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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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13

震える指で小瓶を抱えたまま、どうすべきか逡巡する。
浅くなった呼吸を戻すために、鼻で大きく息を吸い込んだ。そして何度かそれを繰り返す。

『私の可愛い、お姫様』

シルビアのことが可愛くてしょうがいないと、そんな顔をしていた私の母。
彼女の細い腕が妹を抱き上げる姿を、よく見ていた。
私とシルビアの生まれ月はたった数ヶ月しか違わない。母親が違えば、当然、そういうことも起こる。
私たちを姉妹と位置づけるのは、そのたった数ヶ月の期間だけだ。
幼い頃はよく考えていた。もしも、私とシルビアが逆だったなら。
私もシルビア同様に、頭を撫でられて、抱きしめられて、愛しくて仕方ないと言ってもらえただろうかと。

『シルビアはお母様の宝物よ』

まさか自分の産んだ子供が扉の向こうにいるとは知らなかっただろう。その扉が少しだけ開いていて、発した声が筒抜けだったことも。
だけど、どうしても母親が恋しくて自分の部屋を抜け出した私は、その声をきちんと聞き取った。
妹よりも言葉を覚えるのが遅くて、いつまでも覚束ない喋り方をしていた私。
そのことで両親を幻滅させてしまったことは知っている。
だけど、言葉を理解していなかったわけではなかった。

―――――わたしは?

母を前にしたとき、私はいつも同じことを思う。
シルビアが母にとってのお姫様であり、宝物であるなら、私は一体「何」であるのかと。

誰もいない廊下で身動きもできずに、母の腕に抱かれる妹の姿を見つめていた。
今夜もシルビアは熱を出していると聞いていたから、母はきっとその看病をしていたのだろう。
時刻は夜半過ぎだった。屋敷はしんと静まり返り、私もベッドの中で一度は夢の入口に立ったのだけれど、突然目が覚めてしまったのだ。
冬ではなかっと記憶している。
だけど妙に寒くて、誰も居ない真っ暗な部屋は寂しさをますます助長させた。
こちこちと時を刻む音だけが響いて、それが何だか恐ろしい。
夜中に部屋を抜け出してはならぬと厳しくいわれていたけれど、どうしても誰かに傍に居てほしかった。
掛け布から足を出すと、風なんて吹いていないはずなのにつま先がひんやりと冷える。
それなのに裸足のまま自室を抜け出した。
いくら夜も深いとは言え、防犯の為もあり屋敷が完全に眠りにつくことはない。
廊下に灯るぽつぽつとした小さな明かりを頼りに、前へ進む。

怖かった。

幼い私にとってその廊下は、ただ真っ暗な闇の中へ続いている夜道と同じだったのだ。
そうして辿り着いた先に見えた一筋の強い光。
それが、シルビアの部屋だと気付いたのは母の声が聞こえたからだった。
囁くような声がひどく優しくて。その声はきっと私をこのどうしようもない寂しさから救ってくれるものと信じていた。

「……お嬢様、あの」

突然、近くから聞こえた声に身をすくませれば、扉を半分だけ開けた向こう側にティーワゴンを持ってきた侍女の姿が見える。顔だけ出してこちらを窺っているのは、呼びかけたのに返事がなかったからだろう。

「アルフレッド様からお嬢様はお戻りだとお聞きしていたのですが、扉を叩いてもお返事がなく……。
具合が悪いとお聞きしていたので、もしかしたら何かあったのかと……失礼ながら、扉を開けさせていただきました」
「いえ、いいのよ。有難う」

私がそう言えば、侍女はほっとしたように息を落とした。緊急と判断したからこそ扉を開けたのだろうが、場合によっては見過ごすことのできない行いである。執事からは当然、叱責を受けるであろうし、もしこれが当主の部屋であれば解雇されるほどの事態だ。

「それよりもお願いがあるのだけれど」
「はい、何でございますか?」
「掃除係を呼んでくれない? 鍵を管理している人がいいわ」
「鍵、でございますか?」
「ええ」

訝し気な顔をしながらも、主の命には逆らえない。
侍女は戸惑いつつも部屋を後にした。
震える指は未だに小瓶を握り締める。それをスカートのポケットに突っ込んだ。
私の懸念が間違いであればいい。そうだ、これはただの気のせいに違いない。

だけど、妹は先週、確かに熱を出していた。
そして、その少し前には、眩暈を起こして倒れている。

そのときは意識を消失するほど重篤なものではなかったし、診察した医師も大事無いと判断したのでそこまで大きな騒ぎにはならなかったのだけれど。
『……時々、変なの』と、ぽつりと零したシルビアの言葉を思い出す。
不安そうにしていたけれど、元々虚弱なので、こういうことは初めてではない。
さっきまで元気そうにしていたのに、ものの数秒で急に顔色を悪くすることが昔からよくあったのだ。
耳鳴りや眩暈の類は貧血からきているようだと聞いたことがある。あくまでも軽度なものであるから食事にさえ気を配れば、症状はだいぶ改善されるだろうという話しだった。
だから今回も、それと同じようなことだと思っていたのだ。
高熱を出したわけでも咳が出たわけでもなく発疹が出ている様子もない。病が重症化する前の、それらしき症状は何も出ていなかったから、そんなに心配する必要はないと思った。
実際、それ以上悪くなることはなく、慣れない学院生活で疲れが出たのだろうと苦笑した老医師の言葉によって事態は収束したのだ。

妹は、良かったと笑った。
変な病気じゃなくて良かったと。そのガラスのように繊細な作りの顔がふにゃりと崩れて愛らしかった。
それだけが印象に残っている。

あのとき母は、どんな顔をしていただろう。

「―――――お嬢様、掃除係が参りました」

控えめなノックと共に顔を出す侍女の後ろで、あきらかにうろたえている様子の少女が視線を落とす。
鍵を管理している人間というのはもっと年長者であるはずなのだが。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。

「只今、責任者は外せない用件があるとかで、こちらには来られませんでした」

侍女がそう言いながらメイドの背中を押す。
「わ、わたしが鍵を預かって参りました。お嬢様に必ず手渡しするように言付かっております」
普段は廊下ですれ違うくらいの接触しかないメイドだ。けれど、本当はそれさえも珍しい。
彼女たちは、主の居ない時にこそ本領を発揮する。だから、彼らの勤務時間は必然的に早朝と両親が執務室に篭っている日中になる。昼間は私も学院に行っているので、顔を合わせること自体が少ない。
それに、例え顔を合わせる機会が多かったとしても親しく接することはなかっただろう。
昔、仲良くしていたメイドを解雇されて以来、ずっとそうだった。

けれど、この屋敷で長いこと療養生活を送っていたシルビアは、私と違う。
体を動かすことを目的に屋敷内を歩き回ることもあったから、彼らとは顔を合わせる機会も多く、それなりに仲良くしていたようだ。
そしてそれは未だに変わらない。
時々、シルビアとメイドが笑みを交わしているのを見かけることがある。
その姿に、幼い頃の自分を重ねることがあった。姉のように優しく接してくれた人のことを覚えている。だけど彼女は、今ここにいない。
使用人と必要以上に親しく接してはならぬと教え込まれた私と、そうではないシルビア。
その境界は何なのだろうと、考えたりする。

「あの、お嬢様……」

掃除係から鍵を受け取るために手の平を差し出したところで、侍女が申し訳なさそうに声を掛けてくる。

「何?」
「このことは……旦那様に報告しなければなりません」
「……」

私が何事かをしでかすと思っているからこそ、釘を刺す為にこんなことを言ってくるのだ。
そして彼女がわざわざ口に出してそんなことを言うからには、家令は既に承知しているということだろう。

「構わないわ」

束になった鍵を握り締めて、はっきりと顔を上げる。
鍵の中には執務室や書庫、宝物庫など、父の許可がなければ入れない部屋のものは含まれていない。
普段使っていない場所には施錠してあるため、掃除係が鍵を管理しているのだが、誰でも持つことができるわけではない。
けれど、この鍵さえあれば大抵の部屋へ侵入することができるのも事実だった。
悪事に利用しようと思えば、いくらでもその用途が思い浮かぶ。家令もそれを案じたのだろう。
つまり、私は信用されていないということだ。

「これから私がすることは全て、貴女の上司に報告して構わないわ」

そう言い置いてから、明らかに動揺している様子の侍女の横をすり抜ける。
「お嬢様……?」不信感を隠すことのできない小さな声が追いかけてくるのも構わずに、部屋から出た。
「お嬢様、お待ちください……!」
私の表情や行動から、鍵を必要とする理由を読み取ろうとする侍女を振り切る。
言葉に出してはっきりと聞かないのは、あくまでも私が主の娘だからだろう。けれど、もしも鍵を差し出さないようであれば命令すればいいだけだ。
背後に追いかけて来る侍女とメイドの気配を感じながら廊下を進む。
足を一歩踏み出す度に心臓が震えた。
視界がぼやけているのは涙が滲んでいるからではなく、疲れているからに違いない。恐らく、そうだ。
だけど、心と体が剥離していくような感覚に何度か足がもつれた。

これがもしも、夢だったなら。
目覚めた私は笑っているかもしれない。こんな馬鹿なことが現実に起こるはずなどないと。

日が暮れているわけでもないのに、長い長い直線の廊下が薄暗く見える。幼い頃、夜中に一人きりで歩いたときよりは明るい。だけど、あのときの風景によく似ていた。
同じ場所なのだから当然かもしれない。
胸の前で両手を握り締め、右に左にと視線を動かし、何かから逃げ出すようにこの廊下を進んだことを鮮明に思い出す。
指が震えていた。小さく灯された明かりに映し出される己の影にびくりと肩を震わせて。それでも懸命に前へと進んだのだ。
行き着いた先にあったのは救いなどではなかったけれど、いつもと変わらない光景に安堵したのもまた事実だった。
シルビアと母は、いつだって変わらない。
私に何が起こっても、世界がどんな風に変わろうとも、彼らは動じることもなく昨日と何ら変わりない日常を送っている。
部屋の中に飛び込まなかったのは、自分の存在が、日常を「非日常」に変えてしまうことを恐れたからだ。
私は、いつだって「私」でなければならないと知っていた。
背中を伸ばし、誰に怯えることもなく、何事にも動じず、いつだって毅然とした態度で臨まなければ。
母の手に縋りつくことなどあってはならないのだ。

「お、お嬢様!シルビア様はご不在です!」

シルビアの部屋の前で鍵束を掲げる私に侍女が小さく声を上げる。
私が何をしようとしているのか気付いていながら、それでもはっきりと抗議できないのは、彼女が雇われ人だからだ。従者である彼女は、私の手から鍵を奪い取ることができない。
怯えたような呼吸を繰り返す侍女の顔を一度だけ、しっかりと見据えた。
シルビアがいないことなど、百も承知なのだから。

「このままここに居ては、貴女も叱責されるだけではすまないわ。だから、」

この場から離れなさいと、私たちよりも更に数歩下がった場所にいるメイドにも視線を移す。
「……い、いえ、私は……」必死に首を振る彼女は、きっと私を監視するように言い渡されているのだろう。
シルビアよりもまだ若そうな彼女に拒否権などない。
ましてや主の娘が何をしようと、彼女には止めることなどできないのだ。
それを全て承知で、わざわざ年若いメイドを選んで寄こしたのは他に人がいなかったからではない。
いざというときの捨て駒にするためだ。年齢や、あまり知っている顔ではないことからも、彼女がごく最近雇われた人間であることを示している。つまり、責任のある仕事を任されているとは思えない。
だから、例えば「何かがあって」彼女が、この屋敷から居なくなったとしても何の痛手にもならないのだ。
私がもしも何かとんでもないことをしでかしたなら、それを報告させた後で、その口を封じるのだろう。

彼女は当然、そんなことには気付いていない。
だけど、私も彼女も、そういう世界に住んでいるのだ。

戸惑いを隠すことなくこちらを見つめているメイドから顔を逸らす。いつもだったら、ここで手を引いて部屋に帰っているところだ。
何事もなかったかのような顔をして鍵を返し、家令には適当な言い訳を並べて「手間をかけたわね」と一言そう口にすればいい。何事もなかったのだから理由を追及されることもないだろう。
それが分かっているのに。

「お嬢様……!」

非難するような侍女の声を確かに聞いた。それでも構わずに扉を開ける。

「シルビアがお母様からもらったお茶はどこに保管しているの?」

この場から去ってもいいと言いながら、侍女にそう問えば、彼女は躊躇いながらも私の後に続く。
そして僅かに逡巡したあとベッドサイドを見やった。
そこには、凝った彫刻の施された大きめのチェストがあり、その上には大小さまざまなぬいぐるみとお人形が並んでいる。これらは全て、両親がシルビアの為に買い与えたものだ。
ベッドから起き上がれない日が多かったあの子が寂しくないように、抱きしめられるサイズのものから、ただ鑑賞するだけのものまで、それこそ数え切れないほど集めたらしかった。
そしてこれらは全て、父や母からシルビアへ直接渡されたのだった。

私だって、同じものを幾つか持っていた。
だけど、渡された経緯はシルビアとは異なっている。
我が家に出入りしている商人が、「母君に頼まれたんですよ」と本当かどうかも分からないことを言い添えて、丁寧に包装されたぬいぐるみを置いていってくれたのだ。
今は自室の奥の納戸にしまわれている可哀想なお人形たち。
あまりにも恨めしそうな目で私の顔を見つめるから、一度も、抱きしめることができなかった。

「あ、お、お嬢様!」

ためらうことなく、人形が並んだチェストの引き出しを開ければ、四角い箱の中に規則正しく並んだガラスの小瓶が目に入った。
茶葉を自室の引き出しにしまっているのは、シルビアがこれらを眺めて過ごしていたからだろう。
少しずつ微妙に色を変えているガラスが宝石みたいに輝いている。
一つだけ取り出せば、その冷たい感触に手の平が小さく震えた。
何の飾りもない小瓶に、シルビアが私にくれたものはやはり、わざわざリボンを巻いてくれたのだと確信する。
ふたを開ければ、ふわりと漂う甘い香り。

「―――――ああ、どうして……」

呟いた声はきっと誰にも聞こえなかっただろう。
小さな箱に収まっている八つの小瓶を全部取り出して、一つずつ確かめる。茶葉に交じっている薬草は少しずつ違うもののようだ。けれど、鼻腔に残る臭いはどれも同じだった。
先ほどから指の震えが止まらない。
「……お嬢様?」
只ならぬ様子の私に気付いたのだろう。
侍女が不審そうにこちらを見ている。

瞬きをする度に思い出すのは、母に抱きしめられている妹の顔だ。
頬を摺り寄せるあの子の顔はいつだって幸福そうだった。誰かに恨まれることや、憎まれることなど想像したこともないだろうその姿。

「……何で?」

その小さな腕が母の首をきつく抱きしめる。幼いからこそ力の加減を知らないのかもしれなかった。
だけど母は何も言わず、むしろ嬉しそうに口元を綻ばせた。
「お母様、だいすき」と笑う、妹の声が聞こえる。

「……どうして、どうして、……何で――――――!」

唇がわななく。がちりと奥歯が音をたてたのは、全身が震えているからだ。
何が悲しいのか、何が辛いのか、どうしてこんなにも苦しいのか分からない。

だけど私は、どうしようもなく泣き叫びたかった。
意味もなく何度も何度も繰り返す時間の中で、無条件に信じられるものなど何もなかったけれど、母がシルビアに向ける愛情を疑ったことなど一度もない。
羨ましかった。どうしようもなく焦がれていた。
策略も計略もなく、見返りさえも求めない、あれほどにひたむきで純粋な愛情を他に知らなかったのだ。
この真っ暗な世界にも、そんなものが一つだけある。
それは両目を焼くほどの強い光で、目を閉じたところで決して失われることのない深い愛情だった。

だから、それが、どうしても欲しかった。

「お嬢様!イリア様!なりません……!」

ここにきてやっと事の重大性に気付いたらしい侍女が大きく声を上げる。
私の腕を掴もうと動く手を勢いよく振り払い、シルビアのベッドからシーツを剥ぎ取る。
そして、大きく広げたそれに小瓶を全部投げ込んだ。
引き出しから小瓶を納めている箱ごと取り出し、シーツの上で逆さまにしたから、転がり落ちたガラス同士がぶつかって予想外に大きな音をたてる。
部屋の中に優しく広がっていた甘い香りが濃度を増した。
もしかしたらヒビでも入ったのではないかと思う。

「お、お嬢様!一体何をなさっているのです!それは、それは、シルビア様のものです!」

小瓶をシーツで包んで抱え込んだ私の行く手を阻むように身を滑らせてきた侍女を押しのける。
その先に立っていた掃除係のメイドが、涙目になりつつも私を部屋から出すまいと体を翻すのが見えた。
そんな彼女によって、バタン、と激しい音をたてて閉ざされた扉の前。
一瞬だけ立ち竦んだ私は、両腕に抱え込んだ小瓶を一層強く胸に押さえつける。
一度だけきつく両目を閉じれば、眦からすっと何かが零れていった。

この部屋を出てしまえば、もう後には戻れない。

真っ暗な視界の中に映し出されるのは、母の細い指とシルビアの銀髪だ。
幼い頃は今よりももっと色素が薄く、白に近い色をしていた妹の髪。私の好きな色を持つあの子を、母が優しく撫でていた。何度も、何度も。愛しくて、可愛くて仕方ないとそう言っているみたいに。
その姿に自分を重ねたのは一度や二度ではない。
あれがもしも私だったら……嬉しくて幸せで、どうにかなってしまうだろうと思っていた。

「そこを、退きなさい」
「お、お嬢様、」
「二度も同じことを言わせるの?」
「お嬢様、でも―――――、」

「いいから、そこを退きなさい!!」

声を張り上げれば、それに呼応するかのように心臓が脈打つ。
これほどに大きな声を上げたことはなかったかもしれない。
瞳をこじ開ければ、瞠目している侍女と不安そうに体を震わせるメイドが映り込んだ。
睨みつけるようにして対峙すれば僅かに怯んだ彼女たちに隙ができる。その決して太くは無い体を突き飛ばして部屋を出た。

これでは押し込み強盗か何かと一緒だと、廊下に出てから息を吐き出す。誰も居ないのに、誰にも知られないように吐き出した息が、泣き声のように大きく震えていた。
二人が付いてくる様子はない。きっと家令の元へ報告へ走ったのだろう。
その間に少しでもシルビアの部屋から離れておかなければ。
足を速めると、その分だけ息が上がる。無意識に喉元を押さえたのは何のためだったか。
苦しさは増していくなかりで、楽になることはない。
絨毯の敷かれた直線の廊下が迷宮のようにぐちゃぐちゃに入り組んでいるように思えた。足を踏み出すたびに、体の重みで底が抜けていくような錯覚に陥る。

―――――怖い。怖い。誰か、誰か、

やっと辿り着いた目的地でたった二つだけ呼吸を繰り返した。
ノックもせずに開いた扉の奥に、揺り椅子に腰掛けている細い背中が見える。
こちらに背を向けているというのに、かちゃりと響いただけの扉の音にも彼女はしっかりと気付いたようだ。首を傾げならが少しだけ肩を揺らして、ゆっくりと振り返る。

「―――――イリア?」

目が合った途端に怪訝な表情を浮かべるその姿に、訳もなく両腕が震えた。
抱えていたシーツを落としてしまい、中から幾つかの小瓶が転がり出る。
ころころと転がったそれが、いつの間にか立ち上がっていた母の足元で勢いを失い、窓から差し込む陽の光を反射した。

眩しさに目を眇めている間に衣擦れの音が響く。
母の細い指が小瓶を拾い上げる様子をただ見ていた。
何かを確かめるように、手の平で茶葉の入った瓶を何度か転がし、母は顔を上げてじっと私を見据える。
そして上から下へ、輪郭をなぞるように視線を動かし、足元に落ちている他の小瓶も認識したようだった。
その口元にはなぜか、小さな笑みが浮かんでいる。
動揺しているわけでもないし、驚嘆しているわけでも、怒っているわけでもない。
何の感情も読めない微笑だった。

私は、その顔をよく知っている。























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