1942エル・アラメイン砲撃戦13
一触即発な状態が続いた。もしも次に誰かがうかつな行動を取れば、たちまち友軍同士で激しい銃撃戦が発生する。そんな予感だけがあった。
険悪な雰囲気を吹き飛ばしたのは、トーマ一等兵の手で応急処置を受けていたボッツァ少尉だった。
「撃つな、誰も撃つなよ」
聞こえてきたのは、ひどく弱々しい声だった。アルフォンソ伍長は驚いた顔で、振り返ってボッツァ少尉を見つめた。少尉は、手当をしようとするトーマ一等兵の手を掴んで止めながら、アルフォンソ伍長を恐ろしく鋭い目で睨んでいた。
「撃つな」
トーマ一等兵が懸命にボッツァ少尉の手をどけて、手当を行おうとしていたが、どこにそんな力が残っているのか、少尉は目を見据えたまま動こうとしなかった。
アルフォンソ伍長は、覚悟を決めると、ボッツァ少尉の目を見つめて、頷いてみせた。少尉を安心させようとして嘘をついたつもりはなかった。この場で感情に任せて発砲すれば、誰も生き残れない。そう考えたからだ。
ボッツァ少尉は、安心したのか、一瞬笑みを見せると、目をつぶっていた。トーマ一等兵の動きから、命に別状はなさそうなのを確認すると、アルフォンソ伍長は、ゴーグル姿の将校に向き直った。
ゴーグル姿の将校が手にしたP640(b)の銃口からは、ようやく白煙が途切れていた。大勢の兵から銃口を向けられたことにか、それとも友軍に発砲したことか、あるいはその両方に緊張を強いられているのか、その将校の手は小刻みに震え、顔面は真っ青に染まっていた。
――まるで初めて悪さをしたガキみたいだな
ぼんやりとそう考えると、アルフォンソ伍長は、カルカノ小銃の銃口を下げて、やけに落ち着いた声でいった。
「行けよ。もういいから何処へでも行っちまえよ」
ゴーグル姿の将校は、一瞬何を言われたのか分からなかったのか、唖然とした顔になっていた。それはロッソ上等兵やヴィオーラ一等兵も同じようだった。
「いいのかよ、こいつは少尉殿を撃ったんたぜ」
怒りを必至で抑えた様子でロッソ上等兵がいったが、アルフォンソ伍長は、感情が抜け落ちたような顔をゴーグル姿の将校に向けたままで言った。
「その撃たれた少尉殿が撃つなと言ってるんだ。命令なら従えよ。だからお前らはもう行っちまえよ。二度とその顔を俺達に見せるな」
前半はロッソ上等兵に向けていたが、後半はゴーグル姿の将校に向けて言っていた。
ゴーグル姿の将校は、戸惑った顔で無表情になったアルフォンソ伍長と、気絶したボッツァ少尉に視線を彷徨わせてから、何か口を開こうとした。
だが、彼が何を言おうとしていたのかは、結局分からなかった。彼が何かを言い始める前に敵襲を告げる叫び声が上がったからだ。
声を上げたのは、サハリアーナに乗り込んでいたドイツ空軍の下士官だった。空軍下士官は警告を上げると同時に、ブレダ20ミリ機関砲にしがみつくようにしながら操砲し始めていた。
ブレダ20ミリ機関砲の周囲にしがみついていた兵たちは、慌てて操砲の邪魔にならないように飛び降りていた。その兵達の頭をかすめるようにして、細長いブレダ20ミリ機関砲の砲身が旋回していた。
サハリアーナに搭載する場合、重心を下げる必要から、ブレダ20ミリ機関砲は、車体の低い位置に据え付けられていたから、兵たちが乗ったままでは旋回すら困難だったのだ。
空軍下士官はブレダ20ミリ機関砲の砲口を、ぴたりと空中の一点に向けた。自然と、周囲の兵達の視線もそこに集中していた。
そこには、猛然とした勢いで接近してくる航空機の姿があった。機体の識別は、固定脚である以外できなかった。まっすぐにこちらに突っ込んできていたために、機首しか見えなかったからだ。さして高速とは思えなかったし、固定脚だから、戦闘機や戦闘爆撃機ではなく、旧式で軽量級の航空機の筈だった。こちらに攻撃をかけて来るということは、英国空軍の観測機などではなく、おそらく日本軍の九八式直協機か単発の襲撃機だろう。
しかし、航空機としては軽量級であっても、地上部隊からすれば剣呑極まりなかった。小口径でも機銃掃射を受ければ生身の兵士達は多大な被害を受けてしまうし、軽量級の爆弾でも、直撃すれば装甲車や塹壕を破壊することは十分に可能だった。
サハリアーナに据え付けられたブレダ20ミリ機関砲が、急接近する機体に向けて唐突に発砲を開始した。轟音をたてて力強く20ミリ砲弾は飛び去っていったが、ドイツ空軍の下士官がイタリア製火器に慣れていないせいか、曳光弾の軌道は敵機のそれとは明らかにずれていた。
その時には、転がり落ちるようにサハリアーナから飛び降りたドイツ兵達も、雑多な小火器を空に向けて射撃を開始していた。リズミカルな短機関銃の音に混じって、甲高い小銃の発砲音まで聞こえていた。
しかし、射程も威力も低い小火器では、いくら軽量級の観測機相手とは言え、ろくな照準器もない咄嗟射撃で命中弾を与えられるとは思えなかった。命中したところで、よほど当たりどころが悪く無い限り、小銃弾や拳銃弾では有効打とはならないだろう。
やはり対空火器として有効に使用できるのは、ブレダ20ミリ機関砲だけと割り切るべきだった。
だが、20ミリ機関砲の発砲はすぐに終了した。撃ち尽くされた12発の空薬莢入りの保弾板が、勢い良く排出されていた。正規にブレダ20ミリ機関砲を使用するイタリア軍部隊であれば、すぐさま弾薬手によって次の保弾板が差し込まれるところなのだろうが、ブレダ20ミリ機関砲を使用した経験のあるものは、サハリアーナには乗り込んでいないようだった。
空軍下士官は、焦った様子で次の保弾板を探し始めていた。その様子では速やかな射撃再開は期待できそうもなかった。
このブレダ20ミリ機関砲はもう戦力にならない、アルフォンソ伍長は、そう判断して、視線を接近する機体へと向けた。
アルフォンソ伍長は、一瞬接近する機体に目を奪われたが、次の瞬間、散開を叫んでいた。下手に小銃で対空射撃を行うよりも、分散したほうが被害を局限できるはずだ。日本軍の戦力がどれだけ豊富だとしても、歩兵一人一人を相手にしているほどの余裕があるとは思えない。
小隊の兵たちは、蜘蛛の子を散らすように、慌ててばらばらに走り去ろうとしていた。アルフォンソ伍長は、トーマ一等兵と一緒にボッツァ少尉を両脇から抱えると、兵たちを追って一目散に駆け出していた。
おそらくあの機体の標的は自分たちではないはずだった。
どこか間延びしたように聞こえるエンジン音に混じって、すぐに機銃の発射音が聞こえてきた。それほど大きくもない音だった。おそらく使用される弾薬は小銃弾程度の航空機銃としては小口径のものなのだろう。
思わず振り返ったアルフォンソ伍長は、AB41周辺に集中する着弾と、緊張のせいか棒立ちになっていたゴーグル姿の将校が弾き飛ばされるのを見ていた。
鮮血にまみれて砕かれたゴーグルが、ガラスを粉々にまき散らしながら吹き飛ばされるのが、何故かスローモーションのようにはっきりと見えていた。おそらくあの将校は即死しているだろう。まるで噴水のように吹き出した血が、粉々になったゴーグルを追いかけるように、流れていた。
そして、AB40の周囲を覆うように、至近距離から投下された爆弾が落着したような気がした。実際には、AB40に背を向けて一目散に逃げ出しているアルフォンソ伍長たちに、着弾の瞬間が正確にわかったはずはなかった。ただ、気配からそう察しただけだ。
だが、自分の勘を信じたアルフォンソ伍長は、その瞬間、弾かれたように、トーマ一等兵を巻き込みながら、ボッツァ少尉を抱え込むようにして倒れこんでいた。
直後に、轟音とひどく熱い風が、むき出しの頬をなぶるようにしながら過ぎ去っていった。幸いなことに水平方向に飛び散った破片が、アルフォンソ伍長達を襲うことはなかった。
もしかすると投下された爆弾は、柔らかい砂地に対応できずに、地面に潜り込んでから起爆したのかもしれなかった。砂地とはいえ一度地面に埋まってから爆発すれば、爆圧は水平方向にはさほど広がらずに、大部分は空中に逃げてしまったのかもしれない。
もしもここがガレ場であれば、逆に爆発によって岩石などが撒き散らされて被害を増大させてしまったかもしれないが、砂漠で飛び散るのは砂塵だけだった。
あるいは、運良くアルフォンソ伍長達から見て、AB40の向こう側に着弾して、大部分の破片が装輪装甲車の車体で遮られたのかもしれなかった。
恐る恐るアルフォンソ伍長が頭をあげると、AB40の鋲止めされた車体が横倒しになりながら、一部がばらばらに飛び散っていた。やはりAB40の車体が盾となって、近距離にいたアルフォンソ伍長達には爆弾の被害を与えなかったのだろう。
だが、AB40自体は原型を留めないほど破損していた。おそらく至近弾の爆発によって生じた爆圧に、車体をつなぎとめていたリベットが構造的に持たなかったのだろう。
AB40にしがみついていた兵たちも、飛び降りようとはしていたのかもしれないが、爆弾の効果範囲から逃れることは出来なかったのか、大半が死んでいた。中には、AB40もろともばらばらに四肢を吹き飛ばされたのか、僅かな肉片だけをのこした運の悪いものもいたようだ。
アルフォンソ伍長は、ふと目の前に一体どんな作用があったのか、一見無傷に見える飲料水缶が転がっているのに気がついた。おそらくAB40の前方フェンダーに固縛されていたものだろう。
その飲料水缶の上に、何かのガラス片が乗せられているのが、何故か気にかかっていた。そのガラス片が、ボッツァ少尉を撃ったドイツ軍の将校がつけていたゴーグルの破片だと気がついたのは、しばらくしてからだった。
アルフォンソ伍長が、何故か目が離せずに、どこかで見たことがあるようなガラス片をまじまじと見つめていると、大口径機関砲の轟音が再び聞こえた。慌てて顔を上げると、近くで同じように伏せていたロッソ上等兵が怪訝そうな顔を向けていた。
二人で一瞬顔を見わせてから、示し合わせたようにサハリアーナが停車していた方に目を向けた。
意外なことに、AB40からさほど遠くない場所に停車していたにも関わらず、サハリアーナは大した損害もないように見えた。車高が低く、車体形状も傾斜していたから、うまく爆風が逃れたのだろう。
飛び散った破片で燃料缶などの艤装品が損傷しているのが見えたが、車体構造に異常はなさそうだった。
しかも、車体中央部に据え付けられたブレダ20ミリ機関砲も、発砲可能な状態であるようだった。あのドイツ空軍の下士官が、一人で重い機関砲を無理矢理に旋回させて、飛び去ろうとする九八式直協機に向けていた。また、何処から見つけたのか新しい保弾板を差し込んでいた。
だが、アルフォンソ伍長は、その射撃が命中するとは思えなかった。すでに上空を過ぎている敵機の背後に向かって射撃する追撃ちになるし、その下士官に射撃経験がなさそうなのが、先ほどの射撃で分かったからだ。
そう考えていたものだから、射弾が次々と飛び去ろうとしていた九八式直協機に着弾していくのを、アルフォンソ伍長は、信じられない思いで見ていた。あの下士官が、たった一度の射撃でコツを掴んだのかもしれない。あるいは、以前の射撃経験を思い出したかだ。
だが、確かにブレダ20ミリ機関砲から放たれた砲弾は、九八式直協機に命中していた。対空射撃用の瞬発信管が取り付けられた榴弾は、機体に着弾した瞬間に信管を作動させて榴弾の破片をまき散らしていた。
少なくとも命中した榴弾は一発や二発ではないようだった。次々と命中する榴弾の炸裂によって破壊された九八式直協機の構造材などが、陽光を反射してきらきらと瞬きながら散らばっていった。
もちろん、九八式直協機がそんな状態で安定した飛行を続けることは出来なかった。再び12発の砲弾を撃ち終えたブレダ20ミリ機関砲から保弾板が排出された頃には、九八式直協機は、急速に速度と高度を落として、アルフォンソ伍長達から見て一つ先の砂丘の陰に墜落していった。
アルフォンソ伍長は、恐る恐る立ち上がりながら、唖然とした顔をロッソ上等兵に向けた。ロッソ上等兵もしばらくは、呆けたような顔をしていたが、しばらくしてから、何を思ったのか、にやりと笑みを見せるとアルフォンソ伍長の肩をたたいた。
そして、周囲の兵たちからも歓声が上がった。だが、敵機の出現と撃墜、装甲車の破壊が相次いで極短時間で発生したものだから、判断が追いつかなかったのか、歓声はどこかまばらで、最後まで要領を得ない様子の顔をした兵も少なくなかった。
航空機のエンジン音や爆発、発砲音が消え失せた砂漠では、兵たちが上げるまばらな歓声も、砂丘に吸収されてしまったかのようだった。歓声を上げた数少ない兵たちも、場違いな感を覚えたのか、顔色をうかがうように周囲を見渡しながら、沈黙していったから、砂漠につかの間の静寂が訪れていた。聞こえてくるのは遥か彼方の砲声だけだった。
皆、ボッツァ少尉に判断を任せていたから、兵たちは次に何をすればいいのかわからなくなっていたのだ。
静寂を破って、唐突にエンジン音が響きだした。驚いた顔で兵たちが向き直ると、まだ銃口から煙を上げたブレダ20ミリ機関砲を据え付けたサハリアーナに、いつの間にか飛び降りていた兵たちが再びしがみつくようにして乗り込んでいた。
兵達が乗り込むのを確認するのよりも早く、怯えた表情の運転兵は、サハリアーナを急発進させていた。やはり致命的な損傷は受けていなかったらしく、サハリアーナは快調なエンジン音をたてて、AB40の残骸をかわしながら路外へと乗り出していた。
九八式直協機を撃墜した空軍下士官が、振り落とされそうになって、慌てたような顔でブレダ20ミリ機関砲の架台にしがみついていた。下士官は心配そうな顔をこちらに向けたが、その顔もすぐに見えなくなった。
何人かのイタリア兵が、慌ててサハリアーナに便乗しようとしたのか、あるいは止めようとして近づいたが、それらを一切無視して、サハリアーナの運転兵は血走った目でイタリア兵たちのすぐ脇を加速して走り去っていた。
砂塵をまき散らしながら、AB40の残骸と味方の死体を置き去りにして走り去るサハリアーナを、アルフォンソ伍長達は唖然とした顔で見送っていた。