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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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※※R15 血の表現などがあります。
全てを諦めた人間はね、笑うのが上手くなるんだよ。
カラスはそう言った。
喜びも悲しみも、あるいは憎しみも、全ての感情を心の奥底に封印したとき、その顔は表情を失くすんじゃない。
―――――笑うんだ。

『人間はどうしようもなくなったとき、全てを「諦めて」笑うんだよ』

太陽が翳り始めている。赤く染まった窓の縁を背に、母は一歩、二歩と私の方へと歩み寄って来た。
淑女らしく足音のしない歩き方だ。こんなときでも、母は貴族としての振る舞いを忘れることがないのだと、妙なところで感心してしまう。
派手ではないけれど整っている顔立ちや、真っ直ぐに伸びた背筋、女性らしい仕草で動く指先に視線を奪われる。息を呑むほどの麗人ではないけれど、洗練された振る舞いは人目を引くだろう。
けれどそれは、貴族の女性であれば、大抵がそうなのかもしれなかった。
高価なものを身に着けている人間というのは、何となく所作や態度、言葉遣いが他とは違うものだ。それに、貴族というのは幼少期から一般民衆とは違う教育を受けているから、そもそもの基盤が違う。
それは多分、人によっては些細な違いではあるが、しかし大きな違いでもある。
つまり、貴族というのは元々、何をしていなくても目立つ生き物なのだ。
私だって、きっとそうに違いない。
地味ではあるが、いかにも貴族然とした格好をしているので、街中を歩いていれば目立つはずだ。ドレスの素材も織りも縫い目も、職人が端正込めて作り上げたものなのだから、当然安物とは違う。そういったものを見分ける目を持つ人間は案外多い。
それに、ほとんどの場合において、侍女か侍従を連れているから、それだけでも衆目を集めたりする。

だけどそれは、あくまでも市井に下りた場合限定であるし、自分自身が評価されているわけではないということもきちんと理解している。
いつかの人生で人買いにこの身を売られたときは、貴族だとは信じてもらえなかった。
着ているものや髪型、置かれている環境が違えば、あっという間に貴人という枠から外れてしまうのだ。
私はその程度の人間で、周囲に貴族が集まっていれば埋没してしまうどころか、本当は誰の目にも留まらないのだということを実証しているようだった。

そういう意味で言えば、母と私はやはり似ているのかもしれない。
けれど、それと同時に圧倒的な違いがあるのもまた事実である。
私と母が並んだなら美しいと表現されるのは母だけだろう。
血の繋がりがあるのだからどことなく顔立ちは似ているはずなのに、私はあくまでも凡庸な人間であり、母はやはり麗しいのだ。
それに醸し出す雰囲気自体が大きく異なっている。
母は、ただひたすらに朗らかで、穏やかで、さらに悠然としているのだ。
その誰をも包み込んでしまうようなゆったりとした雰囲気はやはり、貴族ならではと言えるかもしれない。
誰もがそう評するし、私もずっとそう思っていた。

今だって、あまりに泰然としているから、全く動揺しているようには思えない。

「イリア、貴女、これをどうしたの?」

むしろ、普段よりもずっと落ち着いた声をしている。
とっさに視線を逸らしたのは罪悪感からではない。母があまりにも真っ直ぐに私の顔を見据えるから、その眼差しの強さにたじろいだだけだ。

母はこれほどに、何かを訴えかけてくるような目をしていただろうか。

「シルビアの、部屋から……」
「盗ってきたのね?」

言い淀んだ私の代わりに、さらりと言いのけたのは母だ。
「駄目じゃない」
そんなことをしてはいけませんよ、とまるで子供に言い聞かせるように困った顔をする。
責めているわけでも怒っているわけでもなく、ただ優しく嗜めるような物言いに、なぜか心臓が小さく震えた。幼い頃でさえ、そんな言い方をされたことはない。
ソレイルの婚約者となってから、私を導くのは侍女の役目だったから。
こんな風に直接的に、何かを注意されたことなどなかった。
これではまるで、普通の母と子のようだ。

「これは、あの子が大切にしまっておいたはずだわ」

室内に並んでいる調度品は伯爵家の夫人に相応しい華美な風合いだけれど、置かれている物の数はさほど多くない。夜会に招かれたときは着飾るけれど、普段は質素な装いを好む母らしい部屋だ。
絨毯の上に転がっている幾つかの小瓶さえなければ、ご機嫌伺いに現れた娘とそれを歓迎する母親の何でもない日常の一つに過ぎないのに。けれど、私たちはそんな間柄ではなかったことを思い出す。
何でもない時間を、一緒に過ごしたことなど一度もなかった。

「お母様、これは一体何なのですか……?」

震えた声が静かな室内に散っていく。
あまりに頼りない声音だったから、自分の耳にさえも遠くから響いているようだった。
けれど、目の前のその人にはしっかりと聞こえたようで、浮かべている微笑をそのままに小さく首を傾いだ。優しい眼差しであるにも関わらず、観察されているような居心地の悪さを感じる。
その目に見つめられているとき、私はいつだって身を硬くして、何を言われるのか覚悟を決める必要があった。
なぜなら、私にとって「母」というのは完全なる味方ではなかったから。

1つ目の人生を終えたそのときから、両親と私の間には見えない壁が立ち塞がっていた。
いや、そう感じていたのは私だけだったかもしれないけれど。
だけど、それは決して間違いではなかった。
鎖に繋がれた娘をあれほどあっけなく見離すのだから、その愛を信じ切れなかったとしても無理は無い。己のことながら、そう思う。
もしかしたら、愛情どころか、何の情もなかったのではないかと疑っているくらいだ。
役人に罪状を読み上げられているそのときでさえ、私は1人きりだった。
形式的ではあるけれど、何か異論があるかと問われたので、これは冤罪だと叫んだのを覚えている。
誰も味方の居ない場所で、思えば、ただひたすらにそれだけを繰り返した。
父には当の昔に見切りをつけられていたのだ。

母は、ただの一度だけ私の顔を見に来たと記憶している。
だけどそれは、娘の冤罪を嘆いたり、あるいは本当は無罪なのだと擁護してくれるためのものではなく、ただ単に決別するためだけの対面だった。

刑が確定し、投獄されることとなったその日。
荷台が鉄の檻と化している馬車に入れられた私は、罪人の中でも最も罪の重い人間が投獄される地下牢へ運ばれようとしていた。
そこへ、供も連れずに一人きりで現れた母。
見せしめの意味もあったから、私が投獄されるその日は多くの一般民衆が集まっていた。
興奮状態の彼らは、そこに貴族の女性が居ることにも気付いていない。彼女はそんな野次馬に紛れて、私を見ていたのだ。
目が合ったと思ったから、もしかしたら私を助けに来てくれたのではないかと鉄格子の間から腕を伸ばした。鎖に繋がれた足が酷く痛んだけれど、それすら気にならない。無実を訴え、泣き叫んで、悲鳴を上げたのだ。
だけど、母はあっさりと背を向けてその場を去った。
いつもと変わらない毅然としたその背中に、見捨てられたことをはっきりと悟る。
落ち込むでもなく、悲しむでもなく、何の表情もないままにあっさりと私を見捨てた。
頑丈な鉄格子を握り締め、行かないでと叫び続けた娘を置き去りにしたとき、母はどんな気分だったのだろうか。

「何って、ただの薬茶よ」

ふわりと笑みを深めた母の異常を見分けられないほど、愚かではない。
まるで、隠していた大切な玩具や宝物を取り上げられた幼い子供のような顔をしていた。けれど、そこにあったのは悲しみや怒りではない。喜色と戸惑いの入り混じった何とも奇妙な顔をしていた。
母にしては、やけに感情があけすけだと思う。
彼女はいつだって完璧な淑女だったから。

「………これに何が入っているか、ご存知なんですね?」

足元に落ちた小瓶を拾い上げれば、母が溜息を落とすようにそっと呟く。

「どうして、知らないと思うのかしら? だって、それは私が作ったのよ?」

心底不思議そうなその声音に、足首をさっと撫でるような悪寒が走った。
完全に光を奪われる前に、太陽が泣き声を上げている。なぜかそんな気がして、窓の外に視線を滑らせた。
屋敷の中でも高い位置にある母の部屋は日当たりが良いので、太陽が傾く時刻になってもまだ明るい。
足元に落ちた自分の影を見つめれば、そのすぐ先にあるもう1つの影がゆらりと近づく。

「馬鹿な子ね、イリア」

ソレイルの婚約者となってからはずっと、私は多分、彼女にとって他人だったのだと思う。
だから、こんな風に憎まれ口を叩かれたことさえなかった。
互いの間に存在する遠慮という距離感が、それを許さなかったのだ。
思わず顔を上げて、母が「本当に、馬鹿な子」と囁くのを見ていた。
その顔には、優しく朗らかな笑みが浮いている。慈愛に満ちたいつもと変わらない姿だとも言えた。
―――――他の人間からすれば、そう見えたはずだ。

「……どうして?」

はっきりと問うべきなのに、空気を含んだ声が儚く揺れる。聞くべきじゃないと未だに迷ってしまうのは信じたくないからだ。
母が、私の母が、

「シルビアに、一体、何を……?」

言葉を吐き出す度に酸素が足りなくなっていく気がする。苦しさに喘ぐように吸い上げた息がひゅっと音をたてた。
違う、違う、違う。
こんなことを聞くべきではない。
そんなはずはないと、頭の中で誰かが悲鳴をあげる。

「もう分かっているんでしょう? イリア。私が何をしたのか」

知っているんでしょう?
あくまでも冷静に、凪いだ目をしている母が己の罪を理解しているとは思えない。
それに、母が……私のたった一人の聡明な母が、自ら進んで過ちを犯したとは考えにくい。
圧倒的な沈黙が皮膚に纏わりついて、ゆっくりと押し潰されていくようだった。
傾きそうになる体を必死に支えている足が踏んでいるのは、柔らかな絨毯ではなく、ざらざらと波打つ砂の塊だ。一歩足を踏み出せば、きっと倒れる。

「……勘違いしないでちょうだいね、イリア。私はあの子を愛していないわけではないのよ」

優しい声だった。震えることもなく、ふわりと包み込むような淡い声色だ。
ずっと昔、母が口ずさんでいた子守唄を思い出させる。あまりにそっと囁くから、その唇から零れた言葉は、あっという間に解けて消えていった。
私を見据えるその瞳は、濁りのない新緑の色で。
かつてどうしようもなく焦がれた色だった。
母の目は、真夏の太陽に下で輝く、活力に溢れた青葉に似ていると……ずっとそう思っていたから。
こんな地面に落ちる寸前の枯葉色ではなく、母のような濁りのない新緑色の目であれば。
私は自分の両目を誇らしく思えただろう。

だけど、言えば、この美しいとは言えないこの瞳だけが私と母の親子関係を証明するものだった。
私の褪せた緑と、母の濃い緑。母親の違うシルビアにはない色だ。
私だけが受け継いだ母の色。そこに滲む琥珀は、父の色でもある。
そう、私だけが、両親の色を両方受け継いでいるというのに―――――。

「本当に愛しているというのなら、どうしてこんな真似を? これに混ぜたのは一体何なのですか? これは、この茶葉は、普通とは違うでしょう? 何か、シルビアにとっては良くないものを混ぜているでしょう?」

早く決着をつけなければシルビアが帰って来る。ふと我に返って母親に詰め寄った。
そういえば、家令の元へ報告に走ったはずの侍女とメイドはどうしただろう。もしも既に家令がこの事態を知っているのであれば、父の耳に入るのも時間の問題である。
―――――けれど、母がシルビアに渡した茶葉へ何かを混入させているということはまだ誰も知らない。
だから今ここで懸念されるのは、そういうことではない。
問題なのは、私が、シルビアの部屋から物を盗み出したということだ。
妹を溺愛している父が、それを見逃すはずはない。

「シルビアは元々虚弱です。そこに……、こんな、何かよく分からないものを混ぜるなんて、」

私が娼館に居たときに飲んでいた薬は、病を制圧する為に、肉体そのものに負荷をかけるものだった。特効薬はまだ研究段階で市井には出回っていなかったはずだ。高額だけれど、それでも手に入れることができた薬は、病だけに攻撃を与えるようなものではなく、健康な臓器にまで影響を与えるものだった。
それでも、すぐに命を落とすようなことは避けられたから、その薬に縋ったのだ。
母がシルビアに煎じた茶葉に、あの薬が入っていたかどうか……確信しているわけではない。
だからもしかしたら、臭いの似ている別の何かかもしれないのだ。

「お母様、お母様は、一体、」

一体何を考えているのです、そう続くはずだった言葉が母の微笑によって阻まれる。
―――――否定して欲しいと、願うのに。母の反応は、ことごとくそれを覆す。

「毒薬ではないわ」

それでは一体何なのかと叫びそうになる代わりに、ごくりと、喉が鳴った。

「だから、死んだりしない。貴女が心配しているのはそういうことでしょう?」

と、ふと鏡台の方へ歩み寄る。
鏡を覗き込むような仕草をしながら、母は優しい声音のまま「……だけど、あの子は……」と呟いた。
鏡越しに視線がぶつかる。そこに並んでいる母と私の顔は、遠目で見れば全くの別人だった。
似ていると思っていたのは、しょせん勘違いなのかもしれない。
私の願望が生み出した幻なのかもしれないと、意味もなく、口元が震える。

「あの子は私の大事な大事なお姫様なのよ、イリア」

問われているわけでもないのに、その発言を肯定するためにただ肯いた。それを見ていた様子の母が「知っているなら、どうして?」と、よく分からないことを聞いてくる。
支離滅裂だと思うのに、その言葉の1つ1つがどこか同じ場所へ向かっている気がしてならない。

「学院に通わせるべきではなかったの、イリア。あの子は、駄目なのよ」
「……駄目?」
「あの子は、駄目な子なの」
「……っ、いいえ……! そんなことはありません。そんなことは決して! シルビアは、とてもよく頑張っています」

想像すらできないほどの低評価に思わず声を上げる。まさか母がそんなことを言うなんて。
けれど母は変わらず鏡の方を向いたまま首を振った。
数分前よりも陽が落ちているので、窓から差し込む光が弱くなっている。そのせいで、室内は先ほどとは比べものにならないほどに薄暗くなっていた。
そのせいで、視線を落とした彼女の表情を読み取ることができない。

「そういうことじゃないのよ、イリア。違うの、そうじゃない」

すっと姿勢を正した母が振り返る。

「果たさなければならない、約束があるの。それを、旦那様は、あの子可愛さに……、」

はらり、と。花びらが舞うように、母の瞳から涙が零れた。

「貴女がシルビアを学院に通わせた方がいいと言い出したとき、私はもっと強く止めるべきだった。だけどそうしなかったのは、旦那様が……きっとお許しにならないだろうと、そう思っていたからなの。それなのに、あの子が、シルビアがあまりにも一生懸命に強請るから……、旦那様も絆されてしまったのかもしれないわ」

許されることじゃないのに、と母の唇が吐息を漏らす。

「何を、仰っているのですか?」

母の双眸がゆらゆらと揺れて、私の顔を見ているはずなのに、どこか遠くを見ていることに気付いた。
ぼんやりとした眼差しが危うい。

「-――――こんなことをするつもりじゃなかったとは、言わないわ。私は、はっきりと自覚しているもの。自分が何をしたのか、そして、何をすべきか。けれど、」
「お、お母さま……?」
「旦那様はお許しにならないわね。だって、私たちのお姫様にあんなものを飲ませてしまったのだから」
「お母様、」

それはほとんど独り言で、言葉だけを聞いていれば懺悔しているかのようにも受け取れる。だけど、その顔は後悔の念を映し出しているわけではない。しいて言うなら、全てを成し終えた後の、虚無感に近いものがあるかもしれなかった。

「学院に通い始めてから、あの子は元気になった。そう、前よりもずっと、元気に」

それはいいことではないのか。
確かにシルビアは前に比べて、ずっと活動的になった。未だに体調を崩すことはあるけれど、それが、母の用意した茶葉によるものであれば……本当に、元気になったのかもしれない。そう思えるほどに、あの子は頑張って学院に通い続けている。

「だけど駄目なのよ、それでは。それでは、駄目な子なの。そうなっては、いけないのよ」

ぼそりと囁くような声でそう言った後、母はおもむろに右手で宙をかいた。
突然のことに身構えたのはほんの一瞬で、視界の端から端を掠めた銀色に成す術も無く立ち尽くしていた。
駄目とか、待ってとか、唇は確かに何かを発しようと動いたのに声にはならない。口内で行き場を失った言葉が立ち往生して、喉を詰まらせた。
1つだけ瞬きをすると、その隙を突くように物凄い勢いで黒い塊が走る。
それを追うように眼球が動くけれど、あまりの速さに後を追うことができなかった。

頬に、ぽつぽつと何かが、かかる。

ハエか何かが飛んできたのかと思った。
反射的に右手で叩こうとして、指先に何かが触れる。
ぬるりとした感触に眉を顰めながら、一体何なのか確認する為に落とした視線の向こう側で、どさりと落ちる母の華奢な体。

ああ、そうだ。そういえば、母は一体、どうしたのだった―――――?

何が起こったのか全く理解できない。確かに私の目は、全ての出来事を見ていたはずなのに。
一度、崩れ落ちた母に視線を移して、それから再び、自分の手を見る。
赤く染まった指先と、動かない母の姿を交互に眺めながら、足を踏み出した。
けれど、足の裏に伝わるはずの感触がない。まるで地面が抜け落ちた感覚に陥り、一瞬、己の居場所を見失う。
大きく、激しくぶれた視界に、屋敷が崩壊してしまったのかと思った。
そんなはずはないと自分に言い聞かせながら、強く目を閉じて、再び開く。
そして周囲を見回して壁や天井を確認し、屋敷そのものに何かが起こったのではないと気付いた。
己が倒れこんでいることを理解したのは、そのすぐ後だ。
怪我をしているわけでもないのに、何だか、おかしい。
「……お、かあさま……?」
両手で体を支えながら、這うようにして、豪華な織りの絨毯に伏している母の元へと近づいた。
濃い赤と薄い橙を基調として、その上に咲き誇る大小の花々。貴人の足元を飾るのに相応しい、複雑な織りをしている。

その全てを染め抜く、母の、血液。

「お、かあ、さま」

呼吸が上がって、うまく息が吸えない。
だから、当然きちんと吐き出すこともできずに乾いた声が口の端から漏れていった。
こんなときにどうして、と思うけれど、腰が抜けて立ち上がることすらできない。絨毯に肘をついて前へ進む。重く纏わりつく袖が、ひどく邪魔で、鉛のように硬くなった体は思う通りに進まない。
ただただ気だけが急いていく。

「……な、なんで、どうして……どうしてなの、お母様……」

己の首を掻き切ったナイフを握り締めたままの母が暗い眼差しで私を見据える。
意識があるのかどうかも分からない。
彼女の首からは、留まることなく、どくどくと血が流れ続けていた。

必死になって辿りついた先で母の首を押さえる。けれど、私の手では止血することができず、指の間から赤い液体が零れていく。
すると、力なく動いた母の細い指が私の手首を掴んだ。
ただ添えているだけだと思うのに、力強く押さえつけられているような感覚に陥る。ほんの一瞬怯んだそのとき、

「ごめんな、さい、イリア……」

影の落ちた深い碧が、私の顔を捉えた。

「……ごめん、ね、イリア―――――」

まるで、友人に語りかけるような気安さでそう言った後、私の手首を強く握り締める。
「しっかりして、お母様、大丈夫だから」
幼い頃にしていたように、大丈夫、大丈夫、とうわ言みたいに繰り返す。
「お母様、お母様、大丈夫、大丈夫、だから、」
ほんの少しも大丈夫ではないと知っていたのに、それでも、そんな言葉しか口にできなかった。
縋るようにその顔を見つめていると、母は、はっと双眸を見開く。
そして、驚いたような表情をしたまま、1つだけ大きく息を吸った。

「お母様?」

光がぱっと散るみたいに、瞳孔が開く。

「……お母様、お母様、……お母さま、おかあさま、」

嫌、止めて、何で、どうして、

「いや、いやっ、いや……っ、こんなの、こんなのは、嫌……、誰か、」

私の腕を握る母の手がはたりと絨毯の上に落ちる。
自由になった手で、さっきよりも一層強く傷口を押さえつけるけれど、何の役にも立たない。
何か布地で圧迫しなければと思うのに、近くには何もなく、両手を緩めるわけにもいかなかった。

「誰か、誰か、来て、誰か、」

声を張り上げているつもりなのに、呼吸もままならなくて言葉にならなかった。
役立たずだ。どうしようもない。こんなときまで、何もできず、声を上げることさえできないなんて。

「お母様、お母様、」

呼びかけるけれど、既に反応はなく。完全に光を失った虚ろな双眸には、何も映っていなかった。

「―――――おいて、いかないで……っ、お願いよ……、お母様……! また……っ、また私を、置き去りにするの……、」

嫌、こんな場所に、置いていかないで、
喘ぐ呼吸の合間に、懇願するけれど、母はもう私を見ていない。

彼女はいつだって、振り返ったりはしないのだ。











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