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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

序章

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  夏の木陰2

「すごい!」
 図書室に入るなり、サラは歓声を上げた。
 深紅の絨毯が敷かれ、セージグリーンの壁いっぱいに置かれたマカボニーの本棚に三方向を囲まれた図書室は、大きな窓から十分な採光があるにも関わらず、重苦しく陰気くさい。ヘンリーはここが余り好きではなく、めったに来ることもなかった。図書室といっても、ほとんどが年代物の飾ってあるだけの本ばかりだ。来る必要もなかった。

 サラはしばらく嬉しそうに辺りをぐるりと見まわしていたが、眉をしかめて、ヘンリーに向き直った。
「パソコンは?」
「ここだよ」
 窓辺に置かれたオーク材でできた重厚な開閉式の書き物机に歩み寄ると、彫刻の施された天板を開けた。天板の内側に、パソコンが隠されていた。
 サラは駆け寄ると、瞳を輝かせてヘンリーに聞いた。
「使ってもいい?」
「もちろん」
 サラは慣れた手つきでパソコンの電源を入れ、没頭し始める。
 ヘンリーはしばらくの間、部屋の中央に置かれた応接セットのソファーに腰かけ、そんなサラを眺めていた。
「サラ、僕は朝食の続きを食べてくるよ」
 サラの返事はない。ものすごいスピードでキーボードが叩かれているカタカタとした音だけが、やけに大きく耳について聞こえた。


 サラの部屋へ戻ってみると、食べかけの朝食は既に片付けられている。
 ヘンリーは執事のマーカスを呼んだ。
「悪いけど、もう一度朝食を作ってもらえる? テラスで食べるよ」


 南向きのガーデンルームを見下ろすテラステーブルで、ヘンリーは甘いミルクティーをゆっくりと飲みながら、今日、何度目かのため息をついた。
「マーカス、僕は、映画や小説に出てくるような人間に、本当に会えるなんて思ってもみなかったよ」
 ヘンリーは、少し離れて立っている執事に声をかけた。
「サラお嬢さんですか?」
「学年トップのエドがただのバカにみえる。サラみたいなのを、天才っていうんだろうね」
 ヘンリーは、嬉しそうに笑いながら続けた。

「昨日サラに、算数の問題を教えて貰ったんだ。すごく教えるのが上手くて驚いたよ。ブラウン先生よりずっと判り易かった。でも、サラがいつもやっているのは高等数学だろ。僕の課題なんか簡単すぎて、バカにされているんじゃないかと思って、きいてみたんだ。
 僕のこと、バカにみえる? って。
 数学の問題の答えはひとつなのに、間違った答えは沢山あって、何故こんな間違え方をするのか? 間違えを導き出す要素が、問題の中にもともと含まれているのか、考えていると楽しい、って言われた。それから、あなたはバカなんじゃなくて、間違った答えと間違ったパターンをたくさん覚えすぎているだけだから、正しい答えと正しいパターンを覚え直して、ほかは忘れればいいだけよ。って。妹にバカって言われなくて、本当、良かったよ」
 マーカスは何と答えていいか迷い、微笑んだ。
「お優しい方なんですね。わかりにくいですが」
「そうなんだよ! わかりにくいけど、優しいんだ! 算数を教えるのがすごく上手いのも、従兄弟の宿題を手伝っていたからだって言っていた」
 ヘンリーは、青紫の瞳を輝かして、話し続けた。

「それに、僕、大分わかってきたよ。サラと会話するには、ちょっとしたコツがいるんだ。発音が綺麗だから、わからなかったけれど、サラはまだそんなに英語が得意じゃないんだよ。曖昧な表現を使うと通じないけれど、ストレートな聞き方をしたらちゃんと答えてくれるもの」
「そうかもしれませんね。サラお嬢さんを迎えに行ったスミスさんがおっしゃっていました。お嬢さんは飛行機の中で、BBCニュースとイギリス映画を見て、ご自分の発音を矯正されていたそうですよ」
「飛行機の中で!そんなに簡単に発音を直せるものなの?」
 ヘンリーは、目を丸くして叫んだ。
「あのお嬢さんなら、不思議ではないでしょう?」
「僕のフランス語も、フランス映画を見たらマシになるのかな?」
「どうでしょう?試してみられては?」

 ヘンリーは、満足げに微笑んで言った。
「コツを聞いてみるよ。サラがこんなに面白い子で良かった。アメリカの妹や、チャールズの妹みたいなのじゃなくてホントに良かった。僕はツイてるよ。僕は、サラが来たら、一緒にバラ園を散歩したり、女の子が好きな人形遊びに付き合ってあげたり、そんな退屈だけど穏やかな毎日になるんだろうな、って想像していたんだ。まさか、算数を教えてもらったり、一緒にチェスをしたりなんて考えもしなかった」
「お嬢さん、チェスをされるのですか?」
 マーカスは、少し驚いたように聞き返した。
「僕が教えたんだ。自信があったからね。算数で恥をかいたから、名誉挽回しようと思って。サラは、チェスが気に入ったみたいだよ。それなのに、僕は、一度も勝てなかった。全然、勝負にならないから、2度目からは、サラには、クイーン抜きでしてもらった」
「クイーン抜きですか……」
 クイーン抜きのチェスなんて聞いたことがない。マーカスはいぶかし気に繰り返した。
「駒落ち戦っていうんだ。実力差がありすぎる場合、最初から強者の持ち駒を減らすんだ。まずクイーン、次はルーク、その次はナイトってね。最後はキングとポーンだけで戦うらしいよ」
 ヘンリーは、チェス好きの友達に教えてもらった、一般では余り知られていない練習法を説明した。
「でも、クイーン抜きくらいじゃ惨敗。昨日は、ハンデを上げてクイーンとルーク拭きに。やっぱり負けたけどね。負けても楽しいのは初めてだよ。サラにチェスを教えるはずが、僕が教わっている。こんなにわくわくさせてくれる相手は、今までいなかったよ。それに……」
 ヘンリーは、遠くを見つめるように目を細めて笑った。
「ちょっとしたコツがいるんだって判ってきたんだ。サラとつき合っていくには……そこさえ外さなければきっともっと面白くなる」
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