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5 夕陽の散策

 天王寺公園の北側、ラブホテルと小さなマンションが混在する地域に、柏原の店はある。

 阿倍野地下街の北端から地上に出て、谷町筋を少し北に歩いて西に折れ、細い路地に入っていくと、築後三十年はゆうに経っていそうな木造の四軒長屋がある。

 周りをマンションに囲まれているが、幸いにそれらが高層ではないので、谷底のような感覚はない。デコレーションされたマンション街の中のあばら長屋は、時代に取り残されたエアポケットのような気配を漂わせている。路地には安価なリブ付きコンクリートブロックの塀が続いているが、長屋の南側は運よくマンションのわずかな植栽スペースに面している。

 夜になって庭のライトが灯れば、長屋は古色蒼然とした姿を浮かび上がらせ、良くいえばアンチークな雰囲気を醸し出すことになる。


 柏原の店は、その植栽スペースに面した長屋の一番手前の家。他の三軒も空き家でこそないが、洗濯物が干してあるわけでなく、自転車やプラスチックのプランターが置いてあるわけでもなく、生活臭はない。

 店の正面の外壁はそれなりに見えるように改造してある。黒いモルタルが一面に吹き付けてある壁。少し奥まった背の高い飾り気のない扉。これも黒をベースにした藍色。ひとつきりの窓は、鮮やかな青ペンキの木製建具がはめ込まれているかわいい正方形。扉の脇には立方体の乳白のガラス製ブラケット照明。その下には同じサイズのヘヤライン仕上げのステンレスプレート。

 そこに店名である「バー・オルカ」と「柏原」の黒い文字が焼き付けられてあった。

 早く来すぎた。店は閉まっていた。

 柏原との約束の六時まで、まだ三十分ほど間がある。

 生駒は久しぶりに茶臼山にでも行ってみるか、という気になった。

 今、ひとりで見てきた「スティング」のテーマでも口ずさみながら。


 生駒は大阪市内に生まれ育った。

 中学生のときは毎週のように、当時の国鉄関西線に乗って天王寺まで行き、公園内にあった市立天王寺図書館に通ったものだ。図書館は今は夕陽丘に移転してしまい、地下食堂から漏れてくるカレーの匂い漂う閲覧室の情景や、動物園の森越しに夕日が沈んでいく様をもう見ることはできない。生駒はそんな閲覧室で、本から目を上げて通天閣のネオンライトが灯る瞬間を見守るのが好きだった。

 

 高校時代になると、天王寺公園は生駒の日常的な遊び場となった。学校の帰りに級友とぶらついたり、ときにはステーションデパートで押し寿司を買って、公園のベンチで食べたりした。

 生まれて初めてのデートは、阿倍野の旭屋書店で待ち合わせて公園を散策するというコース。

 ときには公園の芝生花壇から美術館の前を通って茶臼山に向かい、ラブホテル街を照れながら通り抜けて、四天王寺まで行ったりすることもあった。


 今、天王寺公園は有料となってフェンスで囲われているが、当時はずいぶん荒れた様子の公園だった。

 手入れの行き届かない芝生の中の園路には、木製の古ぼけたベンチが並び、日雇い仕事にあぶれたおっちゃん達が所在なげに寝転がったり、喋ったり、喧嘩したりしていた。

 生駒らは、そんなおっちゃん達と関わらないようにはしつつも、さほど気にすることもなく、公園を楽しんだ。もし有料化が、そんな人達を締め出す施策として考えられたのだとしたら、なんとも懐の狭い考えだと生駒は思う。有料化が実施されるとき、市民の間から反対運動が起きたが、多くの賛同を得ることはできず、今はもう、かつては誰もがいつでもそれぞれに楽しむことができた公園に入るために入場料を徴収されても、不快感を抱く人さえいなくなってしまった。

 図書館の前の広場で店開きをしていたハブとマングースの決闘を見せる薬売りや、鮮やかに実演していた手品売りなどは、今もどこかで見ることができるのだろうか。


 生駒は公園を巡って歩く。

 ただ、高校生だったころの思い出を拾いながらの感傷的な散策かというとそれだけではなかった。

 これから開かれる会合で、自分がどう振舞えばいいのかと思い悩みながら、やたらと歩き回った。


 告別式のあった日の夜、柏原に電話をかけたときには我ながら興奮気味だったと思う。

 朱里が自殺したという結論には違和感がある、おまえの店で集まって話がしたい、と段取り役をかって出たわけを話したが、それから二日経ち、もうすでに今日の会合が億劫になっていた。

 なにをどう進めるのかという、どんな考えも頭の中にはなかった。


 懐かしい情景が目に入った。

 茶臼山の池では、昔と同じように自転車でやってきた子供達が釣糸を垂れているし、水面に浮かんだアヒルが静かに足を動かしている。乗る人のなくなったボートは浸水していたが、陽光に照らされて、水面は穏やかに光っていた。

 しかし、昔とどこかが違う。

 こってりとしたデザインエレメントで覆われた建物が周囲に建て込んでいるせいで、アオコで緑色がかった小さな池は余計にわびしく見えるからなのか。

 陽が傾き、光が赤味を帯びてくると、さらにその印象は強くなった。


 胸のポケットが震えた。

 弓削からの電話だ。

「実は、朱里さんと最近会ったことがありまして」

 電車でたまたま出会って、夕食をとりながら彼女の独立の話を聞いたという。


「それで、生駒さんに話そうかどうか、悩んだんですが……」

「なに?」

「はあ、どうも僕は疑われているようなんです」

「え?」

「一応は自殺と判断したようなんですけど、西畑っていう刑事がそれに疑問を持っているようでして」

 生駒は驚いた。

 と、同時にほっとする気持ちもあった。警察が非公式にしろ継続的に捜査しているというのは心強い限りだ。

「それからも僕のことを探っているみたいなんです」

 なんとも応えようもない。

「それで、なんというか……」

「ん、つまり、弓削としては冤罪だと」

「そういうことです。すみません」

「謝ることはないよ。で、今日はその冤罪を晴らしたいと」

「いえ、まあ、それは……」


 弓削の冤罪。

 今日やろうとしていることの意味が、一気にリアリティを帯びてきたように感じた。

 もちろん今の段階で、弓削を疑ったということではない。捜査、あるいは推理に意味が見出せそうな気がしたということである。

「その話は誰か他の人にしたか?」

「いえ」

「言わないほうがいいかもな」

「と、思います。すみません。お願いします」と、弓削がまた謝った。

 生駒は今日集まってくるメンバーの心の内をふと想像した。

 追悼の気持ちで参加するもの。興味本位で参加するもの。真相を明らかにしたいと意気込んでいるもの。義理で、あるいはやむを得ず参加するもの。断りきれないと、もっと言えば推理をかく乱させるために参加するもの……。

 そして恐れから参加するもの……。

 身震いがする思いがした。

 しかし生駒は、肩肘張らず、さらりといこうと心に決めた。

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