1941マダパン岬沖海戦8
部屋に入った途端に聞こえてきた音楽に航空参謀は、一瞬唖然となってしまった。
司令官室の主は、扉に背を向けて窓から外を眺めているようだった。
部屋の隅にあるレコードからは、かけ始めたものらしいオペラが流れていた。
軍港司令部本部ビルの中にある、瀟洒といってもよい軍港司令官室からは、夕日に照らされながらタラント湾内に停泊する艦隊が見渡せた。
しかし、各艦の停泊位置はまばらだった。
先の海戦で損害を受けた艦艇の多くが、一時的により安全とみられるラ・スペツィアやナポリの軍港に付随する修理部に移動していたからだ。
その中には這うような態勢でかろうじてタラントまでたどり着いた重巡洋艦ボルツァーノから、小破状態にすぎないヴィットリオ・ヴェネトまでが含まれていた。
タラントから出撃した艦艇の内、今もこの湾内に係留されているのは僅かな数の駆逐艦のみに過ぎなかった。
その中に、果敢な防空戦を繰り広げた空母ファルコの姿は何処にも見えなかった。
それに、修理を終えた艦艇もいずれはタラント軍港に戻ってくるという説明ではあったが、航空参謀はその説明は怪しいものだと思っていた。
ギリシャ本土からクレタ島に撤退していたイギリス軍は、先の海戦で英国艦隊が必死に我が方を食い止めている間に、無事にアフリカ大陸へと撤収を終えたらしかった。
つまり、これからの戦闘はアフリカ大陸北岸が主戦場となるのは間違いない。
さらに強大な戦力を誇る日本軍が英国側にたっての宣戦布告を行って来るのは時間の問題だと考えられていた。
だとすれば、ここタラントは最前線となることになるだろう。
イタリア海軍軍令部が、そのような危険極まりない場所に主力艦隊を安直に配置するとは思えなかった。
既に貴重極まりない戦艦の一隻、カイオ・デュイリオが撃沈されたとなれば当然だった。
ウンベルト皇太子ことマリーア中将が率いるタラント支隊が英国艦隊と交戦中に、やはり主力艦隊も英国海軍の一部隊と交戦に入っていた。
あとから互いの戦力を確認してみれば、イタリア海軍と英国海軍は順当にお互いの支隊と支隊、それに主力と主力をぶつけあったようだった。
イタリア、イギリス双方の戦力はほぼ同等だと言えたが、その分だけ、戦艦三隻と空母一隻を基幹戦力とした英国艦隊主力に対して、リットリオとカイオ・デュイリオの二隻の戦艦を基幹としたイタリア艦隊主力は不利な態勢に陥ってしまったらしい。
航空戦力を持たない主力艦隊は、絶え間ない航空雷撃によって戦力をそがれ、隊形を崩したところを敵戦艦と交戦するはめに陥った。
その結果が、カイオ・デュイエリの沈没だった。
お互いの戦果だけを見ればヴィットリオ・ヴェネトが沈めたレナウンとカイオ・デュイリオで一対一のようにも見えるが、英国海軍の保有する戦艦の数を考えれば吊り合わない戦果だった。
それに、もう一度同じ規模の攻勢をかけるのはほぼ不可能だった。
艦隊の航空援護は不可欠であると悟った海軍軍令部が、空母ファルコが撃沈された今、主力艦隊を空軍の援護の及ばぬ本土から遠く離れた海域へと進ませる決断を下すとは航空参謀には到底思えなかった。
ようやく航空参謀に気がついたのか、マリーア中将は振り返っていった。
「フェラーリン大佐の…いやフェラーリン中将の葬儀はどうでしたか」
航空参謀は首をすくめていった。
「アイツや俺の葬儀に来る物好きなんてのは飛行機仲間だけだと思っていたんですがね…まぁ盛大なものでしたよ。それがフェラーリンの望みであったかどうかはわかりませんが」
冗談めかしていったが、航空参謀は正直腹立たしいものを感じていた。
自分たちは空軍から追われ、海軍でも非主流派を歩き続けていたはずだった。
それなのに葬儀だけは盛大に行うこの矛盾の影に、死者には実利ではなく、名誉を与えれば良いという上層部の思惑が透けて見えたような気がしていたからだ。
マリーア中将はわずかに眉をしかめた。
それに気がついた航空参謀は、慌てて話題を変えようとした。
「そういえば妙な奴が出席していましたよ。車椅子に乗った空軍元帥殿ですが…」
宿敵とも言えるその男のことを思い出したのか、こんどは航空参謀が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「バルボ元帥…ですか。確かリビアで航空事故にあって重傷を負ってから故郷で静養していると聞いていますが…」
首を傾げながら、マリーア中将はいった。
「目的はあなたのようですが…これを預かって来ました。まぁ俺たちを空軍から追い出した張本人といっても、殿下への手紙を勝手に捨てる訳にはいかないので持って来ましたが。…やはり捨てておきましょうか」
航空参謀は、バルボ元帥から預かった手紙を、心底嫌そうに指でつまんでみせた。
わずかに苦笑してみせるとマリーア中将は手紙を受け取った。
確かに空軍元帥であったバルボは、航空参謀ら反ファシスト色の濃かった士官を空軍からパージさせた張本人ではあるが、それだけに気まずい相手をメッセンジャーに仕立てあげるということは重要なメッセージなのではないのか。
手紙を読み進めていく間に、マリーア中将の顔から表情が段々と抜け落ちていった。
読み終えてからもしばらく、中将は思案顔で押し黙っていた。
宿敵からの手紙に中将が熱心になっているのにふてくされたのか、航空参謀はどうでもよさそうな顔で窓の外を眺めていた。
ふと航空参謀は音楽に気がついていった。
「これは…トゥーランドット、誰も寝てはならぬ…か」
殆ど聞き逃していた音楽だったが、航空参謀は部屋に入った当初から違和感を感じていた。
聞き慣れた様な、それでいて聞いたことのない音楽だったからだ。
音楽は確かにプッチーニの歌劇トゥーランドットの一幕、誰も寝てはならぬに間違いなかったが、歌われている言語は聞きなれぬものだった。
イタリア語や英語では無いようだったが、何処の言葉かはよくわからなかった。
つぶやいたつもりだったが、意外と大きな声が出ていたらしい。
マリーア中将がふと我に返ったかのように振り返った。
「なにか言いましたか、参謀」
航空参謀は首を傾げながらいった。
「これは何処のレコードです」
机に無造作に置かれていたレコードのジャケットには、やたらと角ばったやはり見慣れぬ文字が並んでいた。
「これですか、先程届けられたばかりの新曲でね。中国語で現地で上演されたものですよ…トスカニーニの指揮でね」
思わずぎょっとして航空参謀はまじまじとレコードジャケットを見つめていた。
さほどオペラには詳しくない航空参謀だったが、トゥーランドットが古代中国を舞台として描かれた物語であることくらいは知っていた。
そして、トゥーランドットの初演を指揮したこともある、イタリアを代表する指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニは四年前にイギリスに亡命していた。
「トスカニーニは…確か引退宣言を出していたのでは」
航空参謀はレコードジャケットを取り上げながらそういった。
確かになんと書いてあるのかはさっぱり分からないが、書かれている文字は中国や日本で使われている漢字らしかった。
「結局引退宣言は取り消して、今では日本や中国、イギリスで指揮を行なっているそうです。なんでも日英が共同でトスカニーニのためにわざわざ楽団を作ったそうで…まぁ気難しい人ですからね。そうでもないと引退宣言を引っ込めなかったのでしょう」
苦笑しながらマリーア中将は言ったが、航空参謀が眉をしかめているのに気がついた。
「しかし、亡命したトスカニーニの音楽は発禁となっていたはずでは…」
「まぁいつでも逃げ道はあるものですよ。高値はしましたが、密輸されたものなら手にはいらないこともないのですよ。ですが、妙なことだとは思いませんか、敵であるはずの英国人や日本人たちが我がイタリアが誇る音楽家の演奏をいつでも聞けるというのに、私たちはファシストどもに遠慮してこうして隠れて聞かなければならないとは…」
いつのまにか夕闇が迫るのに明かりも付けないタラント司令部の部屋は薄暗くなっていた。
だが航空参謀は、何故か机の上のレコードの譜面に顔を向けているマリーア中将が、ひどく沈痛な面持ちになっていたのがよく見えていた。
航空参謀が心配気な様子で見ているのに気がついたマリーア中将は、意を決したように、勢い良く顔を上げた。
「先ほど連絡がありました。私はタラント港司令部からローマの最高司令部に移動になるそうです。おそらく皇太子としての私が前線部隊を率いて勝手に行動するのをファシストが恐れているのでしょう。彼らからすれば王家の人間に権限を与えるのは危険きわまりないでしょうから…ですが実戦任務部隊の指揮からは離れますが、これはチャンスでもあります」
「チャンス…ですか。しかしファシスト共は殿下をローマでお飾りの位置に据えるつもりではないでしょうか」
「あるいはそうなるかもしれません。ですが私はむざむざとお飾りで終わるつもりはありません。それに自分で言うのもなんだが、我が王家に忠誠を誓う軍人は陸海空三軍を問わず少なくないはずです。ローマの海軍最高司令部でもそうでしょう。それにファシスト党も決して一枚岩ではないようです」
そういうとマリーア中将は、視線をバルボ元帥からの手紙へと向けた。
確かにバルボ元帥は、航空参謀達リベラル派を空軍から追い出した張本人だったが、確かナチスドイツとの同盟には最後まで反対していたはずだった。
「私はもう逃げません。イタリア軍人として、なによりも王家の人間として…知っていますか航空参謀。チアーノ外相から以前聞いたのですが、このギリシャ侵攻に当たって、ムッソリーニはこういったそうです。いままでヒトラー総統は自分に何の断りもなく戦線を拡大し続けてきた。だから今度は自分が戦線を拡大する番なのだと」
マリーア中将の顔には段々と怒りの表情が浮かんできていた。
航空参謀はそれに圧倒されたかのように押し黙っていた。
「この戦争はイタリアのものでも、それどころかドイツのものですら無いのです。そう、これは総統と統領のための戦争に過ぎない。そんな下らない戦争は一刻もはやくやめなければならない。私はそのための力を得るためにローマに行きます」
そう言うとマリーア中将を決意を込めた目で航空参謀を見つめた。
「教官、ここはあなたやボンディーノ大佐にお任せします。私はここではなく、ローマで戦って見せます」
航空参謀は、しばらく迷ってから敬礼した。
この戦争を止められるとしたらこの男しかいないのかもしれない。そう考えていた。
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