第十一話
地球の公転は、春から夏の星座が見える軌道に乗った。
熱が放出されない天蓋下の夏は厳しく、刺すような日差しはなくとも、蒸しつける熱気が体力を奪っていく。気候の変動は作物にも影響を与え、例年通り収穫できるのかと懸念されていた。
熱気で調子を損なうのは機械も同じだ。翼は熱の放出効率を上げるために体内空調管理装置のスイッチを入れる。黒色の長袖長ズボンと腰まである黒髪が暑ぐるしさを助長させているのだが、本人はこの姿が気に入っているらしい。
今日の見回りは空音と別ルートである。無邪気な空音のことだから途中で寄り道するのだろう、と翼は地面を蹴りつけた。
飛行警備隊と謳うだけあり、主な役目は街の安全の確保だ。街の安全には天蓋の状況確認と住民の安心な生活も含まれている。木にかかった風船をとったり、木登りして降りられなくなった子供や猫を助けたりといった平和的な仕事から、溺れそうな住民の救出や窃盗犯の追跡なんていう仕事が回ってくることもある。
大切なのは行動力と判断力だ。現在発生中である問題を瞬時に判断し、次に起こりそうな事件を防ぐための行動を開始する。落下しそうな子がいたら落下点を予測して救出へと向かい、喧嘩をしている相手がいたら両方の発言に耳を傾けて適切に処理しなければならない。年端のいかない子供に大義名分を求めすぎるのはどうかと思うが、成功すれば名声を得られるのも事実である。
「……今日はなんだか妙な気が漂う」
髪の毛をかきあげて虚空を睨めつける。翼はシフトの時間が終わろうとしていても街への警戒を怠らなかった。機械の体に直感というものがあるかはわからないが、四年間で積んだ経験は翼の体を意図もしないところへ引っ張ろうとしている。
夕食時の家庭から料理の香りや人の声が聞こえてきて、そちらへと顔を向ける。奏でるような女声と土台を作るような男声。二人よりも高く舌っ足らずな声が聞こえてきて、この家に子供がいると察した。
一時期少子化の憂いが社会を包んでいたが、シミュレーションの発展で人は性への嫌悪感を薄めてきた。性病の治癒も進み、結婚子育ての擬似経験はこれから親となる人に自信をつけさせた。それが中毒者を生み出す引き金になったとしても、全体的に社会は上手く動いているような幻覚を見せる。
ふと視界に青色の亀裂が入り、翼は足を止めて訝しむ。
「なんだこの線……プログラムが誤認しているのか?」
線に触れてみると、藍色の幕が下りて翼の視界を奪った。オーロラのようにたなびく幕はしばらく翼を翻弄すると、風に煽られて消えてしまった。消える瞬間に金色の何かが光を反射したように見えたけれども、そこにはもうなにもない。
「……幻にしては気味悪い」
天蓋という空を仰いだあと、翼は住民区に流れる。
頼りない電灯が腰を曲げ、家の屋根にはアンテナが立っている。電線は魔法少女の飛行に邪魔なので地中に埋められた。一見何もないように見えるのが、様々な電波が飛び交っていると思うと世界を見る目が変わってくる。電波を発信すれば受信機のあるところに人間の言葉や意思を伝えることができる。目には見えないけれど存在するもの。人間の世界には不可視なものが溢れかえっている。
警戒していた翼の体を突き動かしたのは、近場から聞こえた騒音だった。ガラスが割れる音に繰り返される鈍い音。人間の数倍もよい耳は音の発生源を索敵し、変哲もない一軒家へ導く。
「大丈夫か!? 何かあったのか!?」
住居の不法侵入は罪だ。翼はヘッドドレスで住居から不審音が聞こえたと報告し、家屋の調査の許可を得てから目の前の扉を何度も叩く。ドアノブを回すと無用心にも鍵がかかっていなかった。まだどたばたと押し問答のような音は聞こえてくる。翼は意を決し、銃を忍ばせながら中へ押し入る。
――藍色の少女がそこにはいた。
背中からうっすらと見える羽は透明で藍色の輪郭だけを残し、闇色のマフラーが伸びている。背中に刻まれた無数の傷のせいで服が擦り切れていた。その少女は誰かを抱きしめているのかうずくまっており、次の瞬間には何かがその少女の背中へ襲いかかろうとしている。
「どこまでアタシをコケにすれば気が済むのよ!」
第三者の声を耳にし、はっと翼は我に返る。藍色の少女へ襲いかかろうとしてた木の棒をつかみ、それを持っていた人物の手首をひねり上げた。
悲痛な金切り声は「離せ」という懇願を含んでいた。翼はそのままひねりあげ、ひとまず木の棒を取り上げた。大柄な誰かが膝から崩れ落ちたのを確認し、翼はその人物の顔をのぞく。三十代と思われる女性の肥えた顔がそこにはあった。
「落ち着いてくれ。私は警備中に通りかかった魔法少女だ。なぜ棒を持って襲いかかろうとしたのか、私に教えてくれないだろうか」
「そこのオンナが悪いのよ! 娘が静かだと思って見てみたら、そこのオンナがいたの! きっとアタシの娘を誘拐しにきたのよ! そのオンナが巷の誘拐犯じゃないのォ!? 真っ黒いアンタ、早くそいつを捕まえちゃって!」
「……そこの青い魔法少女。君の弁論も聞こう」
「弁論だって……?」
返事をした魔法少女の奥から、小学生ぐらいの女の子が顔をのぞかせている。女の子は緊張がとけたのか声を発しながら藍色の少女に抱きついた。この女の子が母親の言う娘だろう。しかし挙動がおかしく、母親よりも藍色の少女に懐いているかのような素振りを見せている。
「弁論なんて聞く必要ありませんわ! 誘拐犯! 誘拐犯! アタシの娘をどこに連れて行くつもりだったのかしらァ!」
「いや……やぁ、うわああああああああああああん」
母親のつんざく声と娘の号泣が混ざって生まれた混沌に、翼は耳を塞ぐ。どちらも冷静を欠いているのは明瞭だ。だからお前が話してくれと翼はうずくまる少女へ視線を送る。すると少女は女の子を抱き抱え、翼へ視線を返した。
「僕は魔法少女なり。一級魔法少女翼、君は神の存在を信じるかな?」
「お前、私の名前を――」
「僕は君のこと全部知ってるよ。ずっと見ていたからね。ああ……気持ち悪いは、なしにしようか。君以外の全ての人も知っているから」
「……全ての人を知っている?」
「時間切れだ。神とは人間の偶像にすぎない。偶像に救済を求めるとは、人間は愚かで卑賎な存在よ。ただ君達の言う『神』とは違う存在がこの世にはある」
「何が言いたい。そのことと、この誘拐に何の関係がある」
「急ぐのはよくない。急いては事を仕損ずるっていうじゃないか。まあ簡潔に言うと、僕はこの子を助けにきたんだ」
「ウソつかないでちょうだい! そのオンナは誘拐犯よ! 侵入者よ! 警察に差し出すわァ!」
母親が声を張るたびに、娘の泣き声が床を濡らす。
少女は抱きかかえた女の子の頭を撫でると、翼に背を向けて窓に近付いた。
かくいう翼は、女の子が誘拐犯から離れないものだから、どうすればいいのかわかりかねていた。しかし少女は今にも女の子を連れて外に出ていこうとしている。目の前の犯罪を見逃すわけにはいかないと翼は駆け出した。
「さあ――鬼ごっこの開始だ」
勝算があるのか、藍色の魔法少女の挑発には喜悦の色が含まれていた。それから彼女は姿を消し、夜の街へ身を投げ出す。
出遅れた翼は母親に「捕まえてくる」とだけ言い放ち、反射的に自身も少女に追従して窓から外へ飛び降りた。魔法少女の黒ブーツが着地の衝撃を吸収してくれたおかげで、次の一歩も素早く踏み出せる。翼は魔法少女用の装備を使用せず、体に秘めた馬力で屋根を飛び越えていった。
翼の数十メートル先を藍色の魔法少女が女の子を抱きしめたまま飛行している。少女は翼と同じように飛行用装備を一切展開していなかった。あるのは魔法少女の正装と思わしき服だけで、背中に羽を宿していない。しかし少女は飛ぶ。大地の上を走り回るように、空さえも自分の得意領域だと言いたげに。
足元の噴出速度を上昇させても翼と藍色の少女の距離は縮まらない。翼の目には少女の足元に空色のレールが見えた。少女はそのレールの上を滑っているだけなのだ。だから飛ぼうといきり立つ翼のスピードを凌駕する。
「くそっ……どうやって飛んでいるんだ……! 九藍……!」
己と同じ、一級魔法少女の名を叫ぶ。金糸雀が『私達魔法少女とはまた違った子』と表現していた。それがこの飛行方法であるならば、九藍は魔法を使う少女であり神だというのか。
「遅いね、翼。僕に追いつけるかな」
いつの間にかに九藍が屋根の上に立ち、翼を見下ろしていた。飛び上がれば届く距離だというのに、翼は九藍を捕まえられる自信を抱けず、影を縫われたかのようにその場に立ち尽くす。
「単純な飛行スピードならば、君よりも……君の隣にいる小さな女の子の方が速い」
小さな女の子という表現に、ぴんと来るものが翼にはあった。そして気付いてしまったために、悪い予感に体を支配される。銃に手を伸ばさなかったのは最後の矜持だった。
「……! なぜ空音を知っている!? 空音も誘拐するつもりなのかっ」
「いーや、僕は人を助ける最後の希望。君が彼女の希望となるならば、僕の出る幕はない」
九藍はマフラーで口元を隠し、泣き疲れて寝てしまった女の子の体を愛おしそうに抱いている。抱きしめる子供が誘拐した子供でなければ、この光景は違ったものに見えただろう。
「九藍……お前の目的は何だ。私と空音に何をするつもりなんだ」
「行うのは僕ではなくて、君と君の大切な人だ。体から生まれたアンドロイドにどんな魂が宿ったのか、僕は興味があるしね。傍観させてもらうよ」
両者睨み合い、音もなく翼は飛び上がったが九藍に容易くかわされる。
「この子が怯えてしまう。乱暴は嫌いだね」
九藍は声を鋭くさせると、闇の中へ姿を消した。
その場に残された翼は呆然と九藍が消えていった方向を見やる。そこには息も止まるような暗く沈んだ闇が広がっていた。
「九藍……私と空音が何をするって言うんだ」
心休まる暇なく、過去から未来へ引かれた数多の線は収束していく。
常世が因果応報であるならば、善因と悪因を判断する人物は世界のどこに存在しているのだろう。
自分の行いが善因楽果へ通じると、誰もが信じていた。