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第五章:自分の色

 少しだけ昔の話。

 誰かにとってはこんな話はまったくつまらないだろうし、俺だって面白いとは思わない。

 それは何の変哲も無い日常の物語で、けれど登場人物だけはそうとは思っていない。

 この物語の登場人物は一人だけ、その一人が主人公なのかどうかといえば、そうであるようなそうでもないような、はっきりとした回答を用意する事は出来ない。しかしながら物語の中心にいて、尚且つ唯一の登場人物だというのなら主人公と呼ぶのが相応しいかもしれない。

 なんて、物語はそんな曖昧な設定のまま始まって、今もまだ現在進行形だ。

 自分は世界でただ一人だけの特別な存在で、自分の周りに存在する何もかもが自分のために存在している、自分の周りに存在する全ての人類が無条件で自分を好いている、と。そいつはずっとそんな事を思っていた。

 勿論、それを誰か自分以外の他人に話したりはしなかったし、思っていたといっても深層心理の奥底で密かに根付いていた考えだから、自分がそんな考えを持っているなんて自覚もしていない。ただほんの少しだけ自惚れていたのだ。

 自分の人生という物語、その主人公は紛れも無く自分であり、故に自分が存在する上で関わることになる全ての存在は自分のためにある。それが当然であり、必然。自分勝手な考えだが、それを否定する要素はどこにも無いのだ。

 世界なんて曖昧なモノだ。

 どっか高い高い空の上から俯瞰した大きな景色も、地上に立って見下ろした視界分の小さな景色、そのどちらもまた世界。はっきりした境界の無い曖昧な世界は、今日も今日とて無事平穏に廻り続けている。そこに何の意味があるのか、いずれ世界がそれを停止したとき、そこにどんな答えが在るのか。

 これ以上ダラダラと語ってしまうと、本題から離れてしまいそうなのでこの辺にしておこう。

 何の話だったかな? 嗚呼そうだ、自分が特別だとかそんな話だったな。

 その自分勝手なそいつ――白状してしまうと俺は、昔っから自分の心理の奥にあるちっぽけな自尊心に気付いていた。自分は世界で唯一の存在であり特別な存在。だから世界は自分のために在るんだって、今から思えば腹を抱えて爆笑してしまう……いや、恥ずかしくて顔から火が出る思いになることだろう。

 そんなこんな、俺が心の片隅に存在したバカな世界理論を信仰していたのは小学生の高学年くらいまで。その頃にもなれば俺も流石に自分なんて普通な存在だと気付き始めていた。

 もしも人に色があるんだとしたら、俺の色は何色だろう? とか疑問に思ったことがある。 世界の人口は約六十億くらいだって事は知っていたから、ではこの世に存在する色は全部で何色だろうという疑問がすぐに浮上する

 そんな事は誰にも解らない事なのだろうけど、もし仮に解ったとして、ではそれは人類の総人口で割り切れるものなのか。いやいや、それは二の次だな。


 ――自分の色は何なのか。


 白から始まって黒で終わる。その色の中に在るだろう、俺の色とは何色なのか。

 探して見つかるものでないのは当時の俺でも解っていたので、そいつを探そうなんて愚鈍な事はしなかった。

 しかしもし、必死になって俺が《自分の色》を探していたとしたら、果たしてそれは見つかっていたのだろうか。

 ……こんな考えはどっかの誰かさんと被ってるかもしれないな。

 何故ガラにも無くこんな事を思い出してしまったのだろうか。

 嗚呼、なるほど。

 こいつは俺の独白なんかじゃない。


 懐かしいユメだ。



 ◇



 出来る事ならば今すぐに地球を飛び出し、宇宙船でも何でも乗って太陽から最も遠い星まで行ってしまいたいと思うくらいに暑い朝だった。

 夏はまだまだ先だと踏んでいた俺だが、どっこい予想が外れてしまったようで、今はまだ五月前だというのに朝からバカみたいに暑い。布団の中で眼を覚まして、背中が汗に濡れていた事に驚愕した俺は、昨日に引き続きまたしても早めの起床をしていた。まだ目覚ましは鳴っていない。しかし二度寝する気になれないくらい暑いので、忌々しい目覚めだが半覚醒状態の意識を叱咤してのっそのっそと布団から這い出、制服に着替えた。

 すっかり登校準備を整えて俺の部屋がある二階から降りようと部屋を出ると、そこで妹と出会う。一人で起きれない情けない兄を起こしに来たこの妹は、自分の言葉無しに目を覚ました兄を見て心から驚いていたようで、今日はストレートの髪を大きく揺らして、顎が外れたように口をムンクの叫びを彷彿させる形に開いていた。

 順番に朝飯やら洗面やら済ませた俺は、いよいよ家にいてもすることが無くなり、テレビの血液型占いを見てから家を出ることにしてリモコンを握りテレビの電源を入れた。

 占いが最下位であった事に落胆せず、すっかり眼が覚めた身体を動かして家を出る。今日のラッキーアイテムの赤色のハンカチを妹に借りてきたのは語るまでも無いどうでもいい話である。この時点で先刻の懐かしい夢の事など既に忘却していた。

 快晴の空に元気な太陽が昇り、今日もまた登校中にだらだら汗を流さねばならない事を自覚しつつブレザーを脱いで肩に引っ掛け、ネクタイを緩めてシャツのボタンをいつもより多く開いた俺は、ブロック塀の上にいる猫を初めて見て、こんな光景を目撃することがあるんだなと思いつつ脚を動かし始めた。

 橋を渡り終えても、今日はまだ誰とも会うことはなく、俺は一人で学校に至る最後の関門、中距離のやや急な坂を上り始め額に滲む汗をシャツの裾で拭って、まだまだ高みに位置する高校を目指す。この先まだまだ暑くなることが予測できるが、はたして俺の身体はもつだろうか? バターみたいに蕩けてしまうんじゃないだろうかね。

 汗が蒸発するんじゃないかとありえない妄想を膨らませながら、クーラーが漏れ出ている職員室前を通るのは、わざわざ中央階段から教室を目指すことで生じるデメリットを喜んで受け入れるに値する。俺は故意にゆっくりと脚を動かしながら教師どもの巣窟を後にし、暗澹たる気持ちで階段を上りきり、教室に到達したのだった。

 教室には浜中も堤もヒラギもいなかった。連中はまだ来ていないらしい。みんな暑苦しい外の世界に出るのが嫌で、冬場に寒さのためコタツに留まる猫の気持ちのまま涼しい――少なくとも外よりは――室内に残っているのではないかと予想しながら机に鞄を掛けて着席した。

 周りは騒がしい。俺と同期の高校一年生達は暑さで今にも溶けてしまいそうな俺とは違って元気だ。談笑する声の音量が大きい。もちろん、みんながみんなハツラツとしているのではなく、俺と同じように暑さにまいりながら机に突っ伏してスライムみたいになっているクラスメイトだって少しはいる。少しはって……。元気に声を張り上げているのは大抵女子たちで、昨日のドラマの話しだとか、ゴールデンウィークにどっか行く話しとか、この暑い朝、どこからそんな元気が出るのだろう。俺にも少し元気の素を分け与えて欲しい。

 気を紛らわして暑さを少しでも和らげようと、外の景色を眺めてみる。すると教室に発生しているどの団体にも属していない女子の声が俺に掛かった。振り返る。そしてそこには二階堂。何かにつけてよく会話する奴だ。こいつは。

「……どうしたんだ?」

 自分がこれほどに暑さに弱いとは思っていなかった。そんな俺の音量低めな元気の無い声。

 二階堂は俺と違って熱さなど感じていないかのように、シャツのボタンをしっかりと上まで止めて、ブレザーも着ている。白い肌は日焼けの対策をしている結果なのだろうか。

「いえ、えーと、今日はとても暑いですね」

 時頃の挨拶みたいな事を言い出すが、俺には本心からそう思っているようには見えなかった。

「それ、本気で言ってるのか?」

 俺の様子を見て、それに合わせるように言っているのではないかと推測。二階堂はそんな俺の心をまったく察していないようで、涼やかな声できょとんとして答えた。

「本気でけど……あなたは暑くないんですか?」

 まるで俺がおかしな事を言ってるみたいになってきた。おかしいのは俺ではなく、二階堂の様子であると思いつつも、そんな事は実際どうでもいい事だと思って首を振った。

「いいや。ああ、暑いな。異常なまでに暑い」

 そよ風が教室に吹き込んでいた。

「二階堂は、ゴールデンウィークどっか行ったりするのか?」

「わたしですか? わたしは何にも予定なんて無いですけど」

 訊いている俺にも予定が無いことに気が付いて、ここはどこか行くか誘うべきかと思った。二階堂となら一緒に出歩いても悪い気はしないだろうしな。しかし俺がそれをしなかったのは、ヒラギの不機嫌な表情が不意に浮かんできたからだ。また反省文を書かされかねない、それは御免だ。て、なんでヒラギが出てくるんだ。

「あの」

 と二階堂はもじもじしながら、なかなか言葉を続けようとしない。何が言いたいのだろう。

 俺の顔に何かついているのではないかと、一瞬本気でそう思ったところで、ようやく続く言葉を二階堂が発した。時折視線を床か俺の上靴の先っぽに外しながら、実に一分近くたらたらと話していた二階堂の話をまとめるとこうなる。つまり、俺とヒラギの関係はどうであるのか。前のホームルーム前、どうしてあなたは怒られてたんですか? 反省文って何ですか? 校長のズラって何ですか? 

 詰問に対してどう答えるべきかを考えるために、俺はショートシンキングタイムを開始した。まさか、俺はヒラギの社長を務める事務所――実はそうではないが、あの時はそう思っていた――で働いていて、丁度お前と喫茶店に行った日に俺は無断欠席したので反省文を書かなければいけないんだと、まさかそんな事は言えまい。

 忘れていた暑さがカムバックしてくるのと同時に、ばっくれ話のでっち上げが完了した。

「ホームルームに俺が怒られていたのはつまり、俺が毎日遅刻寸前で教室に入ってくることにあいつが腹を立てたんだ。そう、あいつは根っからの時間主義者でな、ルーズな俺をゆるせなかったらしい」

 完璧とまではいかないが、暑さでどうにかなりそうな、そうでなくてもそれほど大層な頭脳を持たない頭で考えた嘘話がこれである。

 俺としてはもしかしたら信じてもらえないかと思ったのだが、こいつは、二階堂はまるで疑うことを知らない人間のようで、この話を簡単に信憑してしまった。

「そうなんですか。遅刻が赦せない……ですか? さすがは天羽さんですね」

 何がさすがなんだろうか。

「やっぱり天羽さんはすごいです。あっ、でも校長のズラって、結局何なんですか?」

 校長のズラを剥ぎ取ることに妙な執着をヒラギが持っていた理由など、俺だって知らない。知りたいとも思わない。

「さあな」

 二階堂と話をしている間、わずかだが暑さがマシだった気がする。

 話し終えて二階堂が戻っていくと、そこで堤が教室にやってきた。この時まだ、始業の鐘まで少なからず時間が残されている。戸口に立って俺に視線を送ってくる堤は、やっぱり表情を驚かせていた。まるでそこにいるはずの無い人物を見るような顔である。よくいうアレだ、幽霊でも見るような顔でって奴だ。

 鞄を席に置いた堤はやはり俺と同じようにブレザーを椅子に掛けて、シャツの白が際立つその姿から神々しい光を煌々と振りまきながら、俺のもとにやってきた。予想通りの言葉が掛かる。

「今日といい昨日といい、どうかしたのかい? 君がこんなに早く学校に来てるなんて、暑さで頭が狂ったのか」

 肩をすくめるアクションが様になっている。嘲笑的な微笑で輝く白い歯を俺に見せ付ける。何か、気に喰わないな。

「俺が早く登校することが、そんなに珍しいのかよ。お前といい浜中といい、俺という人間を甘く見るなよ」

「甘く見ていたつもりは無いのだが、そう言っているように聞こえたか? だったら謝ろう。すまないね」

 邪気の無い微笑は、昨日事務所で見た棺木さんのものとは根本的に違っていた。そういえば、あの人は結局のところ何者なんだろうか。今日の放課後にでも本人に訊いてみるとしよう。

「ところで堤」

 俺は昨日の計画を実行に移すことにした。

「数学の宿題だが、お前なら既に終わらしているだろ? できればノートを見せてもらいたいのだが」

 申請する俺に堤は微笑をやめて、

「君という男は、どう言っていいのか解らないね。数学とは自分で問題を解いて理解する事が全てじゃないか。他人のノートを写したところで何の意味も無いことぐらい、君だって解っているだろ?」

 教師のような事を言い出した。それが出来ないからこそ、お前に頼んでいるんだろうよ。

 堤に助けを求めることは諦めた。なにまあ、まだ後一人ほど頼れそうな奴がいるさ。



 ◇



 その頼れそうな奴とは、俺の隣の席に座っている髪の長い同級生である。自称営業部部長。少し前まで社長代行。この際もう秀才でも天才でも構わない。俺は天羽ヒラギの登場を待っていた。昨日宿題をやっていたのを、俺は目撃している。

 意外な事にヒラギが教室に入ったのは始業の鐘ぎりぎりの時間だった。さっき遅刻を忌み嫌う人間だとか二階堂に言ってしまっているので、この時俺はけっこう動揺した。嘘話がばれるかもしれないと危惧する。

 畏怖した出来事は起こることなく、二階堂はヒラギが教室に入ったことすら気が付いていないようであった。不機嫌というわけではないが、上機嫌とも取れない表情で席にやってきたヒラギに話しかけた。

「今日はどうした、お前がこんな遅刻すんでのタイミングで教室に来るなんて、珍しくないか? それは俺のポジションだと思っていたんだが、これを期に役割が交代するかもしれんな」

 冗談のつもりで言ってみたのだが、そんな俺にヒラギは例の鋭い一瞥をみまった。

 元気が欠片も感じられない。俺に睨みをきかせたヒラギは、それだけして何か言うこともなく机に突っ伏してしまった。腰をげんにゃりと曲げて、腕に顔を埋める。

 さすがの俺もこの時は少しならず隣人の体調を気にかけた。昨日は元気だったはずだが、少し早い五月病にでも罹ってしまったのだろうか。眠ったように動かないヒラギに俺が言った。

「どうしたんだよ、風邪でも引いたのか?」

 一応心配して言ってやったのだが、ヒラギはどう受け取ったのか俺には解らない。ヒラギが顔を俺に傾ける。

「うるさいなぁ、もう……。疲れてんだから黙っててよ。あーもう、頭がんがんする……」

 二日酔いのサラリーマンみたいな事を言うヒラギの表情は、なるほど確かに疲労の色が浮かんでいた。俺が遅刻の心配皆無の時間帯に教室にやってくるよりも、この表情の方がよっぽど珍しいものであると、この時俺は思っていた。一体昨日何をしていたんだろうか。ろくに寝ていないのではないか? その事を尋ねてみるとヒラギは、

「考え事してたら、寝るのが遅くなったの。……ただでさえ昨日は疲れてたのに、もう……」

 昨日何か疲れることでもしたのだろうか。しかしそんなことよりも俺の脳を支配する疑問があった。考え事をしていて、寝るのが遅くなった? 俺だって悩みが一つも無いわけではない。もちろんその事について考え込んだりもするが、それは大概寝る寸前のベッドの中で、そうでなくても途中で脳内議論を打ち切って睡眠に移るのが通常である。体調が崩れるくらい睡眠が遅くなるまでそれを続けるなんて、過去に一度も無かった。

 こんな状態のヒラギを見ていると、数学の宿題を写させてくれなどと言う気になれないので、俺は黙って机に平伏すヒラギの黒髪に覆われた横顔を眺めていた。

 ヒラギは腕で顔を隠したまま、それから何も言う事は無かった。眠ってしまったのだろうか。しかし本当に昨日は何をしていたんだろう。それから考え事とは何なのだろうか。恋煩い? まさか、こいつに限ってそれは無い。……と、思う。



 ◇



 さすがはヒラギというべきか。いつまでも大人しく机に突っ伏しているのかと思えば、やはりそうではなく、体育の授業を終えた俺たち男子が体育着を片手に教室に戻ってきたのは三限目の後の休み時間。体育の授業は男女別であるから、授業中のヒラギの状態を俺は知らない。しかし俺が席に着いたその時には、ヒラギは何かに降服するように机に平伏すのを放棄して、いつもの姿をさらしていた。

 机に肩肘を突いてこぶしの上に頬を乗せ、黒板へと視線を放っている姿は俺にとって既に見慣れた普段どおりのヒラギの様子である。

 安堵と持久走の疲れで、どっちかというと安堵が勝る息を吐き、戸口でいつまでも突っ立っているのは他の生徒にも迷惑であったなとかまったく関係ないことを思いつつ、席に戻って体育着をしまった俺は椅子に腰を下ろした。すぐにヒラギに声を掛ける。

「調子はどうだ。朝は随分と疲労困憊していたように見えたが」

「単なる寝不足よ」

 ヒラギは大きなあくびを挿んでから、

「一限目と二限目は寝てたから、少しは体力的に回復したけど、その後すぐに体育だもん。ほんと、タイミング悪いったらないわね」

 そう不機嫌そうに話すヒラギは、少なくとも俺から見れば普通のヒラギであった。

「あんたは一限目と二限目、ちゃんと起きてたでしょうね?」

「まあな」

 と、眠りに落ちそうになった二限目のことを思い出す。あの時は確か最前列の二人が揃って眠っていれば、さすがに教師が行動を起こすと思い、やってきた睡魔を必死に撃退したのだった。

「ノート貸して、写すから」

 催促するヒラギに応じて、俺は鞄の中からノートを二冊取り出し、渡してやった。こういう所で殊勝な奴だ。学年トップの成績を叩き出せるのにも頷ける。……まあ、当たり前の行動なんだけどさ。

 今日の分を探してぺらぺらページをめくっていくヒラギの表情が、徐々に変化していくのが確認できる。呆れるようにノートを見ていたかと思えば、最終的には哀れむかのような顔つきになって、俺を見上げた。

「あんたさ、いつもこれだけしかノート取ってないの?」

 今日の分のページを開いて俺に突きつけてそう言った。これだけって、A4ノートの二ページ分を使う俺の授業態度のどこに問題があるのだ。

「これだから、あんたの成績は真っ暗なのよ。開き直る前にもっと努力しないさいよ。次のテスト、こんなんで大丈夫なの?」

 元気を取り戻したかと思えば、ヒラギは説教染みた事を開始した。確かに、このまま行けばそろそろやってくる中間テストにて赤点を取ること必至だ。

 ヒラギは赤ペンとシャーペンを取り出すと、俺の机の上にノートを広げて勝手に何やらと書き込み始めやがった。おい、それ俺のノートだぞ、勝手なことをするな。

「うるさいわね。ほら、そんな事言ってないでちゃんと見なさい。まずね、ここはこれだけ書いてても仕方ないの。公式だけ写してもしかたないでしょ? どうしてこうなるのか、それからどの場合にこの式が使えるのか、どうやって使うのか、そういうことを全部理解できてないと意味が無いの。このノートを見る限りじゃあ、そんな事あんた理解して無いでしょ。テスト前に見直して、あーそうかって思えるノートを作らなきゃ、授業なんて寝てても起きてても一緒なのよ」

 言われてみれば、確かにそうかもしれないと思わずうなずいてしまいそうな事を言い終えたヒラギは、続いてさらさらと俺のノートに赤と黒の線やら文字やらが数字やらが書き足されていく。見ていて驚きだ、これが存外理解できてしまう。俺の頭も捨てたものではないな、はたまた数学担当教師が無能なのか、多分両者共に間違いではないだろうな、と思いつつヒラギに一言。

「お前確か、一限目は寝てたんだよな?」

「そうよ。それがどうかした?」

 俺はヒラギが机上に広げるノートを持ち上げて過去の記録に眼を通し始めた。無い、無い。どこにも今日の授業の内容は記されていない。

「お前どうして、この式の事解るんだ? 今日初めて授業出てきただろ、これ」

「あんたの下手なノートでも、最低限のことが書いてあるからね。それだけで十分解るのよ。それにこれ、そんなに難しい事じゃないしね」

 センター試験によく出てくるとか、教師は言っていた気がする。

 ヒラギは俺からノートを引ったくり、授業を再開した。自分のノートを取るかのような、丁寧な解説が所狭しと追加されていく。たいした奴だ。天才がこれだけ努力してるんだから、学年トップの成績だって当然のごとくついてくるさ。さらにバッティングセンターに行ったときのことを思い出す。浮かんでくるのは剛速球をいとも簡単に弾き返すヒラギの姿。文武両道容姿端麗の人間。俺がヒラギの存在を少し遠く感じていると、

「ちょっと、聞いてるのっ!」

 ノートに加筆する手を止めて、ヒラギがそう言い放った。

 謝ってノートに視線を落とす。解説が最終段階に入ってだんだん頭が混乱を始めた。解りやすい、のだが、やはり俺の脳には限界というものがあって、小難しい公式を完全に理解するには休み時間という時間は短すぎるようだ。短時間では無理。では、時間を掛ければ理解できるのだろうかと思いつつ、ヒラギが加筆していく自分のノートを眺めていた。一応言っておく、理解するための努力はしたさ。

 ヒラギ講師の臨時数学補習授業は、四限目開始のチャイムと同時に終了し、自分がいろいろ書き足したノートを俺に返してきたヒラギに、お前が写すために貸してやったんだろと忠告し、

「そういえばそうね。あんたのせいで忘れてたわ」

 とヒラギに言われてから、壇上にやってきた英語教師に睨まれていることに気が付き。そしてその理由が俺の机の上に授業の準備が何一つされいない事だとついでに発見。急いで鞄からノート、教科書、その他を取り出した。ああ、蛇足だがヒラギならいつの間にか準備を整えていやがった。

 つつがなく終了した四限目の英語の授業。次の時間に小テストを行うとか最後に言い出すものだから、俺は今から頭痛を催していた。朱入れされた数字を見るや卒倒するかもしれない。なぜなら、英語は俺の誇る苦手教科の一つだからだ。得意教科なんて、無いかもしれないが。

 鞄から弁当を取り出そうとして、俺の手首が誰かに掴まれる。顔を上げればそこにはヒラギの不機嫌面。今度は何だ。よもや今から英語のテストのために勉強するとか言い出すのではないだろうな。

「ついてきなさい」

「どこにだよ」

 質問に答えず、ヒラギは手首を掴む力を強めた。痛てえ……。

 体の重心が傾く。掴んだ手首を強烈な力でヒラギが引っ張っているからである。

「おい待てよ! 急にどうした? まずはどこへ行くのか、それから何をするのか教えてくれ」

「黙ってついてきなさい。行ってから何するか教えるから」

 俺の意思を完全無視した強制連行は誰にも止められることなく、というよりも誰も止める気は無いだろう。教室から引っ張り出されるときに確認した教室内の雰囲気は、やれやれまたかみたいな感じで、浜中は面白そうにニヤケ面、堤は笑顔の会釈を俺によこし――どういうつもりだコラ――二階堂はおろおろ狼狽していた。それを日常として既に受け入れてしまっているのだろうか。言わせて貰うと、俺はこんな日常などお断り、非常に御免被る。

 廊下をずるずる引きずられるのは周囲の目を気にする点からしても、俺自身の安っぽいプライドからしても不快なので、教室の戸口辺りから立ち上がり早足で先を急ぐヒラギの後ろを嫌々歩いていた。もちろん、こんな状況など受け入れていない。故にこれは任意同行ではなく、強制連行なのである。行き先も解らない散歩に付き合う気は無いので、俺だって抵抗の意思表示は幾度も行った。しかしぎゃーぎゃー喚いてもヒラギの手は俺の手から離れる事は無いし、それどころか騒げばその分廊下にいる生徒たちの注目を集めてしまう結果になり、自分で自分の首を絞めるだけの行動はプラスマイナスで言えば明らかにマイナスの域で、しかもそのマイナス符号の付いた数字が二桁くらいに達しようとしているのだから、結局俺は黙ってしまうのだった。

 逃亡を俺が諦めてから数分間。その間ヒラギが俺に言うことといえば、「ちゃんと脚動かしなさいよ」とか「あんた自分で歩く気無いでしょ?」とか、俺の無気力な歩行方及び、歩行速度に対するクレームだけであったがために、俺たちの間に会話というものは無かった。クレームを付けるはすれど、こちらのクレームは全て無視するのだから、こいつは相当たちの悪い誘拐犯である。そんなこんなで、俺が連れて行かれた場所は中庭だった。あの中心に植えられた木の下である。そういえばここにくるのは二度目になるかな? 初めて来たときは体育着を着ていた気がする。懐かしいと思うが、前に俺がここに来てから、それほど時間は経過していないのだ。

 ここでようやくヒラギは俺の手を開放し、すぐさま逃げ出そうと身構える俺を睨みつけ――それでも見上げてるんだから、変な感じだよな――動きを停止させた。

 人差し指を突きたて、その指の延長線は天空を射抜いていた。

「どう思う?」

 答えを催促するヒラギ。何をどう思えばいいのか、俺にはさっぱり解らない。

 ヒラギの手の温度が残る手首がじんじんと痛んでいる。さっきまでちゃんと血は通っていたのだろうか。

「何が?」

 と俺が訊く。

 ヒラギは呆れる表情で溜息を吐き、

「空よ。あたしの指の先を見れば、そんな事ぐらい普通に解るでしょ」

 この大きな木の下から空が見えるのは現在のヒラギの立ち位置のみであることは、前回ここに来たときに学習済みであり、であるからして俺は木の陰から出て今日の空を見上げる。

 クレヨンで塗りつぶしたみたいな青い空。ところどころ、塗り忘れた所があるように白い雲が漂っている。何て事の無い、いつもと変わらぬ空をいつもと変わらぬ雲が流れている。当たり前の光景。彗星が流れているわけでもなければ、可笑しな色の月が昼間なのに出ているでもない。日常を訴えるかのような何も無さ。これを見て、俺に一体どんな感想を抱けと言うのだろうか。

「空がどうしたんだ?」

 木の下に入った俺が訊いた。以前ここにヒラギと来たとき――厳密に言えばヒラギはもともとここにいたので、それを見つけた俺がやって来たときとだ――にも同じ事を言った気がして妙に懐かしい。違うのはヒラギの対応。それが違うのも当然であり、今回のヒラギは質問される立場以前に、俺に質問している立場であるのだ。

「空を見てどう思うかって、そう訊いてるのよ」

 それは苛立つような声色だった。ヒラギにしては珍しく、逸早く答えを求めるような喋り方。何かに焦っているようなそんな感じの。

「どうも思わん」

 俺は思うとおりに、何も考えずに言った。

「いつも通りの青い空だろ?」

 言ってから早くも後悔の念が押し寄せてくる。ヒラギは今にも俺に殴り掛からんとばかり、憤怒の化身と化す寸前の表情。どうしてそんな態度を取る。俺は訊かれたから、思ったとおりに答えただけだ。

 韋駄天。目にも止まらぬ速さと形容すると率直であろう、ヒラギは一瞬で俺の前に移動し、決して笑わない怒りの仮面を装備したような表情でネクタイを引っ掴み、そして引っ張り。一撃で昇天してしまいそうなくらいの強力な頭突きを俺に喰らわせた。気が遠くなる、視界がホワイトアウトへ移行しつつある中で、

「真面目に答えなさい!」

 怒声が鼓膜を揺らして意識を引き戻す。

 気絶の寸前から俺の意識を引き戻したのは激昂するヒラギの咆哮だった。いや待て、ここで憤怒するのはお前ではない、俺のはずだろうが。

「いきなり何しやがる! 俺は感想をそのまま述べたまでだ、いきなり頭突きなんてかましやがって」

 説教する俺をヒラギはバカを見る眼で見上げていた。しかしそれ以上何も言わず、漆黒の両眼で鋭い眼光を俺に向けているだけ。ネクタイを握り締めたままである事を忘れているのだろうか。一向に離す気配が無い。

「あんた」

 とヒラギは俯き加減に呟いた。すぐにまた顔を上げて俺を見上げる。


「あたしの事どう思ってる?」


 何を言い出すんだ。とさすがに思ったね。どう思っているかと訊かれて、どう答えりゃいいのか、俺には解らなかった。クレームが構成するエベレストよりも高い山、そのいくつかを紹介するべきだろうか。それとも、その中に埋もれた俺自身正体が解らない謎な感情を適当に命名して口に出すべきか。

 考えていて気が付いた。ヒラギはそんな事を聞いているのではないことに。前にここで空を見たときの事を思い出す。ヒラギが語った過去の話を俺は覚えている限りで脳内で誦詠する。つまりこいつは、俺が自分に抱いている感情について聞きたいのではない。ヒラギのいう、自分らしさ、ヒラギらしさについて訊いているのだろう。そう。言い表すならば――色。

 俺は答えなかった。というよりも答えられなかった。俺がヒラギに言ってやれることはあまりに少ない。見てくれについて説明してやることや、楽観的なヒラギのイメージを言ってやるのは簡単だ。だが、俺にはそんな事など出来ない。自分にも少しだけそんな気があるからだ。俺も昔は自分らしさとかいうのを探し求めていたから、確信を持たない中途半端な回答はしてやりたくない。

 沈黙する俺をしばし見上げたヒラギは、その視線を足元の芝生に落下させ俺と同様に黙り込んだ。静寂。風の吹き抜ける音さえ聴こえてくる。

「俺、もう帰っていいかな?」

 ヒラギは答えない。答えずに俺を無言で見上げた。

「…………」

 何もいわない黒い眼は、俺に何を訴えているのだろうか。そしてこの時のヒラギの瞳は、これまでになく無垢なものであった。

 何もいわないヒラギと立ち尽くしてもしょうが無い。俺はヒラギの視線が自分から外れてから、許可されないまま教室へと帰った。何ともいえない感情が渦を巻いている。



 ◇



 教室に帰った俺をそこにいる連中全員が視界に捕らえた。何か聞きたげである。全員を代表するかのように浜中が思わず横っ面を殴りたくなる顔で近寄ってきて質問してくる。答えてやりはしない。その必要も義理も無いので、俺は野次馬根性まるだしの浜中を避けて自分の椅子に腰を下ろし、隣席を無断で使用している堤を一瞥した。理由は無い。腹が減った。

 さっさと弁当を喰ってしまおう。

 それからの事である。ヒラギが教室に戻ってきたのは、俺が弁当を喰い終えて授業の準備を整えた頃だった。そういえばこいつ、飯喰ってないんじゃないか。相変わらずの不機嫌面を見ると、そんな発言を俺には許してくれないんだろうけど。しかし今日のこいつはどうしてしまったのだろうか。答えを求めるあまり、急ぎすぎて行動が空回りしている気がする。お前の背を押しているのは一体誰だ? それとも自分の意思で突っ走っているのか? だったら、その原因は何なんだ? 


 ヒラギ――



 ◇



 放課後、昨日同様に掃除当番のヒラギを残して、俺は一人事務所を目指していた。話をしておきたい相手もおそらくそこにいるだろうと思われる。棺木鏡介。昨日突然現れて社長を名乗った怪しげな男。ヒラギは何も思わないらしいが、俺はあの人に妙な印象を与えられた。訊いて答えてくれるかは解らないが、何か行動を起こさない限り、謎は謎のまま一生残るのである。ダメ元で訊いてみるとしよう。

 扉の前に立った俺はブレザーのポケットに扉の鍵を探し、今日は受け取っていない事を思い出す。既にヒラギがそれを持っていないこともそれと同時に気が付いた。ドアノブに手を掛けて、ここは一応ノックをするべきかどうか迷ったがすぐに判断。ノブを掴んだ右手とは逆の左手の拳を固めた。しかしそれが無駄であることを思い知らせる声が、ちょうどいいタイミングで中から届く。

「どうぞー。お入りくださーい」

 聞こえたのは棺木さんの声だった。思わず、身の回りに監視カメラを探してしまった。が、そんな物は無い。透視能力でも持っているのだろうか。

 ノックをする前に入室を許可した棺木さんの声に従い、俺は事務所に入った。施錠はされてなどいない。

 棺木さんは前髪で右目を隠した微笑で社長席に腰を下ろし、指で作った台座の上にあごを乗せて俺を見据えていた。

「天羽さんは一緒じゃないんですね?」

 初めから知っていたみたいなニュアンスが籠められた質問に、俺は黙って首肯した。まるで、初めから俺が入ってくることを理解していたみたいな言い方だった。俺は無言のまま室内に進入し、鞄を自分の席、雑用プレートの貼り付けられた机に放り出すと、椅子に座ろうとして思いとどまり、そして訊いた。

「棺木さん、この事務所はいったいどういう事務所なんですか? 俺には正直、ここが何をやって社会に貢献しているのか、まったく理解できませんが」

 俺の質問に少なくとも表情では気を悪くしない様子で、あっさりとした回答が返ってくるのだった。

「そうですねー。こう言ってしまえば率直でしょうか。万屋よろずやです。何でも請け負う事務所なんスよ、ここは……」

 笑顔のまま飄々とした口調で答える。万屋。何でも請け負う事務所だと? だったら尚更俺の疑問は深くなるだけだ。

「どうして俺やヒラギを雇っているんですか? 俺に関しては、裏口入学までさせてくれたでしょう。給料泥棒同然の俺のために、そんな事をするメリットはこの事務所にも、あなたにも無いんじゃないですか?」

「あなたを高校に入学させたのは私ではありません。天羽さんがそれを望み、そうしたのです。もちろん私もそれを承諾しましたが。給料泥棒ですかー……? 私はそうは思いませんがね、天羽さんは前まで社長代行を請け負ってくれていましたし、あなたはそれを観測していた。それだけで十分なんですよ」

 ますます意味が解らなくなった。それではまるで、俺がヒラギの監視役として雇われているような言い方じゃないか。それに解らない事はそれだけでは無い。ここには、この事務所にはまだ何かある気がしてならない。決心したように俺が言った。

「ここには、何か……秘密があるんじゃないですか?」

「秘密ですかー? どうしてそう思うんですか? まあ、そんな事はいいですが。ご心配はいりませーん。ここは闇金業者でも、フロント企業でもありませんから」

「それは解ってます」

 むしろそうであっては困ると内心思いつつ、

「そうじゃなくて、もっと……、こう、違う意味で」

 言っていて、だんだん自分が何を言いたいのか解らなくなってきた。言葉に出来ない。うまく形容できない感情の渦が音を立てて逆巻き、その中心にある答えを沈めていく。

 混乱する俺を見ている棺木さんはやはり笑顔の仮面を付けたように微笑していて、俺はますます混乱する。まるでそれを誘うかのような表情。俺は頭を抱えるべきなのか迷い始めた。その時である。

「ふっ」

 室内の静寂を破る小さな笑い声。俺のものではない。なら消去法でいけばこれは棺木さんのものである。

 気づかぬ間に床に落としていた視線を社長席へと移した。そこに描かれた絵のように、初め見たときと何も違わない棺木さんの姿がそこにある。何が可笑しいのか尋ねようとして、それを思いとどまる。先に棺木さんが声を出したからである。

「人間というものは――」

 と棺木さんは閉じた目を開き、それでもやはり細く鋭い眼で俺を見据える。

「本当に見ていて面白いですね。誰もが何かを知ることに貪欲であり、たとえそれがいくら足掻あがこうとも手に入らないモノだと解っていても、必至に溺れながらわらを掴もうとする。無駄だと、解っていても」

 何やらわけの解らない、哲学的なことを言い出した。

「あなたも、そして天羽さんも、どうしてそう何かを知ろうとするのですか? この世界には、知らない方がいい事だってたくさん存在しているのですよ」

 棺木さんは目を閉じた。そして変わらぬ微笑。全てを見透かしたような話し方。さっきから何を言っているのだろうか。俺が、ヒラギが? 何を意図してこんな意味不明なことを言っているのか、まったく持って不明だ。現在俺は困惑の境地に取り残されている。連れてきたのは無論、棺木さんだ。

「ヒラギが何を探しているのか、あなたは知ってるんですか、棺木さん」

「ええ、まあ」

 呟くように言って、

「あなたが求めるモノも、天羽さんが求めるモノも、私にしてみればどうでもいいモノです。求めるが故に手に入らない。探すからこそ姿を隠す。そういうモノなんですよ。あなた達が探しているものは」

 意味深なことを言ってくる。それではまるで、

「まるで俺が何かを探しているみたいな話し方ですね。まあ、この事務所に秘密があるのかって、その答えを俺が欲しているのは否定しませんけど」

 微笑する表情が低速で左右に振れた。

「そんな事を言ったんじゃないんですがねー。あなたは自分自身でも気が付いていないのですか? 自らの求めるモノが何か」

「棺木さん」

 と俺は低い声で言った。絵のような微笑。その空間のみが時間を凍結されたように変化しない棺木さん周辺の光景から視線を外さず、自分でも驚くほどにシリアスな声を発していた。

「何が言いたいのか、俺にはさっぱり解りません。もう一度聞きますが、この事務所にはどんな秘密があるんですか?」

 すでにここには何かが在ると決定した俺は、その時自分が踏み込んではいけない場所に踏み込んでいる気がした。それでも退けないのは、これは俺の好奇心が背を押しているからなのだろうか。

 棺木さんはまた眼を細く開く。

「秘密……ですか。謎には常に答えが伴う。表があるから裏がある。あなたは、表だけ見ている気は無いのですね?」

 言い終えて、また少しだけのぞいた瞳を瞼で隠す。またさっきまでの固定された光景が戻ってきたかと思ったら、その刹那。凍結された絵の中心にいた人物、棺木鏡介が消えた。驚くことさえ許されない一瞬。棺木さんの居場所を俺は確認した。気が付けば音も無くその身体は俺の背後に移動していた。



 ◇



 冷たい汗が首筋から背筋へと伝う。朝方、暑い暑いとだらだら流した汗とはまた別の、言うところの冷や汗というやつだ。肺を鷲掴みみにさせれているかのような息苦しさ。ヒラギに睨まれた時とは比べ物にならない、本気のヤバさ。俺の神経に死を与える絶対的な恐怖。

 音も無く背後を取った棺木さんは、一切の動作を行うことなくただ立っているだけである。しかしそれでも俺はかつて無いまでの恐怖を肌で感じていた。背中越しに伝わってくる殺意。どろどろとした、息が詰まって吐き気を催すようなそれ。

「残念ですねえ。雑用さん、どこまでご存知か知りませんが少しでも疑われては困るんですよ。この事務所に疑いを持つ者は、例え誰であろうと生きていてもらっては私にとって不利益なんです。不利益は排除すべきでしょう?」

 話の内容は明らかに恐ろしいものであるが、いかんせん口調が口調であり、さっきまでと変わらぬ飄々としたものであるから、この分だときっと微笑も継続しているだろう。しかしそれでも俺がただならぬ恐怖に脳を支配されている理由は、背後にいる男が放つ異様な雰囲気。ナイフと銃を手渡された手錠無しの犯罪者が出すような、目の前にあるものを容赦無しに死に追いやらんとしている者が発するオーラ。そんなモノを感じ取れるほど俺は達者な人間ではないが、今のこれは誰にだって解る。断言する。賭けてもいい。

「昨日で知り合ったばかりで、もうお別れとは私も心が痛みます」

 じゃあよせよ。

「それでもしかたがありません。現状はそう甘くない。私にとってあなたは、体内に侵入した病原菌のような存在。排除すべき対象なんですよ。ご理解のほどを頂きたいです」

 知らねえよ。

 それから例えが解かり辛い。それとも俺の現状が、理解を困難なものにしているのか。 

 背中で何かが動く気配。俺の腰辺りで動作するそれは、予想するに棺木さんの手である。そこには刃先の尖った怖々しいサバイバルナイフが握られているのか、それとも銃の類が握られていて、重くそして鈍く輝く黒い銃口が俺に突き付けられているのか、知る由も無い。どっちにしても銃刀法違反だ。

 せめて自分の死因は確認しておきたいと、そういうわけでは無いのだが、首をひねって背後を確認してみることにした。

 はたして、そこには先の尖った鋭利な刃物も無かった。あるのは棺木さんの手のみ。

 後少しで安堵の息を吐くところであったが、少し顔を上げて確認した棺木さんの表情が微笑していたことにまた恐怖し、さっきまでの刺すような殺気も戻ってきた。

 空気の動く気配。それを感じた瞬間に俺は脱兎のごとく走り出し、背後にいる棺木さんとの距離を取る。

 社長席の後ろまで駆けて行き、そこで振り返り数秒前まで自分がいた位置に眼光を飛ばす。半歩後ろに下がると背中が窓のブラインドに当たり音を立てる。棺木さんはやはり微笑。腰にガンベルトなどは装備されていない。右手左手、そのどちらにも俺の命を奪いかねない凶器は無い。ナイフも、棍棒も、銃も、注射器も無し。それでもやはり変わらぬ殺気は、人間が出せるものではないと俺は推測する。

 汗でびしょびしょの背中。外の光がブラインドの隙間から室内に差し込んでいる。

 こんな時こそ冷静にと思念し、俺は冷静に現状の打開策を思案した。

 室内の脱出路はさっき入ってきた扉のみ。俺の命を奪わんとする殺人鬼は、部屋の中央に固められた机の群れの左側。そして俺が居るのは中心に位置する社長席の後ろ、部屋の真ん中、その最深部である。

 だったらとそう思い、少しずつ身体を移動させ始めた。

「選ばせて差し上げますよ、あなたの死因を。撲殺がいいですか? 銃殺がいいですか? 刺殺がいいですか?」

 人生最後の選択にしては、これは酷過ぎやしないかとか考える暇は無い。じりじりと相手の様子をうかがいつつ、少しずつ確実に身体を動かす。ここを出て、近くに交番か何かを探して駆け込めばいい。

 俺の身体はようやく社長席の後ろを離れた。背中とブラインドとの間は大人一人が楽に納まるくらい。

 スタートダッシュに全脚力を注ぎ込もうと足の裏に力を溜めたその時だった。注意深く確認していた殺人鬼の姿がさっきまでの場所に無い。


 棺木さんの姿が視界から消失していた。


「無回答ということは、それは私に任せてくださると、そう取って宜しいのですね?」

 背後からそれは聞こえた。

 声がスタートの合図となり、それを聞いた瞬間に脳から脚へと運動神経が送られる。今ならば百メートル走も十秒と掛からない速度で走りきれる自信が俺にはあった。

 しかし――

 こりゃなんだ、身体が動かない。さっきまで脚に溜めた力もどっかへ消え失せている。

 動かせるのは唯一首のみ、背後の様子をうかがう勇気など俺には無い。それでも一つだけ断言できることがあった。きっと、棺木さんはまだこんな状況でも微笑しているだろう。

「言い残すことはありますか?」

 常套句を発する。言い残すことか? 残念ながら俺は十五歳にして辞世の句など用意してはいない。用意していたとしても、今の俺が口に出来るのは命乞いの言葉のみだ。一生のお願いで命が救われるのなら、喜んでそれをこの場面で使用してやる。しかしそれを用いたとして、小学生の低学年時代、母親に欲しい玩具を強請る際に使用しなくてよかったと、そう笑って言える瞬間が俺にやってくるのだろうか。

 いや待て、これは待てよ。何故俺は今人生の最後をしみじみと感じているのだ。俺が殺される理由は何だ? この事務所に秘密があるか、そう質問しただけではないか。俺は何の情報も掴んでいない。故にこれは口封じではない。だったら何だ? なぜ俺がここで死なねばならん? 確かに今日の占いは最下位だったさ、しかしそれで人生最大の宝物、自らの命を失うなんて事は無いだろう。ラッキーアイテムだって、ほら、ちゃんとブレザーのポケットに入っているし。確かめようとして、自分の身体が動かないことに気が付いた。もう駄目だ。身動き取れず命の最期を感じるだけ、ああ、何と悲しい俺の死に際よ。それとも何だ。誰かが助けに来てくれるのか。

 走馬灯のように駆け巡り始めた記憶と、俺の思考を停止させるのは耳元で棺木さんが囁いた死刑執行の言葉だった。

「最期に教えてあげますよ。そうですねー、冥土の土産というやつですか?」

 そんな事はどうでもいい、と言おうとして言えない。いつの間にか首も動かなくなっている。唇さえも動かせない。完全に考える以外の全ての動詞を奪われた状況だ。これではマネキン同然。

「あなたが知りたがっていた、この事務所の秘密。それは、この事務所が最も世界の中心に近いという事です。これで悔いはありませんね?」

 大有りだ。世界の中心に近いって何だ? ますます意味が解らない。

「それじゃあ、あっちの世界で楽しくやってください。お元気で」

 さっき見た棺木さんの両手には何も握られていなかった。人の命を奪えるようなアイテムなど見る影無し。ではどうやって俺を殺そうとしているのか。不可能だ、出来るはず無い。とは俺は思わない。今時分の後ろにいる人間が思わせてくれない。

 せめて死ぬ寸前くらいは眼を瞑りたかったが、それさえも許されない。

 とん。俺の肩に何かが触れた。それと同時に――あれ? 身体が動く。

 消え去っていた身体の動作機能が復活すると同時に、肩を押された事で俺は力なく前屈みになってふらふら部屋の中央に向かって歩行を開始した。三歩ほどで倒れて動きが停止、そこで棺木さんが言った。

「なんて、驚きましたか? 雑用さん」

 不様に尻餅をついた俺は振り返った。ブラインドを背に、差し込む太陽の光を背中で受ける微笑した棺木さん。

「冗談ですよ」

 さきほどまでの殺気がまるで無い。そこにいるのが別人にさえ感じてしまう変わりよう。

 明朗快活、陽気で人畜無害な微笑を湛えた棺木さんを見上げながら、俺は自分の命が助かったことに気づくまで一切の言葉を発することが出来なかった。

「ジョウ……ダン?」

「はい。いかにもその通りです。あなたを殺して私には何のメリットもない。それどころか殺人罪に問われてデメリットが発生します」

 人の命を損得勘定で割り切ることに腹が立ったが、それは今この場ではない。何よりも命が助かったことで安寧の心地に浸っていたからである。あぁ、生きてるって素晴らしいなぁ。

「しかしまあ、この事務所に秘密と呼べるモノが存在するのも事実ですが」

 ようやく立ち上がった俺は、その言葉を聞いて言った。

「さっきの、世界の中心に近いってやつですか?」

「そうですね」

「それって、どういう意味なんですか?」

「言語では非常に説明しがたいですね。言っても信用していただけないでしょうから、百聞は一見に如かずという言葉をご存知ですよね? まさにそれですよ。説明はあちらに行ってからしたいと思います」

「あちら?」

 一体どこを指してそんな代名詞を使用しているのかと、訊こうとしたところで棺木さんは行動に出ていた。

 右目を隠す前髪の下に手を入れて、

「準備はいいですね? それではいきますよ。私のー―」

 話の途中で俺は振り返った。扉が開く音がしたからである。掃除当番で遅れて登場してきたヒラギがそこにいた。



 ◇



 教室で見たラストシーンを思い出す。不機嫌面で掃除用具入れにむかい、眼のかたきにするかのようにその扉を勢いよく開いたヒラギは、中から箒を取り出して掃除を開始した。対応したのは俺ではない。緩やかな動作で前髪の下に入った右手でぱさりと髪を払い、棺木さんが挨拶した。

「やあ、天羽さん。ご機嫌いかがですか?」

 俺適主観で見れば、確実に上機嫌ではないのがヒラギの今の表情である。てか、むしろこれを見て機嫌がよさそうだと思うやつは、今すぐに目の手術をした方がいい。それか脳のどちらか。

 ヒラギはそのときすぐに返事はせず、俺のものとなっている雑用机の隣に位置する自分の席、営業プレートが貼り付けられた机に鞄を放り出してから言った。

「別に」

 小娘の失礼極まりない返事にも、棺木さんは機嫌を悪くする事はなかった。微笑したまま社長席の椅子を引いて腰を下ろす。ヒラギはヒラギで、同じように椅子を引きどっかりと腰を下ろしていた。立っているのは今俺だけである。

「どうかしましたか? 体調でも悪いんじゃないでしょうか、天羽さん?」

 そう思うならそっとしておいてやればいいのに。お節介とも取れる心配をする棺木さんは、続いて俺にスマイルを向けた。そんな笑いかけられても、俺はどうしていいか解らないだけだ。

 ヒラギは椅子に座ると何をやりだすのかと観察する俺の視線に気づくことなく、朝のホームルーム前同様に腕の中に顔を埋めてしまった。どうしたのだろう。今日のヒラギは。そもそも俺にヒラギを語る事は出来やしないが、今日のこいつが変であることくらいは簡単に理解で来てしまう。悪いものでも食べたのだろうか。

 俺も心配してやるべきなのだろうか。ヒラギを眺めながらそう思う。

「なによ?」

 心配してやっている俺の視線に気が付いたのだろうか、ヒラギは白皙の顔をこちらに向けてそう言った。なにと言われても、ここは本当のことを言ってやるべきなのだろうか。調子悪そうだな、病気か、今日はもう帰った方がいいんじゃないか?……言えねえ。てか言う気にならない。俺はいつからそんな過保護キャラクターになってしまったんだよ。

「何でもねえよ」

「何でもないなら話しかけないでよ。いちいち応対してあげるのも、それなりに疲れるんだからね」

 俺は話しかけてなどいないのではないだろうか。

 言ってヒラギはまた授業中の居眠り中みたいな姿勢に戻った。

 ふと俺は昼休みの事を思い出していたのだが、あの時何かヒラギが喜びそうな回答をくれてやっていれば、こいつは今こんな状態ではなかったのだろうか、とか考えてアホらしくなる。何故俺が悩まねばならん。俺は何も悪くはないはずさ。

 昏睡状態のヒラギから視線をスクロールして、今度は社長席に座る黒スーツの男を見据えた。

 この時俺は、さっきのあれは冗談だったよな。みたいな事を考えてついでに、さっきの話の続きをどうしてしないんだとも無言で語りかけたつもりだったのだが、その無言のメッセージはうまく伝わったのか、棺木さんは両手を天秤みたいにして肩を竦めるのだった。そんな動作など望んでいない。

 思い出したように鞄に手を伸ばした。先日諦めた数学の宿題に取り掛かろうと思ったからである。ヒラギもどうやら努力というものを怠っていないらしいと知ったのは今日のこと。何となくそれだけでやる気が出るのだから、俺もけっこう単純な男だな。

「お腹減った!」

 それは突然の叫びであった。この室内唯一の女の声。ヒラギがそれを発したことで間違いない。眠っているのかと思っていたら、いきなりどうしたんだ。いや、どうしたのかは解っているのだが。

 腹が減ったと叫んだヒラギは、ドライアイスみたいな冷たい眼で俺を見据えていた。

 何のつもりだよ。

「そうですねー、確かにこの時間帯は飢える時間帯ですね」

 付け加えるかのように発言し、棺木さんもまた俺を見据える。さらに、

「この事務所の前にコンビニがあります」

 確かにあったな。とか思っていると、

「よろしくお願いします」

 千円札とメモをつまんだ指を俺に向けてきた。これは俺にパシられてくれってことなのだろうか。

「天羽さんはどうしますか?」

 ヒラギにリクエストを募る。立ち上がったヒラギが社長席に歩いていき、メモと千円札を受け取り自分の席に戻ってくる。俺に掌を差し出した。何だそれは? 俺は手を上に乗せてやるべきなのかな。

「バカ。シャーペン貸してって事よ。それぐらい解ってよね」

「俺にはお前の思考を読めるなんて特技は無い。だいたい、何故俺が買物に行かねばならないんだよ」

 ヒラギは俺の机の上に転がっているシャーペンを奪い去った。

「あんたは雑用係でしょっ!」

 書き終えて、リレーのバトンのように千円札とメモ用紙が俺に回ってきた。



 ◇



 結局その後、俺の必死な講義の末にじゃんけんにまで持ち込むことに成功したのだが、じゃんけんを司る勝利の女神は俺に微笑みかける事はなく、むしろ睨みつけているようで、たった一度の勝負で勝敗が決せられてしまった。結果、今の俺のポケットには千円札とメモ用紙が入っている。血液型占い最下位とはよく言ったものだと思う。

 事務所を出てすぐ目の前にコンビニがある。今思えばここからなら駅も近い。見事な立地条件だ。

 時刻は空が夕焼けに染まる時間帯。カラスが鳴く頃である。

 暗澹として俺はコンビニに入店し、そこで顔見知りと遭遇するのだった。

 入ってすぐの所に雑誌コーナーが存在する。そこで週刊誌を立ち読みしている堤を俺は発見した。声を掛けるべきか考えていると、相手も俺に気がついたらしい、立ち読みしていた週刊誌を閉じてこちらにやってきた。

「よお、堤」と俺。

 堤も応対して俺の名を口走り、

「偶然だね、どうしたんだい?」

「ちょっとした買い物だよ。お前は、暇つぶしでもしてたのか?」

「そう見えたかい? まあその通りなんだけどね」

 話しながら俺はメモ用紙を取り出した。書かれている品々はほとんどがパンである。

 緑色のかごを手にした俺が移動を開始すると、堤も同じ方向に移動を始めた。

「この前の話のことだがな」

 と話の口火を切ったのは俺だった。堤は陳列したパンを眺めながら、

「この前の話とは、何の話をさして言っているんだ? 君とはそれなりに長い時間会話をしているからね」

 俺はメモに書かれているパンを手に取った。あんぱん。

「俺が天羽の事を理解しているとかしてないとか、笑いがどうとかってやつだよ」

 続いてメロンパンを手に取り、かごに入れる。

 堤は思い出したように小さな声を漏らした。

「その話かい? ああ、確かにそんな話もしたね。それがどうかしたのか?」

「正直、お前が思っているほど、俺はあいつの事を理解なんてしていないぜ」

 今日の昼休みだって、と続けようとしたか止めた。言っていてまた、自分の言いたいことが何だか解らなくなる気がしたからだ。

「そうかい。君がそういうのならそうかもしれないね。その場合は、僕が考えるもう一つの理論が適応されるのかもしれない」

 ジャムパンを放り込んで俺はパン選びを中断した。

「もう一つの理論?」

「相手のことを理解しているのではなく、君自身が天羽と同じ種類の人間だということだよ」

「どういうことだ?」

「簡単な言葉に置き換えると、つまり君たちは似た者同士だって事さ」

 買い物を再開する。似た者同士か。そういえば二階堂にも言われたことである。そうなのだろうか。俺とヒラギは似ているのか。 

 記された品を全て買い終えた俺は堤とともにコンビニを後にした。

 菓子パンばかりが詰め込まれたビニール袋を片手に提げて、堤に別れを告げた俺はその姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、ようやく後姿が視界から消えて事務所に戻った。



 ◇



「お疲れ様です」

 皮肉に聞こえる棺木さんの言葉が俺を迎えた。俺がいない間に二人が何をしていたのかは不明であり、少しだけだが気になるのも事実である。

「お釣りは取っておいていいですよ」

 菓子パンが大量に詰まったビニールの袋を手渡す際にそう言われたが、お釣りなどない。それどころか受け取った千円札では足りなかったので、俺の財布から百円玉を何枚か出してやったくらいである。その事を棺木さんに伝えると、

「それはそれは、失礼いたしました。幾らほど出して頂いたのでしょうか? すぐにお返ししますよ」

「いえ、いいですよ別に」

 俺も数百円でぐちぐち言うつもりはない。しかしここはくれると言っているのだから、貰っておくべきなのだろうかとか考えていると、棺木さんは机の上に置いた袋の中から唯一の普通のパン――菓子パンじゃないやつの事だ――を取り出して俺に袋を返却した。つまり、棺木さんが買ってこいと言ったのはそれ一つであり、残りの大量な菓子パンは全てヒラギの注文なのであるから、俺は埋め合わせを貰う気にはなれなかった。

 袋を持って自分の席に戻ると、ここでも隣の席に座っているヒラギが俺から袋をひったくった。なんて野郎だ。俺が自腹を切ってまで買出しに行ってきてやったというのに、お前はありがとうの一言もないのか。

「雑用係が雑用しただけでしょ。お礼なんて言う必要ないわよ」

 ずいぶん勝手なことを言い出す野郎だ。では逆に訊きたい、お前は営業として何をしているのか。

 溢れ出しそうな文句を飲み込んで椅子を引き出すと、腰を下ろそうとしたところでヒラギがさらに注文。

「お茶淹れてよ」

「自分で淹れろよ」

「あんたは雑用係でしょ」

 くだらん喧嘩をしている気にもなれないので、しぶしぶお茶を淹れるために椅子を引き、湯飲みを用意しに向かった。

「どうぞ」

 と、またいつの間にか背後に忍び寄っていた棺木さんが俺にお茶入りの湯飲みを差し出した。湯気が立っていると言う事は、ついさっき淹れたばかりという事なのだろう。

 礼を言って湯飲みを受け取り、それをヒラギの机に置いてやる。菓子パンにお茶ってのも変だなとか思いつつ、そういえば自分の物は何一つ買っていないことに気が付いた。

 ヒラギはずるずる熱いお茶を啜っている。音を立てるなよ行儀が悪い。

 さっきやりかけた宿題を再開しよう。俺は今度こそ椅子に座った。



 ◇



 それからどれくらいの時間が経っただろうか。珍しく集中して勉強していたので、時間が経つのを忘れていた。数学ってのも頑張れば意外と出来るもので、一問解くのに長々と時間を掛けはしたが、それでも俺のノートにはびっしりと問題と回答が記入されていた。それが正しい答えかはさておき、これで宿題終了。とはいえ、最後の問題だけは諦めたんだけどな。達成感が押し寄せてくる。いいね、この感じは。

「そういえば、あんた反省文は書いたの?」

 伸びをする俺にヒラギがそう言った。……反、省、文。

「あっ、いや、何だそれは?」

「まだ出来てないの?」

 俺が買ってきたパンにかぶりつきながら、ヒラギは宿題忘れをごまかそうとする生徒に教師が向ける目で睨みつけてくる。俺が書いた反省文(未完成)は現在この部屋のゴミ箱の中でくしゃくしゃに丸まって眠っている。そしてそれを執行したのはこの場にいる三人、俺、ヒラギ、そして棺木さんだ。

「ふふん」

 不敵な笑みを浮かべて、ヒラギは鼻を鳴らした。

「いい度胸ね、反省文ができてないのなら、罰ゲームを用意するまでよ。何がいい?」

「いや、それはだな、えーと……おおそうだ! 昨日でた数学の宿題、教えてくれないか? 最後のところがどうしても出来なくてな。頼む」

 話をすりかえようと必死に頼み俺の安っぽい笑顔を睨みつけるヒラギは、案外素直に俺の頼みを聞き入れた。

 閉じられたノートを引きずり自分の正面に持っていくと、さっきまで俺が悪戦苦闘を繰り広げていたページを開いた。一応問題は写してある。ヒラギは俺を横目に見て溜息を吐いた。また嫌味を言われるのかと思っていた俺の予想は外れて、不機嫌面のヒラギは解説を開始したのだった。何かがおかしい、とは思ったものの、これはこれで普通の日常であると俺は思う。当たり前といえば当たり前の――さっきの棺木さんの芝居は無しにして――そんな何にもない普通の日常がここにあって、いつまでもそれが続くものだと思っていた。

 だから、俺は翌日からあのような体験をするなんて、思いもしなかったし、考えもしていなかった。

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