挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
世界の色、ヒラギのイロ 作者:双色
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

7/8

第六章:世界の色

 先日の天気予報では今日の天気は朝から雨となっていたのだが、実際俺が目覚めて――つまり今である――窓の外を眺めてみるときはまだ雨は降り始めていなかった。それでも快晴とはほど遠い天気であり、不機嫌そうな分厚い灰色の雲が空を一面多い尽くしていた。今にも降り出しそうである。地球は梅雨まで前倒しにしようと考えているのだろうか。なにかと季節感を急ぎすぎている気がする。この分では冬に桜が咲いたりもするのではないだろうか。
 既に夏が到来した気分で制服に身を包んで一階へと降りる。机の上に置いてあった朝刊で天気を確認すると、どうやら降り始めるのは昼頃からであるらしい。傘を持っていけという母親の忠告を朝飯を食いながら素直に聞き入れた俺は、いつの間にか遅刻危険ラインから十分くらい余裕のある時間に登校することが習慣になっていることに感心しつつ家を出たのだった。
 昨日同様に登校中には誰とも出会わなかった。それが幸運であると気づいたのは、これから少し先の話になる。太陽が隠れているおかげで、燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽光が今日はなく、朝から大量の汗を流すことも無く中距離な坂を上りきる事ができ、フレッシュな気分で学校に到達するのだった。
 今日の玄関はいつもより空いていた。人影がほとんど無く静まり返っている。たまたまそんな時間帯に到着してしまったのだろうか。こんな静かな場所にいると精神的にも落ち着いた状態になることが出来る。だから俺はこの時この上なく平和で平穏な日常的感情になっていたのだが、そんな状況ではまさか、今日この日にあのような体験をするとは思いもしなかった。


 ◇


 一連の出来事の始まりはとある一通の手紙であった。それが手紙と呼べるものであるかは、俺の勝手な判断であるが。見た目は一般人的観点から見て間違いなく手紙であり、それ以外の何物にも見えない。その手紙というのは今朝早くから俺の下駄箱に闖入されていたか、それとも昨日の放課後、俺が下校した後からそこにあったと考えられる。
 俺の生徒番号――学年とクラスと出席番号が並んだもの――が書かれた紙が貼り付けられている下駄箱を開いて、いつものように上靴を取り出す。そこまでは普段どおりの行動であり、俺の視神経が脳に伝える映像もまた普段どおりだったのだが、
 ひらり。足元に半分に折りたたまれた紙が舞い落ちた。上履きに手を掛けていた俺は誰かに一時停止ボタンでも押されたかのように硬直状態となる。茫然としていてもしょうがないので、とりあえず上靴に履き替え下靴を下駄箱に入れて、それを拾い上げた。端的にいうとメモ用紙である。外見的には普通の。その場ですぐに中身を確認してもよかったのだろうが、俺は正体不明の用紙をポケットにしまって教室へと向かった。万が一という事もあり、このようなシュチュエーションで発見された紙片をこの場で内容確認するのはナンセンスだろう。
 教室の風景はいつもと何にも変わらない。クラスメイトたちが何人か集まって談笑していたり、まだ始業の鐘が鳴っていないというのに教科書を眺めている奴がいたり、何の変哲も無い普通の風景。そこには堤もいて、俺が席に着くや否やすぐさま声を掛けてきた。
「今日は驚かないのか?」
 やあ、とか普通の挨拶をしてきた堤に俺が訊いた。昨日までは俺が少し早め登校のをすれば、まるで真夏に冬でも降ったように驚くものだから、てっきり今日もそうだと思っていたのだが。堤は「なにが?」みたいな顔をしばし見せたが、俺の言いたいことがすぐに理解できたらしい、眼鏡をついと少し上に上げて、愛想のいい微笑に様変わりした。
「ここのところは毎日だからね。僕だって三度も同じことが続けば慣れるさ。浜中はまだ来ていないみたいだな」
 首を捻り教室中を見渡す堤を、椅子に座った俺は見上げていた。ポケットの中にある用紙のことを思い出す。こいつに相談してみるって手はありだろうか。こいつならばこんな経験は何度もあると思えるし、どっかのバカヤロウ――浜中なんかに話すよりはよっぽどまともな返事が聞けるだろう。
「どうしたんだい?」
 訊かれて決断した。結果、相談はしないことにする。そもそもこんなものを話題に人と話すのは色々と可笑しな話だ。人間誰だって自分一人で行動し、何かをやり遂げなければならない時がある。今がまさにその時だろう。それにまだ中身も見ていないというのに、誰かに相談するのはおかしな話である。とりあえず中身を見てみることにしよう。しかしまあ、中身がどんなものかは解からないが、こういう物はやはり教室では少々見づらい気がするので、俺は腰掛けたばかりの椅子から立ち上がり、堤にはトイレに行くと言って教室を出るのだった。
 俺がどこへ行ってそれを拝見したかというと、トイレの個室に入ってみるということも考えたのだが、何となく中庭に行きたい気分になり、目的地をそちらに決定して歩き出してから五分と経っていない現在は、中庭のシンボルのように中央で立つ木の下に俺は来ていた。不意に見上げてしまう。生い茂る葉っぱの間から僅かにのぞく空。今日は雲しか見えないが、昨日ならば青い空が見えていただろう。これを見た俺にどのようなコメントをして欲しいと、昨日ヒラギは思っていたのだろうか。考えるだけ無駄である。
 さて、と俺はポケットから紙片を取り出した。改めて全貌を見てみるが、やはり普通の紙切れである。
 問題の中身だが、
『今日の放課後、中庭の木の下に来てください』
 と書かれていた。中庭に? 誰もいなくなった教室とか、体育館の裏とかは王道であるが、中庭を指定するのは……世間的にはどうか知らないが、俺の経験からしては珍しいと思う。経験といっても、このような事態に直面したのは今日が初めてなので、学園ドラマやら漫画やらを基にした経験、つまり認識なのだが。にしても、これは俺を中庭に呼び出す文章であることは解るのだが、時間指定や差出人の名前が無いのはどういったことだろうか。俺はもう一度紙面に眼を向けた。やはりそのメモ用紙はシンプルな物である。長方形の紙の四隅を水色が縁取り、中央に円を作っている。文章はその真ん中に、丸みをおびた明らかに女の字で書かれていた。これは世間的にラブレターといわれるものと考えていいのだろうか。何分俺には経験が無いからな、その点で不明である。
 再びそれを折りたたんで小さくした俺は教室へ帰った。そろそろ始業の鐘が鳴りそうだ。


 ◇


 教室に入ろうと閉ざされた扉の前に来た俺は浜中と遭遇した。さっき時間を確認したが、こいつにしては珍しく遅刻ぎりぎりの時間である。珍しいこともあったものだ。
 考えてみれば、これはもしかしたら浜中のドッキリ的な策謀ではないだろうか。放課後になって、おちおち中庭にやってきた俺に種明かしをして赤面するシーンを写真に撮ったりとか、そんなではないだろうか。
「どうしたよ? 入らねえのか?」
 この喋り方では、その可能性も薄いと考えていいかもしれない。俺はばっちりと髪型をキメた浜中の横を通り過ぎて自分の席へと向かった。
 当然といえば当然だが、この時すでにヒラギは席に着いて不機嫌面をしていた。窓の外を眺めている。横顔なので細部まで詳しい描写は出来ないが、その横顔からでも窺う事の出来る目元は確かに不機嫌な時のヒラギの目だった。
 そんなヒラギの視線を遮るように俺が席に着き、平行してヒラギは黒板の方を向いた。
「どこ行ってたのよ?」
 ヒラギの性格をトレースして考えると、それは間違いなく俺に向けられた質問である。興味は無いが話題が無いのでどうでもいい事を訊いてみる、的な声色と態度でされた質問に俺は、
「ちょいと、トイレにな」
 堤にしたのと同じ対処を取った。よもや登校してくると下駄箱に怪しい紙切れが入っていて、それを確認するために中庭に行っていたとは言えないし、言いたくない。もしかするとヒラギの仕込かもしれないと考えたが、それは十秒以内に崩れた。こいつがこんな事をするとは考えにくいからな。しかしこいつには前科がある。例のレシートメッセージだ。そういえば、あれはまだ俺のポケット内に潜伏しているのだったな。確かめるようにブレザーポケットに手を突っ込むと、確かに紙切れが二つ指先に触れた。
 ところで、ヒラギの様子がいつもと違って見えるのは俺の精神上の問題が作用しているのだろうか。不機嫌そうなのはいつもとたがわぬことであるのだが、何が妙かといえば、その不機嫌面がただ不機嫌なだけではなく、どこか悲壮に満ちたような、寂寞(せきばくとした思いを秘めているような横顔だった。いつもの満ち溢れる苛立ちをどこに向ければいいのか解からないような、刺々しい表情とは明らかに違っている。本当にこいつはどうしてしまったのだろうか。昨日から行動も言動もおかしい。俺に自分をどう思っているかと尋ねたり、普段ならありえないくらい素直に宿題を講師したりと、不可思議なものばかりだ。
 始業の鐘がいつもと同じ音量であるはずなのに、この日の俺にはやけに大きく聞こえた。


 ◇


 授業中、ふと隣を見てみたのだが、その時ヒラギは窓の外を眺めていた。初めは俺に対して何らかのメッセージでも送っているのかと考えたが、どうしても視線が合うことが無く、だったらその視線の矛先が俺でないことは理解できる。かくしてそんなナルシスト的な考えは破綻する。それに朝のホームルーム前だって、こいつは外を見ていた。少し考えれば簡単な話だ。今にも泣き出しそうな真っ黒な雲が覆う空を、はたしてヒラギはどんな思いで見つめていたのだろうか。上っ面は御機嫌には見えなかったし、かといって不機嫌にも見えない。無表情な中に何らかの感情が在るようだが、俺にはそれが何なのか解らない。
 六限目が始まる頃には、既に空は大粒の雫を地に落とし始めていた。予報通りの雨。重力に引き伸ばされた円柱型の雫が地面を打つ音がここまで聞こえてくる。これまで堪えていた所為もあって勢いは激しかった。
 雨が降り出すと同時にヒラギの悲壮な表情は増していき、そしてヒラギの黒い両眼が俺にはどこか憂鬱そうに見えていた。原因が雨であるというのは、俺の予想である。時と場合が一致しすぎているからだ。雨が嫌いなのだろうか。まあ俺も好きか嫌いかで言えば嫌いな方だろうし、雨が好きな人間もそんなに多くないとは思う。しかしそれでもここまでいつもと違う態度を取ると、こちらまで調子が狂ってしまう。それよりも、俺が高校に入ってから今日まで一度も雨が降らなかったわけではない。その度ヒラギの表情を入念に確認していたわけではないが、おそらく今日ほど憂鬱な顔はしていなかったと思う。いや、というよりも晴れでも雨でもヒラギの態度には変化なんて無かった気がする。雨の日も晴れの日も、当たり前のように何かあるたび俺に怒鳴っていたのが、俺の既知である天羽ヒラギである。曖昧な記憶ではあるが。それが正しいとして、それでは何故今日に限ってヒラギはこんな暗い表情をしているのだろうか。 
 考えてみると俺には思い当たる節があった。それはあの日、ヒラギが語った自分の過去話。もやもやとしてはっきりしない自分の過去の記憶。思い出したいけど思い出せない、理不尽な過去の断片、記憶の一ピース。ヒラギ曰く、その記憶の背景では雨が降っていたらしい。そしてそれを思い出させてしまう原因を作ってしまったのは俺なのだ。その次の日から、つまり昨日からヒラギの態度が妙になっていた。これは偶然なのだろうか。 
 そんな事を考えている間に六限目は終了した。例によって授業は半分も頭に入っていない。ヒラギは永遠と頬杖を突いて窓の外を見つめていて、おそらくこいつも授業なんて聞いていなかっだろうし、ノートだって取っていなかったと思う。俺もそうだ。その間に俺は黒板だけを見てその視線を素通りさせていたし、今もそうしている。
 高橋担任がやってきてホームルームが開始され、それが終了して放課後になる。
 鞄を手にした俺は立ち上がり、教室内で起こることの全てに我関せずとばかりに沈黙したまま窓の外の不機嫌な世界を見据えるヒラギに言った。
「何やってんだ、今はもう放課後だぞ」
 ヒラギは反応を見せない。やはり遠い目は窓の外、降りしきる雨に向いていた。
 まるで死神に魂を抜かれたかのような沈黙。眼を開いたまま眠ってしまっているのではないかと思ってしまうほどの静寂。これではまるで人形だ。中身の無い空っぽな器。
 今度は少し声の音量を高めて言ってやる。強い口調で。
「おい天羽、聞いてんのか? 放課後だぞ。お前は掃除当番だろ、さっさと動け」
 俺はいつものようにヒラギが、「うるさいなぁ、もう」とか言ってくることを少し期待していた。こいつの態度に説明不可能で意味不意な不安感を抱いていたから、その言葉でそれが解消されるような気がしていたからだ。今そう言ってくれれば、俺のこの憂慮な心中はすぐに通常状態に戻ったはずだろう。
 しかしヒラギは俺の期待に反して意外な反応を見せた。
「えっ?」
 ぱちりと大きな眼を瞬かせたヒラギが、ようやく自分の前に立つ俺の存在に気が付いた。放心状態から戻ってきて、この時は不機嫌そうな表情をしていない。素直に驚きを肯定するヒラギの表情はどことなく幼さが残っているようで、これまでになく無垢に見える。俺はもう一度言ってやった。
「ホームルームも終わって、今は放課後だ。お前掃除当番なんだから、いつまでも茫然と座り続けてる場合じゃないだろ」
「…………」
 ヒラギの口からはどんな言葉も出てこない。素直で無垢な瞳は俺を見上げていた。
 ちょっと待てよ。何だこの反応は、何なんだこいつのこの目は? 
「おい天羽!」
 名伏し難い不安感が俺を苛立たせていた。すぐに冷静になり自嘲する。何を苛立っているんだろうね、俺は。これは本来ヒラギの役柄ではないか、いつの間にかこんなポジションチェンジが行われたんだ。誰もそんな采配はしていないはずだ。
「……いや、悪い」
 努めて冷静に。
 俺はいつものヒラギが見たかった。
 いつもの口調で自分を咎めて欲しかった。
 いつものように大声を出して欲しかった。
 何故かって? それは、それこそがこいつ、俺の中の天羽ヒラギという存在だからだ。自分の隣に当然のようにあったものが急に変化したら、誰だって不安になったりするだろう。その不安を取り除くために行動する事は別段理解不能な事ではないはずだ。 
 気がつけば俺たちは教室の注目の中心に居た。これも何度目のことだろうか。いつもならヒラギが俺に何やら言って、それが原因で注目を集めていた。そしてその度に俺はやれやれと首を振り溜息を吐き、いいかげんにしてくれとか思っていたのだが、今は逆である。今回のは俺が原因だ。それから考えも逆である。いいかげんにしてくれなんて今は思わない。思えない。むしろいつもの調子で怒鳴って欲しいと思っていた。
 気づけばまたヒラギの視線は窓の外、地に降り注ぐ雨に向いている。俺の存在なんてそこには無いような、完全な無視。黒色の遠い眼がその奥でくすぶっている思いなんて、俺にはわかるはずもなかった。


 ◇


 結局俺は不安感を解消することが出来ないまま、何を言っても無感情な返事だけを返してくるヒラギにそれ以上何も言うことなく教室を出て行った。掃除当番の奴らがさっさと出て行け、みたいな眼で俺を見ていたこともあるし、俺自身これ以上教室にいたくなかったので、後ろめたく思わずそこを出ることが出来た。
 今日の俺はこの後すぐに事務所に直行、というわけにはいかないのである。ヒラギの奇妙な態度のおかげですっかり忘れていたが、その原因であり理由である物体が俺のポケットの中に存在した。
 詳しい時間指定無し。差出人の名前無し。ただ用件だけを綴った、無し無し文章の手紙である。そもそもこれが手紙といえるものなのかも謎であるが……。
 しかしそこに用件が記されていたのは事実であり、俺はそれを無視することが出来ないのである。
 場所は中庭。中庭と言ってもこれが意外と広いものなのだ。四月の初めの頃。新入生が入ってきたばかりの頃は、この学校に存在する数多くの部活が机を引っ張り出してきて必死に部員収集活動をしていたものだ。今でもプラカードを持って熱心に新入生に声を掛けていた上級生の姿を覚えている。あれは何部だったのだろうか。運動部はグランドや体育館、吹奏楽部は音楽室。これらは特に宣伝しなくとも部員が集まりそうだな。俺はといえば元々クラブに所属する気は無かったので、廊下の窓からその光景を見下ろしていたのだがな。
 過去の記憶を一人思い出しつつ、雨で湿気の多くなった廊下を上靴で踏みしめながら中庭を目指しつつ、本題に戻るとする。
 この手紙のようなものを俺に差し出したのは、はたして誰なのだろうか。これについて大元の疑問がそれである。俺はまずクラスの女子たちを思い浮かべたが、同じクラスの女子連中はみんな俺とヒラギが恋人的な関係であると思い込んでいるらしいし(浜中談)、他のクラスの奴らなんて、この時期では俺自身名前も知らない奴らばかりである。俺は廊下ですれ違って一目惚れされるほどのルックスではないし、その可能性は否定していいだろう。それを自分で語らねばならないのは哀しいが。
 残る可能性として考えられるのが、浜中やらその他の連中が仕込んだドッキリ的なイタズラってところだ。浜中含み、クラスメイトたちがどれほど芸達者な奴らなのかは知らないが、そんな事を想像させる行動は見受けられなかった。一日中観察眼を光らせていたわけではないので確かな事は言えないが。
 うだうだ考えながら、俺は自分たちの校舎と向かい校舎を繋ぐ渡り廊下に出た。中庭はこの渡り廊下から入ることが可能である。
 現れた俺に「ドッキリ大成功!」とか書かれたプラカードを持ってニヤけながら飛び掛ってくるクラスメイトの姿を一瞬想像してしまったが、それは俺の妄想だった。渡り廊下に出て俺を向かえたのは第一に雨の音。クラスメイト達の歓喜の声など無い。ついでに言うとそこには大量の人影など無く、ただ一つだけ小さな人影が俺を待っていた。
 正直、そこに居る人間を目にして俺は面喰った。予想もしていなかった人物がそこに居たからである。指定の場所は中庭の中心で屹立する木の下であったが、雨のために変更となったのであろう。その人物は渡り廊下の真ん中辺りで大きな双眸を開いて俺を見据えている。
 俺は声を出す代わりにまずは辺りを見回し、そこにその人物しか居ないことを確認した。
 その人物に俺が声を掛けたのは、手紙の差出人がそいつだと確信したからである。
「お前か……?」
 そいつは雨が芝生を濡らす様子でも観察するかのように、その視線を一度斜め下に落とす。
 両手で膝の前の鞄を握り締め、わずかに頬を赤くしているそいつは上目遣いに俺を見ていた。
「はい。どうして驚いてるんですか?」
 同学年で敬語を使ってくる人物を、俺は一人しか知らない。他にも居るかもしれないが、俺が面識を持っているのはこいつのみだ。
「手紙に名前、書いてませんでしたか……?」
 そこに居たのは、浜中でも堤でも他のクラスメイトでもヒラギでもなかった。
 鞄を握り締めて俺を上目遣いに見る二階堂瑠架がそこに立っていた。
 ブレザージャケットのポケットに手を入れて、中に入っている紙切れを取り出して広げる。
 何度読み返しても変化無しの、それから差出人の名前も無い。無し無しレターペーパーが、初見とまったく変わらぬ姿を現した。この程度の短い文章なら俺の記憶力でも一度黙読しただけで覚える事が出来る。
「名前なら書いてないぞ」
 歩きながら俺は、二階堂に手紙の内容を確認させる。
 大きな双眸を普段以上に大きくした二階堂は、手紙の内容を確認するやみるみる内に赤くなっていった。
「そんな、ごめんなさいです!」
 大変申し訳なさそうに何度も頭を下げてくる二階堂は、まるで本題を忘れてしまっているようだった。
 今から思えば、何となく合点がいく気がする。二階堂なら素で料理するときに塩と砂糖を間違えてしまいそうなイメージがあるし、自分の書いた連絡文章に名前を書き忘れることだって十分にありえるだろう。それはいいとして、しかしどうしてまた中庭の木の下なんかを待ち合わせの場所に指定したのだろうか。俺にしてみればこの場所は高校入学以来、少々トラウマに成りかけている場所であるのだが。
「どうかしましたか?」
 いつの間にか面を上げて俺を見上げる二階堂が、まるで病人でも気遣うかのように甘い声で言った。
 俺はまだまだ勢いを増していきそうな雨に一瞥をくれてやり、それから中央の高い木の天辺を見据えた。特に意味も理由も無い行動である。
 灰色の空から降り注ぐ雫は、ただ当然のごとく地を濡らしていた。
「いや、なんでもない。それで、どうして俺を呼び出したんだ?」
 過去に俺は二階堂に放課後の行動をともにして欲しいと頼まれたことがある。あの時は行くあて無しに街を徘徊し、歩き疲れた俺が喫茶店に入ることを勧めたのだった。そこで明かされた二階堂の胸中。ヒラギを尊敬しているだの、俺があいつに似ているだの、そんな話を聞かされた。あの時は浜中、そして堤と談笑していた間に割って入ってきて、二階堂が用件を言ったのだが、今回そうしなかったのはどういった理由だろうか。
 二階堂は相変わらず鞄を大事そうに両手で握り締めていた。
「あなたにどうしても伝えておきたいことがあるんです」
「教室じゃ駄目なのか?」
「はい」
「他の奴らに聞かれたくないとか? それとも教室には天羽が居るからとか?」
「…………」
 二階堂はためらうように雲が覆う空を見上げていた。俺は以前のことがあるので色っぽい展開はまったく期待していない。こいつの事だろうから、言ったとおり伝えたい何かの要件があるのだろう。
 返答を聞いたのは、質問してから少し時間が経ってから、それでも一分間に満たない空白を挟んでだった。俺には何故か、その空白の時間が永く感じた。
「理由は特にありません。わたしはこの場所が、この場所から見える空が好きなんです。だから、わたしの好きな空の下であなたと話がしたいと思ってここを指定しました。……こんな理由じゃ、ダメですか?」
 その理由を否定する理由を俺は持ち合わせていない。
「いいや。二階堂」
「なんですか?」
「いや、お前は空を見て何か思ったりするか? えっとだな、自分らしさがどうとか、そんな事をだ」
 期待はしていなかったが、それでも聞いてみたいと主張する俺がどこかに存在していた。
 考えるように二階堂は眼をパチクリさせて、それから俺が何を言っているのか解からない、みたいな顔になったかと思うと、今度はいい返事を思いついたみたいな明るい表情へと変化した。実に感情性豊かな顔である。
「どう言っていいかわかりませんが、空は自分を映す鏡だって、誰かが言ってた気がします。誰が言ったのか覚えてませんけど、わたしもその考えに賛成です。何にも考えないで空を見ていると、何となく自分を見てるような気になるんです」
「お前は、自分らしさって何だと思う?」
 呼び出された身でありながら、俺は次々に質問を浴びせていた。三人集まれば文殊の知恵ということわざがあるように、俺とヒラギと二階堂、計三人の知恵をあわせれば、その答えも出てくるんではないかと思ったからだ。正直、俺は心のどこかで焦っていたのだろう。何となくだが早く答えを出さないと、ヒラギがどこかへ行ってしまう気がしていたから。我ながらアホらしい考えで、思ってしまった数秒後には後悔の念が押し寄せてくるのだが。
 この質問にも二階堂は瞬きを数回して、それからさっきと同じように考え込む表情になった。さっきよりも長い沈黙が続く。雨が芝生に降る音さえ聞こえてきそうな静けさ。吹奏楽部が演奏している音さえも聴こえてきた。
「自分らしさ……ですか……?」
 二階堂は呟くようにそう言った。雨の音の方が勝ってしまいそうな、小さな声。呟き。
「ごめんなさい。わたしには、よくわかりません……」
 答えは文殊の知恵でも届かないところにあった。
 俺は何故かその答えが空にあるように思えて見上げてしまう。雨が降っていたことさえも忘れていた。空なんて見えるはずも無い。どこまでも永遠に続いているのは雲の群れ。灰色のモノクロ平面。そこには灰色一色。
 空は自分を映す鏡であると、二階堂は言った。ヒラギもそう思って、毎日毎日、この中庭から空を見上げていたのだろうか。いつか広大なスカイブルーの空に自分が映し出されることを信じていたのだろうか。
「あっ、あの」
 二階堂は慌てるかのような声を出していた。俺が視線を向ける、実際に二階堂は狼狽していた。膝の前で鞄を慌ただしく揺らしている。
 そういえば、今から思えば俺は二階堂が話しがあるから呼ばれていたんだった。それなのに俺は二階堂に会話の主導権を与えず、一方的に質問していたのか。
「すまん。お前の用件がまだだったな。俺ばっかり質問しちまってた」
 二階堂は気を悪くしていなかった。その証拠に俺が謝ると、目の前に居る人間を謝らせてしまったことを悔やむような表情になり、おそらく心中では自分を叱っていたことだろう。こんな性格で世の中を渡っていけるんだろうか。数回は裏目に出る事必至だ。何せ渡る世間は鬼ばっかりだからな。
 娘の心配をする父親の心境でいると、うつむきかげんの二階堂の視線が俺の目には向いていない事が解った。
 俺は眼前の二階堂を眺めながら、話が始まるのを黙って待っていた。
 いつもなら、こいつに主導権を握らせればいつまで経っても話が進まないと考えて俺から進行役を買ってやることを考えただろうが、今回はそんな気になれない。何分、今から二階堂が話そうとするのは、俺に対するなんやらのメッセージであるから。
「前にも言った通り」
 二階堂の唇がようやく動き始めた。
 閉じ込められていた言葉が口から外の世界へと出て行く。
 それはとても小さな衝撃で大気を揺らしていた。例によって雨の音の方が大きく聞こえる。
 些細な二階堂の声を聞き逃さぬように、俺は神経を総動員してその言葉に耳を傾けることにした。
「わたしは天羽さんに憧れています。同時に、それはあなたへの憧れでもあります。あなたは、天羽さんに似ていますから。理屈じゃありません。本当に、そう思ってるわたし自身、それがどうしてなのかわかりません。それでもあなたが天羽さんに似ているというのは、確信を持っていえます。それから、あなたの心の中心にいる人物が天羽さんであることも、これも確信を持てることです」
 思わぬ新説が飛び出した瞬間だった。
 俺とヒラギが似ているということは、これまでも何度だって言われてきたし、俺自身すでに半分認めていることである。しかし俺の中心に居るのがヒラギだって? それは初めて言われたことだ。そしてそれが正しいとするならば、堤の話していた仮設の両方が正しいことになる。俺がヒラギを理解しているということと、それから俺たちが似ているということ。同時に二つの説を満たしているという事だ。
 二階堂はどこに向けていいか解からず、ためらいがちな視線を空中で彷徨わせていた。普通に俺の眼を見て話してくれればいいのに。
「わたしは天羽さんにも、そしてあなたにも憧れていると思っていました。でも、憧れていたのは天羽さん。あなたに対しては違う感情も持っていました」
 ちょうど俺の上靴のその先に向けられていた視線が、ここでようやく俺の眼に届いた。
 少しばかり驚いてしまったのは、二階堂の持つ琥珀色の大きな瞳が、いつもとは輝きを放っていたからである。それは初めて見る、強い視線。

「わたしはあなたが好きです」

 告白と受け取れる言葉をつむいだ。
 すぐにそれを撤回するかのような話が付け足されて、俺は浮かれたり、がっかりしたりする時間を与えられることなく立ち尽くしてそれを聞いていた。
「でもそれであなたにどうこう思ってもらったり、してもらいたいとは思いません。あなたの中心に天羽さんがいるのなら、わたしがどれだけ思ってもそれは届きませんから。でも、それでもわたしはあなたの事が好きなんです。自分でも変だと思います。自分を好きになってくれないに人を好きになるなんて」
 二階堂のことが好きか嫌いかで言えば、おそらく俺は好きなんだろうな、告白されれば五秒以内にイエスの返事が出来るだろう。とか思いながらその話を俺は聞いていた。
「だからわたしは、きっと――、天羽さんといるあなたが好きなんだと思います」
 真摯な思いを訴える二つの瞳が、まっすぐ俺を見上げていて、俺は言葉をつむぐことが出来ない。
 なんと言ってやっていいのか解からず茫然として、告白してもいないのにフラれた気分になったいた。なぜなら二階堂は初めに言っていた、そのことでどうこう思って欲しくない、と。それはつまり、俺から二階堂を思うことはして欲しくないということだろう。俺が鈍感でも、それは何となく理解できる。
 綴った文章を締め括るかのように、最後の思いを二階堂が言葉にした。
「ただ、伝えておきたかっただけ。ただ、知っておいて欲しかっただけ。それからただ覚えておいて欲しいだけ。わたしがあなたに求めるのはそれだけです。どれだけ小さな存在でもいい、わたしはただ、あなたという大きな世界の中でちっぽけな存在としてありたいんです。でも……迷惑でしたら、忘れてください」
 最後に二階堂は、無理に作ったような笑みを浮かべた。それが素直に出たものでないとは思うが、ぎこちない笑顔が不思議と似合って見える。言い終えた二階堂は俺を見上げ続けていた。琥珀色の瞳は潤む事は無い。その理由が無い。と、俺は思う。むしろ、言いたいことを言えたという達成感や開放感が、その瞳から伝わってきた。これまで二階堂は自分の思いを人にはっきり伝えたことが無かったのだと思う。それゆえに出たのが、さっきの笑顔なんだろう。俺は心理学なんて学んでいないし、学ぶ気も無いし、詳しくも無い。だからはっきりと断言は出来ないが、二階堂が笑っていたのは、俺にも笑ってくれと言っているのではないだろうか。それが正論かどうかは、考えないことにする。少なくとも俺は、俺の中ではそういう意味の笑顔だと思っておこうと思うことにした。
 空を見るのが好きな少女。そういう点でヒラギと二階堂は似ていると俺は思う。目的こそ若干の違いはあるかもしれないが。でもな、二階堂――
 堤ではないが、今回ばかりは俺も妙に自分の独自説を持ち出したくなった。

 それは些細な違いこそあっても、同じ事なんだよ。

 憧れでも何でも、お前がヒラギに抱いている感情は間違っちゃいない。だから大切にしろよな。憧れはつまり、求めている自分像だ。持っていて悪いこと無い。それにそれが二階堂、お前のイロなんだろう。
 見つめ合う時間はそう長くは続かなかった。二階堂は夢から醒めたように、さっきまでの表情を消し去り、それまでの自分の言動と行動に羞辱するかのように赤面した。
 今日これで何度目になるだろうかと思う光景、二階堂は頭を下げて深くお辞儀し、もう一度面を上げる前に俺の傍らを走り抜けていき、そして校舎に足を踏み入れてから振り返った。
「ありがとう……ございます」
 そのとき俺は、初めて二階堂に名前を呼ばれた。君付けであったが。
 急いで立ち去ろうとする二階堂の後姿を、俺は呼びとめていた。今俺がどんな顔をしているかは知らないが、おそらくこんな事を言うに相応しい表情ではなかったことであろう。
「敬語、いいかげんやめてもいいぞ」
 振り向いた眩しすぎる笑顔は、生涯俺の記憶から忘却される事は無いだろう。
 永久保存版決定、殿堂入りの極上スマイルだ。


 ◇


 俺は雨降りの中庭を眺めながら、ぼりぼりと後頭部を掻いた。それから振り返って背後を見る。当然だがそこに二階堂の姿はもうなく、俺はどう形容していいか解からない、よく解からん気分になっていた。まるでさっきの出来事が白昼夢のようにすら思える。俺は大概の出来事は、体験しているその間は短く感じるが、終わってからは意外と長かったことに感じるタイプの人間なのだが、今回はいつもの逆であった。体験中はとても長く感じていたが、終わってから思い出してみればそれが短い出来事のように思える。こ本来なられが普通な感性なんだけどな。
 後頭部を掻くのを止めた俺は、続いて額に人差し指を当てて考えた。これは一体なんだったんだろうか。二階堂の言いたいことがまったく理解できないとは言わないし、俺なりに少しならず理解しているつもりである。こんなことのためにわざわざ手紙で呼び出すなんて、けっこう面倒な事を二階堂はしたのだろうか。本人がそう言ったのだから、そうなんだろうな。
 雨の中に立つ大木が、音も無く静かに風に揺られていた。葉と葉が擦れ合う音が聞こえてきては、勢力を増した雨の音に掻き消されていく。いよいよ雨は本降りである。
 五月はもうすでに目の前まで来ていたが、今はまだ四月。これを五月雨と呼んでいいモノかは解からないが、俺はどちらかと言うと五月の雨は六月の雨に並んで物憂げなもんだと思っている。だから今から吐き出すため息は、この雨を物憂げに思って吐くものだ。
 誰でもなく、俺は俺に言い訳して降りしきる雨を見ながらため息を吐いた。
 まったく何をやってるんだろうね、俺は。さっさと事務所に行こう。ここにいても何もすることが無い。むこうに行ってもそれは変わらぬことなのだろうけどな。俺は最後にもう一度だけ雨に揺れる木を見やって校舎へと歩み始めた。


 ◇


 玄関には朝と同じく人気が無い。朝同様に中途半端な時間にきてしまったことが原因だろう。俺としてはこの静けさは嫌いではないので悪いことではない。ほとんど音の無い沈黙が支配している空間で俺は下駄箱に歩み寄り、再度正体不明な手紙とも理解しがたい紙切れが入っているのではないかと考えてしまったが、やはり朝とは違ってそこに入っているのは履きなれた汚い俺の下靴である。そろそろ新しいのを買うことにしよう。小金が溜まったらの話だが……。
 眼前には下靴以外に何も入っていない下駄箱。まあしかし、それは当然のことなんだと俺は考える。毎度毎度、下駄箱を開くたびに懸案を背負しょい込ませるような物質に出迎えられてなどいれば、俺の精神が持たない。残念だと思わなかったかと訊かれれば、今の俺は確実にうなずけただろう。自信を持って断言できよう。下靴を取り出して、脱いだ上靴を下駄箱の中に放り込む。
 下靴に履き替えた俺は、クラス別に用意されたホームセンターで売っているようなプラスチックのゴミ箱傘差しから自分の傘を抜いて、出入り口へと向かった。
 傘を開こうとしてその手を止める。玄関の出入り口で、まるで雨宿りでもしているかのように立ち尽くす後姿を見つけたからだ。その手に傘が握られていないところを見ると、どうやら本当に雨宿りしているのだろう。降りしきる雨を見つめるその横顔は、やはり教室で見たものと変わりなかった。
 俺は玄関口でぼんやりと立ち尽くしているヒラギの隣に並び、その手に握った傘を開いた。
 ばさっ、と音を立てて開いた傘の下に入り、地上に降り注ぐ雨の中へと歩を進める。雨の中に踏み出してから二三歩で俺は脚を止めた。足元のアスファルトの上に薄く雨水が溜まっていた。今度は防水の靴を買うことにしよう。靴底にじんわりと足元に溜まった雨水が染み込んできて、靴下を濡らしたことで密かに決意しつつ俺は振り返り、本当に何を考えているのか解からない表情をしているヒラギに言った。
「もしかしてお前、傘忘れたのか?」
 遠いところに向かっていたヒラギの視線が、久しぶりにまともに俺の眼を捕らえた。
 それが俺には懐かしく思える。教室では決して重なることの無かった視線。何かに挑むようなあの強気な視線である。
 物憂いなヒラギの際立つ白い正面顔は、このとき確かにいつもの無好感な仏頂面へと変わっていた。
「忘れたんじゃないわよ。持ってきてないだけよ。朝、家出るときは、まだ雨降ってなかったもん」
 睨むようなヒラギの視線。教室にいたときの、まるで感情を忘れてしまったかのような表情ではない。いつもと変わらぬ、俺にとってはそこにあって当然であり、当たり前のヒラギの表情が戻っていた。正直に白状すると少しだけ安堵する。
 無理にもほどがあると言いたくなるヒラギの苦しい言い訳に、俺はツッコミを入れるべきか考えて、最終的にそうする事に決定した。
「それを忘れたって言うんだよ」
「全然違うわよ」
 ヒラギは断固として否定した。漆黒の両眼が放つ、強い眼差しが俺の眼球を貫き続けている。
「敢えて持ってこなかったのよ。解る? 敢えてって漢字、勇敢の敢って書くのよ! 雨も降ってないのに、傘なんて持ってきたくないのよ。……あたしは、傘が嫌いだから」
 それを言い訳と受け取るべきかどうかは、考えるまでも無い。見ていればそれが解かる。
 言葉は強がっているだけのように聞こえても、ヒラギの表情は真剣そのものであった。いつでもそうだった。ヒラギは常時真剣であり、そして強がりは言っても嘘は言わない。こいつはそういう奴だ。
 何か言おうとして、やっぱり言葉が出てこないから断念した俺は、歩くたび足元で跳ねる雨水を鬱陶しく思いながら、雨宿りするヒラギのもとへと歩んで行った。
 自分の手に持った傘の下にヒラギを入れてやり、
「入っていけ。雨の中、傘も無しに歩いてくわけにもいかないだろ?」
 状況の打開策を持ち出す。
 この提案にヒラギは案外素直に賛成した。諸手を上げての賛同ではなかったし、表情を笑わせるわけでもない。ただ何も言わずに、いつも通りの仏頂面で俺の隣に歩いてきただけだったのだが、それは俺に取ってヒラギの一番素直な肯定である。
 隣に並んだヒラギは俺を見上げて、またすぐに正面を向いた。不機嫌な声が俺に届く。
「何が可笑しいのよ。思い出し笑い? バカみたいだからやめといた方がいいわよ。あたしもそんな奴の差す傘の下なんて、入りたくないからね」
 俺がどんな顔をしていたのかは解らない。鏡なんて持っていないし、足元の浅い水溜りには俺の顔など映っていないので、確かめることも出来ない。それ以前に確かめるつもりも無い。俺がどんな顔をしていたのか何て、どうでもいいことである。
「文句があるんだったら出て行け。無理に入れとは言わないからよ」
 これが俺に出来る精一杯の反論だった。
 ヒラギは黙って、意志の強そうな大きな眼で俺を見上げた。
「入れって言ったのはあんたでしょ。それとも何? もう前言撤回とかするわけ? もうちょっと自分の言動に責任持ちなさいよね。無責任な男は嫌われるわよ」
 傘から出たくないと言っているように聞こえるのは、俺の精神状態がおかしいのだろうか。
 傘の下、雨に濡れない安全圏内は高校生の男女が二人入るには十分すぎる面積。歩き難さはなさそうだ。
 ふと気になって、新たに生まれた疑問を俺は口にしていた。
「お前も嫌いなのか、そういう奴は?」
 合図無しに歩き始める。ヒラギは傘を持って歩く俺の隣を歩きながら、
「バカ」
 正面だけを見て言った。
「だいたいあんた、どうして今から下校なのよ。掃除当番のあたしと、そうでないあんたが一緒の時間に帰るなんて、おかしいじゃない。それに玄関を出たのはあたしの方が先だし。どうしたのよ、教室出た後、何してたの?」
「職員室に呼ばれてたんだよ。最近の俺は授業中に寝てることが多いから、その事で呼び出しだ」
「あっそう。ずいぶんくだらない事で呼び出されてたのね、あんた」
 口からデマカセを、ヒラギは案外あっさりと信じ込んでしまった。
 ヒラギの隣を歩いて下校するのは初めてではないが、今の俺は妙に新鮮な気持ちだった。腕を掴まれずに歩いているのは、思えば今回が初めてかもしれない。それどころか今回は俺に歩行の主導権があるといってもいい。俺たちの間に会話は無く、またどちらから話を切り出すことも無く、沈黙したまま脚を動かしていた。
 傘に雨が降りかかる音がやかましい。前だけを一心に見て歩を刻むヒラギは、今何を考えているのだろう。訊いたら答えてくれるかもしれない。ヒラギ自身がそれを理解していればの話だが。
 黙りこくったままの雨中散歩は、いつもの橋に差し掛かっていた。今から思えば懐かしい。かつての夕日を見るヒラギのはしゃぎ様。まるで子供のように無垢な姿。夕日を見据える黒い瞳。よく見ておけばよかったと、今になって俺は後悔していた。
 今度また夕日が見える時間帯にここへ連れてきてやろうかと思ったが、また自殺未遂を行われては、それを阻止する俺の身が持ちそうに無いので実行に移す事は無い。それでもやはり、あのときのヒラギの表情をもう一度見たいと俺が思っているのは事実であり、心中、二つの思いが静かに葛藤していた。
 何の気なしに、橋を渡り終えた俺はヒラギに話しかけていた。
「さっき傘が嫌いとか言ってたよな。あれって何でなんだ?」
 訊いてから返事が返ってこない。これまでならヒラギに質問してから答えが返ってくるまで、答えを待つという感覚さえも無い短時間だったはずである。
 答えを待ちながら無言で歩を進める俺は、自分が質問してから三メートルほど歩いてようやく異変に気が付く。

 さっきまで同じ傘の下にいたヒラギが消えていた。

 ごく自然に俺は振り帰り、そこに雨に濡れたヒラギの姿を発見した。長い黒髪を雨の雫が伝っていた。ヒラギは戸惑うように視線を一度だけ足元に落とし、それでもすぐに無表情な顔を俺に向ける。
「傘は、自分を覆い隠すから。……自分を隠してしまったら、誰もあたしを見つけてくれないから」
 そう、前置きのように言ったヒラギは空を仰ぐ。雲に覆われた遥か天空を彷徨うように。どこまでも果てしない空に何かを探すように。
 天空がこぼす大粒の涙が地上を濡らし、風がヒラギの髪を揺らしていた。未だに傘の下にいる俺とは違って、すでにヒラギは全身びっしょりである。
 ヒラギがいつの間に傘の下から消えたのかを推測すると、おそらく俺が質問したときからだという結果に辿り着く。意表を突かれたのか、それとも他の理由があるのか、ヒラギは俺が質問したときに立ち止まっていたのだろう。そして俺はその事に気づかず歩いていったために、雨の中にヒラギを置き去りにしてしまったということだ。とすると責任は俺にある。
 何とかするべきかと一歩踏み出したとき、それだけで終わりかと思ったヒラギの話はまだ続いていた。歩み寄ろうとする俺を制するかのように、それは始まった。

「あんたは世界の色って何色だと思う?」

 雨は激しさを増していた。天空から降り注ぐ無数の雫が地を打ち、まるでヒラギの話を妨害でもしているかのようだ。俺はやかましい雨の音の中でも、ヒラギのつむぐ一言一句を聞き逃さぬよう耳を澄ませる。近くに行けばいい。そうすれば声もよく聞こえるだろう。しかしヒラギの眼はまるで俺を見つめながら、近接を拒絶しているみたいに俺は感じて、どうしても空いてしまった距離を縮めることが出来ない。
 少なくとも、ヒラギが語り終えるまでは。
 初めて宇宙に行って地球を見下ろした、あの有名な宇宙飛行士は確か、広大な宇宙に浮かぶこの惑星を見下ろして地球は青かったと言ったそうだが、ヒラギが訊きたいのはそんな事ではないだろうし、あいつだってそんな事は知ってるだろう。
 俺は言葉に詰まった。どう返事をしていいか解らない俺の沈黙をヒラギはどう受け取ったのだろうか。
 泣きやまない空をまた見上げて、その瞳に憂鬱の色を浮かべる。雨の中でも輝く大きな純黒の瞳が俺に向いて、ヒラギが語り始めた。


 ◇


 ――泣きやまない空をまた見上げて、その瞳に憂鬱の色を浮かべる。雨の中でも輝く大きな純黒の瞳が俺に向いて、ヒラギが語り始めた。

「あたしは黒色だと思う。それも本当に真っ黒な、混沌とした黒色。漆黒よりも深くて暗い、それでも何も感じさせない無情な色。
 あたしはね、この世界の人はみんな自分の色を持ってると思うのよ。それで、世界中に存在する全ての人間が持つ色が混ざり合って、この世界の色を創りあげている。それが黒。ずっとあたしはそう思ってた。でも、その黒色の中にあたしの色も入ってるって自覚したのは、小学校の高学年、中学に入る少し前の事。前に中庭でした話、覚えてるでしょ? 隣の席の奴に訊いてみたっての。あたし、あの時はこの事言わなかったけど。……あたしの色が世界の色の中にあるんだったら、誰もそれに気づいてくれないと思ったの。
 そうでしょ? 底無しに深い黒の中から、たった一色だけを取り出せって言われても、普通は誰もそんな事出来ないし、しようとしない。砂漠の砂の中に落とした公園の砂の一粒を拾ってこいって言われても、誰もそんな事はしない。それと同じで誰もあたしの色に気づいてくれない。誰も誰の色を見ない。自分さえも。自分の色だって解らないのよ。
 他人は自分を映し出す唯一の鏡。写真や映像は外見を映すことが出来るけど、その人の内面、色までは写してくれない。だからそれを発見できるのは自分以外の誰か、他人でしかないの。それなのにこの世界では誰も他人を見ようとしない。それじゃあいつまで経っても、誰も自分の色が解らないままじゃない。そう思うと、あたしはこの世界に混ざるのが怖くなった。だから中学時代も今も休み時間は出来るだけ教室にいないことにしてる。たった三十人でも、三十色混ぜ合わせれば出来るのは黒。あたしはそれに飲み込まれるのが嫌だった。怖くて、本当に怖くて……。だから逃げた。一人で自分の色を見つけようとした。他人には解からなくても、あたし自身なら理解できると、そう思ったから。いいえ、自分一人でもそれを理解していなかったら、知らない間にそれは色あせて、一生見つけることが出来なくなると思った。矛盾してるでしょ? 自分で自分の色を見つける事は出来ないって解ってるのに、自分で探してしまう。
 自分らしさ、なんてこと、何よりも自分の近くにあるのに、いざそれが何かって訊かれたら答えられない。そうしている内にそんな事がどうでもよくなって、気づけば自分を見失ってるんじゃないか。でもあたしはそれが嫌。嫌だから、あたしはあたしなりにそれに抵抗しているつもり。今も――、それにこれからも」

 ヒラギの瞳が濁って見えるのは、こいつが何度も空を見上げたことが原因だろうか。それとも、その眼を濁しているのは、ヒラギの涙なのだろうか。
 ヒラギが話し終えると、雨はその勢いを少しだけ弱めていた。語りの最中のみ激甚の勢いを見せ付けた雨は、やはりそれを邪魔したかっただけに思える。ヒラギの麗しい長い髪が雨に濡れて、妙に艶やかに見えた。その上を滴る雨の雫が地に落ちて、小さな波紋を作る。
 俺は何かコメント欲しそうに立ち尽くして自分を見つめてくるヒラギに歩み寄った。
 傘を前に突き出して、自分を雨の中に置いてその代わりにヒラギを傘の下に入れる。
 長髪を流れる雫が先で留まっているのを見つけて、意味無くそれが落ちるのを待ってから言った。
「風邪引くぞ」
 こんな事しか言ってやれないが、実は俺の胸中には別の言葉も用意されていた。

 俺もお前と同じなんだよ。

 俺がまだ現実逃避の真っ只中にいた頃の話になる。あの頃の俺も、今のヒラギと同じ事を考えていた。しかしそれは恐怖とかを除いてのことになる。当時の俺にはそこまで考える発想力はなかったし、そこまで夢と現実を重ねて考える事はしなかった。世界の色なんて、哲学的で難しい命題など聞いただけで嫌になるだろう。今だってそうだ。今の俺も、そんな事を真剣に考える事は出来ない。
 それでもただ、自分の色を探しているって部分だけ見れば、当時の俺は今のヒラギと変わりない。決して答えを見つけることの出来ない宝探しから、俺はとうの昔に降りていた。
 嗚呼そうだ――今やっと解った。確かに俺はこいつと似ている。昔同じものを探していたんだ。
 聴神経を没収されたかのような静寂が俺たちを取り巻いていた。雨の音さえも聞こえてこないくらいの。その静寂も長くは続かず、走り抜けていった車の音にあっさりと破られた。
 俺を見上げるヒラギの眼は何を求めているのか。その答えを知ることが出来れば、この煩わしさも無くなるだろうに。
 ヒラギは走り去ってゆく車を追うように、そして黙ってまた歩行を再開した。
 近くにあるのに遠く感じるヒラギの背中は俺に何を語りかけているのだろう。
 またヒラギが雨にさらされぬように、傘を握った俺もその背中を無言のまま追いかけた。


 ◇


 会話も無いまま、雨の音をBGMとした行進は何事もなく事務所に到着したことにより終了した。
 細い階段を上がるときも、さっきまでも俺はずっとヒラギの後ろを歩いている。
 頭の上から聞こえるテンポよく刻まれていたヒラギの足音が止んだかと思うと、俺の踏み出した足の先にも階段の終わりがやってきた。
 ノックをしないのはヒラギ的には当然の入室方法であり、いつもそうしているように今日もノック無しで部屋に入って行った。
 少し遅れて俺も部屋の中へと足を踏み入れる。そこには社長席に腰を下ろす棺木さんの姿が無い。
 俺はとりあえず部屋中を見回してその姿を探してみた。もしかすると過去何度か経験があるように、気づかぬ間に背後を取られているのではないかと思って振り向いてみたが、そこに棺木さんの姿も人影もなく、ただそこには個室トイレの扉が存在していた。
 棺木さんはどこかへ出かけているのであろうか。それともまた遠出の仕事が入ったとかかもしれない。理由はどうあれど、とにかく今ここには棺木さんがいない。彼が俺の前に現れたのはつい最近であるから、これが珍しいことなのかは解からないし、どこへ行ってる考える気にもならない。
 先に部屋に入ったヒラギは、社長不在の事務所をぐるぐると歩き回って、やがて部屋の隅に置かれたロッカーへと歩み寄って行った。何が出てくるのかと俺は予想していた。制服が相当雨に濡れていたから、もしかしたら着替えが出てくるのではないかと考えたが、実際ヒラギの手に掴まれて俺の視界に現れたのは、純白の大きなバスタオルだった。どうしてここにそんな物が準備されているのか、つくづく疑問である。
 戸口でドアノブ片手に立ち止まっている俺に、ヒラギは視線を送ってきた。無言で何かを伝えようとしているとは思えない。俺が何か言ってやる場面なのかと考えていると、視界が突如として真っ白に覆われた。そして顔全体に伝わる柔らかい感触。顔に覆いかぶさるその物体を手で剥がした。さっきヒラギが持っていたタオルである。これでどうしろと? 
「風邪引くって言ったのはあんたでしょ? さっさと拭きなさいよ」
 苛立ってそう言ったヒラギが新たなバスタオルを取り出した。色は白。大きさも俺の持っているものと変わりない。見た目には違いなど微塵も無い。
 俺は受け取ったバスタオルでまずは首周りを拭き始めた。一方で、部屋の奥にいるヒラギは濡れた長髪を拭いている。俺も頭を拭き始めようとバスタオルを握った手を頭上にかざして、ついでにまだドアノブを握っていることに気が付いた。手を離して扉を閉める。部屋の中央にある机群、その一つである雑用机に歩み寄ろうとすると、
「ちょっと、外に出てて」
 俺の行動をヒラギが制した。
「制服びしょびしょだから、着替える。だから外出てて」
 何が言いたいのか理解できた俺は、閉めたばかりの扉を開いて外に出た。
 ヒラギほどに服が濡れていない俺は、まあ貰ったバスタオルで拭いておけばいい程度の濡れ具合である。雨の下で長い間話していたヒラギは別であるが。
 閉じられた扉に背中を預けるようにして、雨に濡れた髪を拭き始める。
 はっきり言うと、少しだけ意外だった。ヒラギなら俺の前でも普通に着替えをおっぱじめるかと思っていたが、それは俺の勝手な妄想だったようだ。ヒラギにだって羞恥心というものがあるらしい。乙女の恥じらい、とはまた違う気がするが。
 頭の上に被さるバスタオルを動かすたびに水滴が辺りに飛び散った。前髪から足元にぽつぽつと雫が落ちる。それを下靴で伸ばして掻き消しながら、俺はヒラギの長ったらしい話を思い出していた。

 ――世界の色って何色だと思う?

 ――飲み込まれるのが嫌だった。

 ――怖くて、本当に怖くて……。

 ――だから逃げた。

 ヒラギの口から怖いとか、逃げたとかいう言葉が出てきたときは、俺はけっこう動揺した。こいつが怖いとか思うものがこの世に存在することが、何よりも驚きであり、さらに逃げたと認めていることが最も驚愕したことである。RPG的なゲームの主人公みたいに、どれだけ得体の知れない、知っていても敵わないと解かりきっている相手にでも平気で剣を翻す、ヒラギはそんな奴であると、俺は勝手に思い込んでいた。
 幻滅とは違うが、俺の中で自分がイメージしていたヒラギの人物像が確かに崩れていた。
 それでも、やはりそっちが本物のヒラギであることは、変えようの無い事実。認める必要のある現実。
 だからこそ、俺はやっぱりヒラギを理解できていなかったんだろう。
 身体を拭く作業を中断して、電球が光っている天井を見上げた。ずるずると背中で扉を滑り座り込んでしまう。全身の力が抜けていくように感じた。
 顔の上にバスタオルを被せて、俺は少しの間こうしていることにした。
 気が遠くなるような話を何度も頭の中でリピートする。
 今ならヒラギの意見に賛成票を投じてやれる。誰だって自分らしさなんてわからない。
 俺は相当ぼおーっとしていたのだろう。誰かが階段を上ってくる音を聞き逃していた。
「こんな所で何をしていらっしゃるのですか?」
 顔に乗っかるバスタオルを取って、俺は自分の前に立つ人物の全貌を確認した。
 白いビニール袋を片手に提げたその人物は、昨日見た通りの微笑をたたえてそこにいる。
 事務所内に不在であった棺木さんがそこにいた。
 棺木さんは俺を見下ろすのをやめて、すりガラスの向こうは当然見えるはずも無い。あごの下に手を持ってきて、今考えてます的なポーズを取った棺木さんはまた俺を見下ろした。
「天羽さんは、まだ来てないのですか? それとも彼女はすでに中に居るとか?」
 ジャケットを雑に拭きながら俺は立ち上がった。
「後者ですよ。雨で濡れたから中で着替えてます。それで俺は外に出ているんですよ」
「なるほど、やっぱりそうですかー」
 棺木さんは陽気に言った。
「この事務所には、あいつの着替えまであるんですか?」
 俺が訊くと同時に背後の扉が開かれた。内開きであるから、後頭部に痛みが走る事は無い。
 一体どんな服装になっているのかと、そこにヒラギがいるであろうと予想して振り返ってみると、何とまあ、体育着に身を包んだヒラギがドアノブ片手に立っていた。
「入ってもいいわよ」
 入室許可を得て、まずは俺が中に入る。
 続いて棺木さんが、ヒラギに挨拶して俺の背後に付いてくる。
 改めて俺は雑用席に腰を下ろした。バスタオルをどうしようかと思っていると、それをヒラギがあっさりと回収した。どうするつもりかと思えば、ヒラギはそれを自分の鞄に詰め込んむ。
「お前のなのか?」
「違うわよ。でも、使ったら洗って返すのが常識でしょ」
 お前が常識なんてものを弁えているとは、甚だしく意外だよ。
 ヒラギは棺木さんに眼をやると、愛想のかけらも無い仏頂面で、
「あたし今日は疲れたから、もう帰らせてもらいます
 まだ自分が社長であると思い込んでいるのだろうか。
 終始スマイルフェイスの棺木さんは首肯して、ヒラギの帰宅を許可するのだった。
 ヒラギは鞄を片手に、さっきから開いたり閉じたりを慌しく繰り返す扉を開いた。もしかしてヒラギは、ここに着替えるために来たのだろうか。体育着の後姿は濡れた髪をストレートに背中に下ろしている。
「おい天羽、お前傘無いだろ? 俺のを使ってもいいぞ。どうせ俺が帰る頃には雨も上がってるだろうし」
 ヒラギは扉を開いた状態で身体を静止させた。
 頭から垂れる髪が翻り、それでも身体は反転させず、ヒラギは顔だけを俺に向ける。
「大丈夫。きっと今はもう雨も小降りになってると思うし」
 言い終えた体育着の娘はまた前を向いたかと思うと、その半秒後にもう一度こちらを向いた。
 何がしたいんだろうと思う。ヒラギはこちらを向いたかと思うと、まともに自分の視線が俺の物と衝突してそっぽを向いた。横顔は髪が覆っていて、表情を確認できない。
「ありがと」
 ヒラギが小さく呟いて扉が閉められた。


 ◇


 扉が閉まる音が虚しく室内にこだまして、それがこの空間に存在する唯一の音だった。
 俺はどこへやっていいか解からない視線を空中で漂わせて、扉のすり硝子にそれを向ける。
 ヒラギが閉ざした扉。最後にヒラギが言った言葉を思い出す。

 ――ありがと

 だたそれだけの言葉。ヒラギはその時どんな表情をしていたのだろう。普段着みたいな仏頂面か、夕日を見ていたときみたいな明るい、あるいはその他の。いずれにせよ、俺にそれを知る方法などは無い。
 振り返ってみると、そこには棺木さんがいた。忍者にでも推薦したくなるような、まったく相手に警戒されること無く、自分の存在を殺した移動。暗殺部隊にでも所属できそうだ。
 棺木さんは手に持ったビニール袋から茶色い缶を取り出して、俺に手渡した。暖かい。
「雨で身体が冷えたでしょう? 温かいコーヒーを買ってきましたー」
 掌で握った缶コーヒーの温度を確かめる。この時期に温かいコーヒーというのは、普段の俺はあまり飲まないが確かに今は身体が冷えている。何分今は四月だからな。アホみたいに暑かった昨日一昨日が異常だったんだろう。
 受け取った缶コーヒーを机の上に置いた俺は、椅子にどっかりと腰を下ろした。まだ湿気を含んでいる制服が肌に張り付いて気持ち悪い。
 今日はいつも以上に疲れた気がする。朝の手紙に始まり、雨の中で聞いたヒラギの話。よくもまあ、慌しくいろんなことが押し寄せてきたものだ。世界の森羅万象という奴は随分せっかちで俺に休む暇を与えてくれない。
 社長席に視線を向けてみると、やはりというかなんというか、超自然的に棺木さんは微笑している。その光景がある種のオブジェのようになっていて、棺木さんには気配というものが無いために余計に人間性に欠けている。
 机の上に置いた袋の中に手を入れて、中身を模索しているようだ。買ってきた商品を一つずつ取り出し社長デスクの上に並べていく。コーヒーにパン、それらが計三つ並んだ。おかしなことがある。飲み物は俺が貰った缶コーヒーを含めても二つ。そして陳列したパンの中には菓子パンが無い。まるでこの場にヒラギがいない事をあらかじめ予測していたかのような内容。
 さすがの俺もこれには不審に思った。人のいい棺木さんが、ヒラギに対してこんなくだらない嫌がらせをするとは思えない。この人の気の回りようは常人異常である事を俺は知っている。同時にその他の面でも非常人的であることもまた既知の事実だ。
「まるで、この場からヒラギがいなくなることを知ってたみたいですね、棺木さん」
 覚悟しながら俺が言った。
「偶然ですよ。どうぞ」
 手に取ったパンを俺に差し出すようにして微笑している。それを取りに行くべくして、俺は椅子から立ち上がり、社長席に向かった。ヒタヒタと歩くたびに気持ちの悪い。水が靴底から浸食してくる。
 受け取ったパンは甘党のヒラギならば、こんな物は絶対に口にしないだろうと思うようなそれ。棺木さんの味覚的な好みはヒラギとは対照なのかもしれない。渡されたコーヒーも無糖と書かれていたし。
 俺が再び席に着いたときには、棺木さんはコーヒーと買ってきたパンを口に含んでいた。俺も缶コーヒーを開ける。湯気がゆらゆらと立ち上った。
「小腹が空いたので、前回あなたに行ってもらったコンビニに出向いていました」
 自分のそれまでの行動を報告する棺木さんは、コーヒーを口に含んだ。別にそんな事は訊いていないし聞きたくも無い。それでも俺は黙ってその話を聞きながら、缶コーヒーを啜っていた。思ったよりも、熱い。これなら冷めるまでに少し時間が必要だろう。
 ヒラギがいないと非常に静かなこの事務所。そもそも俺と棺木さんが会話をするシーンなんて、そうそう思いつかない。前回話しかけたときには、俺は本気で殺されるのではないかと思ったしな。……そういえば、その時の話がまだ済んでいない。
 持ち上げたコーヒーの缶を机の上に置いた。内部でまだ半分以上残っている液体が揺れる感覚が、握った掌に伝わる。
「棺木さん、前の話がまだ終わってません。この事務所の秘密、ここが世界の中心に近いって話、あれは結局どういう意味なんですか?」
 缶から手を離して、身体を棺木さんの方によじって俺が訊いた。このとき、既に棺木さんは買ってきたパンを平らげていた。どうでもいいような情報だが。
「そのままの意味です。まさしく、この事務所が世界の中心に近い場所だという意味なんですよ」
「地面がめちゃくちゃへこんでいて、実はこの場所が地上よりかなり低い位置にあるってことですか?」
「そうであったらどれほど愉快な話でしょうね」
 棺木さんは嘲笑した。なんか腹立たしい。
 忙しくコーヒーを啜っている棺木さんは微笑を崩さない。
 言葉の意味を理解しようと努力する俺は、結局答えにたどり着くことが出来なくてもどかしくなる。解るはずが無い。中心に近いってなんだ? 地球の中心にはマグマがあるとか、中学の理科で習った気がする。それにしてはこの場所は常温を保っている。
 俺がまったく見当ハズレな事を考えていると、棺木さんが助け舟を出すように切り出した。
「あなたは、この世界はどのような物だと考えていますか?」
 今日何度目になるだろう言葉。世界。どうしてヒラギも棺木さんも、そう世界、世界と連呼するのだろうか。そういえば二階堂も言っていた気がする。当然ながら俺は哲学者ではないし、将来なりたいとも思っていない。世界について詳しく考えるなど、するだけ無駄だと思っているしな。そんな話は堤として欲しい。あいつなら喜んで話に乗ってくるだろう。
「難しいことでしょうかー? 私が訊いているのは、あなたにとってこの世界はどのように感じるものかと、そういう意味なんですよ」
 そんな事を説明されても、やっぱり俺には解からない。中学を出てまだ一ヶ月、高校に入っても一ヶ月、そんな俺がこの世界に対して何か考えてなどいるわけがないだろ。
「ではまた言い換えましょう。あなたはこの世界の色を何色だと認識していますか?」
「またそれか」
 俺はうんざりしながら、ため息でも吐くかのようにそう呟いた。風邪でも引いてしまいそうなくらい長い間雨の中で聞いた話。ヒラギの言っていた自分の色だとか、世界の色だとか。
 棺木さんは表面上変化の無い顔で首を傾げる。
「また、とはどういう意味でしょうかー?」
「こっちの話です」
 どうでもよく吐き捨てた俺が、
「黒じゃないですか? いろんなもんが混ざった黒」
「おや? 偶然ですかね、私が思う色というのは、黒とは対照の白なんですが。考えても見てください。この地球という星は、そもそも誰が創ったものだと、あなたはお考えですか?」
 誰が創ったと訊かれて、答えられる質問ではないと思うが。
「この地球上に人間や植物、それら全ての生命をこの世に生み出した存在を、人は神と呼んでいるのでは無いでしょうか? どんな芸術品にも、必ず作り手の色が反映されます。ここでいう『色』というのは、『個性』や『特徴』と受け取ってください。この世界だってそうだとは思いませんか? 創造主の色が反映されていると。その創造主が望んだからこそ、地球上には人類が存在し、自然もある。戦争や環境破壊を、創造主が望んだかは知りませんが」
 椅子に座りながら脚をばたばたとさせていた。つま先が床を打つ音が一定のリズムを刻む。
 聞いていてだんだん呆れてきた。
 たいした言い分だ。どこかで宗教団体でも立ち上げればいい。
「私は別に、この世界の創造主を信仰しているわけではありませんよ。むしろその逆と言ってもいいでしょう。人間という劣等種族を生み出した、その存在を。この話はここまでにしましょう。方向性がずれてしまいました」
 棺木さんの微笑が苦笑に変わった。
 閉じていた左目が薄く開き、鋭い眼光が俺を射抜く。
「話を戻しますよー。どこまで話しましたか?」
「世界の色が白ってところまで聞きました。そこから創造主がどうとか、人類やら戦争やらが入ってきました」
「そうでしたか。では何故、白というところから話せばいいんですね。人間は誰しも、裏と表を持っていますね。他人から見ることの出来る表、つまり外見。そして他人には決して覗くことの出来ない、精神面、メンタルな部分です。そして私の考えでは、人の表を創っているのは、裏である。と、考えているのですよ。裏があるから表が在る。よくいうでしょう? 人は自分の表には簡単に気づくことができます。しかし裏には気づけません。それは自分自身ですら、裏を覗くことが出来ないからです。表なら鏡でも見ればいいでしょうけど」
 他人は自分を映し出すかが見であるとは、つい先刻聞かされた話である。
 このときの俺は相当苦しい顔をしていたのだろう。棺木さんは息継ぎをするように話を切り、真剣な表情を和らげた。
「どうにも言っていることが解からない。自分の内面なんて、意外と解かっているものじゃないですか?」 
「言い方が悪かったかもしれませんね。私の言う『裏』とは、何も性格や癖などの事ではないんですよ。そんなものは他人でも理解できますから。……そうですねー、例えるならば、さっきの話の『色』ですよ」
 さっきはその『色』ってのを、個性とか特徴って言ってなかったか? 
「では前言を撤回しましょう。人は自分の裏を知らない。何故ならば、それは誰にも知ることの出来ないように創られているからです。紙を裏返さずに、その裏側を見る事は不可能ですからね。人は表を肯定し、裏を見せようとしない。たとえしたとしても、それは不可能です。これは人間を創った存在が、それを不可能なものとしたから、としか言いようがありません。さて、あなたに取ってこれは幸ですか、それとも不幸ですか?」
 俺は自分の裏面を知りたいとは思っていない。しかしながらこのとき、不覚にも俺はヒラギに感情移入してしまっていたので、次のような回答をしていた。
「不幸ですね。それを知りたいと思っても、決して知ることが出来ないのなら、やっぱりそれは不幸だと思います」
 棺木さんは何のコメントもよこさなかった。
「こんな話を知っていますかー? ある老人が、知人から馬を貰い受けました、このときの老人はこれを幸運として受け取ります。しかしその翌年、老人の孫息子がその馬から落ち、足に怪我を負います。馬を貰ったが故の不幸です。老人にとっての幸は、そこで不幸へと変化します。しかしこの話にはまだ続きがあります。老人の孫息子が怪我を負った年、その国は戦争の真っ只中です。若者は皆、徴兵されましたが、老人の孫息子は足の怪我により、それを免れました。そこでまた、不幸は僥倖へと変化を遂げます。これはつまり、人にとって幸運だと思っていたことが不運に変わってしまうことも、不運が幸運に変わることもあるという事です」
 塞翁が馬、という故事成語なんですけどね、と楽しげに笑って話をしめる。そんな楽しげな表情の棺木さんとは対照に、俺の脚は上下運動する速度を三割り増ししていた。下靴が床を打つ音が静かな事務所にテンポを速めて響く。
 ますます話がわからなくなり、俺は混乱の境地に連れて行かれた。
 一人で頭を抱えていてもしかたがないので、話の意図するところが解かっているであろう人物に訊いてみる事にする。
「それとさっきの話と何の関係があるんですか? それにまた話がずれてます。白の理由をまだ聞いてません」
「それですねー。実は私もどう説明していいのか解からないんですよ。前にも言いましたが、百聞は一見に如かずといいます。ここで何時間語るよりも、実際に見てみる方が早いでしょう」
「何をですか?」
「世界の、中心を。です」


 ◇


「世界の中心?」
「はい」
 回答をよこして棺木さんは立ち上がった。コーヒーを飲もうかと缶を掴んだ俺もそれにつられて立ち上がる。
 掌に伝わる温度はまだ暖かい。
「ここまで話を進めてからでは、こんなことも言いにくいのですがー……。嫌なら無理にとは言いませんよ?」
「ここまで話を進められたら、さすがに気になります。大丈夫ですよ」
 肯定すると棺木さんは微笑してうなずいた。
 いつか見た光景が網膜に映し出される。
 棺木さんは右目を隠す前髪の下に手を忍ばせた。
 この行動にどんな意味があるのだろう。
「それでは、私の目を見ておいてください。右だけで結構です」
 視力検査を思い出させるような事を言って、棺木さんは左目を開いた。
 右目だけでいいと言われても、その右目は現在前髪に隠れていて見ることが出来ない。
 言われたとおりに、俺は棺木さんの見えざる右目を凝視していた。髪の下に入った手が、ゆっくりと上方向に移動を開始する。一気に掻き揚げればいいものを、棺木さんは故意にスローペースでそれを行っている。
 集中するあまり瞬きを忘れていた俺は、眼球の渇きを感じて目を閉じる。そして開いたとき、そこには初めて見る棺木さんの右目があった。

 ――と、その瞬間である。

 突如俺を襲う無重力の感覚。震度六強くらいの揺れ。足元が床に着いているかも解らない。
 さらには突然無重力が消える。身体が浮いていた感覚から唐突にそれは変化を遂げる。まるで通常の重力を三倍にしたかのような感覚。性質が悪いことにそれは気まぐれに変化していた。重力が異常に掛かったり、そう思っていたら重力感覚が消え失せたり。視界が上下に揺れているかと思ったら、今度はぐるぐるとメリーゴーランドのように回転を始め、逆回転したり、高速回転したり、やけにゆっくりと回転したり。目を閉じても襲ってくる揺れる感覚。俺が吐き気と眩暈と頭痛を同時に催し始めると、最も眼を見張る現象が発生し始めた。
 それまであったはずの床、壁、天井、机、窓、電灯、それら全てがモザイクが掛かったような姿になり、ゆらゆらと揺れるCGのようになったかと思うと、それは忽然と姿を消してゆく。砂粒のように小さな粒子にそれらは分解され、風も吹いていなのに一定の方向に流れてゆく。
 やがて身の回りに存在する全てが消えて無くなったかと思うと、俺を苦しめていた吐き気や眩暈や頭痛も同じように失せていた。
 確かに地を踏んでいる感覚。忘れかけていた現実感。全てが戻ってきても尚、俺は呆然としていた。
 目の前に広がる景色を見ての感想が、なんだこれ。である。
 天井も壁も無い。吹き抜けとなった空を俺は見上げたが、そこには不機嫌な灰色の雲が無い。当然、雲が無いのだから雨も降っていない。何も無い。ここは星も太陽も月も雲も、本当に何も。色すらもこの場所には存在していない。
 何も無い空を見上げることしばし、続いて俺は自分の周りを三百六十度見回した。
 どこまでも続く平らな足元。地平線など見えない。果てしのない平面は空同様に色が無い。
 脚で地面を蹴ってみた。爪先を強く打ち付けると痛い。続いて俺はしゃがみ込んで足元に触れてみる。冷たくも、熱くも無い。擦ってみると、さらさらとも、ざらざらともしていない。見た目には凹凸がなく、触ってもそれは感じられない。手の感覚神経に訴えるものが何も無い。
 明らかに面食らう俺は、立ち上がって、説明を求めるようにして棺木さんを見据えた。
「驚いてますねー。それが当然の反応です。ここに初めて来て、驚かない人間の方が神経が狂っています。私ですら、初めは驚きましたからねー」
 懐かしそうに言って、棺木さんは天を仰いだ。
「白、というのも端的ではありませんね。無色とでも言うべきでしょうかー? そこにあるのは確かであるのに視覚的に訴えるものが何も無い。何故この世界がこんな――」
「待ってください」
 一方的な解説を開始しようとした棺木さんを、俺の言葉が制した。
 空を見えげる愛想のいい微笑が俺に向く。
 突然こんなミステリーゾーンに連れてこられては、流石の俺も落ち着いて話を聞くことなんて出来やしない。まず初めにここがなんなのかを知るべきである。
「一体ここはどこなんですか? ていうか、何なんですか?」
「世界を取り巻く因果の流れ、その中心にある空間です」
「それで世界の中心ですか?」
「正式な名称がありませんから。そう紹介しただけです。中心世界とでも呼んでください。何分、この世界を知るものは私とあなたを含み、片手の指で数え切れますからね。少なくとも、私の知る限りでは。私が他人を伴ってここに来たのは、これが初めてとなります。――空を見てください」
 ピッ、と立てた人差し指の方向は空らしからぬ空、何も無い上空を示していた。言われたとおりに俺は天を仰ぐ。やはり何も無い空。虚空という言葉の意味が、そのまま適応される。虚無であり、空虚である。この空がどうかしたのだろうか。
「この空、いえ、そもそも空ではないのですが……、そう呼んだ方がいいですから、この際は空としておきます。この世界での空はさっき話しました人の裏側。人の内面世界がこの空を構築しています。人の内面世界、私はそれを『イロの世界』と呼んでいます。全人類のイロがこの空を創り、飽和状態したを保っています。故に無色。何も訴えない虚無だけがあるのです」
 ヒラギが知りたがっているのは、おそらくその『イロ』というものだろうな。
 視界を一部分に固定できない俺は空に何かを探すかのように視線を泳がせていた。やはり何も感じさせない飽和した空に限りはあるのだろうか。
 この世界には気温というものが無いのか、恐らくは無いのだろう。この空間では暖かさも寒さも感じられない。風も吹いていない。太陽も無いのになぜか暗闇にならないのは、どういった理由なのか。この世界の光源は一体なんだ。……いや、明るいわけでもない。光が存在しているとは思えない状況だ。
 首が痛くなってきたところで俺は虚空を見上げることを放棄した。これ以上見上げていても何も面白いものは見られないと考えたからだ。しかしその考えが間違いであると、俺はすぐに気づかされることになる。
「きましたよ」
 何が来たのかと訊こうとして、足元に向かっていた視線を棺木さんに放った。
 訊くまでもなかった。棺木さんは俺が見ることを放棄した何も無い空を見上げていて、俺もその行動に習って首を傾けようとしたその時、またさっきの感覚が訪れる。空間が激震するかのような激動感。しかし今回のそれは長くは続かなかった。吐き気を催すほどの勢いも今度は無い。その原因が解ったのは、俺が再び空を見上げたときである。
 閉めた蛇口から水滴が滴り落ちるかのように、空から何かが零れ落ちてこようとしている。辛うじて平面の空と繋がっていたそれは、やげて空と切り離されて円の形になり、重力があるのかも怪しい足元にゆっくりと一定速度で引き寄せられていく。垂直の等速直線運動だ。
 着地地点は俺の正面だった。近くで見るとそれの大きさがよく解る。ちょうど俺の身長と同じくらい。着陸したそれは少しずつ地面に吸い込まれていき、そして消えた。水溜りに落ちた一滴の水滴のように、静かに波紋を残しながら。
 またさっきの揺れが訪れる。
「今のは何ですか?」
 問う俺に棺木さんは、
「時空の歪みの上にいた人間が、この世界に飲み込まれたのですよ。何らかの理由で飽和状態に歪みができ、その真上にいた人物がこの中心世界に取り込まれたというわけです。正直、これを見れたのはラッキーですよ。こんな事は滅多にありませんからねー」
 沈みきった球体が着地した場所に、俺はもう一度眼を落とした。何の跡形も無い。
「取り込まれた人間は……その死ぬんですか?」
「死とは違いますが、まあ似たようなものです。この世界に取り込まれた人間はその存在を完全に抹消されます。その人物が干渉した記憶や歴史はすべて改竄かいざんされ、初めからどこにも無かったことになります。死よりも酷いかもしれませんね。人は死んでからも他人の記憶の中で行き続けますが、この場合はそれもありません。初めから存在しなかったことになりますから、誰も覚えてませんし、どこにも記録が残らない。おっと、始まりましたよ」
 今度は何が始まったのかと警戒心を張り巡らせる。
 さっき球体が沈んだ場所から、それが空から出てきたときの逆状態で、また球体が発生していた。それからはさっきの逆再生のように、球体が天に昇り、そして取り込まれていく。
 どういう事か少しだけ想像できたが、答えは自分で勝手に決めることなく、専門家の話を聞くことにする。
「この中心世界もあの空も、どちらも飽和状態を保っていますから、さっきのことで余分なイロが加わったことで、中心世界の飽和が崩れ、同時に空もイロを吐き出したせいで飽和を崩しますー。ですから、再び飽和を創るために余分なイロを吐き出すんです」
「イロってのは、人間ですか?」
「そうなりますねー。消失した人間と、新たに生まれる人間を構成するイロは同じですから、ほとんど変わらぬ人物が発生することになります。輪廻転生というと解り易いでしょうか? ただし、これは新たな命が誕生するわけではありません。構成される存在の起源や根源は同じですが発生するのは赤ん坊かもしれませんし、老人かもしれません」
 何を言っているのか、俺にはよく解らなかった。
「それはおかしいでしょ」俺は言った。「もしも生まれてくるのが老人、いや大人だったとして、その人の歴史はどうなるんですか?」
「その時に創られます。たとえばですが、あなたが小説や漫画を書くとして、主人公をどのように創りますか? まずは性別や名前、年齢やその他、周りの環境などではないですか?」
 俺に思い当たるフシは無いが、おそらくそうなるだろうと思ってうなずいた。
「そうでしょう。仮にその主人公が高校生として、誰も生まれたその瞬間からの歴史を事細かに設定はしませんね。それと同じです。発生した人間の歴史は既成事実として創られます。その人間がそこに在ったというように、現在や過去を塗り替えるのです。つまり、あなたや私もつい昨日、または五分前に生まれたのかもしれません、ということです」
 言いたい事は解っていたが、俺はどうコメントしていいか解らず沈黙していた。
 ここは拍手を送るべきなのか、それとも信じられるか、と反論すべきなのか。
 棺木さんもまた、微笑したまま俺を見据えていた。その微笑が少しだけ苦笑に見えたように俺は思う。
「天羽さんはこのような根本的な存在抹消、つまり死を理解しているんじゃないでしょうか?」
 それを言う棺木さんは、俺がこれまで見てきた彼のどんな表情よりも真面目な表情に見えた。
「ヒラギがこの世界を理解してるって事ですか……?」
 この世界に棺木さんが連れてきたのは俺だけではないのかもしれない。
 ヒラギもまたこの世界に来た事があるのかと、俺が考えていると、
「彼女をここに連れてきた事はありませんよ。誓って。それでも彼女はこの世界の仕組みを理解していた。もちろんはっきりとではないと思いますが、薄っすらと。だからこそ、彼女は自分のイロを探し求めているんですよ。見つかるはずが無いと思っていても、それでも世界に飲み込まれぬように、飽和の中に溶け込まぬように、空を見るなり夕日を見るなりして、彼女なりの方法で自分を探している」
 否定の言葉を聞くことになる。
 ちょっと待て、と俺は言いたい。いや、実際に言っていた。
「どうしてその事を知ってるんですか? ヒラギ自身が言ったんですか? 空を見て自分を探してるって」
 俺にはそれが不思議だった。別に自惚れているつもりは無いが、ヒラギが空の話を俺以外の人間にしていたとは思えない。
 案の定、棺木さんが返してくるのは否定の動作と言葉。
「彼女はそんな事を私に言った事はありません」
「だったらどうして?」
「私自身が見たからですよ。彼女の、イロの世界を。私の右目に宿っている力は、この中心世界に侵入する力と、それからイロの世界に侵入する力です。あなたの中にもお邪魔しましたよー、初対面の時に。イロの世界に入ってしまえば、その人間の事は簡単に理解することができます。あなたが中学卒業したてで就職の道を選んだ理由、面接では人事の人間に言わなかったそうですが、そこを見れば解ります。この際ですから、あなたの諸事情についてはどうこう言いません」
 思い出していたのは、初めて棺木さんに会ったときのこと。あの何かが通り抜けて言ったような感覚。
 何事も無いように廻る世界。この世界が自転しているかは怪しいが。
 棺木さんは妙に過去を懐かしむような表情になって天を仰いでいた。
 昔話でもするかのような表情を俺に向けて、また何やら語り始めた。
「私が自分の力に気づいたのは、小学二年のときです。初めて中心世界に入ったのは、それから三年が過ぎてから、そしてイロの世界に入ったのはさらにそれから三年後。初めは驚きましたね、時が経つにつれて私は自分の力について詳しく理解していき、徐々に驚きも消えていった。どうして私にこんな力があるのかは知りませんが、おそらくこの世界で唯一の力だと自負しています。これが神と定義された存在に与えられたものなら、私はその神とやらを憎みます。この力は必要の無い力です」
 うつむき加減に苦笑するその表情は、辛い過去を思い出しているように見えた。
 あの日のヒラギのように。夜空の下で見たヒラギの表情に、それは似ていた。誰しも知られたくない過去があるというやつだろうか。
 それ以降何も言わない棺木さんに、俺から物申してみた。
「だったら、ヒラギにあいつのイロを教えてやってくださいよ。あいつがそれを求めてるって知ってるんなら」
 簡単に言った俺を咎めるように、それでも微笑した棺木さんは少しだけ表情をシリアスにした。
「それは出来ません。言ったでしょう。人は自分の裏側、イロを知ってはいけません。それは人間を創った存在がそう定めたからです」
 いつもの軽薄な口調とは違った。一言一言を確かめるように、真剣な口調で棺木さんは言葉をつむいでいた。
「ここに来る前にした話を憶えていますか? 人にとって不幸は幸運に、幸運は不幸へと簡単に変化するという話です」
 右目はやはり前髪の下にある。それでも左目はいつになく真剣で、また表情もシリアスだった。それまでの微笑が作り物だった言うかのような表情。こんな顔も出来るんだな。
 馬を貰った老人と、その馬から落っこちて徴兵されなかった孫の話、確か塞翁が馬とかいう言葉の基となったエピソードを俺は思い出した。
 ここでようやくあの話が活きてくるのか。
「天羽さんは自分のイロを知りたがっています。だったら、そのことを教えるというのは、彼女にとってその時は幸運でしょう。彼女を自分の内面世界に連れて行けば、私が話す必要もないですし、そっちの方がダイレクトに伝わるでしょう。しかしそれは後に必ずや不幸に様変わりします。人は決して自分のイロを知ってはいけない。それは人を創造した神がそう決めたからです。他にいいようがありません」
 この人が、俺は棺木さん本人が神ではないかと思い始めていた。この人が世界中で一番世界を理解しているだろうし、何よりも目の力がある。そんな非現実的なシロモノは、やはり非現実的な存在しか持ち得ないだろうからな。
 果てしなく続く平面を眺めるように、俺は棺木さんを見ていた。その背後に続く平面には、おそらく終わりは無いのだろう。地球は丸いから歩き続ければスタート地点に戻ってこれるのだろうが、この世界はどうなのだろう。丸いのか。それともこのままの平面が続いているのか。 
「私は――」
 活動中の俺の思考を停止させるように、棺木さんは呟いた。
 見てみるとそこにはいつもの微笑。苦笑とも取れるが、この人の笑顔はこの人が正常だという証拠であると俺は認識しているので、妙な安心感に包み込まれていた。おかしくなるのはヒラギだけで十分だ。もちろんヒラギがおかしくなるのも困るが。
「私は人間をこのイロの世界に招きいれ、その人物を狂わせてしまった過去があります。勿論、そのときの私は自分のイロの世界に入った人間がどうなるかは知りませんでした。だからこそ、その人物の望みを聞き入れたのです。イロの世界はまるでドラックのようなモノ。一度入ってしまえば、確実に中毒になります。そこにいなければ、それまで以上に自分が解らなくなる。そういうものなんです。私は二度と同じ過ちを繰り返すつもりはありません。同じ被害者を出すつもりも。ですから、天羽さんに彼女のイロを教えることも、見せることもしません。それが、私に出来る唯一の償いですから。
 ――狂ってしまうのは、私一人で十分なんです」
 これまでに他人をこの世界に入れた事は無いと棺木さんは言った。では彼の言う狂ってしまった人間というのは彼自身の事なのだろう。
 同意を求めるかのような微笑は、これまでの作り物とは違う、本物の笑顔だったのかもしれない。俺は何も言わずにただ首肯する。しておきながら、それを認めたくない自分がいるのも否定できない。心のどこかで叫んでいる俺の言い分を紹介しておこう。
 ――だったら、ヒラギはどうなるんだよ。
 俺がとっくの昔に降りた、宝の見つからない宝探しを、あいつは一生続けることになるんだぞ? 
 お前はそれでいいのかよ。そんなヒラギを、お前は見ていられるのかよ。
 何よりもお前は、俺はヒラギと同じなんだろ? 俺も同じように自分を探していたんじゃないのか? だったら、決して報われない自分探しを続けるヒラギをお前は見て見ぬフリなんて出来るわけねえだろ。
 どうなんだよ。答えろ、俺。
 気が付けば俺は俺に訊いていた。
「…………」
 三点リーダを並べながら、俺は叫び続ける心中に言った。
「いいわけがねえだろ」
 でも、だからってどうしろと言うんだ? 俺にはヒラギの探してる答えなんて解らないんだぜ? 
 仮に知っていたとして、棺木さんの言い分じゃあ、それを教えてしまえばヒラギは自分を見失うんだろ。探していたものは手に入れてすぐに消えちまう。むしろそれまで以上に悪い状況になる。
 だったら俺はどうするのだろうか。俺がヒラギの事を心底理解して、そのイロを知ったとしたら。その時、俺はどんな行動に出るのだろう。
 ヒラギ、お前は俺にどうして欲しいんだ? 
 モノローグは他人の意思を確かめる形で終わった。結局今の俺には、ヒラギをどうこうすることは出来ない。それが結論である。自分の無力さが嫌になる。俺はこの形容し難い苛立ちを、雲も星も太陽も月も無い虚無の空に叫びたくなっていた。それを知ってか知らずか、棺木さんは語りつかれたような苦笑で俺に言った。
「そろそろ戻りましょうか。ここで見てもらいたいものも、話しておきたいことも、全て見せて、話しましたから。これ以上ここにいても無利益です。後一つお話しするべきことが残っているのですが、それは元の世界に戻ってからにしましょう。ここにいるのは疲れます」
 飽和した世界。全てを飲み込み、全てを消し去る。
 来たときとは違い棺木さんは簡単に前髪を上げた。見るのは二度目になる、隠された右目を俺は視界に捕らえる。
 中心世界からの帰還はあっけないものだった。
 来るときに襲われた激しい現実喪失感覚はなく、吐き気も眩暈も正体不明の揺れもなし。
 気が付けば俺はいつもの事務所に立っていた。
 床も壁も天井も机も窓も、全てが健在である。
 そこにいつもの時間が流れ、そしていつもの、当たり前の、何もないただの日常が復活した。
 自分の居場所を確かめるように首を振り、ここがさっきの飽和世界でないことを自覚した。
 半分以上も中身の残っている缶コーヒーはすでに冷え切った状態であり、それは俺たちがこの世界から消えていた間も、こちらでは変わらず時間が経過していたことを物語っている。


 ◇


 立ちくらみを覚えて椅子に倒れこむ。
 軋むような音。
 俺はすっかり冷えてしまった缶コーヒーを飲み干し、息を吐いた。
 こんな普通の事務所にいてはさっきまで自分のいた世界が改めて信じられなくなる。感覚という感覚が一切無い世界。視覚的に訴えるものも、触覚的に訴えるものも、嗅覚的に訴えるものもない。五感の全てを奪い去られたような奇妙な感覚。ただそこに在る何かを、『在る』と認識する事で脳に映像が出来上がる感じだ。普通とは逆の順序。
「長い話にお付き合い頂いた直後で悪いのですが、実はまだお話しすることが残っているんですよ。お疲れのようならまた後日でも結構ですが、どうなさいますか?」
 社長席で脚を組む棺木さんは無理矢理に作ったような微笑で言った。
 確かに今日は疲れたが、それは逆に落ちるところまで落ちたとも言える。
 ならばこれ以上落ちることも無く、体力が回復してからまたライフゲージをぎりぎりまで減少させられるよりは、今話を聞いておくほうがいいだろう。ライフポイント百から十くらいまで減るか、十から一になるかでは後者の方が減少率が低い。
「大丈夫です、今話してください」
 この際若干の自棄も交えての決断だ。
 今日一日で脳に取り込める情報量はそろそろ限界が来ている。ここで何らかの話を聞かされても、それを脳にインプットできるかどうかは怪しい。ただでさえ、俺の記憶力とは常人以下だというのに。
 そうですか、と棺木さん。
「あなたにとって何度目になるかは解りませんが、今からする話は天羽ヒラギの事です」
 俺にとって何度目になるのか、俺自身にも解らぬ話題だ。
 同時に出来れば今は触れたくない話題でもある。しかしながら棺木さんからヒラギについての話を聞かされるのは初めてで、それにこの人の話なら堤や浜中、二階堂達から聞かされる話よりも絶対的に有益だろう。
「少し信じがたいことですが、これから話すことは全て事実であり真実です」
 もったいぶるような前置きをして、棺木さんは決定的な一言を言い放つのだった。


 ◇


「天羽ヒラギ、彼女は我々と同じ存在ではありません」

 静謐にその言葉を紡いだ。
 俺はといえば、それが何を意図して放たれた言葉なのか解らなくて、この時点では憤慨することも狼狽する事も出来ない。何の葛藤も起きぬまま、一瞬自分が空っぽになったような感覚に襲われる。
「我々、と一括りにするのは間違いかもしれません。私とあなたも、厳密には違う存在ですから。人間という霊長で一括りにした際には、まだ私達は同じ域にいると言ってもいいですね」
 それはつまり――
「天羽ヒラギは人間と呼べる存在ではないのですよ」
 それだけの言葉を理解することが出来ないのは、俺の脳が拒絶しているからだろう。
「姿形は人間そのものです。ただ彼女の本質、彼女の起源は人間と呼ばれる存在と根本的に違います。
 ヒトにはその存在として誕生の大元を辿れば必ず『起源』に辿り着きます。何かの弾みで生まれた衝動や現象、それを起源といいます。カルマという場合もあるのですがね。それは即ち私の言うイロなんです。人間が発生する因となった現象、それがイロ。
 彼女の場合はそのイロが通常とは異なります。人間という存在は必ずしも共通のイロ、『生きる』というイロをどこかに持っています。そうでなければヒトは生態を保てないのですから。……天羽ヒラギの場合はそこから異なります、彼女のイロに含まれるのは『廻る』。それは大口に言ってしまえば生きると言うイロと同じです、ただ、こちらが当てられるのはヒトではなく『世界』なんですよ。
 そろそろ解ってきたでしょうか? ――そうです、天羽ヒラギは『世界』そのもの何です」
 いつの間にか微笑は絶え、さっきあの世界で見た真剣な表情を棺木さんは肯定していた。
「中心世界、さっきの世界で見た現象を思い出してください。世界が飽和状態を保つためにヒトを取り込んだ現象です」
 思い出すのは水滴みたいな円形の何かが足元に吸い込まれていく光景。
「あの現象は今ほど頻繁に起きていた現象ではありません。
 あれは世界が飽和状態を保てなくなり、自らの穴、歪みを埋めるために必要なイロを取り込んでいる現象なんです。世界とは本来ありとあらゆる意思や思想、怨念や呪詛などその総てが混ざり合った混沌とした存在なんです。それ故に飽和状態。総てが総てを打ち消しあって何も無い虚無を創り上げている。
 事の発端は去年の四月です。飽和状態だった世界に突如歪みが出来た。喩えるなら、世界という大きなパズルを完成させているピース、そのピースが一つだけ外れてしまっている状態なんです。世界はその空いたピースを埋めるためにあのような現象を発生させている」
 さて、と一息置いて、
「では、そのピースは今どこにあるのでしょうか?」
 社長席から質問してくる。
 その答えは今までの話を思い出せば簡単に理解できて、俺としては認めたくない答えだ。
 空になった缶コーヒーの缶をデスクの上で弄びながら、俺は自分の指先を見ながら答える。
「ヒラギ、ですか?」
 正解不正解は言うまでも無く、棺木さんはただ頷くだけだった。
「天羽ヒラギは世界なんです。いえ、世界そのものではありませんが、世界を構成する一欠片ヒトカケラ)です。去年の四月、何らかの原因で彼女という現象が発生したんです。ヒトの形をしていたのは何故か解りません。たまたまでしょう」
 去年、という事は一年前という事だろう。
 だとしたらどうにも腑に落ちない点が一つ残る。
 中庭の木の下で聞かされたヒラギの話は、時を遡る事最低でも四年。棺木さんの話が正しいというのならそれは矛盾だ。ヒラギにはそれまで生きてきた記憶もあるし、その記録だって在る。
「可笑しいですよ、それは。ヒラギには一年前以前の記憶もありますし、それに中学時代のクラスメイトだっている。あいつが存在していた記録は確かにあるんです」 
 俺の渾身の反論は、どこか必死な感情が混ざっていた。
「彼女は一個人であると同時に世界でも在ります。天羽ヒラギという個人の『記憶』と世界の『記録』は同義です。本来ならば『記憶』と『記録』は異なります。『記憶』とは個人の認識でしかなく、それは必ずしも『過去』ではありません。『過去』とはつまり『記録』、世界の『記憶』を示します。アカシックレコードなんて呼び方もありますね。世界はこれまでに起きた総ての現象を『記録』として『記憶』しているんです、同時にこれから起きる現象も。それらの繋がりを因果、運命などと呼ぶ場合もあります。
 この概念の上で、霊長の『記憶』は所詮は認識、なんの証明にもなりませんが、天羽ヒラギは個人であると同時に世界です、つまり彼女の『記憶』は『記録』、彼女が認識してしまった事柄はそれだけで『記録』になるんです。まさしく矛盾でしょう? 本来ならば絶対に同じ意味を持たぬ両者が、彼女の上では同義となる。矛盾とは運命に反したもの、まが)った存在です」
 中心世界で聞いた話を思い出す。
 物語の登場人物を考える際、その人物の過去は物語のクリエーターが設定する。例えそれが事実であろうとなかろうと、クリエーターが設定する事で物語の世界が『記憶』、『記録』する事で登場人物の『過去』となる。ヒラギの持つ記憶と過去、ヒラギの物語は既成事実としてヒラギが認識し、事実として成り立っているという事だ。
「彼女を見つけたのは昨年の四月、雨の中でした。その当時の彼女は正に伽藍洞、空っぽの器でしかなかったのですよ。私はその器の中に『記憶』を書き込む事で、世界を変動させ天羽ヒラギという存在を世界に『記録』として認識させたんです。
 以上が天羽ヒラギという存在の総てです。世界の断片として、境界から外れてしまった存在、それこそが彼女なのです」
 捲くし立てるように話した棺木さんは改めて表情を和らげる。
 俺はといえば、聞かされた話を頭に押し込んで分析している最中。
 だがそんな俺の状況を知ってか知らずか、棺木さんの話は再開された。
「世界というのは、その生態系を保つために様々な現象を発生させます。飽和状態を保つために。さっきの現象もそうです。
 天羽ヒラギがあの現象を理解していると言いましたね? それは彼女が世界であるが為なんです。それと同じで、彼女はいずれ自分が世界に取り込まれる対象となる事も理解している」
 ――あたしはそれに飲み込まれるのが嫌だった。
 ヒラギの話を思い出す。
 認めたくは無いが、辻褄があってしまう。
「世界はいずれ彼女の存在に気付き、取り込むでしょう。そうでなくても、ここ最近の世界というのは安定していません。歪みが徐々に大きくなっているんです。ヘタをすれば崩壊という事もありえます。極端な話ですが。
 天羽ヒラギの最近の行動が可笑しいと、あなたも感じていたでしょう?」
 黙って頷く。
 最近のヒラギが可笑しいというのは、俺自身も思っていたことだ。
「彼女の精神は世界と連動しています。だから世界のバランスが悪くなればなるほど、彼女の精神も揺らぐ結果になるんです。
 ――彼女が自分のイロを探す理由、それは世界を安定させるため。自分が世界であると認識し、そして世界の一部として成る為なんですよ」
 ――それは唐突過ぎる事実告白で、
「世界の断片として、彼女の起源は『飽和』――世界の一部となり消える事なんですよ」
 飲み込むには困難な事実だった。
 俺の記憶にあるヒラギ。
 周囲に飲まれるのが怖くて自分のイロを探していると言ったあいつは、確かにその目的を『逃避』だと言ったはずだ。だが棺木さんの話を整理してみれば、ヒラギが自分のイロを探す理由は『飽和』だという。世界の秩序を安定させるために消える事が起源だと。
「総てが矛盾した存在、天羽ヒラギはそういう存在です。自らが求める自分のイロは、即ち世界の色を示すということ、それはつまり彼女の探すイロは無色、初めからありはしないモノを彼女は探しているんです。同時に、彼女が周囲から自分を隔離する理由も矛盾しています」 
 ヒラギが周囲を拒絶する理由、それは自分のイロが世界の色に飲まれてしまう事を防ぐため。だがヒラギにはそもそもイロなんてモノはなくて、そもそもそれは世界の色と同意義。 
「彼女は自分のイロを自分一人では見つけることが出来ないと知っています。その為に他人に自分のイロを求めてしまう。ここでまた矛盾ですね。周囲を拒絶しているのに、それでいて彼女の目的は誰かに自分を見つけてもらう事。
 まさしく色即是空。誰かにその存在を観測される事により成り立つ事の出来る存在なんです。
 世界とは矛盾の上に成り立っていると言っても過言ではありません。自らの生態系を保とうとするのに、自分を破滅させる可能性を持つ人間を生かし続けているのですから。彼女が世界の一部である以上、彼女自身が矛盾しているのは道理です」
 それ以上、棺木さんは何も言わなかったし、俺も何も聞かなかった。
 静謐なだけの室内は閑散とした空間に変わって、何をするでもなくただ椅子に座ったまま黙って時間の流れを見送る。やがて退社の時間になり、棺木さんがそれを告げて席を立つ。どれくらいの間俺はこの世界から消えていたのかは知らないが、外に出たときには既に雨が上がり、薄くなった雲の隙間から月明かりが射していた。残念ながら星は隠れて見えない。雲の上を飾るように、今日もひっそりと輝いているのだろう。
 閉じた傘と鞄を持ちながら陽の落ちた世界を歩く。白状してしまうと俺の心境は現在かなり複雑だった。
 これからもやはり、ヒラギは自分のイロを探し続けるだろう。そして俺はその隣に居て、それを傍観している。それが日常になり、当たり前になる筈だった。だからこそ、俺は今日の出来事を忘れてしまいたい。
 ヒラギの探すモノは決して答えを見つけてはいけないクイズ、開けてはならないパンドラの箱だ。人が自分のイロを知ってどうなってしまうのかは俺には解らないが、棺木さん曰く、ヒラギがそれを知ってしまえばヒラギはまた世界の一部と成ってしまう――つまり、いなくなるという事だ。矛盾した行動。世界に飲まれないための行動は、結果世界に飲み込まれるための行動でもある。
 世界は安定を失っていると棺木さんは言った。そしていずれヒラギがまた世界に飲まれるだろうとも。

 俺はどうしてやるべきなのか。
 というよりもどうしてやりたいのか。

 この時、もしもはっきりとした答えを俺が出せていたのなら、或いは物語の結末も変わっていたかもしれない。
ネット小説ランキング>現代FTシリアス部門>「世界の色、ヒラギのイロ」に投票
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ