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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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32/40

15

頬に走る衝撃をただ甘んじて受け入れる。
霞がかった思考ではまともなことなど何1つ考えることができない。
呆然としたまま顔を上げれば、険しい顔をした父が立っていた。平手打ちをされたと分かっているのに、驚くことすらできなかった。
この現実に、感情が追いついていない。

*

完全に呼吸を停止した母の体を抱きしめたまま、ひたすらに声を上げ続け、一番最初に駆け込んできたのは家令だった。そして、室内の惨事に一瞬言葉を失った後、他に人間を呼びつけたのだ。
そのあまりに大きな声が、静まり返った室内の空気を震わせる。
いつも冷静沈着で、何を考えているかよく分からない老年の家令がそんな風に動揺をしているのを見るのは初めてで。だけど、そんな様子さえ、どこか他人事のように眺めている自分がいた。
その間にも流れ続ける母の血を両手で強く抑え付ける。
確かに手の平は、母の柔らかい首を掴んでいると分かるのに、血が止まらない。
この手から少しずつ命が零れていくのに、私にはそれを食い止めることができない。

どうやったって止まらないのだ。既に母の呼吸は止まっているし、きっともう瞬きをすることもない。
それなのになぜ、これ以上、血を奪う必要があるのか。

神様、神様、神様、どうして、どうしてなの。

両膝を何かが這い上がってくるような不快な感触に思わず視線を落とせば、己が血だまりの中に座り込んでいることに気付く。両手の指先から、つま先から、裾から袖から、じわじわと母の赤に染め抜かれていくようだった。
やがて全身ががたがたと震え始めて、腕に力が入らなくなる。
何かを言葉にしたような気もしたし、言葉すら口にできなかったような気もした。
記憶の中の私は、確かに喉が裂けるほどの大声で泣き叫んでいるのに。実際は、声すら出ていなかったのかもしれないと思う。
血に染まった両腕と、衣服が、先ほどまでの出来事を現実だと証明しているのに、全てが曖昧だ。ぼやけた視界は元に戻らないし、まるで悪夢でも見ているような心地になる。

だけど、ぴくりとも動かない母の体に縋っていた私の腕を誰かが掴んだことは覚えていた。

もう、死んでいる、と諭すような優しい声が聞こえた。もう、いいんですよ、と。
意味も分からず首を振り続ける私に、今度は、「まだ死んでいない」と叫び声が響く。

―――――いや、違う。それを口にしたのは、私だったかもしれない。

強制的に母から引き剥がされて、あるいは引き摺られるように離されて、絨毯の上に転がった。
私を掴んだその人が、わざとそうしたわけではないと分かっている。私がうまく立てなかっただけだ。受身を取る余裕などなかったとも言える。
震える足を叱咤して立ち上がれば、横たわる母の体を囲む侍従の姿が見えた。
それはさながら、眠る聖母を囲む、聖騎士の図のようである。
その姿はまるで、私から、母を守ろうとしているかのようだった。

そしてそのまま、部屋から追い出されたのだ。

母の部屋の前に仁王立ちして、誰も中に入ることができないように門番のような役目を果たしているのは家令である。いや、もしかしたら、廊下に立ち尽くしていた私を見張っていたのかもしれない。
そこから動いてはいけません、とはっきり言われて、そもそも動く気力もなかった私はふらりと壁に背中をつけた。そうしなければ、すぐにでも倒れてしまいそうだったから。
いっそのこと気絶でもできたなら、その方が良かったかもしれない。
両足や両手は震え続け、歯の根は噛み合わず、極寒の地に放り出されたような不安と孤独に苛まれる。
瞬きをする度に訪れる暗闇の向こう側に見えるのは、私を食い入るように見つめたまま息を止めた母の顔だ。そして、そこに響くのは、彼女の呼吸音。
すうっと、何かを叫ぶ前のように大きく息を吸い込んだ。
知らない内に耳を澄ましている自分がいた。何事かを告げるのではないかと。
だけど、それだけだった。そのまま、何もかもを呑み込んだまま、生きることを止めたのだ。

「……何で、どうして……?、どうして、何、で……」

どのくらい時間が経ったのか。
どうやら仕事を切り上げて帰ってきたらしい父が私の前を素通りした。
そして一度母の部屋に入り、数分もしない内に出て来る。
入るときは、貴族らしく従僕が扉を開けたというのに、自ら勢いよく扉を開けて出てきたその人は、私を見るなり右手を振り上げた。
理由さえ、問われることもなく。
ただ、殴られたのだ。
元々、さほどしっかりと立っていたわけではなかったので簡単に傾いた体は硬い床に打ち付けられる。けれど、痛いという感情さえ湧いてこなかった。
立ち上がろうとして両手をついたけれど、上半身が持ち上がらない。凝り固まってしまったかのような関節は、ぎしりと頼りない音をたてただけだった。
視界が滲んでいるのは涙が零れているわけではなく、母の返り血が瞼にこべりついているからだろう。
顔に触れてみたけれど、いつもとは違う感触がする。かさついたそれは、飛び散った母の血が乾いてきた証に違いない。思わず手を握り締めて、拳で頬を擦り上げる。
取れない、取れない、取ることが、できない。
私の顔に、母の血が、貼り付いている。

「何を、した。お前は、母親に、何をしたんだ」

久しぶりに聞く声だと思った。前に聞いたのがいつだったか思い出せないほどに。懐かしいような哀切を伴うのに、初めて聞くような不思議な声だった。
父は、娘を殴りつけたというのに激怒しているわけではなかった。
もしくは、怒りを押し殺しているのかもしれないが、その顔に滲んでいる感情が一体何なのか推し量ることはできない。
微かに違和感を生じ始めた頬に、その人が加減をしていたのだと知る。
怪我をしてその任を解かれたようだが、元は近衛騎士としてその力量をいかんなく発揮していた人だ。
全力で殴られていたなら、この程度で済むはずはない。
娘だからそうしたのか、単純に、異性だから加減したのか。恐らく後者であると分かる。娘だからといって特別扱いはしない人だ。それを、とっくの昔から知っていた。

「何も、私は……何も、していません」

かろうじてそれだけを搾り出すが、自分でも、今まで何をしていたのかはっきりと思い出すことができない。己が本当に、何もしていないのかどうかさえ分からなかった。
確かに自分がやったのだと自信を持って言えるのは、母に問いかけたことだけ。
母に、シルビアのお茶に一体何を混ぜたのかと聞いたことだけだ。
結局、その答えすら得ることができなかった。

母は、私からその言葉を聞いたとき、一体何を思ったのだろうか。
意味の通らない言葉の羅列だった。言い訳めいて聴こえたけれど、罪を告白しているかのようにも感じた。
そして、その全ての結末が、あれだ。

鋭く双眸を細めた父が、私の中に何らかの感情を見出そうとしている。
この目は……。
そうだ。妹を殺したと、ソレイルが責め立てたときのものとよく似ている。
弁明しようと口を開くが、それらしき言葉が出てこない。そもそも、何から説明すればいいかも分からなかった。混乱して動揺し、また平静を装うことなどできそうもない。
このままでは、身の潔白を証明することもできないというのに。
己の立場を危ういものにしていると分かっているというのに。
弁明する為の言葉が浮かんでこない。
ソレイルに背を向けられたあのときと、重なる。
思わず手の平に視線を落とすけれど、感覚を失っているはずの指先が震え続けていることさえ、同じだった。
唯一違うのは、この指も、手の平も、手首も、赤く染まっていることで。
乾き始めたその液体が絡み合い、指と指を縛りつけている。まるでそれこそが、罪人の証であるかのように。だからこそ、両腕を縛られ、牢に入れられた日のことを思い出す。

「……手を、洗わせてください、」

思わず滑り落ちた言葉に、座り込んだ私を見下ろしていた父の目が鋭さを増した。
再び、その拳が振りあがるのを、眺めているしかない。
こうして私は、どこかに堕ちていくのだろう。

「お待ちください! 旦那様!!」

声を張り上げてはいるものの、怯えと恐慌の混じる声だった。
その声に助けられたのだと知る。振り仰げば、その顔を真っ青にしたマージが立っていた。
いつの間にここへ来たのか、それとも、家令が駆けつけたときに一緒に居たのだろうか。
私と父の間に割って入るような格好をしている。
一介の侍女が、許しも得ずに声を発するのは不敬どころの騒ぎではない。しかも、こういう只ならぬ状況で、その言動を制するなど。
少なくとも家令であれば、ある程度の権限は与えられているから、罪に問われることはないだろう。けれど、その家令はただ黙って廊下の隅に控えているだけだ。発言権があるからこそ、何も発しない。何よりも主の意思を重んじるから。

「―――――なんだ」

父は振り上げた手を下ろし、マージを見据えた。
てっきり激高するか、マージを押し退けるだろうと思っていたのに、父は暗い眼差しで威圧するだけだった。年若い使用人であれば、それだけで震え上がっただろうけれど、相手は古参の侍女だ。顔色を失くしていても、その表情は凜と澄んでいる。不測の事態にも対処できるほどに経験が豊富なのだ。
だからこそ、私の教育係となったのである。今はもう、シルビア付きではあるけれど。

「お嬢様は関係、ございません」

震える声を呑み込むような、喉の奥から搾り出しただろう低い声だった。

「関係ないだと?」

それよりも一層、低い声を放つのが私の父だ。怒りを抑えているのか、暴発してしまう寸前の不安定さが伴う。そんな父が一歩足を踏み出したので、マージは自然と退行する格好になった。それだけで、マージと私がいかに不利な状況かが分かる。
真実がどうであれ、伯爵である父がこの場で私を黒と断定したのであれば、それは事実となるのだ。
けれど、マージは再び、前へと一歩踏み出した。
彼らは鼻と鼻を付き合わせるように対峙している。

「お前は何か見ていたのか」

父の低い声が問えば、マージは「いいえ、何も見ておりません」と正直に答えた。
その返事に、恐らく問い詰めようとしただろう父が大きく息を吸う音が響く。もしかしたら、怒鳴り声を上げるところだったのかもしれない。けれど、それを許さないほどの気迫で、古参の侍女が声を張り上げる。

「お嬢様は、誰かを傷つけるような方ではありません!」

予想外の言葉に、目を瞠った。
私を庇ってくれるような人間が居たことにも驚いているが、それが彼女だったことも信じ難い。
これまでの、何度も繰り返してきた人生でも、さほど関わりがあったとは言えない人間だ。幼少期は確かに教育係として傍に居てくれたが、親密だったかと言えばそれも違う。
今生だってそれは同じだ。
彼女はもはや妹の侍女で、私の侍女ではない。
家族でもないし、友人ですらなく、知人と呼んでいいのか迷うほどの間柄でしかないのだ。
だからこそ、いくら私を庇ってくれたからと言って、単純に安堵できるはずもなかった。
彼女を信じたところで、裏切られる未来が簡単に想像できる。
それなのに―――――。
指先の震えが、少しだけ、収まっていた。

「……旦那様、差し出がましいことを申し上げるようですが、」
「何だ」

マージの言葉を繋ぐように声を上げたのは、この状況を静観していた家令だ。
父も、彼の言葉には耳を傾ける用意があるらしい。

「この状況を、もっと多角的に……あるいは多面的に検分する必要があるかと」
「……」

それはつまり、この場で結論を出すのは時期尚早だということである。
けれど家令は決して私を庇ったわけではない。そうするなら、もっと早くに声を掛けても良かったはずだ。
だからきっと、その言葉がマージのためだと分かる。
ある意味、主にたてついたといえる彼女の身を案じているのだろう。家令が彼女の味方につけば、悪いことにはならないはずだ。

「お嬢様は動揺しておられるようですし、少し時間を置かれては?」

そう付け加えた家令の言葉に、父は黙り込んだ。そして、眉間に皺を寄せ目を閉じる。
よく見れば、父の着ている上着の袖が黒く汚れている。恐らく、母の血だろう。
この人も、母を抱きしめたりしたのだろうかと。ふと、そんなことを思った。
愛する妻の閉ざされた人生を嘆き、鼓動を止めた心臓に、それでも耳を澄まして声を上げて泣いたりしたのだろか。
父の、年齢よりも若く見えるその顔を見つめながら想像してみるけれど、上手くいかない。
私を平手打ちにしたことは別として、妻を失った人間にしては、未だに平静を保ったままにも見える。
1度目の人生で、シルビアが死んだと聞かされたときのソレイルの反応をよく覚えているからこそ、そう思うのだ。
彼はあのとき、ありとあらゆる喜びや楽しみを断ち切られたかのような顔をしていた。
その瞳が暗闇の底に沈む憎悪に染まるのを目の当たりにしたのを、昨日のことのようにはっきりと思い出す。だからこそ、父とソレイルの違いが、こうもはっきりと分かるのだ。
父はまだ、絶望しているわけではない。

そのとき、沈黙の落ちた廊下に幾人かの足音と金属音が響いた。
振り返れば、父の護衛とアルが血相を変えて駆け込んでくる。
青褪めた私の護衛を見つめると、当たり前のように視線がぶつかった。まだこの状況を把握していないだろう彼は驚愕に目を見開いたまま、何か言いたげな顔をする。しかし、瞬時に唇を引き結んだ。その様子に、彼が言葉を呑み込んだのがよく分かる。
父が居るこの場で、私を問い詰めるような馬鹿な真似はしない。
「……旦那様、」とそっと声を掛けたのは父の護衛だ。
彼が父に耳打ちするのを、見守る。恐らく、火急の用件なのだろう。父がはっと顔色を変えた。
「そうか、分かった」と肯き、家令に何事かを告げている。
はっきりとは分からなかったけれど、途中で切り上げてきた仕事に関して何かあったようだった。
私の護衛ももしかしたら、この数時間は父の仕事を手伝っていたのかもしれない。
それは、決して特別なことではなく、むしろいつもと変わらない日常のはずだったのに。

このたった数時間で、ありとあらゆることが変わってしまった。
私はもう、元の場所に戻れない。

「―――――お前は、部屋に戻れ」

やがて、仕事に戻らなければならなくなっただろう父が私にそう告げた。
そしてすぐに踵を返す。返事をすることもできずにその様子を見守っていると、「アル」と、父の護衛が振り返る。
私の護衛は、未だ廊下に佇んだまま私を見ていた。
「……アル!」
焦れた様子の父の護衛が強い口調で、呼び寄せようとしている。
父はもう随分先を歩いていた。

「行って、アル」
「お嬢様、」
「行きなさい」
「しかし、」

「いいから行きなさい!」

そう声を上げた後、お願いよ、と頼りない声が漏れた。噛み締めた唇が震える。威厳も何もあったものではなかった。だけど、このままこの場に留まることが、彼にとって良い結果を導くことなどはないはずだ。
アルがどこまでこの事態を把握しているのか分からないが、母のことはまだ知らないだろう。
屋敷の中で何かが起こったことは耳にしていても、女主人が命を断ったことは聞かされていないと思う。
ただ、ここに、血に塗れた私がいるだけだ。
けれど医師の診察を受けているわけではないから、私自身が怪我をしているわけではないことにはもう気付いているはず。あれだけの人数が居て、怪我をした伯爵令嬢を放置するはずないと、アルでなくとも誰でも理解できる。
だからこそ、異常なことが起こっているように見えるはずだった。
アルは私の顔を見つめて、しばらく逡巡していた。
そして、何度も何かを言いかける。だから、それに対して私は繰り返し首を振った。
彼が口にした言葉を、誰がどんな風に解釈するか分からない。それは多分、私たちにとって悪いことにしかならないはずだ。これまでの経験上、必ずそうなると知っている。
「行きなさい」と、もう一度口にすれば、私の意志を汲んだのか彼は振り切るように背を向けた。

これが、最後にならないように両手を強く握り締める。
願いなど叶うはずもないと知っているのに、それでも祈らずにはいられなかったのだ。

*

「お嬢様、お湯を沸かしましょう」

許しが出るまで自室で待機しているというのは、事実上、軟禁されたも同然だ。
部屋までの同行を担ったのはマージだった。
血に濡れたドレスのまま、震えの収まった指先を見つめる。爪の中にまで、母の血が入り込んでいた。
閉ざされた扉の前で立ち竦んでいる私の前に、古参の侍女が立つ。どういう指示が出ているのか、部屋の中には私と彼女だけだった。

「……マージ、有難う、本当に……」

指先を見つめたまま半ば呆然としたまま声を掛ければ、視界に彼女の両手が映りこむ。
包み込むように手を握られて顔を上げれば、

「お嬢様」

思いつめた表情で呼ばれた。
初めて出会った日から、一体どれだけの年月が経過しているのだろう。彼女はいつの間にか年を取って、その相貌に薄い皺を刻んでいる。だけど、それは彼女の魅力を損なうものではない。目尻や口元の笑い皺も、いい年の取りかたをしてきたのだと分かる。

「私はお礼を言っていただけるほどのことをしたわけではございません。本当のことを言ったまでです」

ぎゅっと力を込めて握られた指先が痛い。麻痺していたような手に感覚が戻ってきている。冷えた皮膚に彼女の温もりが心地いい。

「それに、」

私より少しだけ背の高い彼女を見上げれば、頬に落ちた睫の影が震えた。

「奥様から、伝言を、」

1つずつ息を呑むように言葉を切るマージが、こくりと唾液を嚥下する。
は、と落とした彼女の息が前髪を揺らした。

「……伝言?」

互いに声を潜めてしまうのは、誰にも聞かれてはならない話だと本能で理解していたからに他ならない。
彼女のただならない雰囲気もそれを助長させた。
血に汚れた私の手を、何の躊躇いもなく握っている妹の侍女。
手を繋いでいるにも関わらず、本来の私たちはこれほどに近しい仲ではない。
普段と何の変わりも無い室内で、私と彼女の存在だけが異質だった。

「いえ、でも先に、血を、流さなければ……」

突然手を離そうとしたマージの指先を追いかけて、手首を掴んだ。このまま有耶無耶にされるような気がしたからだ。それに、今この瞬間を逃せば、彼女と2人きりになれる時間が巡ってこないかもしれない。
きっと既に、扉の外には見張りが立っているはずだ。
ここまでついてきてくれた彼女だけれど、一度部屋を出てしまえば、戻ってこれるかどうかも分からない。

「何か言われたの? 母から、何か、」
「……」

血塗れのまま縋りつくような格好になってしまう。ここに他の人間が居たなら、異様で、それでいて奇妙な姿に映るだろう。けれど、自分を取り繕っている暇などなかった。
マージは私の顔から視線を逸らし、「お力になれず申し訳ありません」と力なく呟く。衣擦れの音が耳に響くほど静まり返っているというのに、掠れて消えてしまいそうな声だった。
何に対しての謝罪なのかも分からないし、そもそも答えになっていない。

「もしも、奥様の身に何かがあったなら、これを渡すようにと申し付かっておりました」

おもむろに、自身の襟元を寛げた彼女は、そこに指を差し込んだ。
「他の誰にも知られないように、隠し持っておくようにと、奥様はそう仰っていました。そして、これを渡す相手は、時がくれば必ず分かるからと……」
いつから持ち歩いていたのか、彼女が胸元から取り出した封筒は端がよれていた。
乱雑に扱っていたわけではないだろうが、しわも寄っている。

「お嬢様に渡すべきだと、今、はっきりと分かりました」

マージはそう言って、私の手に封筒を握らせた。
白い封筒に、赤く汚れた己の手がひどく目立つ。
母が何のつもりでこの手紙をマージに預けたのか分からない。だけどそれは、こういう日がくることを予見していたかのような行いだった。
いや、もしくは。
己の人生に見切りをつけるこの日を待っていたかのような、そんな用意周到さである。
「けれど私は、内容を知っているわけではありません。もちろん、この封筒の中身を見たわけでもございません」と、そう言い切った彼女の言葉に嘘はないと思う。
信用しているわけではなく、ただ、彼女がそういう人間だということを知っているだけだ。
母が捜し出した有能な侍女であり、だからこそ母のことを裏切るようなことはしないと。

「―――――これは遺言なの?」

両手で挟み込めば、そこに温もりを感じる。それはただマージの体温が移っただけなのだと分かっていた。
だけどそこに、母の存在を見出そうとする。……見出そうと、してしまう。

「分かりません」と、マージは小さく首を振った。
「私がその手紙を預かったのは、もう随分と前のことになりますから……どういう意図があったのか、分かりかねます」と。
だけど彼女は、それほど前に預かった手紙を、肌身離さず持ち歩くほど大事にしていたのだ。
「湯浴みの準備をいたします」と背を向けたその肩が小さく震えている。






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