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1943アレクサンドリアーベルリン5

 酒宴の場で酔いが回ったばかりに周囲に囃し立てられるままに刀を振るった厨川大尉には後悔の念しか無かったが、兵たちの間からはどよめきとも歓声ともつかない声が上がっていた。多くの兵は目にもつかない速さの抜刀、しかも十文字に切り裂かれた銅貨に唖然としていた。美雨も嬉しそうに輝いた目で厨川大尉を見つめていた。

 当の厨川大尉は率先して兵たちの前で個人芸を発揮してしまったことに強い後悔の念を抱いていたが、尚少佐はそんな大尉の様子を面白そうな顔で見ていた。


 尚少佐は唐突に表情を真面目なものに切り替えると、上座に向かって歩いてくる厨川大尉の手をとると、驚く大尉を気にもせずに高々とその手を掲げた。

「勇敢な馬賊の子らよ、皆聞け。ここにいる厨川大尉の武の才は皆が今見たとおりだ。それに日本軍で我々にはない軍学を学んだ男でもある。そこでこれからは私の右腕としてこの隊の参謀となって貰うとともに、私に何かあれば指揮をとるものとする。

 皆この男をこれからは私とともに頭として迎え入れるようにせよ。今日からはこの男も我が家族の一員、血族も同様である。

 王美雨」

 尚少佐は最後に美雨の名前を呼ぶと、彼女の顔を一直線に見つめた。美雨もこれまでにないほど真面目な顔でうなずいてみせた。

 その間、厨川大尉当人は急な展開についていけずに目を白黒させるだけだった。

「これより先、お前はこの男を兄と慕い、その指示に従うように

 他の皆も同じである。もしもこれに異を唱える者あらばこの場で声を上げよ」

 厨川大尉は唖然として尚少佐の顔を見つめていた。ひどく真面目な顔は、少佐が何の躊躇も迷いもなしに本心からそう言っていることを告げていた。


 だが、自分の技量に自信を持つ美雨や、他の隊の兵たちは急に現れた異邦人である自分をそう簡単に受け入れることはないのではないのか。そう考えて厨川大尉は兵たちの方に振り返ったのだが、意外なことに兵たちは強く押し黙ったままでこれまで見たことがないほど真面目な顔を二人に向けていた。

 むしろその表情に圧倒されるものを厨川大尉が感じていると、美雨は真面目な顔をしたままでもう一度大きくうなずいて見せていた。

「分かりました尚兄貴、これより先はこの厨川大尉を兄者と呼びその命に従います……皆それで依存はないな」

 最後に美雨は勢い良く兵たちに向かって振り返ると、腹の底から出るような大声で言った。ほとんど同時に、全員がオウと綺麗に揃った声をあげていた。だが、酒宴の場でさらに乱れた格好の男たちが叫んだものだから、やはり山賊たちが息を揃えたようにしか見えなかった。


 厨川大尉が戸惑ったような顔をしていると、再び曖昧な笑みを浮かべ始めた尚少佐が脇に立つ大尉にだけ聞こえるような小声で、ささやいた。

「坂西閣下に武芸の達人を寄越してもらうように頼んでおいてよかったよ。これで一安心だ。あの道場の人間ならば私も安心できるというものだ」

 思わずぎょっとした表情で厨川大尉は尚少佐の顔を見つめていた。

 閣下と呼ばれる立場の将官で坂西といえば、参謀本部などの中央職を歴任する坂西一良少将がいた。先の欧州大戦後におけるドイツへの対ソ連対策としての友好国対策の中で、ドイツ駐留武官補などを務めた坂西少将はドイツ通として知られていた。

 だが、坂西少将は現在のドイツ大使館駐留武官の大島中将と並んでドイツ通が行き過ぎてドイツ贔屓とすら呼ばれており、ナチス政権が成立して国際連盟との関係が悪化していく中で坂西少将も最近では不遇をかこっているという話を聞いていた。


 ただし、現役の軍人でなければ閣下と呼ばれる「坂西」は他にもいた。坂西一良少将の父である坂西利八郎予備役中将だった。坂西予備役中将は先の欧州大戦では野砲兵連隊を率いて前線で活躍したが、それと同時に日本陸軍きっての支那通としても知られておりすでに予備役となって貴族院議員となっていたが、シベリアーロシア帝国や満州共和国の成立時にも隠然たる影響力を発揮したらしいという噂があった。

 満州で古くから馬賊としての頭角を現していたという尚少佐がいう坂西閣下とはおそらくこちらの坂西予備役中将のことを指しているのではないのか。軍を退いたとはいえ、未だ貴族院議員でもある坂西予備役中将であれば満州国軍事顧問団への影響力もあるだろうから、裏から手を回して厨川大尉をこの部隊に派遣させることなど容易いのではないのか。


 下手に理論のみを振りかざす士官が派遣されてきたとしても、特務遊撃隊の隊員たちは反発するばかりで納得しないだろう。尚少佐はそんなことを考えて坂西予備役中将に依頼したのかもしれないが、そうだとすれば、少佐は馬占山将軍や坂西予備役中将に通じる強力なコネクションを有していることになる。

 満州の奥地で暴れまわっていただけの馬賊が、支那通とは言え日本陸軍の将官とそのような依頼ができるほど強い関係を持ち合わせているとは思えなかった。

 ―――この男は一体何者なのだ……

 厨川大尉は今も真意の掴めない曖昧な笑みを浮かべ続ける尚少佐の横顔を見つめたが、どれだけ見ても人間の心の奥底までは見通せそうになかった。


 そうやって尚少佐を観察していたものだから、厨川大尉は美雨が何を言い始めたのか最初は気が付かなかった。いつの間にか真剣な表情を崩してへらへらとした笑みを浮かべた美雨は、楽しそうな声でいっていた。

「厨川大尉は下の名前はなんていうのだっけか……和重だって、それなら今日から和兄ィと呼ぼうか」

 冗談ではなかった。部下、しかも一応は正規軍の将校となっているはずの小隊長から兄呼ばわりされる覚えはなかった。

 厨川大尉はじろりと美雨を見ながら言った。

「私を呼ぶときは厨川大尉、あるいは顧問と呼ぶように」

 強い視線だったと思うが、美雨にはさらりとうけながされていた。

「わかったよ和兄ィ」

 まるでやくざ者のような言い方だった。いいかげん厨川大尉は業腹だったが、とりなすように金少尉が二人に割って入っていた。

「先生、ここは勘弁してくだせぇ。日本ではどうだか知りませんが、この国じゃ目上の方を兄とお呼びするのは普通のことですんで」

 表情を見れば、金少尉がこの場をとりなそうとしているのは確かなようだったが、その少尉自体が厨川大尉を「先生」呼ばわりしていた。まるで自分が時代劇の用心棒にでもなったかのようで厨川大尉は気が滅入ってきていた。

 ―――さしずめ尚親分と美雨若頭、金小頭の遊撃組に雇われた用心棒の厨川といったところか……

 月代を伸ばしたうらぶれた浪人姿の用心棒という自分の想像図があまりに馬鹿馬鹿しくて、厨川大尉はうんざりしながらいった。

「もう勝手にしてくれ」

 すでに酒は完全に抜けていたような気がしていた。



 それから何年か経っていた。特務遊撃隊の隊員たちには、厨川大尉が日本陸軍機動連隊仕込の訓練法などを叩き込んでいた一方で、その間に何度かの表沙汰には出来ない実戦も経験していた。

 満州共和国内の匪賊討伐は、ほとんど終結していたが満州共和国と中華民国との実質上の国境地帯では共産党勢力が跋扈しており、彼らを掃討する中で知らぬ間に国境線を超えてしまったことも一度や二度ではなかったのだ。

 そして、今次大戦が勃発する中で、その兵員の規律などは置いておくにしても、満州共和国陸軍内でも最精鋭部隊といっても良い特務遊撃隊は重襲撃機部隊に続く欧州派遣部隊に加えられていたのだ。


 もっとも、その間も厨川大尉の苦労は耐えなかった。何度か異動願を出してみたこともあったが、何度異動の時期が来てもその気配はまるでなかった。陸大への願書も出してみたが、連隊長にあたる立場の軍事顧問団団長から推薦証が出されることもなかった。

 しかも欧州への派遣に従って、満州国内でしか通用しない常識しか持ち合わせていない特務遊撃隊への諸外国知識の教育まで厨川大尉の職務にされていた。

 本当にこんな一般常識のない奴らを派遣してしまって良いのだろうか、厨川大尉は思わずそう考えていたのだが、その心配は悪いことにすぐに現実の物となって大尉にのしかかってきていた。



 駐屯地内をいつの間にか姿を消していた美雨達を探していた厨川大尉と、その後ろから遠慮がちに付いてきていた機動第2連隊の小田桐曹長の耳に唐突に軽い銃声が聞こえてきていた。

 ぎょっとして二人は思わず顔を見合わせていた。聞こえてきたのは拳銃の発射音だった。高初速のライフル弾にしては音が低いし、短機関銃の連射音でも無かった。

 だが、単発の拳銃の割には発射速度は高くかなりの連射をしているようだった。リズミカルな発射音を聞くだけでも射手が拳銃に関してかなりの技量を有していることが分かりそうだった。


 厨川大尉は、ふと嫌な予感がして半ば無意識のうちに銃声の方に駆け出していた。この発射速度のくせには記憶があったからだ。

 視界の妨げになっていた建屋を厨川大尉が慌てて回りこむとそこには仮駐屯地に駐留する部隊がしばし使用する射撃場が広がっていた。射撃場とは言っても仮の駐屯地だから本格的なものではなく永久構造物も築かれてはいなかった。

 それに日本本土では考えられないような安全基準で運用されており、射弾を受け止めるのも丹念に硬く転圧された土塁などではなく、アレキサンドリア郊外に広がる砂丘の一つに過ぎなかった。


 厨川大尉の目の前に広がる射撃場の砂丘の前には、激しい砂煙を上げて一頭のラクダが走っていた。そしてその背には小柄な人物を載せていた。今更確認するまでもなかった。

 姿格好だけではない、そのブローニングを持った手を勢い良く上げながら連射する投げ撃ちは厨川大尉が探していた美雨に間違いなかった。

 射撃法は馬賊流のいい加減に見えるものだったが、次々と放たれる銃弾は一箇所にまとまって着弾していた。


 鬱憤ばらしのつもりか、やけに楽しそうにラクダにまたがる美雨は満州共和国陸軍でも特務遊撃隊だけが使用する迷彩衣を着込んでいた。日本陸軍機動第二連隊でも同型の迷彩衣を使用していたが、砂漠の中で、しかもラクダに乗っていると本来は森林地帯で使用するはずの迷彩衣は逆に目立っているような気がしていた。

 イスラム圏にいるものだから美雨は迷彩衣の上に一応は女性が頭を隠すためのヘジャブを身に着けていたが、どう見てもスカーフにしか見えなかったし、偽装のつもりなのか自分で草色に染められたヘジャブからは疾走するラクダに合わせて跳びはねる長い髪がはみ出ていた。



 厨川大尉が鋭い目で疾走する美雨を乗せたラクダを見ていると、すぐ脇にイラン王国陸軍のイスマイル少佐が近づいてきていた。

 イスマイル少佐が所属するイラン王国陸軍空挺大隊は、国際連盟軍にイラン王国が派遣した最初の部隊だった。イラン王国軍は満州共和国軍同様に軍事顧問などを派遣していた日本軍の軍制を取り入れたところが多く、空挺大隊も文字通りに空中機動を行う遊撃戦を目的とした挺身隊という意味合いが強く、少数ながらも精鋭部隊として知られていた。

 特務遊撃隊同様にこれまでにソ連との国境地帯で何度かの実戦も経験しているイラン王国軍空挺大隊は、現在は特務遊撃隊や機動第2連隊とともに機動旅団として束ねられて英国陸軍第77特殊旅団と並んで日本陸軍遣欧第2軍に配属されていた。

 イスマイル少佐とはいわば同僚になるのだが、機動旅団や第77特殊旅団の性格からして一箇所に大規模に投入される可能性は低いから、同じ戦場で戦う可能性はさほど高くなかった。


 射撃場に集まっていたのはイスマイル少佐だけではなかった。特務遊撃隊だけではなく、イラン王国軍空挺大隊の隊員らしいものもいた。

 意外なことに空挺大隊の隊員たちも疾走するラクダから的確に射弾を標的に次々と送り込む美雨に喝采を送っていた。不思議そうな顔で見ていたのは何人かの機動第2連隊の日本人だけだった。


 厨川大尉はそれには気が付かずにイスマイル少佐に向き直ってから頭を下げた。

「少佐殿、うちの隊員がご迷惑をかけしました。彼女には後で強く言って置きますのでこの場は……」

 だが、イスマイル少佐は慌てたように手を振った。

「いや、いや、この騒ぎは元々うちのハサン軍曹が言い出したことでね。馬は乗れてもラクダは乗れまいと彼女を唆してしまったようだ。軍曹はテヘランからも遠く離れた田舎の出身だから、迷信深いところがあって女が社会に出てくることを簡単には認められんのさ」

「しかし、イスラムでは女性の肌や髪を見せるのは厳禁だと聞きましたが」

 厨川大尉が不思議そうな顔でそう言うと、イスマイル少佐は肩をすくめてみせた。その仕草は西欧人とほとんど変わらないものだった。イランでの首都テヘランや油田地帯ではかなりの数の外国人も居住しているというから、都市部では西欧化も進んでいるのだろう。

 もっとも居住する外国人の比率で言えば日本人の数も相当なものになっているはずだった。

「この辺のアラブ諸国はどうだか知らんが、我がイランではレザー帝の即位以来非イスラム化が進んでいるから、都市部出身なら外国人にまでそううるさく言うものは少ないよ。まぁ口うるさいマドラサ出身者は軍に志願してこんなところまで来ないしな。それに我がイランではイスラム以前から続く古代文明があったんだぞ」

 自慢気に言うイスマイル少佐に、厨川大尉は困惑しながら曖昧な笑みを浮かべていた。とりあえずこの場は何とかなりそうだった。

「あのお嬢さんの銃の腕を見れば、もうハサン軍曹も何も言うまい。あとはうちの隊長、イブラヒム中佐はかなり口やかましいが……中佐殿は貴族だから日中は冷房のある室内から一歩も外に出ないさ」

 どこか高慢な上官を馬鹿にした口調に、厨川大尉は押し黙っていた。どうやら彼ら空挺大隊も一枚岩というわけではないらしい。


 困惑した表情の厨川大尉だったが、すぐにうんざりとした顔になっていた。射的を終えたのかゆっくりと歩くラクダの足音が近づいていたからだ。鋭い目で大尉はラクダ上の美雨を睨みつけたが、相変わらず飄々とした様子の彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「何だ、和兄ィも来ていたのか。いやぁ思ったよりもラクダって走るのが早いんだな。でも僕はやっぱり馬のほうがいいなぁ。なぁなぁ、クレタ島にも馬の1匹や2匹位いるんだろう。なんとか現地調達できないのかな」

 勝手な美雨に対して厨川大尉はどんな文句を言えばいいのかが分からずに思考が停止していたが、そんな大尉にイスマイル少佐は不思議そうな顔で言った。

「名前も違えば顔つきも違うが、彼女が兄と呼ぶということは君たちは兄弟だったのか」


 厨川大尉は今度こそ絶句していた。これにはどう返せばいいのか、それが分からずにただ押し黙っていた。美雨だけが面白そうな顔で二人を見つめていた。

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