしか見ることができなくなった。
 自分のギルドが崩壊していく様を眼前にしながら、ウィリアムには掛ける言葉すらないのだ。あんなに叩きのめされ、そのたびに欠点と怠惰を思い知らされ、そぎ落としてきた心のなかには、差し出せるものがなにも残っていない。
 ウィリアムは必死に探した。
 戦友と分かち合える言葉を探した。
 しかし怯えて竦んだ心にはなにも見つからない。

「これが終わりかよ」
 つぶやくような声が聞こえた。
 誰だかはわからないが仲間の一人が言ったのだろう。横たわる広間の一角から聞こえて、その言葉に全員が息を飲み込んだ。それはここにいる誰しもが怖くて考えないようにしてきた事だったからだ。
 その言葉で、ウィリアムさえ逃げられない問いを目の当たりにさせられた。
――このままススキノに帰り、治安維持の善良ギルドになる。
 〈大地人〉は感謝するだろう。この世界は弱肉強食なのだ。特に〈エッゾ帝国〉はモンスターの襲来が厳しい。人々は自分の生活を守るのに必死だ。そんなススキノで、〈冒険者〉は礼儀正しくしてさえいれば人気者だ。〈大地人〉と交流して、彼女を作るのだっていいだろう。大規模戦闘にこだわらず、街周辺の防衛クエストをこなすだけならば〈シルバーソード〉は十分な戦闘能力を持っている。
 そのあまりのばかばかしさに、ウィリアムは臓物が焼けるような気持ちを味わう。

「そうかもしれない。そうなんだろうな。そのとおりだと思うよ。――でもそれがどうした。くそくらえだ」
 ウィリアムは悔しさに任せて後先も考えず反抗した。
 それはたしかに悪くない生き方なのだろう。
 この異世界でうまいことトラブルを避けて安全を贖う生き方だ。
 だがそれは、賢しらな顔でウィリアムに“アドバイス”をしてきた大人たちの言葉のそっくりそのままということでもある。

「負けちまったぜ。全滅だぜ。もうお終いかもな。無駄だったんだろう。連中がいつも言うように、俺たちがバカで、愚にもつかない事をやり続けてきただけなんだろうよ。ひきこもりのゲームキチガイだ。廃人だぜ。――でも、それがどうした。そんなことは先刻ご承知なんだ。わかっててやってるんだ。でも、俺たちはゲームが好きなんだ。これを選んだんだ」
 終わってもいい。ウィリアムはそう思った。
 しかし、敗けても、終わっても、等閑に付せないことはある。
 決して放置できないことがある。
 身体をメラメラと炙るような熱気に背中を突き飛ばされるように、ウィリアムは続けた。

「大したことないさ。レイドに負けただけだ。そんなことはよくあることだ。ショックを受ける必要なんてない。だってこんなのサーバーに記録された勝敗データが一個増えるか増えないかだけのことじゃないか。ゲームなんて子どもの遊びだ。そろそろ大人になって街に戻れよ――なんてことは言わない。誰にだって言わせない。俺らは敗けて、糞虫で、サイテーかもしれないけど、神様にだって無駄だったなんて言わせねえ」
 大規模戦闘はウィリアムにとって特別だった。
 それは〈エルダー・テイル〉の中心であり、つまり宇宙の中心であることと、ほぼ同じ意味を持っていた。
「サーバーに記録されたビットの情報になんの意味があるかって? あるんだよ、意味が。俺があるって決めたんだ。それはすごくて、素晴らしいもんだって俺が決めたんだよ。神様の決めた正しい価値てもんがあって、それが万民に通じるはずだとか、そういう与太を信じてる連中にはわからねえよ。お前たちが信じてる価値はくだらなくてだから間違ってるとか、そういうことを言う奴には一生わからねえよ。どんなにアホに見えたって、偽物じみた金ピカだって、俺が、俺たちが、それはすごいって思ったらそれはすごいんだよ。それが選ぶってことじゃねーか。俺は選んでここにいるんだ!」
 自分にとって神聖なその誓約を侮辱することは誰にだって許さない。歯ぎしりでも食い止められない胸を焦がす痛みとともに、ウィリアムは訴えた。
 いつの間にか〈シルバーソード〉の面々は、上半身を起こし、あるいは座り込み、彼らの野戦司令官(ギルドマスター)を見上げていた。

「俺たちは〈エルダー・テイル〉で過ごした。長い長い間を過ごした。――そこには強敵が現れて、俺たちは剣だの弓だの担いで突撃するんだ。わーって叫んでガキみたいに突っ込むのさ。そんでもって、勝ったり敗けたりするんだよ。ああそうだよ、全部サーバ上でビットがぱかぱか一になったり〇になったりしてるだけだよ、それがどーした。俺たちはそのために血道を上げてんだ。それがすげーんだ。勝ったら大喜びで戦勝記念だ。幻想級(ファンタ)を山分けで乾杯だ。負けたら悔しくなってそのまま反省会で日をまたぐまで騒ぐんだよ。くだらねえっていいたければいえよ。玩具だろうが安ピカだろうが関係ない。俺らがすげえって思って俺らが時間をぶっこむって決めたら、それは本物なんだよ!」

 ウィリアムは吠えた。憤りと恨みを込めて、肺腑の熱を吐き出した。
 だがそこまでだった。
 彼を突き動かしていた炎は一気に燃え上がり、その心身を焼きつくし、去っていった。
 勝敗は戦いに属し、その一部なのだ。
 そして大規模戦闘は戦いの中でも最も神聖なものなのだ。
 犯すべからざるものだ。
 それをないがしろにすることはウィリアムたちが邁進してきた膨大な時間を侮辱することになる。ウィリアムたちは、その勝負に負けて、いま敗残者だ。それを覆すことはウィリアムたちにすら、もうできない。
 だからウィリアムには、もう、語るべき言葉は、何もなかった。
 仲間を奮い立たせるものは何ひとつない。

「……だって、俺たちは、それだったろう。そういうのだったろう? いろいろ持ってる奴のことなんか、知ったこっちゃねえよ。小器用に愛想よく暮らしていける奴はなんでも持ってるんだから、そういうのでやってきゃいいじゃねえか……。お前らそういうの、持ってるのか? なんでもいいよ。どこでも行って誰とでも仲良くなれるようなさ。賢さでもいいし、格好良さでもいいし、明るい性格でもいいし、おもしれえギャグでもいいよ。なんでもいいから、そういう、リアルがキラキラしてる奴の、キラキラってのをさ。持ってるのかよ。……俺はねーよ。一個も持ってねえよ」
 ウィリアムは、それでも俯いたまま、小さな声でぼそぼそと続けた。
 それはもはや神聖なる戦いに属する秘密ではなかった。
 たしかに真実に属してはいたけれど、偉大な〈エルダー・テイル〉に比べれば他愛もない、要するにウィリアム個人の小さな告解だった。
 胸を張ってメンバーに呼びかけられるような何かは、もうウィリアムにはなにも残っていないのだ。それでも〈シルバーソード〉のギルドマスターは、立ち向かい続けた。



 ◆



「俺はさ。今までずっと言わなかったし、言えなかったけど、お前らが友だちだよ。だって俺、ゲームがなきゃ、友だち作れねえもん。カッコわりいなあ、俺。だっせえ。――でもゲームがあったからやってこれたんだよ。――ゲームがあったからお前らの考えがわかるんだよ。ピコピコやって、ああ、こいつは回復して欲しいんだなとか。こいつは後ろに下がってるけど、本当は前に出てえんだな、とか。こいつは遠慮しがちだから言い出せないけど、ほんとうはこの魔法が強くなる腕輪が欲しいんだな、とかさ。それだけじゃねえよ。こいつは仲間思いのやつだなあ、とか、臆病なのに声振り絞ってんだなあ、とか、疲れてるのに今日は気合入れてログインしたんだなあ、とか。そういうのがわかるんだよ。俺には、本当にわかるんだよ」
 ウィリアムは細切れになってうまく流れない言葉を必死に紡いだ
 それらは少しもまとまりのない、断片化された真心だった。
 最後に残った爪の先ほどの小さな残り火だ。

 〈エルダー・テイル〉はウィリアムにたくさんの事を教えてくれた。そうでなければ、口下手で友人が作れない高校生に、ギルドマスターなんてできるはずがない。
 他人の気持ちがわからない。独善的。思いやりがない。協調性がない。堪え性がない。空気がよめない。人の輪に加わろうとしない。
 そんなふうに言われて、それだったら願い下げだ、こっちからお断りだと孤立した少年は〈エルダー・テイル〉であれば、すこしは繋がれたのだ。そしてそれを大事にして、決して粗末にしないように守ってきた。細い腕の中に抱え込んだ最初の友人に耳を澄ませさえすれば、〈エルダー・テイル〉はいつだってウィリアムにたくさんの秘密を明かしてくれた。

 はじめに知った秘密は連携だった。
 あるプレイヤーとは上手くいくし、そうでないプレイヤーもいる。いい腕をしているやつもいれば、下手くそな奴もいる。連携をつなげるためにはどうすればいいかがゆっくりとわかってきた。つまりウィリアムが合わせてやればいいのだ。下手くそだと思ってたプレイヤーは、ただ単にウィリアムがそいつのやりたい事をわかっていないだけだった。呼吸を合わせれば、たいていのプレイヤーはずっとご機嫌だった。
 大規模戦闘をするようになった。
 必要な連携はどんどん難易度を増したが、ウィリアムだって敗けてはいなかった。少しずつ雑談できるプレイヤーを増やしていった。そうして触れ合ってみれば気の良い奴らばかりだった。二番目の秘密。馬鹿話で盛り上がった夜は、不思議と勝率が上がる。くだらない笑い話には、レイドの勝利をよびよせる不思議な力があることをウィリアムは知った。
 ウィリアムはどんどんと学んだ。
 体調が良い仲間や、悪い仲間がいる。コンディションは重要だ。相手の生活に関心が出てきた。血気にはやっている仲間も、テンションが低い仲間もいる。仲間はいろんな悩みを抱えていた。当たり前のことだ。みんなウィリアムと同じだということにいまさら気がついた。そうして、どうして欲しいのかがわかるようになってきた。単純なことだった。おなじレイドに参加をしていて、皆勝ちたいのだ。
 いま誰を回復すべきか? 攻撃を集中させるべき敵はどれか? 前へ攻め上がるべきか、交代して力を貯めるべきか? 全力で行くべきか、七割程度で抑えるべきか。
 勝つためにしなければならない事ですれ違いはあっても、それぞれが最善を願っている。ただ、上手くいっていないだけなのだ。その小さな誤解やすれ違いを、ひとつづつ解きほぐす。やがて小さくはあれど勝利して、ウィリアムたちは大喜びをした。
 我慢することも覚えた。それは仲間たちがウィリアムの癇癪を我慢することを覚えたあとだったが、確かに少しは身につけることができた。
 レイドギルドにつきものの深刻ないさかいが〈シルバーソード〉を崩壊させる前に、ウィリアムたちは当事者同士が話しあう寛容さを手に入れた。それはレイドギルドとしてはとても幸運なことで、多くの組織は発足後半年もたたずに消えてゆくのだ。
 ウィリアムがこのギルドを守りたいと思い始めたその頃には〈シルバーソード〉は新進気鋭のレイドギルドとして名を知られ始めていた。

「だから今だってわかるよ。……もう終わってる感じだろ。ゲームオーバーだ。ダメだったんだ。正真正銘の終わりって気分だよな。そうかもしれねえよ。そうかもしれねえけど」
 だからウィリアムにはわかるのだ。
 みんながいま、どれほど真っ黒い気持ちでいるのか。
 大事なレイドを取り上げられて、虐待された犬みたいな気持ちで自分を見ているのか、わかる。情けなくて仲間を見ることができなくてもわかるのだ。

「俺はこの世界に来た時、ぶっちゃけ嬉しかったよ。お前らだって、少しくらいはそうだったろ。本当に一〇〇%嫌だった奴なんてここにはいないんじゃないか? だってこの世界は、〈エルダー・テイル〉なんだぜ。おれらがアホみたいに入れ込んだあの世界だ。俺らが誰より得意なレイドの世界だ。これはいけるんじゃねえかって思ったよ。でもそんなことよりなにより、俺、お前らと一緒で嬉しかったよ。お前らゲームのまんまだもんな。俺もなんだけどよ。そんなのはどうでもいいか。一緒にレイドできりゃいい。この世界には、俺たちをバカにする奴は誰も居ないしな」
 ウィリアムは鼻をすすり上げた。
 歴戦の野戦司令官、“ミスリルアイズ”の二つ名を持つエルフの狙撃手はもういない。

「でも、だから、敗けても逃げちゃダメなんだよ。俺らはさあ! 勝てねえかもしれねえ。まあ勝てねえだろ。十中八九、敗けだろ。でも、ダメなんだ。絶対に認めちゃダメなことってあんだろ。だいたいそれで帰ってどうするんだよ、なにすんだよ? おれらからコレとって、なにが残んだよ。――他の連中がドン引きするくらい〈エルダー・テイル〉やってきたんだぞ。俺のこの二年はまるごと〈エルダー・テイル〉だぜ。朝から晩までそのこと考えてた。飯食うのも寝るのも風呂はいるのも全部そのためにやってたんだ。勉強するのだって〈エルダー・テイル〉のためだった。ド廃人だっていいたきゃいえ。俺はドン引きゲーマーだ。レアアイテム一個で一晩中大喜びできるほどの社会不適合者だ。クソ本気でやってきたんだよ。でも、だから、たかがレイドボスが二体や三体増えたくらいで、逃げ出せねえ。だいたい逃げてどこへ行くんだよ! 逃げた先で、ゲームを馬鹿にして生きるのかよ。レイドやめたら友達できるのかよ。ムダな時間使っちゃいましたねえーって半笑いかよ。死ねよ。そんなクソは」
 むちゃくちゃだ。
 逃げないで死に続けるというのか? あんな思いをあと何度味わう。
 勝つ希望があるから耐えてこられたのだ。しかし今や希望はない。
 お前のやっていることはただのお遊びだ、世界が変わったってただのお遊びなのだ、お前たちは何の役にも立たない穀潰しだ、そのお遊びに勝つことさえできないじゃないか――そんな現実にどうやって立ち向かえばいい?

「俺は……逃げたことあるよ。モヤモヤしてたけど、やっとわかった。アキバの街で、最初の〈円卓会議〉だった。あの時俺は始まったばかりのこの世界で、レイドがやりたくて仕方なかった。だから、レイドをやるために〈円卓会議〉に参加しなかった。それは本当だよ。嘘じゃない。でも、それとは別に“こいつらくだらねえことやってるな”って思ったよ。“時間の無駄じゃねえか”って。“勝ち目がないのによくやるぜ、豚野郎どもが”って思ったよ。馬鹿にしてたよ。俺がやられたらぶん殴りたいほど嫌なことを、俺がやってたよ。笑っちまうぜ。いまはわかってる。俺は逃げたんだ。ダメそうだったんでスルーしたんだ」
 それでも逃げなかったプレイヤーだっているのだ。
 ウィリアムにとって、それはひとつの憧れだった。
 難関レイドを舞台に、ギルドも作らずに大手と互角に渡り合った伝説の集団。
 まだ新人プレイヤーだったウィリアムはその活躍を聞いて胸を躍らせたものだった。
 自分のようなハグレも、いつかはあの素晴らしいチームに入れてもらうのだと決心するほどに。
 ウィリアムが自分をレベル九〇に育て終わる頃、そのチームは解散してしまった。それは手ひどい裏切りのようにウィリアムには感じられた。彼らはウィリアムを待たなかったのだ。おまけにそのメンバーはソロに戻ってギルドも作らずに散り散りばらばら。それでは何のために伝説を残したかもわからないではないか。そう思っていた。

「でも、シロエは勝った。意味ねえ、できねえ、勝てっこねえって俺が思ったレイドに勝ってアキバを作ったよ。街を作ったレイドだぜ。馬鹿にしたもんじゃねえ。――すげえ指揮官(レイダー)だって思ったよ」
 逃げずに戦ったプレイヤーがいた。
 かつて憧れた高位者(ハイランカー)は、やはり只者ではなかったのだ。

「そのシロエが頭下げてきたから、嬉しくて二つ返事で引き受けたんだ。――勝ち目がないくらい当たり前だ。“腹黒眼鏡”が持ち込んできたんだから、全員ひどい目に見るのが当たり前なんだよ。あいつが面倒くさいクソドSなんて顔見りゃわかんだろ! でも……楽しいと思ったんだよ。勝てたらいいなってな。理由はな……俺らが、クソゲーマー(レイダー)だからだっ」
 空気に熱が篭るのがわかった。ウィリアムが視線を上げると、自分と同じ程に行き場のない苦しみを抱えたギルドメンバーたちの表情が見えた。
 あと一回なら、いけるかもしれない。
 そう思える熱量が彼らに宿っている。ウィリアムは仲間に火をつけたのだ。
 しかしそこに勝利感も達成感もなかった。かわりに感じるのは重苦しい重圧と責任感だ。
 ウィリアムはギルドマスターで、仲間を勝ち目のない死地へ連れて行こうとしている。クラスティだって、アイザックだって、そんな決断はしないだろう。彼らは戦闘ギルドでありつつも、ちゃんと〈円卓会議〉の意味を理解して協力できるほどには賢かったのだ。
(俺はマジでバカギルマスだ)
 ウィリアムは震えそうになる唇を、強く噛み締めた。
 にじむ鉄臭い味を感じながら、ウィリアムはなりふり構わずに策を求めていた。
 勝ちたいと、いままでにないほど勝ちたいと彼は願ったが、それは自らの栄光のためではなく、仲間に勝利を与えたいという狂おしいほどの思いからだった。



 ◆





 黎明が世界を徐々に青く染め始めるように意識を覚醒させてゆくシロエに、水面から差し込む光のような言葉が降ってきていた。
 悲鳴のような呟きだった。
 理不尽に対して抗議を上げる男の途切れがちな声だ。
 ウィリアムの告白の声は小さかったが、シロエはそれを見失うことなく意識を浮上させてゆく。その言葉に背中を押されるようにシロエは自問自答を始めた。
 孤立しがちなシロエの普段は自問自答で占められていて、それはもはやシロエにとっては自分自身の見当識と不可分だった。
 問いかけられる「自分」がいることは、意識覚醒の証拠のように思われたのだ。
 はじめに開始されたのは状況の確認と今後の展開の検討だ。
 くらくらするような酩酊感と蘇生の困惑を一蹴して、シロエは一瞬の停滞もなくレイド攻略とその周辺について分析を開始する。

 最初の十五秒でこれは相当に困難な状況であるとわかった。困難というよりもどちらかと言うと不可能と表する方が正しいだろう。このゾーンは二十四名しか侵入することはできないし、敵勢力合計はその戦力で妥当することは不可能だ。

 〈七なる庭園のルセアート〉だけであれば勝てると思う。
その「特性」もおおむね見切ったといえる。黒騎士モードの大威力単体攻撃、近接ダメージ反射、範囲攻撃。白騎士モードのときの自己回復と眷属召喚、その処理。
 レイドボスのほぼすべてはさまざまな「特性」を持っている。時間や残りHPといった要素により特殊な行動や変化をするのだ。こういった「特性」を見切ってそれに応じた戦術を構築するのが、レイドボス攻略の根幹だといっていいだろう。
 〈七なる庭園のルセアート〉に関して言えば、その「特性」の攻略は終了した。だからといってすぐ勝てるわけではないが、あと何回か練習をすれば勝てそうな手ごたえがある。その練習も、全滅というようなひどい結果にならずに済む、たとえば前線が崩れて一時撤退などといった範囲での話だ。勝算がある、といってもいいだろう。

 しかし霜の巨人〈四なる庭園のタルタウルガー〉や炎蛇〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉はまったく話が別だ。あれらに関してはまだ偵察も済んでいない。〈四なる監獄のタルタウルガー〉と〈三なる監獄のイブラ・ハブラ〉をどこまで参考にして良いかもわからないが、シロエたちを全滅させた両方の攻撃は、通常の広範囲攻撃だろう。おそらく五十秒から百五十秒程度再使用規制時間のある大ダメージの攻撃だ。必殺攻撃ではないし、攻略しなければならない「特性」でもない。攻略のめどはまったく立っていない。
 くわえてそれらが同時に襲い掛かってくるのだ。それだけではない。このゾーンにいるほかのボスの参戦可能性まである。どう考えてもお手上げだ。勝てる見込みがまったくない。
 シロエは自分の中の警告の声を聞く。「できない理由ではなく、解決する方法を考えよ」。ありがたい格言はごもっともだけど、毎回要求がハードすぎるのではないかとぼやきたい気持ちもある。
 シロエの思考の視界内には右手前に青いカードが並ぶ。シロエの手持ちの条件。有利なポイント、つまり、武器。〈シルバーソード〉の練度、友人の存在、〈円卓会議〉のバックアップ、今まで判明した事実、情報。
 右手奥には妥当すべき困難がカードとなって幻視される。ルセアート、タルタウルガー、イブラ・ハブラ。まだ見ぬボスたち。このゾーンのダンジョン部分はほぼ踏破した。マップのほぼすべては明らかだ。残るは三体、もしくは四体のボスのみ。
 いくつかの作戦を思いつき、それらを実現可能性を元に整列(ソート)する。お話にならない低確率だが、それぞれの作戦をアレンジしてその確率を上昇させられるか試みてみる。とてもではないが実用段階に達しない。
 この世界におけるさまざまな改革は個人に制限を受ける。例えば新しい料理を開発しても、料理人のレベルにより作成の可不可が決定されるのだ。それは戦闘においてより厳しい属人性となって現れる。強力な武器が多数あっても、その使用はレベルにより制限を受けるのだ。例えばいまシロエがガトリングガンや迫撃砲を持っていたとしても、それはほぼ使用できない。必要なのは強力な武器や魔法よりも、状況のブレイクスルーなのだ。
 それが無いものねだりなのはわかっているが、今のシロエに撤退の文字はない。

 今度はシロエに有利な点ではなく、打破すべき困難の軍勢における弱点の分析を始める。
 レイドボスは特定の攻略方法を持つものが大多数だ。明確な短所に見えなくても、一見強力な攻撃に隙があるということもありうる。
 何かがひらめいたような気がしてシロエは必死に思考の細い糸をたどる。
 「監獄」でも「庭園」でも、彼らは何らかの守護者だ。意思を持った今であるのならばなおさらに、自らの役割に自覚的なのではないか? 先ほどの戦いでは協力し合っていたが、なぜ〈七なる庭園のルセアート〉の敗勢が濃厚になるまで援軍が現れなかったのかを考えれば、そこに突破口があるように思えた。だが、それは都合のいい期待が含まれていることを否定はできない。
 シロエはそんな虫のいい期待を一端は捨てて、ほかにもっと現実的な攻略方法の構築と選定に取り掛かる。しかし数十回の試行錯誤の結果、他により確からしい作戦は考えつかなかった。
 難癖に近いような想像がもっとも成功確率が高いように思われる。
 正確な確率など出しようもないが、賭けてみる価値があるように。

「よう、シロ。起きたか」
「――うん」
 覗きこんでくる直継から、そんな声がかかる。
 シロエはこわばった背中を伸ばすように上半身を起こすと、そこは毛布を敷かれた大理石の台だった。元は何だったかわからないが、四角い石材の上に寝かされていたらしい。
 その台を覗きこんでいた直継だったが、シロエが眼鏡の位置をなおすと安心したようだ。背中を向けて広場に視線を戻した。
 その近くには体育座りのてとらがいる。シロエのそばにいるのはふたりきりだ。
 ウィリアムの細い声が聞こえる。サーバー有数の武闘派ギルドを率いる司令官とも思われないような、それでいてこの上なくふさわしい震えてはいても誇り高い声だ。
 目を瞑っている間、シロエはその言葉を聞いていた。
 たくさんのすすり泣きや無力を憎むうめき声も。
 シロエはだから、「うん」ともう一度うなずいた。

 彼らが見つめている広間では〈シルバーソード〉の面々がゆっくりと起き上がり、彼らのギルドマスターを見つめている。本来これは〈シルバーソード〉ではないシロエたちが聞いてよいような話ではないだろう。そんな空気を読んでシロエの身体をその集まりから離れた部屋の隅に運んでくれたであろう直継に感謝する。しかし同時に、ウィリアムの言葉はシロエにとって必要なものだった。そこにいるのは、十六歳のシロエそのものだ。
 〈エルダー・テイル〉はシロエに多くの苦痛を与えた。
 他人からレッテルを貼られること。できることだけで判断されること。自分を見てはもらえないこと。
 でも同時にそれは、よりずっと大きなプレゼントを与えてもくれたのだ。
 にゃん太班長、ぬるかん、アイヒェ。みんな良い友達だ。カナミにはEasy goingと教えてもらった。カズ彦には克己を。直継には信頼するという強さを。
 シロエは〈シルバーソード〉を遠く見つめながら、良いギルドだと思った。ウィリアムは立派なギルドマスターだとも。彼ら全員が「あれ」を潜り抜けてきたのだと考えると、胸が締め付けられるような気持ちになった。自分自身であったらどうだろう? 立ち上がれはするだろうけれど、あんなに素直な言葉で仲間を励ませるかどうかは疑問だ。
 ミノリやトウヤが悲嘆にくれているとき、自分はなにを言ってやれるだろう? 五十鈴やルディになにをしてやれるだろう。たいしたなにかができる気がまったくしない
 アカツキに考えをめぐらしたが、シロエの中の小さな〈暗殺者〉は怒った顔をしている。
 シロエは少しだけおかしくなって噴出した。
 主君を守るのはわたしなのだから余計なお世話だ、といわれた気がしたのだ。
 人間はなんて複雑なんだろう。シロエにはアカツキが自分を心配しているのがわかった。つっけんどんで怒ったような表情で自分を突き放してくる仲間が、本当は人一倍心配性で、シロエに気をかけてくれている。そんなアカツキが、遠くで闘っているのをシロエはいまや知っている。
 こんな場所でしょぼくれている場合ではないのだ。

「勝たせてあげたいな。ね、シロエさん」
 体育座りのてとらが身体を前後にゆすりながらつぶやいた。
 シロエからは背中のみで、その表情は見えない。でも、その強い声に「うん」と素直に返事ができた。そしてはっとした。シロエは勝たせたいのだ。〈シルバーソード〉を。このレイドチームで一緒にこの困難を突破したい。てとらの素直な言葉が、シロエの気持ちの中で実体化して、それはすぐさま決意になった。
「お前、いいこというな」
「ボク、一流アイドルだからね」
 遠いウィリアムを見つめたまま、直継とてとらは短い言葉を交わした。
 それだけで、なにを言ったわけでもないけれど、思いは重なっていた。勝つというのがなんなのか、どういうことなのかはわからない。でも〈シルバーソード〉がこのまま朽ちるのは、あってはならない。
 それはもはや決定事項であり、残る問題はそれを如何に為すかということだけだった。

「で。どうすんだ。なんか考えがあるのか? 参謀」
 直継の言葉はあっけらかんと陽性だった。疑問系でたずねては来たけれどそれは実質確認だ。シロエの親友は、突破口があると信じて疑っていない。シロエが必ず何か考え付くと思っているのだ。だからシロエは眼鏡を押し上げて答える。
「直継には言わなきゃいけないことがあるんだ。てとらさんにも。ウィリアムにも。みんなにも。――多少はマシな作戦がある。でも、多少マシなだけだ。勝率は十五%」
「そりゃ上等だ」
「完璧だね」
「そして、菫星さんたちにも言わなきゃならない。こんどこそ、目を見て話すんだ」



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