夏の木陰2
サラは、あまり笑わない。あまりしゃべらない。聞けば答えてくれるけれど、自分から話しかけてくることもない。
ヘンリーは最初、そんなサラの挙動をインドからイギリスに来たばかりで慣れないからだと思っていた。だがそれだけではないと、おいおい彼にもわかってきた。ヘンリーの知っている普通の女の子たちと、サラは確かにかけ離れていたのだ。
サラの部屋は南向きで日当たりが良い。ライラック色のブロケード張りの壁、白塗りの框の大きな窓にドア、白い天井には化粧漆喰で可憐な花状の模様が施されている。クリーム色のカーテンには、全面に細かなライラックの花と葉が刺繍されている可愛いらしいものだ。天蓋付きの四柱式ベッドも、壁と同系色のベッドカバーも、いかにも女の子の部屋といった感じで、ヘンリーはサラの存在を知った時から、この部屋の主人になる愛らしい女の子が来るのを楽しみにしていた。
実際のサラは、想像通りに可愛らしい外見をしていた。小さな顔に大きすぎるくらいのつぶらな瞳は濃く長いまつ毛に縁どられている。小さな鼻に、花びらのような小さな口は、人形のようだ。首も手足も折れそうに細くて、華奢だった。六歳という年齢の割には背が低く、せいぜい四~五歳にしか見えなかった。だが見かけに反して、無表情で感情を表に出すことが少ないサラと向き合っていると、とても幼い子どもとは思えないのだ。
サラは、あてがわれた自分の部屋からほとんど出ることもせず、いつもじっと床に座って紙に何か書いていた。瞬く間に部屋の床は、何枚もの紙切れで埋もれていった。紙だけではなく、床にも何やら数字や記号、アルファベットが落書きされている。サラは、部屋の隅の絨毯の敷かれていないマホガニーのフローリングに直に座るのが好きみたいだった。おそらく紙がなくなったら、そのまま床に書きつけられるからだろう。ライラックの部屋に隠れるように縮こまって座る、原色の赤や黄色のパンジャビ・スーツを着たサラは、異質でちぐはぐだ。
「何をしているの?」
「遊んでいるの」
サラは、ヘンリーを見上げて答える。ヘンリーは、サラの横に同じように座り込んで、サラの手の中の紙を眺める。彼には訳のわからない数式が並んでいる。
「それは? 」
「擬テータ関数の証明」
ヘンリーは、ため息をついて言った。
「それが終わったら、いっしょに朝ご飯を食べよう、サラ」
「もう、終わっているわ」
「何か必要なものはない?」
サラがここに来てから一週間、ヘンリーは、毎日、同じ質問を繰り返す。サラは、食事もダイニング・ルームに来ることはなく、自分の部屋で食べたがった。けれど、こうしてヘンリーが部屋を訪ねれば拒むこともなかったので、毎朝ヘンリーがサラの部屋で朝食を取ることが日課になりつつある。
「何も」
返ってくる答えも、いつも同じ。
「服は? 替えがもっといるんじゃないかな?」
サラは、この家に来た時、わずかな着替え以外何も持ってこなかった。それなのに、家政婦のメアリーが用意した洋服には、決して腕を通そうとはしないのだ。
「洋服は嫌いなの」
「どうして?」
「ガサガサして気持ち悪いから」
「いつも着ているようなインドの服がいいなら、インターネットで買えるよ」
いきなりサラは顔を上げて、手に持っていたティーカップをガチャリと音を立てて置いた。
「パソコンがあるの?」
「図書室にね」
「行きたい」
初めてサラが意思表示した!
ヘンリーに、思わず笑みが零れていた。
「案内するよ。でもその前に、お茶を飲んで、朝食を食べなくちゃ」
サラは、急いでカップを持つと一気に残っていたミルクティーを飲みくだし、顔をぎゅっとしかめる。
「大丈夫? 熱かったんだろ?」
ヘンリーの方が驚いて立ち上がっていた。
「図書室へ行ってもいい?」
「サラ、ちゃんと答えて。口の中、やけどしていない?」
厳しい顔で問いただす。
「少し、痛いけれど、大丈夫、と思う」
サラは、たどたどしく答えた。その瞳が怯えたように震えている。
「怒っているんじゃないよ。心配しているんだ」
ヘンリーは、困ったように付け足して言った。
「行こうか」