◆1◆
優花さんはベルを捨てた……まあ、そういう言い方をすれば彼女は逆だと怒るのだろうけれど、あたしから見たら彼女の方がワルモノ。
そして優花さんは別れ際、あたしに言った――傷付いた彼を慰めてあげればいい、と。
恋人の――いや、今はもう元恋人なのだけど、優花さんから許可を得たあたしがあの後何をしたかと言うと――――実は何もしなかった。
本当だったらこんなチャンス逃すものか、とベルに優花さんのメッセージ付きの手紙を渡して、結婚相手もいるのだと言い付けてから「あたしじゃダメかな?」なんて上目づかいで言って……ぎゅと抱きしめちゃたりすれば、ベルはあたしに対して恋愛感情を抱いてくれると思うんだ。
でもあたしは何もしなかった。正確に言えば、よくある“恋愛ドラマの当て馬役”みたいなことはできなかった、と言った方が正しい。
ベルが優花さんをどれくらい好きかは知ってる。イタリアから日本に来ちゃうくらい。それって結構なくらい愛してると思う。
それなのに他人のあたしが知らない間に優花さんと会っていて、しかも「裏切り者」と罵ったメッセージを突き付けてみたらどうなると思う?
結果はわかりきってるじゃない。
恋人の浮気を関係ない異性に教えられて「だから自分と付き合わない?」なんて言われたら……あたしだったらすごく腹が立つし、その人のことを疑ってしまうから。恋人の悪口なんて聞きたくないと思うのが普通でしょう?
だから何も伝える訳にいかず、あれから3日経った今もベルはまだ優花さんを想っていて、あたしは普段通りを心がけながら彼を陰から日向から応援しているフリをしているだけなのだ。
室内から聞こえるバイオリン、今日の曲目はアニメソング特集。知らない曲だと言っていたのに初めて弾いているとは思えないくらい流暢だ。
「すごいとしか言えないなぁ……」
愛や希望を歌う歌詞を口ずさむ事ができず、あたしは黙って湯船に沈んだ。
「ちょっと待って、なんでこんなにプリンがあるの?」
お風呂上りに牛乳を飲もうと冷蔵庫を開けたあたしの目に入ったのは、はちみつ色をした数個の手作りプリンだった。
あたしはこれを夕食後のデザートに2個も食べた。確かにお代わりはたくさんあるよって言われたけれど……。
冷蔵庫の中にはあと5個のプリン、すでに食べたものをカウントすると――。
「ねえベル、これはさすがに作り過ぎじゃない?」
「卵がすべて割れてしまったからね……」
バイオリンを磨く手を止めたベルはテーブルに置いた雑誌に視線を移しながら苦笑いで答える。雑誌の表紙には大きな文字で「イケメンモデル 深山霧人特集」と銘打ってあった。それはモデルのアルバイトをしている弟が食材と一緒に持ってきたファッション誌。姉のあたしが見たって何とも思わないのに、弟は雑誌に載る度にこうして持って来るのだ。
ベルにその話をしたら、彼は「きっとお姉さんが好きなんだね」なんて言って笑っていたけれど、アイツが好きなのはあたしじゃなくてモデルをしている自分だと思うんだよね。
「ほら、アゲハの弟が――えっと、キリト君? 彼が食材をいろいろ持ってきてくれたって言ったでしょう? その中に10個パックの卵があったんだけどね」
「霧人は本名じゃないけどね。わかった、その卵を全部割ったってことね、あの子が」
弟が食材を持ってここに来たという話は夕食のロールキャベツをひと口食べて、その美味しさに感激した時にベルから聞いていた。あのキャベツもベーコンも、ここからバスで20分ほどの距離にあるあたしの実家からの貢ぎ物だったのだ。
実家からの不定期な食材提供は食費が浮くから喜んで貰っている。もっとも、最近の食費はベルの日給アルバイト代で賄われていたけれど。
合鍵は実家に一つ置いてあるから勝手に部屋に入る事は今回が初めてではないにしても、まさかベルと鉢合わせするとは夢にも思っていなかった。
家で余計な事言いふらしてないといいけど……母親から「あげはちゃん彼氏できたの?」メールが届いてないから大丈夫かしら? なんて思ったりして。
あとでちゃんと説明しておかないと。ベルはカレシじゃなくてトモダチ、今もこれからも――。
目の前に鎮座するおいしそうなプリンの誘惑に負けて、あたしはひとつ冷蔵庫から取り出した。こんな時間だけど……あと一個だけ……。
今日だけだから、と自分に言い聞かせながらひと口。
「ん~おいしいっ! しかも……なんかいい香りがする」
口の中にプリンを含んだ瞬間バラの香りに包まれた。キッチンカウンターに置いてある花瓶のバラかと思ったけれど、もう一口食べて気づいた。コレは口の中だけに広がっている香りだ。
プリンの表面を見ても食後のデザートに食べたものと同じで、鼻を近づけてくんくんと嗅いでみたものの、カラメルソースの甘い匂いがするだけだった。
「おかしいなぁ、どうしてバラの香りがするんだろう?」
ちらりとベルを伺えば、彼は訳知り顔で微笑んでいた。
「ひとつだけバニラエッセンスの代わりにローズエッセンスを加えてみたんだよ」
「へえ、だからこんな香りがするのね! 明日、あたしバラの香りになってるのかも」
最近よく耳にする、飲む香水や香りのサプリみたいなものかしら? そういうのには興味があったから、あたしは味わいながらもパクパクとプリンを口に運んだ。
バラの香りを漂わせる女性……うーん素敵!
「喜んでくれたようで良かったよ。実はね……それ味見してないんだ」
ベルはいたずらが成功したような表情で笑っていた。
「じゃあ、味が変わってたかもしれないってこと? あたし毒見係?」
「だからランダムに一つだけ混ぜたんだよ。僕が食べていたかもしれなかった」
クスクスと笑いながらベルが答えるので、あたしはわざと拗ねた表情を作ってみたけれど、彼はそれを見ても笑みを深めるだけだった。
「それじゃあ僕も毒見しようかな。少しちょうだい、アゲハ」
「あら、残念ながらあと一口分しか残ってないみたい!」
あたしはスプーンに最後の一口をすくうと、それだけを持ってベルのいるリビングへ運ぶ。
「もうそんなに食べたんだ? だったらもっとたくさん作っておけばよかったかな」
あたしからの一口を食べるため、ベルは膝立ちになって待っていて、それを見たあたしは口に運ぶフリしてもったいぶってやろうかな、なんてイジワルを思いついた。
「はい、あーん」
言われた通り口を開けるベルに、あたしの心臓は急に心拍数を早める。「あーん」だなんて、自分で言ってちょっと恥ずかしい……と感じつつ、ベルに近づく最後の一歩を踏み出しながら手を引っ込めるタイミングを見計らっていたら、あたしは何かを踏んで足を滑らせた。
「わぁっ!」
「おっと――」
スプーンに気をとられていたあたしは、転ぶまいと条件反射で踏み出した足の着地点や、ベルが目の前で両手を広げて身構えたことには気づいていなかった。
ただスプーンに乗ったプリンを落としてはなるものか、とそればかりに気を取られていて――。
ベルに支えられ、プリンが無事だった事にほっとしたのも束の間、あたしはベルの足を踏んでいて、しかも体重のほとんどは彼に支えられていたから、バランスを崩した2人はそのまま後ろのソファに倒れ込んだ。
「痛てて……アゲハ大丈夫だった?」
色々な衝撃がほんの2、3秒の間に起きたせいで、耳元近くで響いた声を聞いても何がどうなったのか、すぐには理解できなかった。
気づいた時あたしはベルの上にいて、顔を少し動かすとそこには睫を一本ずつ数えられそうなくらい近い位置に顔があった。
黒い睫に縁取られた濃い青の宝石……息を飲むほどに綺麗な虹彩はついつい魅入ってしまうほど。
「アゲハ?」
「ご、ごめん! あ、あたしってば……」
しばらく見とれていた事に気づいて急いで視線を逸らした。すぐ目に入ったのは雑誌についていた4つ折りの「深山霧人☆美麗ポスター」。広げて見て大爆笑したあと、床に置きっぱなしにしていたそれを踏んで滑ったらしい。
「やだ、プリンが……」
結局スプーンから滑り落ちたプリンは、スプーンの下に添えていたあたしの左手の平に落ちていた。
ここは床じゃなくて良かったと思うべきだけど……。
「ご、ごめんね。これじゃ食べられないね」
「食べられるよ」
そう言うとベルはあたしの手の平からプリンを舐め取った。
「ちょ……」
あたしの手の平にあった冷たい感触が一瞬にして温かい舌の感触に変わる。柔らかくて熱くて――。
「うん、なかなかいいかも。でも隠し味に入れた蜂蜜が香りの邪魔をしているようだ」
舌でプリンを転がしながら彼は平然と答えた。
「そ、そうなの……?」
それからあたしと目を合わせたベルはしばらくの間黙り込み、そのまま視線を外さず手の平に顔を寄せてもう一度口付けた。
手にはもうプリンはないのに……。
上目使いであたしを見るその顔がいつもより色っぽくて、青い瞳の奥に熱い炎が宿っているように見えて……あたしを挑発しているように感じるのは気のせい?
「あの……あたし……」
そしてあたしはきつく抱きしめられた。