◆5◆
10時頃には帰るからちゃんと大人しく寝てるのよ! ――なんて言ったのは今朝のこと。
そして現在約束の10時過ぎ……。
各階に居酒屋の入った雑居ビル、階を移動しての二次会にあたしは参加中だった。
こんな事なら店を出てすぐ部長と一緒のエレベーターに乗っておくんだった!
けれど、今さら自分の行動を嘆いたところで何も変わらない。
「それにしても社内恋愛ですか。アタシ全然気づきませんでしたよ!」
「だって内緒にしてたもんっ」
平田先輩の馴れ初め話を聞くのも、これでかれこれ5回目になる。そして次に舞子ちゃんはこう言うのだ。
「でもダメですよ社内恋愛はっ! 別れた時が大変ですもん!」
――とまあ、さっきからずっとこの調子。
ちなみに一緒にいる男性陣は、この二人の勢いに気圧されたのか随分と大人しい。
「ちょっと飲みすぎじゃない舞子ちゃん。平田先輩も」
空になった徳利とワインのデキャンタを片づけながら、そろりそろりとお開きにするチャンスを伺う。
「深山センパイは飲まなさすぎですよ!」
「そうよ、あたしの酒が飲めないっての? あたし結婚するのよ、祝いなさいよ!」
「いや、あの、今日は体調がよくないので……」
恐ろしいまでの絡み酒だった……。
「すみませーん! 深山センパイに白ワインと、平田センパイに熱燗くださーい」
舞子ちゃんがお代わりを注文し始めた。
なんか頭痛がしてきた……もう、勘弁して!
「あ、センパイどこ行くんですかっ!」
ちょっとお手洗いに、と言って魔の巣窟から抜け出したあたしは、賑やかな店内を抜けて外へ出た。狭いエレベーターホールは肌寒かったけれど中よりは静かだ。
「もしもし……」
留守電に切り替わる前に電話に出られた事にほっとする。
「アゲハ、大丈夫? もう10時過ぎたから……今どこ?」
ベルからの電話だった。
「ごめん、なかなか帰れなくて。今は会社近くの椿って居酒屋なんだけど……でもそろそろ帰るから――」
「そう簡単に帰れるかな?」
背後から声がしたかと思うと、耳に当てていた携帯が手からするりと抜き取られる。
「ちょっ……吉野さん!」
振り返れば吉野さんがあたしの背後に立っていた。
「返してください!」
吉野さんは携帯を取り返そうとするあたしの手をひょいと避けながら、高い位置に腕を上げて通話オフボタンを押した。
「平田が暴れてるから戻ってくれないかな? 俺が絡まれて困る」
「し、知りませんよそんなのっ!」
早く帰りたいのに……あたしはスケープゴートじゃないのにっ!
携帯を奪われたまま吉野さんに連れられて戻ると、いつのまにか席替えを終えたらしく、あたしの荷物は逃げやすい角に移動されていた。
「くぉら吉野ォ! あたしの隣を陣取って消えるとは何事だぁ!」
バンと机を叩く平田先輩の目は据わっている。
「うるさい、今いくよ!」
そう言いながら、彼はあたしの手に携帯をぽとりと落とした。
「もう少し耐えれば帰れるよ」
――このセッティングが彼の仕業だと気付いたのは30分後、吉野さんに程よく飲まされた平田先輩がウトウトし始め、やっと解放された時だった。
「あの、平田先輩大丈夫でしょうか? 吉野さんすごい飲ませてましたよね?」
「もうすぐ海老原が迎えに来るから大丈夫だよ。平田は普段の飲み会だと大人しいけど、同期で飲むといつもああなる。あっちが本性」
吉野さんの疲れた表情を見る限り、きっとそうなのだろうと思った。
エレベーターが到着してあたしが乗り込むと、吉野さんも後から着いてきた。
「あれ、吉野さんも帰るんですか?」
「まあね……」
コートも着ないで帰るの?
ここに来るときは着ていたのではなかったか、と考えていた時だった。
「それ、似合わないって言ったのにまだ付けてるの?」
胸元でくるくると弄んでいたバラのネックレスを見ながら、突然吉野さんが言った。
「べ、別に……いいじゃないですか……」
「良くないよ。ほら、俺がイイモノあげるから」
そう言ってポケットから取り出したのはクロスのシルバーネックレスだった。
「ちょうちょちゃんにはこっちの方が似合うよ」
目の高さまで上げて見せられたクロスはシンプルなものだったけれど、繊細な彫刻が気品と優雅さをどことなく漂わせていた。
「だ、だめです、貰えません!」
そういうのは吉野さんの彼女にプレゼントするべきだ。
「ちょうちょちゃんにプレゼントしちゃいけないの?」
「いけないですってば!」
タイミングよくエレベーターが1階に着き、あたしは逃げるように降りた。
吉野さんはそんなあたしの腕を掴んで振り向かせると、そのまま距離を詰めて抱きしめた。
「よ、吉野さん!?」
驚いて突き放そうとすれば強い力でぎゅうぎゅうと締め上げられる。
「動くな」
殺気を含む声を耳元で聞いた気がした。
「ちょ、く、苦しい――」
彼の片腕で首と肩を固定されたあたしは抵抗できずされるがままだ。
その行為にロマンティックなムードは一切なく、ただただ絞め殺されるのではないかと、遠のく意識の中であたしは密かに思った。
「はい、できた」
解放されたと同時に圧迫されてた肺に空気がどっと入り込む。
「こ、殺す気ですかっ!」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながらあたしは文句を言った。
「ほら、こっちのほうが似合うって言ったでしょ?」
吉野さんが一歩横に避けると、エレベーターの外扉に映った自分と目があった。乱れた胸元にはピンクゴールドのバラとシルバーのクロス……。
「もう、吉野さんっ!」
「だって受け取ってくれなさそうだったから」
だからってこんな、無理矢理くれなくても……。
「気持ちは嬉しいですけど……やっぱりこういうのは――」
「ちょうちょちゃん」
前屈みになった吉野さんの顔が不意に近づく。
あれ? と思ったその刹那、吉野さんに唇を奪われた。
「――んっ」
トン、と背中に壁が当たり、いつの間にか隅に追いやられていた事に気付いた。
首を動かして唇から逃れ、渾身の力を込めて突き放す。
「なにするんですかっ!」
吉野さんの表情は、嘘くさいさわやかな笑顔でも、ふてぶてしい笑みでもない。その瞳に見たこともないような激しく高ぶった感情が見えて、あたしはたじろいだ。
彼の握った手が光った気がして目を向けると、先ほどまで胸元にあったバラのネックレス――。
はっとして首元を手で押さえたけれど、胸元にはクロスのネックレスしかなかった。
「返してっ――」
吉野さんの手から難なく取り返したバラのネックレスは引っ張られたせいでチェーンが切れてしまっていた。
大切なネックレスなのに!
怒りを露わに顔を上げると、ぐいと両肩を掴まれ背中の壁に押し付けられる。
一瞬の痛みに驚いた隙の、二度目の口づけ――。
「やめっ、吉、野さっ……」
抵抗の声を上げれば、その間を縫って生暖かい何かが口腔内に侵入してくる。
「やっ……」
そのぞくぞくとした気配から逃れるように、唇を固く閉じて顔を背けた。
この人は今――何をしたの?
「アゲハ!」
名前を呼ばれ、はっとして振り向く。
「ベル……?」
無言で近づいてきた彼は、あたしと吉野さんを交互に見たのち、立ちすくむあたしの肩に腕を回してそこから連れ出してくれた。
「そっちのネックレスの方が似合うよ、ちょうちょちゃん」
背後からの吉野さんの言葉に反応したベルは、一瞬あたしの胸元に視線を彷徨わせるけれど歩みは止めなかった。
彼はビルの前に停車していたタクシーにあたしを押し込み、ドライバーに指示を出して車を走らせた。
車内には気まずい沈黙が流れる。
ベルはどこから見ていたの? あたしはどこまで見られていたの――?
「もしかして……僕は余計な事をしてしまった?」
しばらく走ったあと、ベルが大きなため息とともに口を開いた。
余計な事……? 言っている意味が解らず、その横顔をまじまじと見つめるけれど、彼は決してあたしを見ようとはしない。
「男の声が聞こえて、電話が突然切れて――そのあと何度もかけたけど繋がらなかった。なにか事件に巻き込まれたのかと……」
鞄の中の携帯を見ると、何故か電源は切れていた。
ボタンを長押しして電源を入れれば電池の残量マークは3つ点灯して、故意に切られていたのだと気付いた。
「電源、切れてたみたい……」
電源を切ったのはきっと……。
「心配かけて、ごめん……なさい」
ベルは部屋着にジャケットを羽織っただけの格好だった。
電話が切れ、その後通じなくなってしまったあたしを心配して家を飛び出したのだろうと思った。
風邪を引いているベルに迷惑をかけてしまったなんて……。
彼から初めて感じる憤りの感情がしひしと伝わってきて、あたしはそれ以上何も言えなかった。
アパートの前に止まったタクシーから引っ張られるように下ろされて、静かな階段を無言で上がった。
先を歩くベルは鍵を開けるとドアを押さえてあたしが先に入るのを待っている。こんな時でもレディファーストを忘れない彼に申し訳ない思いで一杯になった。
「本当にごめんなさい……」
目を合わせて言う事ができず、あたしは靴の先を見つめて呟いた。
「あの男が好きなの?」
鍵を締めた彼が静かに問う。
「ち、違う!」
「じゃあどうしてキスをしていたの?」
「それは……」
射抜くような鋭い眼光――その瞳に射すくめられて、あたしはそこから動けない。
「僕があげたものより、そのネックレスの方が似合ってるよ」
何の感情もこもっていないその言葉にあたしは涙が出そうになる。
ベルは下を向いたままのあたしの顎に手を添えて上を向かせた。
「僕は男だって……忠告はしたよね?」
疑問を感じる前に、ベルの唇があたしの唇と重なってすぐに離れた。
「いつかこうなるって思わなかったの?」
突然の出来事にあたしの思考が停止した。
「こうなるって……どう、なるの……?」
そう尋ねて気づいた。今の質問に、質問で返してはいけなかったのかもしれない。
けれど、あたしは――きっとその先を期待していた。
彼の両手にそっと頬を包まれた。頬にあたる手が熱い。
「Amore mio……」
微熱のせいだろうか、熱を帯びたベルの瞳が揺れる。そして、その目はじっとあたしの唇を捉え、ゆっくりと近づいた。
ついばむようなやさしく甘いキスを数回繰り返され、あたしの身体からはゆるゆると力が抜けていった。
壁にもたれてベルの香りを呼吸と共に味わう。
歯列を割って侵入する彼の舌を受け入れ、熱い口付けに意識が朦朧とし始めた時、不意に彼が離れた。
その顔には悲しみと切なさと、少しの怒りが織り交ざって見えた。
とん、とあたしの肩に彼の額が乗る。
「アゲハは――好きでもない男とでも平気でキスができるんだ?」
「っ……」
言葉が出ないあたしの代わりに頬を何かが伝った。
「なんなのよ……それは……こっちの台詞よ!」
突然声を荒げたあたしに驚いたのか、ベルがさっと顔を上げる。
「優花さんがいるのに、ベルだってあたしにキスしたじゃない! どうして……こんなことするの!?」
怒りのせいなのか、それとも悲しみからなのか声が震えた。
ぽろぽろと頬を流れる涙を見られたくなくて、あたしはパンプスを脱ぎ捨てて寝室に駆け込んだ。
なんなの? なんなの……!?
意味がわからなくて、混乱して――そして涙が止めどなく溢れてくる。
ずっと握っていた手を開けば、チェーンの切れたバラのネックレスが滲んで見えた。
このネックレスと同じように、あたしたちの絆も簡単に切れてしまったの――?