002
街はシロエが覚えているとおりのアキバの街だった。
崩れかけた廃墟も、建て増しを重ねたバラックの酒場も、路上に根を張った古木もそのままに、緑の森に飲み込まれつつ共存する古代人の聖地、アキバ。
〈自由都市同盟イースタル〉におけるプレイヤーの本拠地にして、〈エルダー・テイル〉日本サーバの中心都市。
中央通りを駆け抜けて、三階建ての宿屋件酒場の角を曲がる。
旧世紀の遺産である崩れかけたビルはコンクリートで造られているが、そこにこの世界の人々が継ぎ足した丸太作りの建物が張り付くように建て増しされ、それら全てが古代樹の懐に抱かれている不思議な光景。
目的地にたどり着いたシロエを、直継は崩れたコンクリートのかたまりから腰を上げて出迎えてくれた。
窓ガラスなど残っては居ない、ぽっかりと開いただけの隙間から斜めに差し込む光が、ゲーム画面なんて目じゃないほどの高精細な印象で二人を照らし出していた。
直衛はにやりと笑うと、軽く剣の柄を叩く。
身長は180cmをちょっと超えるくらい。がっしりとした身体付き。地味な色合いの、だが恐ろしく頑丈そうな鋼鉄の鎧を着け、盾を背負った古強者然とした戦士――それが今の直継だった。
「ようっ! シロ」
「おっす、直継」
でもそんな無骨な見かけをあっさりと裏切るほど、直継は明るい声をシロエにかける。
〈エルダー・テイル〉には標準でボイス・チャット機能が搭載されていた。ゲームをしながら、パソコンに接続されたマイクとスピーカーによって携帯電話のように仲間と会話が出来るのだ。もちろん音声による会話を嫌って文字によるチャットにこだわるユーザーも居たけれど、シロエと直継はそうではなかった。
だから、シロエは直継の声をよく知っているし、覚えている。
実際問題、オフラインで顔を合わせたこともあるけれど、それより何十倍もの時間をモニタ越しの馬鹿な会話に費やした。シロエにとって直継というのは、この明るくも頼もしい声なのだ。
古く親しんだ声を再び聞けるというのはありがたいものだ。
(自分では冷静なつもりで居たけれど、精神的にはそれなりに参っていたんだなぁ)
シロエはそんな事を自覚させられてしまった。
「それにしても、お前……。まんまな」
「そっちこそまんまだよ」
お互いの姿をじろじろと確認し合う。シロエたちの姿は基本的に〈エルダー・テイル〉のゲームキャラクターそのままだ。
もとはポリゴンで作られた、もちろんパソコンのグラフィック機能を十分に生かしたなかなかに高精細なモノではあったけれど、それでも実写にはほど遠いグラフィックでしかなかった。
だが現在では、それらのポリゴンは、完全に実在物として現実と同じだけのディティールを持って存在している。
しかしよくよく見ると、ゲームを現実化しただけという訳でもなさそうだ。〈エルダー・テイル〉におけるもともとのモデルデータは、ゲームと云うこともあって、男女ともにかなり美形にデザインされている。〈エルダー・テイル〉はゲームゆえに誰も好きこのんで不細工をやりたがる人はいない。格好良いモデリングというのはユーザーの需要に応えた当然のマーケッティングだ。
だがしかし、直継のいまの風貌は、〈エルダー・テイル〉のハンサムなポリゴンモデルを現実化したと云うだけではなく、実際に何度か顔を合わした時のままの直継の面影をとどめているようだった。
「直継の顔、直継っぽいぞ?」
ゲーム内では目立っていた眉を縦断する古傷は消え、現実の直継にあった明るい瞳と、ややたれた目つき、悪戯っぽい笑みがくちびるには浮かんでいる。
「お前だってそうだぜ、シロ。目つきの悪い三白眼で、眼鏡をかけた秀才風だ」
「ほっといてくれないかな」
三白眼気味で目つきが悪い、等と知り合いには言われていた顔だけど、いまではその特徴がこの身体にも現われているらしい。直継に何度もからかわれた内容を繰り返されて、これまたおきまりの切り返しをする。
これでもごく一部の人には凛々しい横顔だと云われたこともあるのだ。
「どうなってんだよ。知ってることがあったら教えろよ。“腹ぐろ眼鏡”」
「教えたいのは山々なんだけど、こいつばっかりはなー」
シロエたちは崩れたコンクリの固まりを蹴飛ばしてその上の埃をざっと払うと腰を下ろした。軽口を叩いては見たものの、シロエだって今の状況を説明できる手持ちの情報は多くない。
この場所はさっきシロエが意識を取り戻した街の外れよりもずいぶんアキバの中心部に近い。耳を澄ませば、その中心部の騒ぎが幽かな響きとなって聞こえてくる。
「まず、は。夢じゃない。と」
「うん」
シロエは直継の問いに頷く。
「……」
「……」
二人の間に流れる沈黙。お互いに何から話せばいいのか考えている。でも、だとすれば答えは明白だ。直継よりもシロエの方がまだしも事情に明るいのだろう。シロエが知っている限り、直継はこの一年〈エルダー・テイル〉へはアクセスしていないはずなのだから。
シロエは自分が知っている限りのことを直継に話した。
直継はシロエが話している間、静かにそれを聞いていた。幾つかの知らない話題に関しては質問をしたが、自分の意見は差し挟まなかった。
シロエは喧噪を好まない。賑やかなのは決して嫌いじゃないが、無秩序な騒ぎを好きになれない。
直継は確かに陽気でお調子者だったが、耳を澄ますときに澄ませないほどバカじゃない。シロエはシロエで年の割には保守的な考えを持っていたけれど、直継の少年じみたシモネタに付き合えないほど初心でもなかった。その辺が二人の気のあった理由だろう。
「はぁん。んー。異世界ね。――異世界、巻き込まれ。現実化……か」
「で、直継はどうしたの? 復帰したの?」
シロエの質問に、直継が口を開く。
「ああ。新しい拡張が来るって聞いたからな。仕事も一段落したことだし、様子を見に来てみるかと思ってログインしてみたんだけど」
――復帰。
(直継は戻ってきたんだ。戻ってこようと、したんだ……)
シロエはそう思う。
直継はシロエより二つ年上のはず。
そもそも、直継との出会いは4年ほど前になる。
当時のシロエも〈エルダー・テイル〉ではすでに古参プレイヤーだった。中学生の頃からパソコンを操る少年は当時から珍しくはなかったけれど、シロエはその中でもとびっきりのインドア派だった。
アウトドアに出て行っても精神的にはインドアという……客観的に云えば「大勢の中でも一人で過ごす子」だった。
高校に上がり、大学に進学してもその趣味は続き、毎日のように仮想空間での旅を繰り返していたのだ。
〈エルダー・テイル〉はすでにその頃からオンラインゲームの中では一種別格の地位を持っていた。歯ごたえのある本場のゲームがしたければ〈エルダー・テイル〉をやれ。ゲーマーの中ではそう評価されるほどのゲームだった。
たとえば、この〈エルダー・テイル〉には「ハーフガイアプロジェクト」などと云う希有壮大な目標があった。冗談みたいな話だが、1/2サイズの地球を作るプロジェクトだ。
日本サーバーでプレイしているプレイヤーの初期開始地点、アキバの街は日本列島の東京の位置にある。北米サーバはビッグアップルとサウスエンジェルが初期の開始地点だ。日本サーバ、北米サーバなどという呼称は便宜的なもので、互いに接続された複数のサーバによる有機的なネットワークは、理論的にはゲーム世界内を旅して別の大陸にでも世界の果てにでもいける。つまり他のサーバにでも移住できると〈エルダー・テイル〉では発表されていたのだ。
もちろん「ハーフガイアプロジェクト」というのは、ゆくゆくの目標であり、現状ではこのゲーム内〈ガイア〉は、現実の地球の全てが再現されている訳ではなかった。
〈エルダー・テイル〉において、世界はゾーンという単位で区切られて表現されている。ゾーンとは一定の面積や範囲をゲーム的に表現する単位だ。
たとえば広大なフィールドゾーン「フジ樹海」のように凶悪なモンスターが出現する場所もあるし、「シンジュク駅ビル廃墟」のようなダンジョンや、「アキバの街」のように非戦闘地帯の市街もある。
さらに云えば、たとえばホテルの一室のような小さなゾーンもあるのだ。ゾーンによっては売りに出されていて、結構な金額を詰めばオーナーになれる場所もあった。
ゾーンとゾーンは様々な方法で繋がっている。フィールドゾーン同士は、その境界線で継ぎ目無しに繋がっているために、自分がいま現在、正確にはどのゾーンにいるかは余り意識はしない。
移動していたらいつの間にか隣接するゾーンへと切り替わっているといった具合だ。
明確に隔絶されている場合もある。たとえばある建物や部屋などがゾーンとして単独存在している場合、ドアや門などが接続点として機能していることが殆どだ。
シロエの知っている限り日本サーバの管理しているゾーンはすでに数万を超えている。
そこまで肥大しきり、開発会社が複数の下請けをつかい世界各国で展開している巨大なゲームにおいて、シロエのような「古参の知識がある」というのは、それだけで非常に便利で頼りがいがある存在だった。
だからシロエはそのプレイ歴において、あちこちのギルドから誘われたし、ほんの短期間、お試しのように在籍したこともある。
ギルドというのは〈エルダー・テイル〉におけるコミュニティの代表的な代物で、複数のプレイヤーが所属するチームのことだ。
ギルドに所属するプレイヤーはゲーム内銀行にギルド専用の共用口座が与えられ、貸金庫でアイテムも共用できるし、幾つかの便利なサービスも受けられる。ギルドのメンバー同士は連絡を取りやすいし、なにより冒険に出掛けるときに声をかけやすい。
だから〈エルダー・テイル〉のプレイヤーの多くはギルドに所属している。その方が便利で得なのだ。
シロエは元々凝り性だったし海外での〈エルダー・テイル〉の情報もよく調べていた。同じくらいのプレイ歴のプレイヤーの中でも別格の知識量を持っていたのだ。その意味でシロエは「ギルドに誘っておくと役に立つ人間」だったのだろう。
無数のゾーンを完璧に把握しているプレイヤーは誰一人として居はしない。シロエだってそこまでの記憶容量は持たない。しかし主立った交通路、ゾーン同士の連絡関係、〈妖精の輪〉と呼ばれる転送装置、それらの場所を覚えているだけで移動時間は短縮されるし、たとえば何処のゾーンでは何を売っていて、何処のゾーンではどんなモンスターが出てくるか、などという知識はやはり普段の蓄積が物を言う。
無数のゾーンに、それこそ数え切れないほどの種類のアイテムやモンスター、クエストと呼ばれる冒険の依頼、様々な伝承や古代の知識や……そのほか開発者が思いついたありとあらゆる要素。
それらをごたまぜに煮込んだ仮想世界が〈エルダー・テイル〉なのだ。
しかし、その「便利」と「得」でくくられた人間関係に、シロエは上手く馴染めなかった。いまではそうでもなくなったけれど、当時のシロエはいまよりもずっと我が儘で、子供で……恥ずかしいことに潔癖だった。
シロエは頼ることは苦手でも、頼られることは苦手ではない。
でも、苦手ではないというのと、それが苦ではないというのは、別のことだ。
オンラインゲーム内では様々な人間が存在する。人間が居れば、人間関係も当然発生する。そこには綺麗な関係だけではなく、汚い関係も無数に存在して、それは中学生だったシロエには刺激が強かった。
ギルドに在籍してしばらくすると、シロエは周囲の人間が自分を攻略サイト代わりのように利用しているのに気がついた。レベルも高かったシロエは、まるで便利屋のようにあちこちに連れ回され、他人の都合で戦闘にかり出されもした。
シロエはその人間関係に馴染めなかったし、上手に付き合うことが出来なかった。だから短期間在籍したギルドの全てを抜け出して、その場限りの人間関係や一人での冒険を繰り返した。
気が付けばシロエは一匹狼で、しかも一匹狼の割にはその知識量とレベルから、そこそこの知名度を持ったプレイヤーへとなっていた。そしてそれと比例するように、ずいぶんひねくれたプレイヤーになっていたと云って良いだろう。
直継とシロエが出会ったのは、シロエが腕を上げ、そしてギルドという人間関係を諦めて一人旅を続け、そしてその寂しさにも麻痺しかけていた丁度そんな時だった。
シロエと直継は、あの〈放蕩者の茶会〉で出会った。
〈放蕩者の茶会〉はギルドでは、無い。
〈放蕩者の茶会〉は〈放蕩者の茶会〉でしかなくて、他の言葉では表現のしようがないものだった。
客観的に見れば、それは「たまたまそこにいたプレイヤー達」にすぎなかっただろう。
「たまたま」なのに彼らは「いつも」、「いつでも」そこにいた。
――シロエたちはそこにいたのだ。
ギルドもばらばら。
性格もばらばら。
共通点など何もない。
ただシロエたちは、廃ビルの中で、ときには草原で、ときには星降る丘で集まった。
そしてシロエたちは冒険をした。
〈エルダー・テイル〉は剣と魔法の中世風ファンタジーだ。そしてこの世界は現実の地球の数千年後の世界なのだろうと、プレイヤーの間ではほぼ公式設定であるかのように話されていた。
〈エルダー・テイル〉の世界内の伝承によれば、何らかの巨大な争いが起こり、この世界は砕け散り……そして神々の奇跡によって再構築されたのだそうだ。
ファンタジーゲームにありがちな創世神話である。
そこにはもちろんオークやゴブリン、トロールにジャイアント、キメラやドラゴンなんていう定番のモンスターだってわんさと出てくる。
プレイヤーの多くは戦闘を楽しんでいる。モンスターと戦い経験値を得てレベルを上げ、希少で強力なアイテムを手に入れるというのは〈エルダー・テイル〉のもっとも一般的な遊び方だ。
しかしそれらは戦闘と収穫行為であって、決して冒険ではない。「戦闘を繰り返すこと」と「冒険」がまったく違う行為だと云うことを、シロエは〈放蕩者の茶会〉で始めて学んだ。
〈放蕩者の茶会〉にはいつでも〈彼女〉が居たし、〈彼女〉を支える仲間がいた。そこではシロエも仲間だった。
シロエは〈放蕩者の茶会〉でおそらく初めての友人を見つけて、その友人の一人が直継だったのだ。
◆
「復帰って事は、仕事落ち着いたの?」
「ああ、なんとかな。いやぁ、この一年は大変だったぜぇ」
〈放蕩者の茶会〉は2年間活動した。その2年はシロエが〈エルダー・テイル〉で過ごした時間の中でも格別に充実して、おそらく幸福な時間だった。
しかし、色んな事情が重なって〈放蕩者の茶会〉は、幾つかの伝説を残しその活動に幕を閉じることになる。
その事情のひとつが、直継のゲーム活動休止だった。
就職関係で忙しくなった直継がしばらくゲームが出来ないとなったある冬。タイミングも悪く、そのほかの何人かも様々なプライベートな事情でゲームを離れることになった。
〈放蕩者の茶会〉はギルドではなかった。
そしてギルドでない以上に、損得で結びついただけの人間関係ではなかった。シロエ達は――誰もがいい歳をして恥ずかしいから決して口には出さなかったけれど、仲間を大切に思っていた。
だから誰からという訳ではなく、〈放蕩者の茶会〉の活動を無期限で休止したのだ。新しい仲間を招いて活動を続けることももちろん考えた。けれども、それはそれで別の冒険であり、別の物語だ。
〈放蕩者の茶会〉が終わることは寂しい事であったけれど、顔を伏せて悔やんでいる仲間は誰もいなかった。シロエたちは沢山の冒険を共にして誰よりも楽しんだ。報酬はそれで十分だった。
「やっと仕事にも慣れたし。お陰さんでぼちぼち上手く行ってるっちゃ、行ってるよ。まぁ悩みの種と言えば、会社にはナイスおぱんつが全然、まったく、微塵も居ないって事なんだけどなっ」
「可愛い子がいない訳ね」
シロエは直継の言葉を翻訳して軽く流す。
直継はまったく持って好漢というべき男だ。
度胸が据わっている、と云う意味ではシロエよりも直継の方がずっと据わっているとシロエは思う。その度胸は場合によっては行き過ぎとも云えるもので、どんな状況でも直継の軽口が減ったということをシロエは知らない。
その軽口は主に「ぱんつ」についてであり、彼の内部的には、それは美少女の代名詞であったり、幸運や幸福の単位だったりする。複雑怪奇な概念なのだ。彼はぱんつについては常軌を逸している。ライフワークらしい。
「なんだよその視線。このむっつりスケベ祭りめ」
「僕はむっつりスケベじゃない」
「いーや、むっつりスケベだね。この世界には二種類の男がいる。開放的なオープンすけべと、内向的なむっつりスケベだ。俺はオープンだ。そしておぱんつが好きだ。シロはむっつりだ。そしておぱんつが好きに違いない」
とんでもない理論に口をへの字に曲げるシロエ。
とはいえ、機嫌を悪くしている訳ではない。
直継は昔から、空気を読んでこんな訳のわからないネタで雰囲気を柔らかくしてくれる。それに、過度のパンツ語りは困るが、別にシロエだとて年頃の健全な青年の一人として、異性に興味がない訳じゃない。もちろん異性の下着にだって、だ。
「確かに僕だってぱんつは好きだが、中身が何でも良い訳じゃない」
「俺だって中身の重要さは判ってるんだぜおぱんつ祭りっ」
「……とはいえ、コレじゃぁなぁ」
「うん」
直継の大きなため息。
シロエは頷く。直継が何を云いたいかは判りすぎるほど判る。
「仕事が一段落したとか云ったって、別に異世界バカンスまで世話してくれ無くってもさぁ。だいたい元に戻れるのかよ、コレ」
茶化したように軽口を叩く直継。
多分この世界に取り残された無数のプレイヤーが一様に考えてる疑問だけど、おそらくその誰よりもおちゃらけて口に出してくれたのは、直継の精神的なタフさとシロエに対する優しさのせいだ。
「僕が思うにこれは神様の世代交代だね。中2的な妄想を持った神が即位したんだ」
「容赦ない状況だな。まったくこの有様だよ。絶望祭りか」
「うん。帰還するのは当分諦めた方が良い」
「容赦ない現状認識だね」
「現状認識に容赦を入れるのは自殺志願者だから」
「さすが〈茶会〉の作戦参謀だ」
直継はシロエの応えに軽口で応酬すると、気分を変えるように何度か頭を振った後に、改まった表情で続ける。
「よし、当分のところは諦めた。ってことはあれだ。これはファンタジー小説の定番的な状況で、オレ達は今後サバイバルしなきゃならんって云う訳だ」
シロエは、決して喜んでと云う訳ではなかったけれど、その問いに頷く。シロエが思い出せる限り、自分がやったことと言えば普段と同じように生活をし、普段と同じように風呂に入り、普段と同じように〈エルダー・テイル〉にログインをして、最近知り合った初心者の双子と狩りの練習をして、突然のように意識を断たれたと言うことだけ。
普段とおおむね同じ行動を取っているときに強制的にこの世界に――もしくはこの状況に巻き込まれた。
そこには何らかの原因やこちらの落ち度があるのかも知れないが、現状でそれらはシロエに窺い知ることは出来ない。
またこの状況や異世界から脱出する方法が存在するとして、その方法を少なくともいまこの瞬間、シロエは知らない。
つまり何らかの手段を探して元の世界に戻るにせよ、この世界に巻き込まれたのと同じように「偶然」もとの世界に復帰できるのを待つにせよ、シロエたちはその間、この世界で生き残る必要がある。
「この世界で死ねば元の世界で目が覚めるという可能性もあるけど、あんまりお勧めできないなぁ。『世界は破滅するかも知れないんでサラ金で一億借りましたー!』ってのと似たような意味で」
「あんまり賢い選択じゃなさそな。本当に死ぬだけだったら、そんなの死んだだけ損祭りだぜ」
「そうだね」
「しかしまぁ、サバイバル自体は問題ないんじゃないすか? シロ参謀」
「そうかな」
「だって俺らレベル90だろ? 難関のゾーンを突破しろって云うならともかく、ただ単純にサバイバルって云うのならばさほどキツクないんじゃないかな。金だって持ってるしさ。装備も……オレのはちょっと古いけど、そこそこのはある。問題ないだろう?」
「……僕は必ずしもそうだとは思わないな」
「どうして?」
直継はこの状況でもめげていないように見える。
直継の楽観は羨ましい。そのタフさは、シロエにはないものだ。
けれどシロエとしては漠然とした不安を持っていた。その不安を追いかけるように、精神の中で言葉を組み上げて行く。
「僕らが異世界に……だかゲームの世界にだか判らないけれど、巻き込まれたって云うのが、……すでに、変だ」
「うん? えーっと。それはそうだけど。え?」
「つまりこう思うんだ。『当たり前なら異世界に迷い込むなんてあり得ない。あり得ない事が起きた以上、今は当たり前が当たり前に通用しない。だから当たり前にサバイバル出来ると信じていると怪我をする』って」
シロエの言葉に、直継はしばらくきょとんとしていたけれど、やがてひどく嫌そうな顔をして尋ねてきた。
「むちゃくちゃ嫌な三段論法だな」
「でも、逃げちゃダメだ。……と思う」
「そりゃそうだけど」
直継は手のひらを握ったり開いたりしている。90レベルあるはずの自分の身体を信じて良い物かどうか不安なのかも知れない。
「もうひとつ指摘すると、この大騒動で飛んでたけれど……たぶん新拡張パックが導入されている」
「〈ノウアスフィアの開墾〉だっけ?」
「うん。新拡張パックが導入されているという前提で考えると、新アイテムやモンスター、クエストが追加されているのみならず新ゾーンも追加されているだろ?
なによりいままであったゾーンさえリメイクされているかも知れない」
「云われてみれば……その通りか」
直継から視線をはがしたシロエは、それでも言葉を止めない。
「剣技は僕が魔術師だから判らないけれど、魔法は問題なく使えるみたいだ。魔術書から使用するためには一旦メニューから選択だから戦闘中には遅くて危険だけど、ショートカットを登録しておけば短い詠唱で使えるのを確認した」
「ああ。おれも登録してある剣技は出せるの、さっきやってみたから判ってる」
「でも、だからといって戦闘に勝てる訳じゃない」
「そうなのか?」
「直継は身長どれくらい? リアルで、だけどさ」
「183だ。このキャラと同じだよ」
直継は片手を振って頭の先を撫でるような仕草をする。
「そっか、それであんまり違和感がないのかな。僕は数センチ違うんだ。結構違和感がある。うーん。なんか、底の厚い靴履いているような感じというか。手足の長さが違ったりすると違和感が大きくなると思う。そんな風に、現実の身体とこの身体のギャップがあるんだ。
つまり、僕らがいま使用しているこの身体は僕らが慣れ親しんだものじゃないと言うこと。仮に剣技や魔法が使用できたとしたところで、身体を実際に動かす感覚って言うのがどこまで戦闘向きなのかは一切不透明だ」
「あー。それもそうか。難儀祭りだな。面倒な」
「……それにそれ以上に、この状況はステータス確認がしづらい」
不思議そうな顔の直継に説明を続ける。
「確かにおでこのあたりに集中すればステータス画面は見えるよ。パーティを組めば、僕と直継のお互いのHPなんかも確認できると思う。でも、これって戦闘中に常に意識するのは結構大変だと思う。
僕はまだしも、直継みたいに前線で目の前に敵がいる状況で、斬り合いながらも意識できるかというと、かなり難しいんじゃないかな」
「戦闘は相当に厳しいってことか?」
「そう思っておいた方が良いと思う」
直継には改めて説明しなかったけれど、視界の問題も大きい。パソコンでゲームとして遊ぶのならば、視界をぐっと広くして全体を見るような視点でプレイをすることも出来たけれど、このような状況になってしまえば目の前120度くらいの光景しか認識することは出来ない。
たとえばトロルやジャイアントなどの巨大な敵と戦うときは、以前とは比較にならないほどの死角が発生するだろう。――戦闘に関しては問題が山積みと云えた。
「それだけか?」
「まだある……」
「なんだよ。話しづらいのか」
困ったようなため息の音。シロエはそれを耳で認識して驚く。シロエ自身がついたものだったのだ。
シロエはその可能性については真っ先に思いついた。
正直に言えば今まで話したような、戦闘の問題やゲームとの差違点の問題など些末なことだ。確かに面倒だし難易度も上がるけれど、乗り切れないような問題だと思っている訳じゃない。
これからする話をしたくなくて、ちょっとでも話を迂回するために、時間稼ぎをしていたに過ぎない。
「なんだよなんだよ。名参謀」
直継が言ってくれるが、シロエは名参謀なんて柄ではない。
こうやって直継が相手だから今は色々喋れているけれど、本来は一人で色々思い悩むことが多いのだ。
それで些末なことまで気を回すから〈放蕩者の茶会〉では参謀なんて呼ばれていただけ。ひねくれていて、いざとなれば口が上手いから、自然と交渉役や作戦役を任されていただけなのだ。
「――〈エルダー・テイル〉の日本サーバーにはだいたい120万くらいのキャラクターが登録されていて、10万人前後のアクティヴ・ユーザーが居るとされていたよね」
「うん」
それはもはやシロエたちプレイヤーにとっては常識と云える数字の羅列だった。
「今日は新拡張パックのお披露目と云うことで普段より多くの人がアクセスしていたと思う。僕の予想では、日本サーバーではだいたい三万人前後。これはフレンド・リストのうちログインしている割合から云っても、さほど見当外れな数字じゃないのと思う。
ここまで来たらもう確信して良いと思うけれど……この異世界には、三万人の日本人が取り込まれている。北米サーバや欧州サーバのことはまた判らないけれどね」
直継が素直に頷く。
「つまりここには三万人の人間が居て――」
シロエはあえてプレイヤーとは云わなかった。
「でも僕たち統治機構も法律もないんだ」
2010/04/20:誤字訂正
2010/05/29:誤字訂正
2010/06/13:誤字訂正