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世界の色、ヒラギのイロ 作者:双色
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第四章:人の色

 朝だった。これでもかってくらいの普通な朝。俺は頭の上でやかましく怒鳴り散らす目覚まし時計に拳の槌を振り下ろして、強烈な打撃攻撃を喰らわし黙らせる。再び布団を深く被り、枕に頭を埋める。遅刻の心配ならご心配なく。俺は起床する前に三十分くらいの睡眠を取らねばベッドから這い出ることの出来ない人間であるがため、自室の目覚まし時計は常に三十分早い設定にしてある。故に、目覚ましがその声を発して俺を覚醒させてから、もう一度眠ることが可能なのである。そしてそれは既に中学時代からの俺の習慣であり、朝の初めの既定行動
事項となっている。
 そう、普通の朝。当然のように二度寝を決行し、うるさい妹が部屋に入ってきて俺を叩き起こすまではこうしてベッドの上に横たわっていられる、そんな当然の朝。なのだが、どうにも今日の俺の生活歯車はおかしくなっているようで、まず最初の異常事態が俺に到来した。
 目覚ましに怒りの拳をぶつけて黙り込ませてから、俺がもう一度睡眠に堕ちるまでは普段なら約一分くらいである。俺の意識がまだ現世に留まっている今現在は、つまりさっきの出来事から時間が一分も経過していないことを表している。
 だがしかし、俺の身体を覆う布団が突如奪い去られ、バサッという物音を俺は聞いた。
 続いて部屋のカーテンが開かれ、朝日が差し込んでくる。何だ、何だ? 
 閉じきっていた目を少しずつ開き、一連の動作を行っている人物を確認した。
「ほらっ、朝だよおにーちゃん。さっさと起きなさいよ」
 それが今日初めに聞いた女の声である。姿形は妹である。俺が昨年度まで着ていた中学の制服、その女子生徒バージョンを着用し、鞄を片手に持った妹がだらしない寝起きの俺を見下ろしていた。
「…………」
 さっき殴った目覚まし時計に手を伸ばし、時刻を確認してみる。秒針はせわしなくチクタク動いていて、短針も長針もアラーム設定時刻よりほとんど動いていない。
 俺は視線を時計から我が妹に変更した。変更してから、寝起き独特の無気力な声で言った。
「いつもより早いじゃないか……。俺はぎりぎりまで寝てたいのだが……」
「何言ってんのよ。あたしに起こしてって頼んだのはお兄ちゃんでしょ」
「そうだ……。寸文の狂いもなくそうであるが、俺はこんな時間に起こしてくれなどと頼んでいないぜ……。予定の時間まで……ほら、まだ三十分くらいあるだろ」
「今日はあたしも早めに家を出ないといけないの。だから、いつもの時間にお兄ちゃんを起こしてたら家出る予定の時間に間に合わないの。起こしてもなかなか起きないんだからさ」
 確かにそうである。俺は妹が起こしに来てから、さらに十分ほどの睡眠を取り、その後遅刻寸前で教室に入れるように家を出発するのである。俺の出身校であり現在の妹が通っている中学と、俺が現在通っている高校とでは距離的に中学の方が遠く、さらに自転車通学も禁止となっている。なので近い上に自転車で通学できる俺よりも妹は早く家を出る必要があり、俺よりも起床が早いのは道理である。その事を利用して、今年度から中学一年生になる妹に朝の仕事を授けたのは、我ながらグッドアイディアだと思っていたのだが。
「たまには早めに家出なよ。登校時間だって内申に関わるんだよ。大学、行きたくないの?」
「大学ねえ……。俺は義務教育を終えてからも勉強する気はないぜ」
 高校が義務教育でないとか、そんなツッコミは勘弁してくれ。ちなみに俺としては一応大学に進学したいと思っている。しかし妹の言った登校時間が内申にかかわるというのは、おそらく俺を起こすためにでっち上げた嘘話だと考えられるために聞き流していいだろう。遅刻さえしなければ問題は無い筈だ。
 そんなわけで、俺は妹から奪われた布団を取り返してから無視するようにそっぽを向いた。二度寝、決行。
「あっ、そ。じゃあいいよ。あたしもう行くからさ。自分でちゃんと起きなよ。おにーちゃん」
 眠りに落ちる前に聞いた妹の言葉から、どうせ自分じゃ起きれないでしょ、みたいな感情を感じ取りながらもその事に反論する気力は既になく、俺は夢の世界へと旅立った。

 …………

 朝だった。これでもかってくらいの普通な朝。俺の頭上ではやかましく怒鳴り散らす目覚まし時計が――無かった。
 あれ? おかしいぞ。俺が眼を覚ましたと言う事はつまり目覚ましのアラームが鼓膜を揺らしたということであるはず、そしてこれからもう一度睡眠を開始して、三十分後に妹が起こしにくるのを……。
 そこでようやく気が付いた。目覚まし時計は午前八時を俺に伝えていた。そこで思い出す。そう、俺は一度目を覚ましている。妹が俺を起こしたのを覚えている。
 もう一度時計を見て、示されている時刻を確認するかのように呟く。呟いてやっと身体が動き始めた。
 ベッドから飛び降り、勢いよく部屋を出て一階のダイニングへ向かう。バタバタ慌しく階段を下りていくと、玄関で靴を履いている妹を発見した。
「あれ? なんだ自分で起きれたんだ。やるね、おにーちゃん」
 靴紐を結び終え、立ち上がった妹はロングヘヤーをポニーテールにしていた。無駄に似合っているが、別に妙な気分を催したりはしない。俺だって、妹を異性と考えてしまうほど、頭のアブナイ男子高校生ではないさ。
 どうでもいい事を自分に言い聞かせて、寝巻き姿のままで俺は制服を着込んだ妹に言った。
「どうして起こさなかったんだ! お前、俺が大学にいけなかったらどうするんだよ」
 登校時間は内申にかかわるのだろうかと思いつつ、もしも内申にかかわってしまうのであれば成績の悪さと登校時間のダブルパンチを喰らってしまうということになり、それはたいへん御免被る。
 ドアノブに手を掛けた妹が、肩越しに哀れな兄を見ながら、
「知らないわよ。それにあたしはちゃんと起こしてあげたからね。まっ、せいぜい遅刻しないように頑張りなよ。おにーちゃん」
 妹の「おにーちゃん」という言葉が、嫌味の定型句となっていた。
 その後も俺は思いつくままに文句を妹に浴びせたが、その度に「はいはい」とかで済まされ、終いには「行ってきまーす」と言い残して、我が妹は家を出て行った。
 俺はドアに向かって二、三罵声を浴びせてから、こうしている場合ではないことを思い出し、すぐさま朝食を済ませにダイニングに向かい、用意されていたコンビニのパンを食べ終え、忘れていた着替えを行うべくして自室にダッシュで戻り、途中で階段につまずき体制を崩して、部屋に到達し着替え終えて玄関にやってきて靴を履き、そこで今度は鞄を忘れたことを思い出し、靴の紐を解いてまた自室に戻り……ようやく家を出た。
 俺の生活リズムを狂わせた最初の非日常。非日常といっても、日常とは違う出来事というだけである。そしてこれがかなりちっぽけな出来事であると、俺が気づくまでにはまだ少し時間が掛かった。そう、放課後までは気づくことはなく、普通の時間が流れていた。いいや、そう感じていた。


 ◇


 結局のところ、朝から慌しく行動したせいもあり俺が家を出たのはいつもよりも少しばかり早かった。
 いつもの時間までテレビの報道番組を見ておきたいと思ったが、たまには早く行けとオフクロに言われてだらだらと家を出てきたのだ。
 自然と早足を強いられるいつもの朝とは違い、今日の足取りには余裕があった。遅刻するはずが無いと確信していたからである。
 自転車で学校に向かうのは本当に遅刻の危険性がある時のみで、普段は徒歩で登校している。ペダルを漕ぐ作業がやたらと億劫に感じるのは、はたして俺だけなのだろうか。 
 そろそろ五月である。気温も順調に上がってきて、ゆっくり歩いているだけで汗が滲んでくる。
「暑いな」
 と一人呟き、そんな事を言っても身体の周りの気温がほんの僅かゼロコンマ何度さえ下がらないとは解っていた。解っていながら呟き、暑さを自覚してしまったことで、気温が三度くらい上がったように感じた。
 この場所は今の時間帯に人通りがかなり多くなることを俺は知っていた。中学時代、成績不振に陥っていた俺はせめて無遅刻無欠席くらいはしておかねば、将来が危ういと考え、今とは違い寝起きの身体に鞭を打つ思いで登校時間の十分くらい前には教室に入れるようにと努力していたからである。
 滲み出てくる汗をひたすら鬱陶しく思いながら歩いていると、視線の先に見慣れた男の姿を発見した。
 たまには一緒に歩いてやるのもいいかと思った俺は――しかしアホみたいに暑い中で走るのは気が引けるので――少しだけ早歩きしてそいつに追いついた。
 肩を叩いて声を掛けると、相手もやはり額に汗を滲ませていた。どうにもいつもと雰囲気が違うと思ったら、普段はバッチリとセットしているカッコつけた髪が、今日は自然のままで垂れ下がっている。
「よお浜中」
 早足を少し加速して浜中の隣に並び、そこでようやく歩行速度を元に戻した。
 浜中は俺の存在を確かめるように、足元から頭のてっぺんまで視線を巡らせ、世にも珍しい自然現象を目撃したように俺の名前を疑問形にしての発言。
「見ての通り。俺だ」
「珍しいな、お前いつもはぎりぎりに教室は入ってくるだろ。もしかして雪でも降るんじゃないか? 天変地異だ」
「この暑いのに、雪なんて降るかよ」
 驚きをいつまでもマヌケ面に貼り付けた浜中に、何もそんなに驚くことでもないだろうと思いながら俺が言った。
「俺が早めに登校するのがそんなに珍しいのか? 俺だっていつでも遅刻ぎりぎりのラインの登校時間を好き好んで選んでいるんじゃないんだよ。たまには早く家を出たりもするさ。……ほら、一度お前と出くわした事もあっただろ。忘れたか?」
「そうだったな。しっかしまあ、珍しいな。いやあ、本当に珍しい」
 アホみたいな顔をして、浜中は何度も珍しいと発言した。何かシャクに障るな。
 俺はそんな浜中に弱弱しいストレートを肩に喰らわしてやり黙らせる。朝から無駄な体力を使った気分になりながら、流れてきたいまいましい汗をブレザーの裾で拭った。
 そろそろ橋に到達する頃になっていた。浜中何事かペラペラ喋っているが、聞いていると暑さが倍増し、さらにそこにプラス苛立ちさえ発生してしまいそうなので、たいした反応もせず、適当な相槌を打ちながら俺はそれを聞き流していた。よく喋る奴だ。
 一方的に喋り続けられるのも嫌になってきたので、相槌に使用する言葉が徐々にボキャブラリーから見当たらなくなってきた今、今度は俺から話題を提供する。
「ところで浜中よ、お前今日はその頭どうした。いつもはもっといろいろやってるだろ」
「この暑いのに、髪なんてセットしてられるかよ。せっかくキメても、学校につく頃には崩れてるだろうしな。だから家からしないで学校に行ってからしようと思ってるんだよ。かく言うお前は、毎日毎日髪なんてイジッてねえみたいだが。少しは弄ろうとか思わないのか?」
「別に無いな。そんな気は」
 さらにこの後、浜中の長ったらしいヘアースタイル話が始まって、俺がまたそれを聞き流しながら歩いていると、橋の中間地点くらいで前方に見慣れた姿を見つけて声を出す。隣には浜中もいるし、さっきのように早歩きで追いつくにはズボンの中に発生し始めた汗がそれをさせる気を奪い去っていたので憚った。
「堤!」
 やや遠くで歩いている堤の名前を呼ぶと、振り返ったこの男はいつも通りハンサムな眼鏡面で俺たちの姿を確認し、浜中と俺の姿を見てそれぞれに異なった反応をしてから、鞄を持っていない方の手を上げて挨拶してきた。立ち止まって俺たちを待っている堤に追いつくや、予想済みだった言葉を掛けられる。
「珍しいね、君がこの時間帯に登校しているなんて」
「雪なら降らないぞ」
「当然だろ。この気温では雪なんて降らない。小学生でもそれくらいは解るさ」
 堤はバカを見る眼でそう言った。俺だってそんな事は解っている。ものの例えということを、この男は理解できないのだろうか? 
 続いて堤は、俺の隣を歩くだらしないマヌケ面に話しかける。
「やあ浜中、君もどうしたんだい? いつもならもっと、髪型に気を遣っているのに。今日は随分と……そうだな、おとなしい感じだね」
「まあな。暑いし、家からイジって来ても無駄だと思ったからな」
「違いないね」
 たわいも無い会話をしながら、俺たちは学び屋を目指した。
 ところで、皆さんは四季についてどう思っているだろうか? 一年、月にすると十二ヶ月、日数にすると三百六十五日間、時間にすると八千七百六十時間、分単位に換算すると……って、これはやり過ぎだな。つまりそれくらいの間を循環しているもの、それを人は季節と呼んでいる。春、夏、秋、冬の四つで四季。実に単純である。
 モンスーンが吹く方向が違うせいで季節というものが存在するらしいが、俺としては一年間通して常に春でいいと考える。「春夏秋冬」ではなく、「春」だけでいい。わざわざ暑かったり、寒かったりする必要があるのだろうか? その辺の自然の設備については、俺は詳しく知らないので偉そうな事はいえないが、一年間通して気温が安定していても、我々の生活に悪影響が無いのなら、是非とも年間の気温を安定させて欲しい。
 閑話休題。
 モノローグの間もほとんど脚が進んでいない。暑さ故にいつもより足取りが重いからである。そんな俺たちを見下ろす太陽は、そんな事知ったことかと言わんばかりに元気ハツラツだった。俺はその暑さに汗を拭いながら、浜中はゴールデンウィークの自慢話第八弾――先週までに七回聞かされたので、今回のは第八弾とする――を太陽並みに元気よく堤に聞かせ、堤はそれを聞き流しながら、すれ違いざまにキャッキャ言って自分を見ている女子中学生(俺の出身中学の)に笑顔で小さく手を振ってやったりしていた。
 橋を渡り終えて、そこからさらに少し歩き、ようやく見えてきた校舎はやや長めの坂の上にある。いつもは気にならない程度の坂道だが、今日ばかりは気になってしまう。暑いから。単純な理由で。その途中で汗をダラダラ流しながら走っていく陸上部の連中とすれ違ったりした。この暑いのに、ご苦労さんとしか言いようが無い。よくやるよ。
 そうこうして、やっとこさ俺たち三人は高校に到達した。


 ◇


 教室に向かう途中、俺は堤に自分が日直であったことを忠告され、一人日誌を取りに職員室へ向かっていた。俺のクラスでは高橋担任の方針で日直は出席番号順ではなく、列ごとに先頭に座っている人間がじゃんけんなり何なりして、負けた列順に日直を行うことになっている。
 日直といっても特にする事は無いらしい。適当に日誌を付けて、授業終了後とに黒板を消してさえいればいいらしいからな。ところで、日誌とはどういう事を書けばいいのだろうか。
 日誌について考えるのを俺が放棄したのは、まあ適当に堤に意見を伺えばいいかと思ったからである。
 上履きで廊下を踏みしめながら、首を上に傾け均等な距離に設置された時計で時刻を確認すると、何といつもより十五分も早く学校に到着していた事に気が付いた。登校中の歩幅は、それほど大きなものではなかった気がして不思議に思う。もしかするといつもの癖で自然と早足になっていたのかもしれない、で最終的には考えをまとめた。
 日誌は職員室の前に置いてある机の上に並べられていた。場所が近いだけにこの高校も俺が通っていた中学と似たような感じだ。違うのは並んでいる日誌の数で、中学のときよりも数が多い。ただそれだけ。
 一年六組日直日誌と書かれた日誌を手に取り、俺は自分の教室を目指して歩き始めた。
 半開きの職員室前部の扉の横を通るとき、漏れ出てきたエアコンの涼しい風が足止めを喰らわせるように思える。この公立高校には教室に空調管理機器が設備されていないのだ。無意識に歩幅が小さくなっていたのかもしれない。後ろからやってきた人物が俺の背中にぶつかった。
 小さな声を上げたその生徒が床に倒れそうになるのを振り返った俺がすんでのところで肩を掴んで助けてやった。
「あっ、ありがとうございますっ」
 感謝の言葉を告げたのは琥珀色の瞳で俺を見上げる二階堂瑠架。
 二階堂の軽い身体を引っ張って立たせてやり、何故こんな所に彼女が居るのかを尋ねる。
「二階堂、何でお前がこんな所に居るんだ? 俺たちの教室って、中央階段からの方がちょっと遠いだろ?」
 質問する俺に、鞄を持った両手を身体の前で静止させている二階堂が何度か瞬きしてから答えを返信した。
「わたし、今日日直なんです。それで日誌を取りにきました。あれっ? どうしてあなたが日誌を持ってるんですか?」
「日直って……今日の日直、俺じゃなかったっけ? お前確か、先週やってただろ?」
 俺はチャイムが鳴ごとにパタパタ黒板に向かっていくに街道の姿を思い出していた。うむ。確かにこいつは日直をやっていた。先週の金曜のホームルームで、高橋担任が次を日直が俺であることを宣言したのを憶えているしな。
「そうでしたっけ? あれれ? えっ、じゃあ今日の日直はわたしじゃなくて、あれ? そういえば、どうしてあなたがこんな所に居るんですか?」
「とりあえず、俺が日直なんだよ、二階堂」
 二階堂を混乱状態から救い出し、俺は中央階段へと歩を進めた。少し遅れて二階堂も追いかけてくる。さささっと俺の前に回りこんだ二階堂はすっかり慣れてしまった動作でペコリ、頭を下げて言った。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「いや、いいよ別に。てか、そんな事でいちいち頭下げなくていいと思うぞ」
「そっ、そうですか?」
 顔だけを上げて、まだ腰を曲げたままの体勢で俺を見上げる二階堂に言ってやった。
「そうなんです」
 ようやく二階堂の身体が直線になり、俺も歩行を再開した。その間、職員室から流れ出るエアコンの冷気が非常に心地よかったことにかんしては、立ち止まる切欠を作ってくれた二階堂に感謝すべきなのだろう。 
 階段を上っているうちにさっきの涼しさは完全にどこかへ消え去っていた。暑い。それが今日初めて肌で感じる感覚。俺は職員室にのみエアコンが設置されているこの高校の現実を恨み、どうしてこんな高校を選んでしまったのか自分に訊いた。そして自分で答える。知らん。そもそも俺は高校選びなどしていないのである。自問自答しているのをバカらしく感じていると、やけに長く感じる階段に終わりが来て、俺は二階堂を伴って教室に入った。
 席にやってきて、隣席の住人がまだ登校してきていないことを確認しつつ、鞄を机に引っ掛け、日誌を開いた。適当に本屋で雑誌を立ち読みするような気分でページを捲り、これまでに日直をこなしてきた奴らがどんな事を書いているのかを見てみるが、なるほど、みんな適当な事ばっかり書いていた。二階堂を除いては。
 そうしている間に誰が閉めたのか解らない教室前の扉が横にスライドされ、そこを溜まり場にしていた数人の女子が驚きの声を上げた。
 五人くらいの女子で形成されるその団体のど真ん中を突っ切り、まっすぐに目的地へと向かうのは、長い黒髪に漆黒の両眼。今日もまた整いまくった面の天羽ヒラギが、教室にやってきた。随分とこいつが登場するまでに時間が掛かったなと思いつつ、俺を見て意外そうに眼を見開いているヒラギを、俺は眺めていた。
 ヒラギが俺に掛けた第一声は、やはり浜中や堤と同じであった。
「何よあんた、あたしよりも早く教室に来てるなんて、珍しいわね? どうしたの、急に? ホームシックならぬスクールシックにでもなっちゃった?」
「バカなこと言うなよ。たまたま早く眼が覚めて、たまたま朝の行程が早く進んだんだよ」
 発言する俺。ヒラギの表情は怪訝なものであった。俺が早く学校に来ることがそんなに珍しいことなのだろうか。
「ふーん。ほんと、珍しいわね。もしかしたら今日は雪でも降るんじゃないの? いいえ、これは吹雪くかもね。積もったら、明日は雪合戦でもしましょうよ」
「こんなアホみたいに暑い時期に雪なんて降るかよ。まあ、相当天文学的な数字の上に一を置いた分数くらいの確立で雪が降って、さらにその分数を累乗した分数くらいの確立で積もったとしても、すぐ溶けるだろ。小学生でも解るぜ?」
 堤の言ったことをまねてみた。しかしヒラギはより一層怪訝な表情を強めて俺を見下ろし、鞄を机の上に放り出して睨むような視線で言った。
「ものの例えってのが、あんたには解らないの? よく言われるんじゃない? 空気読めないって」
 俺がさっき堤に対して考えていたことと同じ事を、今のヒラギも思ったらしい。そんなことより、今日は朝からどうした事だ、浜中も堤、それからヒラギも、俺が早くから登校することがそれほど未曾有な事なのか? 俺の姿を見て驚かなかったのは、思えば二階堂くらいかもしれない。いや、もしかしたら、二階堂の言った「そうでしたっけ? あれれ? えっ、じゃあ今日の日直はわたしじゃなくて、あれ? そういえば、どうしてあなたがこんな所に居るんですか?」中の「どうしてあなたが(以下略)」ってのは、もしかしてどうしてこんな時間に学校に来ているのかって意味だったのかもしれない。考えすぎか。
 ヒラギは椅子に腰を下ろすと、机に頬杖をつきながら俺に眼光を飛ばし始めた。そして発言する。
「暑いわ。先週までこんなに暑くなかったのに……。何これ? 誰かが温暖化の呪いでも地球にかけたのかしら? 異常だわ、異常気象よ」
「おおげさだ。よくそんな事を大真面目にいえるもんだ。お前の精神の方が異常じゃないか?」
「うるさいなぁ、もう。仰いでよ、少しくらい暑さがマシになるかもしれないし」
「バカなこと言うんじゃねえよ。なぜ俺がお前のために無駄なエネルギーを使ってやらねばならん。俺だって暑いのに、余計に暑くなるだろ」
「あんたは雑用係でしょ。社長の体調管理を出来るなんて、雑用としては最高の仕事じゃない」
 この女は雑用係と奴隷を同じものだと考えているんじゃないかと思いつつ、俺は下敷きを取り出して、自分を――重ねて言おう――自分を仰ぎながら反論した。
「ここは学校だ。しかも、一応俺はこの班の班長を務めている身だ」
 周囲六つくらいの席の奴らが集まって、一つの班が形成されている。当然ながら班なんて物があるのなら、その中の誰かが班長を勤めなくてはならないのは道理である。誰もやりたがらなかったし、班長ったってすることなんて特に無さそうだし、高校生にもなって班活動といえば調理実習くらいのもだろうと思った俺がそのポジションに就くことを進言し、現状がある。実際、班長なんてすることもないし、そんな肩書きがあっても、映画の学生料金が半額になることも無い、テストの成績が上がるわけでもない。つまりなんでも無いのである。
「だから何よ、関係ないわね」
 自己中心的なヒラギの発言を無視して、俺は自分のみを仰ぎ続けていた。
 始業の鐘が待ち遠しい。そう思う理由は隣でヒラギが俺を睨んでいるからである。チャイムが鳴ったからといって、刺すような視線から開放されるとは限らないが。
 とりあえず黙っておく。黙ってヒラギの破壊光線的な視線を横顔に受け止めておく。抵抗できない俺を笑わないでくれ。


 ◇


 午前中の授業の事は何も語る必要など無い話であろう。と言うよりも、語ることが出来ない事なのである。
 いつもより早めに起床したといえど、所詮は十分やそこら程度であるのだが、それは俺にとってけっこうな時間であったようで、一限目を珍しく集中しまくって受けていたことも原因になって、二限目には睡魔の野郎どもがケラケラ笑いながら俺の頭上を旋回し始めていた。まさしく小悪魔である。
 俺の精神防衛軍隊も睡魔の総攻撃に破られてしまい、一瞬で脳を支配した睡魔どもに導かれ、俺が安らかに眠りに就いたのは三限目の後半での話となる。実に一時間弱の激しい攻防の末、俺は睡魔に敗北を帰したのである。勝てない。奴らには勝てない。特に授業中とあれば、睡魔の勢力三割り増しだ。
 そんなわけで俺の目が覚めたのは四限目が終了してからのことになる。前の席だというのに、俺の睡眠授業態度に教師が気づかなかったのは奇跡と呼べるべきことではないだろうか。または気が付いても無視してくれたか。どちらでもいいが。
 朦朧としながら重い瞼を無理矢理開き、何故か妙に傷む頬を撫でながら黒板の上にある時計を視界に捕らえた俺は今が昼休みである事に気が付き、顔の下に引いていた三限目の用意を鞄の中にしまって、代わりに弁当を取り出した。
 ……取り出した? 
 言い直すべきであろう。取り出したつもりになった。
 まだ意識が完全に覚醒していないのか、それともこれはまだ夢の延長線なのか。
 鞄の中で手を何度も振り回し、その中にあるはずのあらねばならぬ物をまさぐった。が、しかし、あるのは忌まわしい教科書やノートばかり。そこに俺の捜し求める物が無い。
 何てこった。この時ばかりは自分を嘲笑する気にもなれなかった。アホみたいに慌てて家を出てきた結果、俺は無駄に早く教室に付くことが出来た。浜中や堤や二階堂(俺の考えでは)やヒラギに、珍奇な出来事だと言われ、蔑まれた代償がこれというのは、少し酷ではないか。 
 高校に入学してから、いいや中学に入ってから今まで一度も俺が忘れなかった物。弁当を忘れてしまった。
 やってしまったと、おおげさに絶望する俺はブレザーの内ポケットに手を突っ込んだ。指先で円形のそれをなぞる。ヒンヤリと冷たい感覚に安堵した。
 こんな事もあろうかと俺はブレザーの内ポケットには常に五百円を忍ばせている。備えあれば憂い無しとはよく言ったものであると思いつつ、弁当を持ちより近寄ってきた浜中と堤に俺の現状を告げ、机を貸しておいてやると言って席を立った。
 行き先を購買に定めて教室を出る。そういや、購買ってどこにあったかな。とりあえず、今の時間帯、廊下をうろうろしている奴らに流されていけば購買なり学食なり辿り着けるだろうと高を括って歩き始めた結果、案の定俺は何の障害も無く学食に到達することが出来た。
 初めて入る学食。席を取るのが難しいとは、噂に聞いていたがその通り、既に空席は探さなくては見つからないくらいで、俺が発見した空席もすぐに埋まっていった。こうしてはいられない。そう思ったが、なに別に学食でなくとも購買へいけばいいさと身体を翻し、学食を後にする。手持ちは五百円、席の奪い合いで無駄な体力を消費して余計に腹を空かすのは上手くない。
 さて、購買は学食の近くにあるそうだがどこにあるのか解らず、俺は未知の地であるこの向かい校舎を狼狽しながら迷子のように――ようにってか、まさしくそれだ――彷徨い、最終的にはトイレを掃除していたおばちゃんに道を尋ねて、やっとの思いで購買に到着することが出来た。
 人気メニューは全て売れてしまっていて、残っているのは購買特性とシールの張られた、色の悪い、まるで食欲をそそらないパンのみであった。こんな状況無ければ俺はこんなもの手を出したりはしなかっただろう。この時ばかりは本気でこれを喰ってしまったが故に妙な力に目覚めてしまったり、異世界に召喚されてしまうんじゃないかと思った。実際そんな事は無かったが。
 このいかにも不味そうなパン――びっしりと並べられていた事からも推測する――を購入した時、俺の手持ち残金は既に缶ジュース一本で尽きてしまうほどになっていた。暑いのに、人ごみの中を歩いてきた俺はこのパンをドリンク無しで食べるのは無理だと思い、惜しむ気持ちもあるが自販機でお茶を購入した。


 ◇


 教室に帰った俺を出迎えたのは慌てた様子の二階堂だった。ちなみに言っておくと、購買特製パンは美味くなかった。何故教室で喰わなかったかというと、たまには中庭の木の下で喰うのもいいかなと思ったこと――いや本当は少しだけそこにヒラギが居るんじゃないかと思ったからでもあるのは否定できないが――と、それから弁当を忘れて惨めに購買のパンに齧り付く俺を、堤はともかく浜中が罵らないとは考えがたいからである。腹が減っていたから、不味いとまでは感じなかったが、あのパンを飲み込んだ後には自販機で買った缶のお茶が異様に美味く感じたのは、どういう原理だろう。
 二階堂は教室には入った俺に駆け寄るとすぐに荒れた息を整えて言った。
「黒板消さないと日直、明日もしなきゃならなくなりますよっ」
 二階堂に言われて俺は黒板を眺める。そう言えば、三限目と四限目の休み時間は俺は寝ていたのだが、一体誰が黒板消しを請け負ってくれたのだろうか。もしかして、二階堂かもしれない。それを二階堂に尋ねてみると、
「へっ? いえ、わたし、してませんけど。えーっと、黒板を消してたのは、確か天羽さんだったと思います。三限目が終わってから、あなたの耳元で何か言って起こそうとしてたけど、結局それでも眠ったままだったから、最後にほっぺたを抓ってから、黒板を消してましたよ」
 二階堂によるとそうらしい。ヒラギが俺のために行動したとは、まことに信じ難い事であるが、この頬の痛みがそれを俺に信じさせてくれる。随分強く抓りやがったな。それで起きなかった俺も俺だが……。
 納得しながら俺はもう一度頬を撫で下ろしていた。痛い。確かに痛い。
 白やら黄色やらのチョークで汚された黒板に歩み寄った俺は、手近にあった黒板消しを手に取りダラダラと日直の仕事を開始した。なかなか消えやがらない。強く書き過ぎなんだよ、アホ教師。
 誰に文句を言うべきかは、四限目を睡眠授業で過ごしたがために解らない。解りたいとも思わないので、毒づくのを止めて沈黙したまま黒板消しに励む俺は、後ろから見守るような視線を感じて振り返った。そこには二階堂の姿がある。
 何だろうかと思う前に、二階堂は口を開くのだった。
「わたしも……わたしも消そうと思ったんですよ……!」
「…………?」
 何が? と言おうとして黙る。訊く前に二階堂が言い直したからだ。
「わたしも黒板消そうと思ったけど、天羽さんが先に消してたから」
 訴えるように、俺の眼を真摯に見つめる二階堂。
「そうかい、そいつはありがとな」
 感謝を捧げて振り返る。黒板消し、再開。
 やがて本来の黒い姿を取り戻した黒板の前を離れた俺は、続いて待ちわびるかのごとき視線を向けている浜中と堤のいる俺の席へと向かった。
 俺の席に勝手に――貸すと言ったのは机だけだ――座っていた浜中をどかして着席。堤はヒラギの椅子に座っている。
 この時は既にチャイムが鳴る寸前となっていて、その事に逸早く気が付いた俺は、談笑を続ける二人にその事を教えてやりそれぞれの席へと追い返した。
 堤が腰を下ろすと見計らったかのようにヒラギが入室してきて、加えてそこで五限目開始のチャイムが鳴り響く。その音が途絶えてから、教師が入ってくるまでの俺とヒラギの会話。
「よ、四限目の前はありがとな」
 一応感謝しておくことにした。頬を抓った事は忘れてやる。
 礼を言って当然とは、ヒラギは言わなかった。それどころか、礼を言われたことに不信感を持っているようにも見える。寝ていたはずの俺が、何故その事を知っているのかと驚いているんだと推測した俺が加えて発言。補足説明を付け加える。
「さっき二階堂から聞いたんだよ。薄目を開けてたわけじゃないぜ?」
「そうでしょうね。あんたが寝てること、あたしちゃんと確かめたもん」
 それがこの頬の痛みか。
「別にいいわよ。四限目は((どころの数学だし、あいつ、黒板消し忘れてたらいちいちうるさいしさ。聞いてムカつくのよね、あーいうの」
 ノートを取り出しつつ、そんな事をヒラギの表情が見れないのは少し残念な気分だ。
 俺も鞄を机の上に持ち上げて、次の授業の用意を取り出す。取り出しながら、何故かもう一度言う気になった感謝の言葉を素直に言い上げる。どうしてしまったんだろうね、本当に。
「そうかい。ともかく、ありがとな天羽」
「何度も言わなくていい! 別にあんたのためにしたんじゃないんだからね!」
 シャーペンの芯を出しながら、ヒラギはそう言った。


 ◇


 放課後になってもまだ、俺は気づいていなかった。
 今朝から一連して起きた未曾有なる出来事。俺が朝早くに登校したり、初めて弁当を忘れてしまったり、ヒラギが俺の代わりに黒板消しを請け負ったり。それらの非日常がこの後起こる出来事に関係しているかは解らない。解らないなりに推測しよう。この世にもし、神様なる全知全能な存在が居て、そいつが一連の出来事を俺の身に降りかからせていたのであれば、それは親切心からであると思いたい。朝からいろいろあったおかげで、第四の非日常が訪れても、今の俺はそれほど動揺したりしない。と、思う。しかしまあ、この時の俺はまだそんな事を知らず、暢気に日直日誌なんかを書いていたりする。
 放課後のショートホームルーム、いわゆる終礼というやつが始まり、二行程度しか書いていない日誌の報告事項を細々と読み上げ、後ろの席の奴に日誌を手渡す。高橋担任が雑談染みた話をして、これでホームルーム終了。これより俺たちは帰宅の途につくことが許可される。
 委員長が号令して全員が呪縛から解き放たれたように動き出すと、ヒラギは歩き出した俺の肩を掴んでこう言った。っと、その前に俺が先に発言していたのだった。
「離せよ。もうサボったりしねえって、だから今日は一人で歩かせろ」
「あたしは別に、あんたを捕まえてるわけじゃないわよ」
「じゃあ何なんだ?」
「今週は掃除当番に当たってるから、先に一人で行っといてって言おうと思ったのよ。あんたが勝手に勘違いして喋りだすから、言うまでに無駄な時間掛かったじゃない」
「そうかい、それは悪かったな」
 肩に乗っかっているヒラギの手を払って歩き出した俺に制止が掛かる。ヒラギの声で背後から。振り返ると硬い物が額に直撃し、思わず声を出してしまった。文句を付ける前にヒラギの発言。
「鍵も無しに行く気なの? つくづくバカね、あんたって。それとも何? ピッキングの腕に自信でもあるの?」
 痛む額をさすって、腰を曲げた俺は上靴の爪先の前に転がっている鍵を拾い上げ、ブレザーのポケットにしまった。言ってやろうと思った文句が思い出せないので、掃除当番であるヒラギを取り残して俺は教室を出た。前を歩く堤に追いつく。浜中は居なかった。
 適当な会話をしながら、俺たちは玄関ホールへと向かい、どうでもいい場所なのに何故かいつも綺麗なこの場所で、上履きを履き替え外に出る。


 ◇


 初めて事務所の鍵を自分で開けた俺は、誰も居ない事務所に一人で入って扉を閉めた。電気が点いていないと、薄暗くて気味が悪い。
 自分の為にお茶を淹れるべくして、俺はポットにお湯を沸かし始めた。少し時間が掛かるのは既に学習済みである。その間にする事は何かと考えて、数学に宿題が出ていたことを帰り道で堤に聞いたことを思い出した。律儀にもそれを生徒手帳にメモッておいたので、鞄から手帳を取り出して内容を確認。うわっ、こんなあるのかよ。
 嫌々ノートと教科書を鞄から取り出し、続いてペンケースも取り出す。シャーペンを引っ張り出して、いざ、教科書の問題と睨み合いを開始。
 開始五秒で俺の負けが決定した。さっぱり解らん。解らんので天井を見る。そしてまた教科書を見る。やはり解らん。解らんので天井を見る。そしてまた教科書を見る。やっぱり全然解らん。解らんので……
 素晴らしい名案を思いついたのは、それを二十セットほど繰り返してからである。俺が浪費した無駄な時間については語る気がしないので割愛させてもらう。というよりもどれだけの時間を無駄に流してしまったのかは俺にも解らない。殆どエンドレス状態、無限ループに入っていた。さてその名案とは、そうだな、明日の朝、今日みたく早めに登校し堤に答えを写させてもらうとしよう。
 数学をきっぱりあきらめて、ノート教科書を鞄にしまう。
 さて暇だ。お湯が沸くまではまだ少し時間が掛かる。
 することも無く、退屈の境地に立たされた俺は、首を左右にひねって適当に室内を見渡し、何か面白そうな物は無いかと探索したが何もなし。次に机の引き出しを開いた。
 原稿用紙が三枚、中央の横長引き出しから発見された。これは先週の金曜、ヒラギ社長に課せられた課題である。幾度の妨害により、まだ原稿用紙一枚分しか掛けていない。ヒラギは忘れていたようだが、掃除当番を終えてこの事務所に来たとき扉を開けて早速、満面の笑顔で俺に「反省文は?」とか言い出すんじゃないかと思い、考えすぎかもしれないが備えあれば憂いなしという言葉を痛感していた俺は、徐に原稿用紙たちを机の上に広げて、今の内にこれを完成させてしまおうと行動を開始した。
 結果言ってしまうと、それは不必要な行動であった。ヒラギにはその時、俺に反省文を書かせる権力を失っているからである。その時とはつまり、ヒラギが事務所に入ってきた時を表す。さらに言うと、ヒラギが開口一番に言った言葉は俺の予想していた言葉とはまったく違うものであり、さらにそれは俺に向けられた言葉ではなかった。そう言ってしまえば既に気づいているだろう。
 ヒラギが事務所に来たとき、この場に居たのは俺だけではない。
 それは突如として突然に、何の前触れも無く、まさしくいきなりやってきた。
 ガチャ。静寂の室内に響いた。扉を開く音である。
 ノックも無しにその人物は入ってきたので、俺はヒラギが入ってきたものだと思って、そちらに顔を向けようとしない。ようやくノッてきた筆の勢いを止める気にもなれず、執筆に集中する。
 その人物が室内に入ってくる気配が無い。扉の所で立ち尽くしているようだ。ついでに言うと、扉の閉まる音すらも無い。原稿用紙二枚目も書き終え、その勢いのままにラスト三枚目も書き終えてしまおうと原稿用紙に手を掛けたところで、俺はようやく気が付いた。何にかって? 
 事務所に入ってきた人物がヒラギでない事に。
 原因はその人物が声を出した事である。
「おやー? 天羽さんはお留守ですか?」
 それは俺が初めてこの事務所内で聞く、俺以外の男の声であった。
 あんた誰? と俺は疑問に思い、勢い動かしていた手をストップさせ、声のした方に視線を向けた。
 パキッと音がして、シャーペンの芯が折れる。どうでもいい事を言ってしまうと、それが俺の顎に直撃したりしていたりする。していたが、今の俺はそんな事にリアクションを取る冷静さを失い驚愕していた。
 入ってきた男をしっかりと視界に捕らえる。このアホみたいに暑い中、ブレザーなど脱いで肩に掛けたまま俺は外を歩いていたが、今目の前にいる男は暑さなど感じさせない涼しい微笑を表情に肯定し、真っ黒なスーツに赤いネクタイを締めていた。
 長い前髪が右目を覆い隠している。細く鋭い瞳が確認できるのは左目のみ。この男は堤とはまた違うハンサム面をしていた。高校生の堤よりも、幾分大人びた顔をしているだけ、デビューしたてのアイドルみたいな堤とは違う、風格のある面である。
 今にも内ポケットに手を突っ込んで中から拳銃を取り出しそうな雰囲気がある。黒スーツの男はイコール危ない人間であると、俺は勝手に思い込んでいたからである。
 男は誰に向けているわけでもない微笑を部屋中に振りまき、最後にゆっくりと俺の存在を確認した。その時、俺は本気でビビッた。理由は解らない。解らないので天井を……って、さっきみたいなエンドレスループを繰り返すつもりは無い。黒スーツ男は俺がここにいるのを不審に思う表情で右手を顎の下に置き、やはり微笑のままで俺に言った。
「失礼ですが、あなた誰ですか? 初めて見る顔っスねえー」
 それは俺が聞きたい。俺だってあんたの顔には見覚えなんてねえよ。
「ええとですね、あなたこそどちら様でしょうか?」
「私ですか? そうですねー、人に名を尋ねる前にまずは自分が名乗るのが礼儀っスね。いいでしょう。名乗ります。私の名は棺木(ひつぎ鏡介きょうすけ。棺桶の棺に、木曜日の木、鏡に介をくっつけて棺木鏡介です。以後、お見知りおきを」
 自己紹介を終了させた棺木鏡介なる、俺の見立てでは二十代前半の男は営業スマイルが張り付いたみたいな表情で俺を見つめていた。ちょっと気持ち悪いな。
 その行動が俺にも自己紹介せよと言っているようで、俺も座ったままそれをするのは礼儀に反すると思い、わざわざ椅子を立って自己紹介をした。
 名前を聞いて怪訝な顔になる棺木鏡介。
「おやあ? 聞き覚えがありますねえ。私は人の顔と名前は一度で完全に記憶することが出来るのですが……」
 どうでもいい自慢をしながら、ますます怪訝さの増した表情で、棺木鏡介は黙り込んでしまった。この期を逃すものかと、俺もこの際に質問してみることを決意。言葉を発する。
「あんたこそ誰なんだ? 俺はあんたの名前にも、顔にも見覚えが無いんですが」
 棺木鏡介という名前以外に、俺はこの黒スーツの怪しい男について何も知らない。相手は俺の名前に覚えがあるそうだが、俺の記憶には欠片ほども棺木鏡介なる存在は刻まれていない。
 訊いても答えない棺木鏡介に、俺がもう一度言った。
「あんた、何者――」
 と、そこで俺の言葉を遮るように、男が声を上げた。明朗快活とした明るい表情は、ようやく探していた答えが見つかったと言わんばかりである。
「思い出しましたー。あなたが新入りさんですねー。いやぁ申し訳ない。名前だけは聞いたことがありましたが、顔を見たことも、会話をしたこともないのですっかり忘れていましたよー」
 棺木鏡介は自分だけ引っかかりをすっきりさせて、さらに喋り続けた。
「そうですか、なるほど。それでは早速――」
 右目を覆う前髪の下にすっと手を差し入れて、そのまま髪を上げて右目を――、
 そこまで確認して、俺は棺木鏡介の姿を見失う。と、それと同時に強烈な目眩を催した。周りの世界が揺らいでいる感覚。俺の精神に震度七以上の地震が発生していた。後ろ向きに倒れそうになったところで何かが俺の身体を通り過ぎるかのような感覚で、その奇妙な感覚が抜けていく。ようやく落ち着いた俺は額に手を当てて、後ろに掛かり過ぎている体重を前に移動させた。息が荒れている。
 顔を上げるとさっきまで棺木鏡介の居た場所に誰も居ない。その姿を探そうとして、声が聞こえた。
「失敬。お邪魔しましたよ」
 後ろから聞こえて振り返る。いつもヒラギが座っている社長席の後ろ、ブラインドの掛かった窓の前に、黒スーツの赤ネクタイが立っていた。変わらぬ微笑が、妙な胸騒ぎを俺に強制する。
 何がお邪魔したのか意味が不明であったが、そんな質問をする気はまったく起きず、俺はただこの男が何者であるかを考えていた。この事務所を狙う、後ろ暗い組織の一員。そんな組織に狙われるほど、この事務所は大層な場所ではないの否定する。考えろ。この男はここに入ってきて、初めに何と言った? 
 おやー? 天羽さんはお留守ですか? 
 俺は棺木なる男の言葉をリピートした。天羽? ヒラギの事であることは理解できる。そして俺のことを知っていたと言う事は、少なからずこの事務所のことを知っている人物。と、なると? 
 俺は答えを導き出した。これしか考えられない。
 確信にも似た強い感情を覚える。俺の隣の席、まだ見ぬ営業の人物がこの男である可能性は低くない。
 意を決するようにして俺は言った。
「もしかして営業のひ――」
 今日はよく話を邪魔される日だと、その時つくづく思った。
 とですか? と続けようとした俺の言葉を強制ストップさせたのは、バンという誰かがドアを開いた音である。誰だ、また新キャラか? とは俺は思わなかった。音はさっき黒スーツが扉を開いた時よりも大きくて乱暴だった。勢いよく壁に打ち付けられた扉の悲痛な叫び。そう言ってしまおう。こんな乱暴な開け方をする人物に、俺は覚えがあった。この事務所の社長だと俺に自称した天羽ヒラギである。
 見てみれば、案の定そこにはヒラギがドアを開けたポーズで静止していた。
 その表情は吃驚していた。

「しゃっ、社長!?」

 そう叫んだのは、視線の先に棺木を捕まえた天羽ヒラギだった。


 ◇


 初めて見るそのヒラギの表情に、俺はアホみたいに口を開けっ放しにしていた。そして思う。今、何つったよ。こいつは。
 俺は硬直していてもしかたないので、愕然とした表情と邪気を感じさせない微笑で見詰め合う二人を交互に見て、どちらも発言しようとしていないことを確認してから、ヒラギに対して言った。
「おい天羽、お前今なんて言った?」
 しかしヒラギは俺の言葉など聞いていない。聞こえていない。驚きが俺の言葉を脳に届けようとする聴神経を邪魔しているのだろうか。
 俺に対してではなく、棺木なる人物にヒラギが言った。
「社長?……どうしてこんな所に居るんですか? 帰ってくるのはもう少し後だったんじゃ」
 ヒラギの敬語というものを、俺は初めて聞いた気がする。そんな事はどうでもいい。また言ったな、何だそれは? シャチョウ? なんかの暗号ですか? そうなんですか? 
「いやー、思ったよりも仕事が早く片付きましてね。帰ってくるのが今日になったんスよー。あれ? 昨日電話しませんでしたか?」 
 待て。
「知りませんよ、そんな事」
 待て待て。
「そうですかあ? そりゃあ失礼」
 後頭部に手を回して天井を仰ぐ。待て待て待て。
「びっくりしましたよ。ちゃんと言っといてくださいよねっ、そういう事は!」
 ヒラギの表情に怒気が見て取れた。待て待て待て待て。
「すいませんねー。まあ、お土産もあることですし、許してください」
 そう言って、社長席のスーツ姿が黒スーツの中から包み紙を取り出す。四次元ポケットか何かですか? そいつは。待て待て待て待て待て! 
「えっ? あっ、ありがとうございます」
 押され気味のヒラギというものを俺は初めて見た。ヒラギは社長席の後ろに立って、背後からの陽光を浴びているスーツ姿に近づき、その包みを受け取った。待て待て待て待て待て待て! 待てって、おい! 
「ちょっと待ってくれ! 話がさっぱり解らん! 俺を除け者にするなよ!」
 俺はようやく声を出した。ヒラギと棺木鏡介、二人の視線が俺に向く。
 とりあえず俺はまず初めに気になりすぎる事を詰問することにした。
「棺木……さんとやら、とりあえずあんたが何者なのかを教えてくれ、そうしないと俺の混乱が永遠と解消される事がなさそうだ」
 棺木鏡介は首を傾げたり表情を変化させたりせず、さっきまでの営業スマイル染みた微笑のままで言った。とぼけた口調である。真面目に話す気が無いのかもしれない。
「天羽さんの言った通り、この事務所で社長を勤めている者ですよ、雑用さん」
 続いて俺はヒラギに顔を向けた。って、ん? 待てよ、俺はこの人に自分が雑用ですと言ったか? いやまあどうでもいい。何やらと説明はつける事が出来るからな。
「天羽、お前が社長じゃなかったのか?」
「違うわよ。あたしは営業。社長が遠出の仕事に就いてたから、その間の社長代行をあたしがしてただけ」
 その時俺は妙にしっくりきていた。確かに、ヒラギのような一般的な一高校生が社長というより、目の前にいる棺木鏡介が社長であると言われた方が普通に、常識的に納得がいくがそれとは別に確かにヒラギの発言には、今から考えればおかしな部分がいくらかあった。初めて出会ったときの反応もそこに含む。営業は止めていないのかと訊ねたときの事も然り。
 俺が考えをまとめてようやく落ち着き始めたところで、期を見計らった棺木さんが言った。
「そういう事です。天羽さん、私がいない間の社長代行、お疲れ様でした」
 お疲れ様な事など何もしていない気がする。俺の主観では、むしろ俺にお疲れ様と言って欲しい。そんな気持ちを込めた視線を棺木の横面に向けていると、それに気づいたか俺の方に微笑を向けた棺木さんが口を開いた。安心させるような口調である。
「あなたの採用を決めたのは私ですよ。顔写真無しの書類だけ見て決めましたから、初見であなたの名前と顔が結びつきませんでしたけど」
 そんな事は訊いていないが。って、ちょっと待てよ。ヒラギが営業だということは、俺が幾度か感謝を捧げていたのは、働き者の営業社員ではなく、いつも何をしているか解らず社長席に座していたこの小娘ということになる。それで、これまでナマケモノだと思っていた社長が実は働き者で、その社長はヒラギではなくて……
 考えると混乱しそうなので、この辺りで考えるのを止めた。
 棺木はこれでいいかと微笑で語りかけるように首を傾げ、それを見る俺の無言を肯定の意思表示と受け取ったのであろう、満足げな表情でこの間まで我が物顔でヒラギが占拠していた社長席に腰を下ろした。
 ヒラギは受け取った土産を社長席の上に置いていたようで、棺木はそれを発見するとおもむろに包みを破き始めるのだった。それ、土産だよな。
 出てきたのはモナカで、棺木はヒラギにそれを勧めると続いて俺にも勧めてくる。ヒラギは喜んで受け取っていたが、俺はどうもこんな甘い物は好かないので緩やかに首を横に振った。
「遠慮深いですねー」
 遠慮ではないので気にしないでおく。棺木よりも早くモナカにパクついていたのはヒラギであった。半分くらいやかましく喰い進めたヒラギが、猛々しく感想を吠えた。
「美味しいわ! とっても!」
「それはそれは。お気に召して安心です」
 社長のくせに腰の低い男だなとか思いつつ、黙って和菓子を喰う二人を眺めているのもツマラナイので、暇を持て余した俺が訊いた。
「あの、社長?」
 モナカを口に含んだ状態で口をモゴモゴさせている棺木さんが、それを飲み込んでからお茶を探すように机の上で手を何度か左右に振り、そこにお茶が無いことを悟ってからようやく返事をする。
「私の事でしたら、できれば名前で呼んでください。その方が半秒ほど早く反応できます」
 半秒ほど早い反応が得られるのはそれほど魅力的ではないが、それでも俺は社長と呼ぶよりも名前で呼びたいと思っていたので、お言葉に甘えることにした。
「棺木さん」
 年上であるのは確実なので、敬語とさん付けは忘れない。
「あなたが社長なのは解りましたけど、どうして社長が自ら遠出してたんですか? そういうのこそ、営業にやらせるべきでしょう?」
 お茶を欲するヒラギにちょっと待てと言ってから、ずれた視線を棺木に戻して返事を待った。待つまでも無い。すぐに返ってくる。
「難しい仕事でしたから、私自ら行かなければいけなかったんですよ。それに天羽さんは一高校生です。学校がありますからね。それに差し支えてはいけませんので」
 そんなら学生を雇うなよと内心、ひっそりとツッコミを入れた。
「そういう事っ!」
 どういう事だよ。お前が偉そうに言うな。もう既に、お前の社長という権限は消え失せているんだよ。
「あら? 雑用よりも、営業部部長のあたしの方が、全然立場は上だと思うけど?」
「一人しかいないのに、何が営業部だ。それなら俺だって雑用部部長だよ」
「それでも、雑用よりも営業の方がくらいは上よ」
「日ごろの行いを考えて、確実に俺はお前以上に堅実に働いているだろ。この事務所の掃除に始まり、お茶淹れ、その他雑用」
「だったら早くお茶淹れなさいよ、雑用くん」
 言い返す言葉が無くて惨めな気分になる。この場で唯一の成人――俺の考えでは――棺木さんは無言で微笑を湛えたまま優雅にお茶を啜っていた。
 ……お茶を? あれ? 俺、お茶なんて淹れてないよな? 
 頭の上にハテナマークの流星群が発生した。この棺木鏡介という男、謎だらけだ。
 一瞬だが棺木さんの姿を眺めていた俺は、この男の前髪に隠れた右目を見た。気がする。
 ヒラギに「早くしなさい!」と言われて俺はいつもの所から急須と湯飲みを出してきて、
「あー違うそれじゃない! いつもあたしが使ってるのに淹れなさいよ!」とか言われて湯飲みを交換し、ポットからお湯を急須に注いでお茶を作成。自分の分とヒラギの分を持って社長席に戻ると、ヒラギは逃げるように自分の席へ、営業のプレートが張られた席へと駆けていった。
「立ち食いは行儀が悪いでしょ?」
 さっきまで存分に立ち食いしておいて、今更何を言うんだ。
 その背中を追いかけて、俺は営業席に着いたヒラギの後ろから秘書のような動きで湯飲みを置き、続いて隣の自分の席にも湯飲みを置き、ここでようやく着席した。そういえば、反省文執筆の途中であったことを思い出す。
 自分で淹れたお茶を啜って――うむ美味い。我ながらなかなかだな――感想を抱きつつ、シャーペンを手に取った。書き始めようとして最後に芯が折れていたのを思い出し、後ろの部分(正式名称不明)をかちゃかちゃ言わしていると、ヒラギがこれほどになく面白いものを見つけたみたいな顔で俺の原稿用紙を覗き込んだ。
「何これ? 反省文?」
 モナカを原稿用紙に落とすんじゃない。払え。
 ヒラギは自分が渡した原稿用紙だということを忘れているらしい。散らかっている一枚目の初めに、反省文と書いてあることからそう思ったようである。
「あんた何かしたの? 今日の睡眠授業のこと?」
「何でもない。これから書かされるときのための練習だよ。暇だったしな」
「ほんっと、暇ね。あんたって」
 指でつまんだ小さくなったモナカを口に放り込み、実に美味そうな表情で口をもぐもぐとさせている。こいつは相当な甘党であるのだろうか。思い起こせば、コンビニで買ったパンの半分は菓子パンだった気がする。
 俺は反省文の執筆を止め、一度やってみたかった行動をとってみることにした。原稿用紙を丸めて握り、事務所内を見渡す。あった。棺木さんの座る社長席の隣に置いてあるゴミ箱に狙いを定め、第一球目投じる。
 綺麗に放物線を描いたそれがゴミの墓場に無事飛び込むのを確認して小さくガッツポーズ。
 賞賛を送ってくるのは棺木さん。右目を前髪で隠した微笑を満開にして、優雅に手を叩く姿を社長席に見つけた。ついでに隣人の表情をうかがったりもしてみる。ヒラギは唇を尖らせて俺を見ていた。
「お前も素直に賞賛を送ったらどうだ?」
 口の形をアヒルのくちばしみたいにして、ヒラギは腕を組んでいる。何か言いたげな表情で俺を睨みつけ、
「そんなの賞賛には値しないわ。あたしだって、出来るわよ。楽勝なんだから」
 びっしりと改行の少ない文章が綴られた原稿用紙を机から引ったくり、おにぎりでも作るかのようにそれをぐしゃぐしゃに丸め、椅子を引いて立ち上がり目標を睨めつけながらワインドアップのモーションに入った。野球部が見たらその場でスカウトしたくなるような、見事なオーバースローフォーム。腕が風を切る音がリアルに聞こえる。そんな速く腕振らなくてもいいだろ。剛速球は物凄い勢いでゴミ箱に飛び込んだ。思わずストライクを大声でコールしたくなるほどの好球。
 満足げな表情でありながら、ガッツポーズを取ったりしない。ヒラギはただ満天の笑顔で俺を睥睨する。
 何か言ってやるべきか考えながら、俺は負けじとヒラギの眼を見る。睨みはせずに。
「さすがですねーご両人。では、私も挑戦してみますかね」
 いつの間にか俺の背後に立っていた棺木さんが、俺の思考を中止させる。まったくの邪気なしスマイルが俺の机の上に向き、その先には最後に一枚残されたまだ半分にも文章が満たない原稿用紙。それを指でつまみ上げ、右手だけで丸めるとそのまま手首のスナップだけで棺木さんは紙ボールを投じた。曲線を描くカーブでゴミ箱に三つ目の客が飛び込む。
「今日はまあ、そろそろ解散にしましょうか。私も久しぶりにここに来て、ようやく疲労が身体に染みてきました。明日からもよろしくお願いしますよ、ご両人」
 棺木さんは解散を告げてまた社長席に腰を下ろした。改めて思うことは、やはりヒラギよりも様になっている。黒スーツの赤いネクタイを外し、机上の湯飲みを掴んで口に運ぶ姿を最後に見て、俺は鞄を肩に掛けた。
 ヒラギと並んで事務所を出る際に時間を確認したが、これまでに意外と時間は経過していたらしく、既に七時を回っていた。夕日が沈み始める頃合に安堵するのは、夕日が出ていればまたヒラギが自覚無しで自殺未遂を行いかねないからである。中途半端な夜空は夕焼け半分、星空半分。太陽が月と交代する寸前を思わせる空を眺めながら、俺が言った。
「あの人は何者なんだ?」
 俺と同じように空を眺めていたヒラギが、天を仰ぎながら俺に一瞥をくれながら。
「あの人って、棺木社長のこと? あんた自己紹介聞いてたの? 言ってたでしょ、この事務所で社長をやってますってさ」
 そうじゃない、と言いかけてやめにした。俺が聞きたい事はどう形容していいか解らないものだったから。ただ者ならぬ気配を感じた、そう言えば一番率直であると思うが、それはそこまでであり、それ以上どう言っていいのか、どう言うべきか解らないのである。
 煩わしさを感じながら、俺はもう一度天を仰ぐ。既に完全な夜の闇、月の明かりが爛々と輝いていた。
「お前、あの人に妙な感じを覚えたこと無いか? 初めて会ったときとかにだ」
 今日の俺のように。そう続けて、ヒラギの答えを待った。もしかすると同じような事を感じていたかもしれない、がそれはやはりもしかするとであり、現実はそんなに甘くは無い。だから俺は、どうせまたヒラギは「はっ? 別に何も感じないけど、あんた頭大丈夫? バカだとは思ってたけど、そこまでとはね」とか言うんじゃないかと聞いてから考え、質問したことを後悔していた。
 ヒラギはあっさりと、存外な表情で意想外な答えを呟くように言った。
「解らない」
 周りが静かでなければ、俺はおそらくそれを聞き逃していたと思う。ヒラギにしては覇気の無い声だった。いつもと違うのは声だけではなく、空を見上げるその表情も普段とは様変わりして見えた。最近はあどけない表情で笑うことが多かったヒラギの顔は俺的には少し子供っぽく見えていたのだが、この時ばかりは星明りに照らされるその表情に悲壮な思いを感じ、年齢よりも少し大人に見えた。
 ヒラギはさっきの言葉を補うように、声色や音量そのままで続けた。
「覚えてないの。初めてあの人と出会ったときのことなんて。思えばこの事務所に初めて来たときの事も、何も覚えてない。気が付けばあたしはここに居て、棺木さんが社長のあの事務所にいた。それが当たり前のような気がしてたし、あんたに今言われるまで、そんな事考えもしなかったわ」
 考え込むような沈黙でヒラギは空を仰ぎ見ている。
「雨が降ってた気がする」
 テレビなんかで見たことのある、事件の調査をする霊能力者が事件現場でするような語り口調。確信を持たないヒラギの言葉に、俺は耳を傾けていた。
「真っ暗だったけど何も見えないわけじゃなくて。冷たいけれど、とっても熱い。忘れちゃいけない事のはずなのに忘れてる気がする。うっすらしか憶えてないんだけど」
 昔見た夢の話が内容のような独白をそこで打ち切り、夜空の下にまた静寂が訪れた。
 思い出そうとしているのに思い出したくない。そう、心の奥底で叫んでいる。忘れてはいけないけど、忘れたいと願っている。そう表現するべきだろうか。俺には今のヒラギの心情はまったくもって不明であるから、ここで何かツッコミを入れてやるべきか、真剣に話を切り返してやるべきか迷った。
「無理に思い出すなよ。俺から訊いといて言うのもあれだけどな」
 考えてそれしか言えないのだから、もどかしい気分になる。答えの文章をボキャブラリーの言葉から構成しようにも、相応しい言葉が見当たらない。
 夜の空が出来上がっていた。昼間は暑かったのに、まだ夜はそれほど暑くない。むしろ涼しいほどである。季節の変化を肌で感じられないでいると、思い出すのを放棄したのかヒラギが歩き始めた。後を俺も追う。
「あたし、昔の事はけっこうすぐに忘れちゃうのよね。でも、どうでもいい事は憶えてるの」
「この前にした空の話とかもそうか? お前が教室から消える理由とかいうやつ」
「それも、そうかもね。はっきり憶えてることと、継ぎ接ぎでしかない記憶の二通り、きっとどうでもいい事なんでしょうね。そうでなきゃ、忘れたりしないもん、あたし」
 どうでもいい事は割りと覚えている俺と、ヒラギの記憶保管庫は作りが異なるようだ。
「お前って兄弟いるか?」
 ふと気になって聞いてみる。
「俺には妹がいるがな」
 今朝の出来事を思い出した。そういえば、妹はどうして早く家を出たのだろうか。俺と同じように日直に当たっているのか。苗字順にそれが進んでいるのなら、俺と同じ苗字を持っている妹も早いうちにそれを終えているはずだが。
「きっとあんたよりも賢い妹なんでしょうね」
 面白そうに言いやがる。そしてそれが本当のことであるから、俺はけっこう気にしたり――まあしないけど。
 毒舌な伯父が、最近会ったときに俺を弟とか言ったのは真剣に傷ついたなと思い出しつつ、弱弱しい反論をする。
「ほっとけ」
 否定できないのが悲しい。
「そんな事はいいから質問に答えろよ」
「あたしは妹も弟も、兄も姉もいないわよ」
 否定したヒラギは前を向いて歩く。会話が途切れた。
 肩に掛けた鞄の中身が左右に移動している感覚を肩で感じながら、空腹を訴える胃袋を撫でた。そういえば今日の昼はろくな物を喰っていなかった。さすがに腹が減る。
 昼間には見れない、ライトアップされた橋が神々しく輝いていた。横を通り過ぎるとき、ヒラギの白い横顔が青い光に照らされていて、さっきの事を俺は思い出す。忘却するには時間が掛かりそうな表情。大きな衝撃を受けたわけでもないというのに、何故か記憶にこべりついて消えない光景。ヒラギの悲壮な表情。
 どうかしているとは思わなかった。珍しいものを見て衝撃を受けるのは当然のこと。俺はそれに気づかなかっただけなのだろう。
 ご機嫌に話しているヒラギの表情は笑っている。白い顔が青いライトに照らされているのを何の気なく眺めながら別れの言葉を告げ、俺は自宅へと脚を動かし始めた。
 空は塗りつぶしたような黒一面。その上にばらまかれた燦然と輝く星を見上げた。
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