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『君が、シルビアを殺したんだな』
地面を這うような低い声だった。今まで聞いたことのない声だった。
しっかりと私に向けられている言葉なのに、まるで別の誰かに向けられているようでもあった。
相変わらず意味が分からずに呆然としていると、家令が淡々と妹の死を告げる。
その事実に、一瞬、私の中をせりあがる歓喜。
これで邪魔者はいなくなった、これでソレイルは私のことを見てくれる、心を寄せ合う二人を見なくてもすむ。
そんな甘美な幻想が頭を掠めた。
けれど、そんな風に喜びに震えたのはたった一瞬で、
『やっぱり、君か』
そんな声が私を現実に引き戻す。
ざっと音をたてて血の気が引いた。
私は、一体、何を考えていたというのだ。
あの子は私の妹だ。恋敵ではあったけれど、それでも、確かに私の妹なのだ。
幼い頃、あの小さな手を握り締めて、あまりにも弱いこの子を守り抜こうと決めた。
この子の為に、「姉」という役目を果たそうと誓った。
うまくはいかなかったけれど、あの日の誓いを反故するような結果になったけれど、でも、それでも。
あの子は私の妹で、私はあの子の姉なのだ。
その子が、あの、シルビアが、死んだ。
口から漏れた息がひゅうひゅうと音をたてている。
引いた血の気は戻らずに、からっぽになった頭の中が助けを求めるようにガンガンと脈打つ。
『やっぱり、君が、殺したんだな』
私の顔を見据えて、確信を得たようにソレイルがうわごとのように繰り返す。
違う、そう呟いた声がソレイルに届いたかどうかは分からない。
違う、違う、何度もそう口にしたはずなのに、ソレイルは持っていたナイフを投げ捨てて、
『許さない、絶対に、許さない』
いつもは何も灯っていないはずの瞳にはっきりと憎悪の色を浮かべた。
待って、と、確かに私の唇はそう動いたはずなのに、声は一つもでなかった。
喉が焼けるように熱くて、言葉は全て奪われたような気がした。
ソレイルはそんな私を一瞥し、払われた夕食が無残な姿を晒しているテーブルクロスを一気に引っ張る。その上に並んでいたもの全てが勢いよく硬い床に叩きつけられた。
激しい音が耳を突く。
砕け散る花瓶と、そこに飾られていた色とりどりの花々。
その花は、久しぶりの二人きりの食事だからと私が手ずから用意したものだった。
忙しさにのあまりにソレイルの気分が沈んでいてはいけないからと、温かい色の花をたくさん集めて、華美にならないよう、だけど質素すぎないように気を遣いながら飾り付けたものだった。
大理石の床に散らばった夕食は、数日前から料理長と相談を重ねて用意したものだった。
きっとソレイルは疲れているだろうからと、胃に優しく、滋養にきくものを考えた。
一つ一つに、意味があった。
一つ一つ、吟味を重ねて私が選んだものだった。
記憶を辿るように視線を移していけば、どうせだからとこの機会に新調した繊細な織りのテーブルクロスが、ワインや料理のソースを吸い込んでどす黒く染まっているのが目に映った。
投げ捨てられたそれは、ぐしゃぐしゃに寄れて、大理石の床の上で丸まっている。
何をどうすれば良いか分からなくて、思わず引っ張り寄せた。
新しいテーブルクロスに気づいてくれたら嬉しいと思っていた。そういうことに無頓着なソレイルだから、もしも気づいてくれたら何て返事をしようと、そこまで考えて、一人で浮かれていたのだ。
その視界を横切る、傷一つない革靴。
普段は足音さえたてずに歩くというのに、勢いよく踵を鳴らして歩いていく。
座り込んだ私を無視して、ソレイルが今まさに部屋を出ようとしていた。
待って、お願い、待って。
誰か、誰か彼に言って。私は何もしていない。
私がやったんじゃない、誰かそう伝えて。
全身で叫んでいる。だけど、何一つ言葉にならない。
嗚咽が酷くて、単語にさえなっていない。
だって、思ってもみなかった。
ソレイルが、私のことを、そんな風に思っているなんて。
妹を殺すような人間だと、そんな風に見ていただなんて。
がたがたと震えているのは寒いせいじゃない。
すがるように抱き締めたテーブルクロスは何の役にもたたず、今、私を擁護してくれる人間は誰もいなかった。
ひくひくと痙攣するように嘆いていると誰かが腕を掴む。
両側から引き上げられて、吊るされるように立たされた。
まるで、罪人のように。
ソレイル、ソレイル、貴方にとって、私は、そんな、そんなどうしようもない存在だったの。
これまで積み上げてきた日々は、過ごした時間は何の意味もなかったの。
弁明さえも、聞く気がないの。
言葉にできない想いが嗚咽となって口から零れていく。
追いすがるように、去っていく背中を追いかけようとして、乱暴に腕を引かれる。
バタン!と激しく閉ざされた扉が、まさしくソレイルの拒絶を示していた。
振り返ることさえなかった。
妻の叫びに、泣き声に、一度もためらうことなく立ち去った。
―――――そして、私とソレイルは袂を分かったまま、二度と歩み寄ることはなかったのだ。
それが、私の最初の人生だ。
あの後、私は自室に軟禁され、家令を通して、証拠が集まればすぐにでも離縁して国に引き渡すと言われた。
私は、無実を訴えながら、そんなことになるはずはないと思い込んでいて、軟禁されておも尚、ソレイルが思い直すと信じていた。
だって、私は、シルビアの死とは無関係なのだから。
けれど、おかしなことに、私はあっという間に罪人として投獄されることとなった。
鉄の檻に囲まれ身動きがとれなくなってから、証拠がいくつも上がっているのだと身に覚えの無い罪状が積み重ねられていく。
会ったことも、見たことさえない強盗団の一味が、私にそそのかされて伯爵家の馬車を襲ったのだと自供したと聞かされたときは、思わず、笑いが漏れた。
そんな、荒唐無稽な話を、ソレイルは元より「国」が信じてしまうのかと。
誰かにはめられたのだと気づいたときには、もう、どうにもならない状況で、私は身内殺しの罪を着せられていた。
貴族の間では、時々、こんな風に罠にはめられることがあると知っていたけれど。
自分がそういう身になるとは思ってもみなかった。
だけど、よく考えるまでもなく、次代の侯爵夫人という私の身分は、他の誰かかすれば喉から手が出るほどに欲しいものだったのだろう。
私だって、自らその身分を望んだのだ。
もっとも、私の場合は、ソレイルの妻という立場であれば何でも構わなかったのだけれど。
そうやって考えてみれば、他の人間が、私に成り代わりたいと望んでもおかしくない。
では、そうなるにはどうすれば良いのか。
簡単なことだ。邪魔者を排除すれば良いのだ。
気をつけていたつもりだった。
だけど、考えが足りなかった。
まさか、こういう手段で、全てを奪われるとは思ってもみなかったのだ。
自分の知らないところで「イリア」という一人の人間がどんどん貶められていく。
投獄されてしまっては、自らの手で潔白を証明することもできない。
できるのは、ただ、祈ることだけだ。
誰かが、私の無実を証明してくれることを。
私はそうやって、最期の最期まで祈り続けていた。
そして、信じてもいた。
誰かが、ソレイルが、この牢獄から救い出してくれることを。
ひび割れた石の並ぶ地面に膝を付き、生まれてきてから一度も目にしたことがないような粗悪なベッドに両肘を付いて祈りを捧げた。
ソレイルは「正しい人」だ。
いや、正しい人間であることを望む人だ。
「白」か「黒」の二つしか知らない人だ。
今はシルビアの死に動揺してその目が曇っているだけだろう。
冷静になれば分かるはず。
揃えられた証拠が捏造されたものであると。
だから、きっと、彼は私の無実を証明してくれる。
今は駄目でも、いつの日か、自分の非を詫びて迎えに来てくれる。
そう、信じていた。
私が愛したのは、そういう人だったから。
なぜ、そこまで、と。
なぜ、そこまでして彼を信じるのかと、誰かに聞かれた気がする。
私にも分からない。
答えなど、ないのだと思う。
ただ、愛していたのだ。
狂いそうなほどに、いや、狂ってしまうほどに愛していた。
―――――だけど、結局、そこまで信じたはずの彼は、助けにこなかった。
私は、自分の最期を覚えていない。
処刑された覚えは無いから、きっと、あの牢獄で死んだのだと思う。
すえたカビの臭いを嗅ぐとあの場所を思い出す。
貴族の令嬢として生まれ、次代の侯爵夫人に納まった根っからの貴人が死ぬには、あまりに酷い場所だった。
それが冤罪であれば尚更。
だからきっと、あの場所で生き抜くことができなかったのだろう。
本来なら、貴族が罪を犯した場合に収容されるのは、もっと別の場所で、牢獄とは名ばかりの不潔さとは無縁のようなところだ。
正規の手順を踏めば私もそこに入るはずだったのだ。
だけど、私の、実の両親がそれを許さず、ソレイルもまたそれを許さなかった。
ソレイルは次代の侯爵であり、侯爵家第一位というのは公爵家の次席。
つまり、王族に次ぐ立場となる。
彼が言えば、大抵のことは叶えられる。
それが分かっているから、彼は自分を律していた。
そのソレイルが、私を、あの牢獄に入れることを望んだのだ。
私はそれほど憎まれていたということだろう。
だから、私は貴族としてではなく平民の一人として裁かれることとなった。
この世で唯一、自分の味方でいてくれるだろうと思っていた両親に見限られた瞬間、私の人生はきっと、本当の意味で終わったのだろう。
シルビアは、誰からも愛されていた。
両親でさえも、私より、シルビアを愛した。
この世界は、シルビアを中心に回っている。
だとすれば、シルビアが死んだその後は、ただのエピローグに過ぎない。
物語の後付、ただの追記。
さして、重要ではない話。
だからきっと、私の死だって、この物語にはあってもなくても良い出来事なのだろう。