第25話
「春ちゃん」
「東先輩」
「「卒業、おめでとう!」」
時は流れて卒業式当日。宏と春菜は、一年生として卒業式に参加していた綾瀬舞衣とその双子の妹である結衣から、花束を渡されていた。
なお、名字から予想できる通り、舞衣と結衣は天音の娘で、髪の色も含めて十代の頃の天音とよく似ている少女達だ。天音の娘なので、当然神とかそっち方面の存在である。
一卵性双生児だけあって見た目はそっくり、という領域をはるかに超え、身長体重スリーサイズから髪の長さ、果てはほくろの数と位置まで完全に一致するという、髪型が写っていない写真を見せられるとまず識別ができないタイプの双子だ。
とはいえ、そこまで一致しているのは外見だけで、能力的には一般に誤差と言われる程度の差はある。具体的に例を出すと、学問では姉の舞衣が理系より、妹の結衣が文系よりで、得意分野は高校レベルならほぼ確実に満点を取れるが、苦手分野だと八割の確率で一問か二問、点数の低い問題や部分点を落とす感じである。
ちなみに、日頃は姉が左の、妹が右のサイドポニーテールにしているほか、服やこまごまとした小物の色でも区別がつくようにしている。今日も服こそ制服なので共通だが、髪型やそれ以外のところでちゃんと識別できる格好にはなっている。
もっとも、春菜や今の宏からすれば、外見以外のところでいくらでも識別可能ではあるのだが。
「なんか今年一年、色々あったわあ」
「そうだよね」
花束を受け取った宏と春菜が、どことなく遠い目をしながら今年あった事を振り返る。
フェアクロ世界に飛ばされるという人生屈指のイベントはもとより、帰ってきてからの学校生活でもなんだかんだとトラブルは多かった気がする。
「春ちゃん達もいろいろ大変だったかもしれないけど、私達は私達で、今年一年は結構気苦労が絶えなかったよ?」
「そうそう。春ちゃんも東先輩も、いろんな意味で結構危なっかしかったし」
「でも、春ちゃんはともかく、東先輩に私達が声かける訳にもいかなかったし」
「それに、春ちゃんに聞かれた時にも言ったけど、口で説明できる種類のものじゃないから、慣れるしかなかったしね」
「「本当、卒業式までに丁度いい塩梅に落ち着いてよかったよ」」
今年一年の事を回顧する宏と春菜に対し、生まれつき神様的な存在でそのコントロール訓練をきっちり叩き込まれていた舞衣と結衣が、いかに宏達の制御や行動についてハラハラしていたかをこぼす。
実際、体質や血筋の問題で封印をかけて神具をつけてなお制御が所々甘い春菜は、本人の自覚がない所でかなり双子にフォローしてもらっている。
もっとも、双子にとっては、春菜は大好きな親戚のお姉さんだ。小中高と、春菜が居てくれたおかげで注目度合いが軽くなっていたことも知っている。なので、フォローすること自体は全然苦にならない、どころか役に立てることは大歓迎ではあった。
ただ、いくら大歓迎とはいっても、例えるなら今にも足を踏み外して崖から転げ落ちそうな場所で暢気によそ見をしながらスキップしているような、そんな状況が長く続いていたため、フォローしながらずっと気をもみ続ける羽目になってしまっていたのは、精神衛生上とてもよろしくなかった。
故に、いくら自分たちよりはるかに制御能力が高い母のもとへ行くとはいえ、今後目の届かないところに春菜と宏が行ってしまうこの状況において、二人の制御面がある程度落ち着いたのは心配が減って非常に喜ばしい事なのである。
「とりあえず、多分春休みに一回、研修と特訓が入ると思うから」
「春ちゃんも東先輩も、ちょっと頑張らなきゃって感じだよね」
「あ~、せやろうなあ。っちゅうか、文化祭の時に訓練足りてへんのはいろいろ思い知ったわ」
舞衣と結衣の言葉を受け、思うところがありまくりの宏がため息交じりに言う。
主観時間で見てもまだ人間であった頃の方が長いのだから、未熟なのは当然ではある。あるのだが、あまりにも至らない点が多すぎて、どうにもへこまざるを得ないのだ。
「まあ、その辺は頑張るしかないよ」
「そうそう。私達みたいに生まれた時からの付き合いでもなきゃ、そんな何年も経たないうちに完璧なコントロールって無理だと思うし」
「その割には、自分ら一般人の運動能力とか全然把握してへんやん」
「「そんな感覚的なこと、どう頑張っても把握とか無理」」
宏の突っ込みに、母譲りのデカい胸を強調するように張りつつ、声を揃えて無理なものは無理だと断言する双子。根本的に、親しくしている相手に普通の運動能力を持つ同年代がいないこともあり、十代の一般的な運動能力など最初から把握しようとすらしていなかったりする。
「まあ、何にしても、春休みの特訓は多分私達もお手伝いするから」
「その時はよろしくね」
そう告げて、別の三年生のところへ向かう舞衣と結衣。ストーカー先輩の影響もあって三年間帰宅部だった春菜と違い、双子は実は科学部に所属している。
天音があとり達の関係で設立した部活だという事を考えれば、娘である舞衣と結衣が所属するのはある意味自然な事であろう。
元々機材の問題であとりのAIの教育ぐらいしかしておらず、それらも完全に終わっているため当時ほど活発な活動もしていなければ華々しい成果もないが、それでも潮見高校のレベルの高さと天音のネームバリューのおかげで、全国的に見れば高校生としては高度な事をやっている部活である。
ちなみに、双子同様親のつながりがあるので、科学部には俊和も所属している。もっとも彼の場合、他の部への助っ人や掛け持ちしているサブカル部の活動もあって、出席率は割と微妙な感じではある。
出席率は微妙ではあっても、出席した日は誰より全力で活動に取り組んで色々と成果を上げているので、出席率の悪さにはどこからも文句が出ていない。
なお、その俊和は科学部とサブカル部の先輩に挨拶に行っており、宏と春菜への挨拶は後回しにしている。明日の晩に卒業祝いをすることが決まっているため、今日でなくてもいいとの判断だそうだ。
というより、顔が広くモテる俊和がこっちに来ると時間が足りないため、春菜の方から当日はあいさつ無しでいいと宣言している。
「春菜、話は終わった?」
「あ、うん」
「だったら、打ち上げ会場に行くわよ」
「は~い」
舞衣と結衣が立ち去ったのを見計らって、蓉子が声をかけてくる。どうやら在校生の間で申し送りがあったらしく、春菜に対する挨拶は舞衣と結衣が代表してまとめて行うことになっていたようだ。
「……もう、生徒としてここに通うことはなくなるんだよね」
「そうね」
「なんだか、あっという間だったよ」
「春菜的には、もう一年ぐらい通いたかった、とか?」
「そうだね。もう一年ぐらい、宏君と高校生やりたかったかも。なんていうか、こう、好きになってからこっち、文化祭ぐらいでしか高校生らしいことできなかった気がするし」
「はいはい、ごちそうさま」
春菜の感想に、砂糖でも吐きそうな顔で宏に視線を向けながらそういう蓉子。蓉子に微妙な顔を向けられ、困ったように苦笑いをする宏。
そんな二人の態度に、どことなく不満そうな顔をしつつ、下手な事を言うと命取りになりそうなので一つため息をついていろいろと流す春菜。
そんな三人を、校門の前に集合していたクラスメイトが温かく見守っているのであった。
「そういやさ、東の中学がらみの件、なんだかえらい騒ぎになってるみたいなんだが、結局東と藤堂さんが直接絡んだところはどういう決着になったんだ?」
例のスペシャルな学割が効くオーダーバイキングの店での、二階の宴会場的なスペースをほぼ借り切っての卒業パーティ。
ソフトドリンクによる乾杯を終え、一通り近況や進路についての話題が終わったところで、誰もが気になっていたであろうことを田村が代表して質問した。
「とりあえず、大半は今カウンセリング受けてるよ。さすがに、火炎瓶投げた挙句に人を刺そうとした子は現行犯逮捕だから、カウンセリングの結果とか関係なくもう一度少年院かな」
「あと、あのサイコな感じのおっさんも、確定して取れる刑事処罰は公務執行妨害と犯罪教唆各種ぐらいらしいんやけど、それ以外もぼろぼろ出て来とってなあ。どうにか懲役免れたとしても、あっちこっちからつつかれて失業確定みたいやで」
「そっちはあの人だけじゃなくて、文部科学省や教育委員会にその関連組織にいる人たちの思想チェックとかにまで話が進んでるって言ってたよ。それも、おざなりなアンケートとかじゃなくてかなり厳密なのをやってるらしくて、いじめられるような人間は殺してもいい、みたいなレベルの、それも本当に実行しそうなとこまで行っちゃってる人が次々とあぶりだされては権限を剥奪されて、現場に絶対にかかわらない立場に送り込まれてるって」
「そこまで行ってもうてんのか。の割にはなんかこう、普通やったら言論の自由とかでうるさいマスコミとか、思想信条の自由で派手に騒ぎそうな連中とかが喜んで攻撃する類のネタやのに、扱い小さいやんなあ」
「そりゃ、マスコミが攻撃するわけないよ。だって、センター試験の事で既に白い眼向けられてるのに、ここで犯罪を助長・奨励するような思想の人を権力から遠ざけようとしてるのを邪魔したら、それこそ後がなくなるもの」
春菜の説明に、宏だけでなく他のクラスメイト達も納得する。
実は、下種な三流週刊誌がしでかしたセンター試験での強引な取材は、今度こそマスコミ全体に致命傷を与える寸前まで行っていた。他の事はともかく入試の妨害は言い訳などできるはずもなく、特に大手は一切かかわっていなかったにもかかわらず過去の事もセットで非難の嵐にさらされており、少しでも対応をミスればいつ倒産してもおかしくない状況に追い込まれている。
基本的にすべて身から出た錆だとはいえ、飛び火した火の粉を払うのに必死な現状、常識的に考えて普通組織の防衛として当たり前であろう行動を非難する余裕など一切ないのだ。
思想・言論の自由は犯罪行為を奨励する自由ではないと、むしろ各省庁の動きを応援する側に回っているのも当然と言えば当然であろう。
「東君に直接連絡してきた子とかは、どんな感じ?」
「連絡してきた西岡っちゅう奴は比較的マシな感じやけど、それでもやっぱ目の前で犯罪行為見せられたわけやから、結構キとる感じやったなあ。他に関係者の男子で言うたら、横山っちゅう当時真正面から庇ってくれとった奴もおるんやけど、こいつも当時の僕よりはるかにましなだけで、かなりやばい感じやで」
「西岡君が連絡するきっかけになった松島さんは、精神的にもだけど、むしろ肉体的に間一髪って感じだった。重度のストレスに加えて、今回逮捕されたこのグループと真正面から対立しちゃったみたいで、こう……」
「……一番最初に俺が振っておいてなんだけど、また飯がまずくなる話だなあ……」
「うん。これ以上はもっとご飯が不味くなるから、詳細は控えさせてもらうよ」
「あ~、うん。これ以上は聞かない事にするわね」
宏と春菜の説明を聞き、深く追求するのをやめる蓉子と田村。他のクラスメイトも、うんざりした感じで納得してみせる。
「今回の事件そのものについてはこれ以上深入りしないが、それ以前の部分で気になることがあるな」
「それ以前って?」
「東の中学の教師は、一体何をしてたのかって事だな。ここまでこじれているところを見ると、東の中学時代の事件の時は、後始末も含めて何もしてないのだけは分かるんだが……」
「「「「「「ああ……」」」」」」
ある意味事がこじれた元凶ともいえる、中学時代の教師たち。それに関しての山口の疑問に、全員が言われてみればという感じで宏と春菜に視線を向ける。その視線を受けた春菜が、身内から聞いた話を代表で説明する。
「今回の事に関しても、直接的には何もしてないっぽいよ。というより、裁判の真っ最中でそれどころじゃない感じ」
「裁判? まだ終わってなかったのか?」
「学校とか公的機関が訴えられてるタイプの裁判って、判決が出るまでにすごく時間がかかるしね。それに、教育委員会の人たちは判決を受け入れたけど、校長先生たちは民事も刑事も控訴してるから」
「……どこまでも恥知らずだな」
山口の端的な感想に、同意するようにため息をつく春菜。しかもこの件に関しては、更に飯が不味くなる話があるのが憂鬱ではある。
「……ん~……。向こうからすれば、盗癖のある犯罪者予備軍の問題児が、セクハラして女子に反撃されただけの正当防衛をマスコミと被害者が勝手に大事件に仕立て上げた、って認識みたいだから、自分たちは理不尽な扱いを受けてる被害者だと思ってるらしいよ」
「盗癖自体がでっち上げだが、それを横に置いておいても、死にかけるまでやるのは基本的に過剰防衛だろうし、そもそもホームルーム前って時点で周りにクラスメイトがいるんだから助けを求められるはずだし、たとえセクハラが事実だったとしても正当化はできんと思うが、俺の認識がおかしいのか?」
「いや、それ以前の問題で、生徒がリンチにあってるのを見てるのに、止めるどころか何の注意もせずにホームルーム始めた挙句に、それでグロッキーになってる東を叱ってるって時点で、学校も教師も果たすべき義務を果たしてないから普通に加害者になると思うんだけどなあ……」
少し迷った末に、山口の恥知らず発言に答えるように追加情報を口にする春菜。その話を聞き、山口と田村が渋い顔で思ったことを正直に言う。
校長や学校が訴えられたり非難されたりしているのは、何もいじめを阻止する手立てを一切取らずに放置したからだけではない。最初のチョコを無理やり食わせてリンチを行った映像に、担任の女教師が加害者を注意するどころか被害者を人格否定レベルで叱責する姿が映っていたからである。
しかも、その後主犯グループが面会謝絶の宏の病室に不法侵入した上で攻撃を仕掛けた時も、一回目は遠回しに加害者をかばい被害者を非難するようなことを言っていたのだから、これで学校側が責められるのは理不尽だ、なんて話は通用しない。
あの映像自体は証拠としては参考資料程度にしかなっていないが、他にもチョコレート事件に対する学校側の不法行為や校長および担任の悪意があるとしか思えない指示に関しては、公的な記録や書面がばっちり残っているので、たとえ控訴したところで量刑や慰謝料の額は変わっても無罪放免には絶対にならない。
やればやるだけ心証が悪くなって自分の首を絞めていくのだが、反省など欠片もしていないだけにそこまで頭が回っていないようだ。
「そういえば、直接的には、って言ってたよな?」
「うん。あの校長先生、いじめ問題の解決のためにいじめられっ子は全員殺してしまえ、みたいな主張してた例のおじさんの後輩らしくてね。事件関係者の個人情報洗いざらい漏らしたうえで逆恨みみたいなこと愚痴り倒したらしいんだ。で、あのおじさんがタチの悪いマスコミを扇動して、っていうのが今回の件のあらましだって話だよ」
「……えらく詳細がはっきり分かってるんだな」
「礼宮関係のおばさんたちが張り切って背景洗いだしてはマスコミに証拠付きでリークしてて、私達にはそのおこぼれが来てるんだ」
「……つまり、知らないところで礼宮を敵に回したって事か……」
情報の出どころと背景を聞き、質問したクラスメイト男子が戦慄したようにつぶやく。たとえまかり間違って無罪を勝ち取れたとしても、恐らく先はあるまい。
敵に回したからと言って、たかが中学の元校長やその関係者程度に対して、礼宮グループ自身が直接報復に動くことなどない。今回のケースにしても、綾乃や美優、未来などが個人の財力とコネを使って勝手に調査して勝手にマスコミにリークしているだけで、礼宮商事は直接的には一切関わっていない。
が、こういった情報というのは、礼宮自身が口にしなくともどこからともなく漏れるものだ。
それでも、以前のようにマスコミに影響力を持っている人間がバックに居れば対抗できなくもなかったが、そのマスコミが明確に敵対姿勢を示しているとなるとどうにもならない。
もはや、礼宮グループが動く必要すらなく、元校長たちの末路は決まってしまったのである。
「まあ、とりあえず自業自得の大人たちはいいとして、だ。この際だから言っちまうけど、いじめられた側が常に完全に被害者って流れには、どうにも色々もやっとするところはあるんだよなあ」
どうにも卒業パーティにふさわしくない空気になったところで、もう今更だとばかりに腹をくくった相良というクラスメイト男子の一人が、今まで宏の存在のおかげで微妙に言いづらかったことを口にする。
「どういうことだよ?」
「まず、リンチだの集団での無視だのってやり方は屑のすることだから論外だ、ってのは大前提なんだけどな。やっぱ、やられてる側が自分から進んで引き金引いてる事例、ってのもあるわけじゃん」
「ああ、まあそうだろうなあ」
「申し訳ない話なんだけどな、東にしても好き嫌いとは別に、たまにものすごくイラッときて思いっきりぶん殴りたくなることがあるんだわ。イラッと来ただけでぶん殴るとか野生動物じゃねえんだから、って感じでこらえはしてるけど」
「自分でもそらそうやろうとは思うから、気にするこっちゃないで。いろんな人から何べんもたしなめられとるしな」
言いづらそうにかつ申し訳なさそうに言う相良に対し、さもありなんとばかりに同意して見せる宏。そもそも宏には、自身が万人から好かれる、なんて幻想はない。
むしろ、腹が立つこともあれば殴りたくなることもあるだろうに、それを飲み込んでダメなところをたしなめた上で普通に付き合ってくれている事には、正直どこまでも感謝しかないのだ。
とはいえ、感謝している事と駄目な部分を改める事は別の問題になるのだが。
「で、今の流れだと、被害者側のそういう部分にフォローがいかないまま、良くて加害者を更生させる、悪きゃそのまま排除して終わりそうな雰囲気なのが、ちょっともやっとするんだよなあ」
「あ~、そうだよね」
「それに、元々は笑ってすむ範囲の問題しか持ってなかったはずの人間が、やられ続けてるうちにどんどんこじらせてねじ曲がっていって、それこそやられる側が全面的に悪いって状態になっちゃってる事例もある訳じゃん。そういうのって、単にカウンセリングするだけで解決する?」
「……難しい所だよね。カウンセリングとかの治療は必須としても、それ以上に関しては正直、私は専門家じゃないから何とも言えないよ」
「っちゅうたかて、暴力振るわれるようなこっちゃのうても、あかんもんはあかんしなあ……」
相良の疑問に、難しい顔で言う春菜と宏。加害者側の行為の是非とは別の問題として、被害者側に非があるならそこを注意して指導することは必要だが、今の空気だとその必要な指導ですらいじめを肯定していると取られかねない。
結局何事も度合いの問題ではあるが、企業や学校のように多数の人間が絡む環境では、結構うまい落としどころにはいかないものである。
「とりあえず確実に言えるんは、いじめる方に対してもいじめられる方に対しても、いくら手間でも問題が出た初期段階からしつこくしつこく注意して根気よく指導したほうが、結局は最終的に誰にとっても面倒がない形でけりがつくっちゅうことやろうなあ」
「てか宏君、それって別にいじめとか教育とかだけの話じゃないよね」
「せやなあ。大概の場合、問題が起こった時に保身に走ったりいらん欲かいたり邪魔くさがって手ぇ抜いたりしたら、碌な事にはならんわなあ」
「どんな問題でもちゃんと真面目に誠実に対応するのが、結局一番楽だよね」
宏と春菜の会話に、何やら思うところがあるらしい数名が、気まずそうに明後日の方向に視線を向けている。
「まあ、せっかくの打ち上げやし、教育やの風潮やのっちゅうんはうちらだけでどうにかなる事でもないし、へこむ話はこれぐらいにしといて、なんか楽しい話にしようや」
「そうだね。みんな、春休みの予定とかどんな感じ?」
宏の提案を受け、少しでも楽しい話になりそうな話題を振る春菜。その春菜に対し、即座に蓉子が一言物申す。
「そういうネタは、言い出しっぺからするものよ、春菜」
「了解。私はとりあえず、明日身内だけでやる卒業祝いに出る以外は、これと言って大きな予定はないよ。朝晩は畑仕事して、日中は宏君の実家の工場でアルバイトするぐらいかな」
「そこのところを詳しく!」
蓉子に言われてあっさり自分の予定を口にした春菜に宏以外の全員の視線が集中し、代表して美香が激しく食いつく。
「詳しく、って言っても、宏君が毎年長期休暇の時は実家の工場をお手伝いしてるって聞いたから、いつも畑仕事手伝ってもらってるお返しに事務仕事とか手伝おうかな、って」
期待に目を爛々と輝かせた美香の剣幕に押されながら、苦笑交じりに詳細を告げる春菜。言っては何だが、普通のアルバイトと何も変わりはしない。
「春菜ちゃん、それ嫁入り修行!?」
「いやいやいや! ただのアルバイトだから、そういう話は何もないよ!」
「せやで。そもそもの話、休憩時間とかはともかく、仕事中は打ち合わせと確認以外では話とかほぼせえへんし」
いきなり話を飛躍させる美香に対し、大慌てで否定する春菜。宏も苦笑しながら助け舟を出す。
「で、そういう高橋さんはどないなん? 大学は受かったんやろ?」
「うん。と言っても、市内の私立だから自宅通学だし、これと言って進学準備とかすることないんだよね。とりあえず春菜ちゃんを見習って、簿記の資格取ろうかと思って勉強始めたんだ」
「中村さんと田村は東京の大学やっけ?」
「ええ。東大でこそないけど、一応は東京にある国立よ。ちょっと遠いけど通える範囲だから、自宅通学の予定。定期代はかかるけど、ね」
「つまり、田村と一緒に電車でイチャコラしながら通う、っちゅうことか」
「そういう事ね」
宏のからかうような言葉に、余裕の表情でそう切り返す蓉子。その会話に、正確には仲がいい蓉子相手とはいえ色恋沙汰で宏が女性をからかおうとした、という事に驚きの表情を浮かべる春菜。
例の一件である程度過去を乗り越え、何とか中学時代の自分と決別した宏は、蓉子や美香ぐらいに仲が良く警戒が必要ない相手だけとはいえど、異性相手に恋愛関連でこの程度の軽口は言えるようになっていたのである。
「なんや、春菜さん。鳩豆な面して」
「あ、うん。ちょっと驚いただけだよ」
「別に、田村と中村さんが付き合ってることぐらい知っとったやろ?」
「えっと、そっちに驚いたわけじゃなくて……」
宏の突っ込みに、驚きの表情をどことなく嬉しそうな苦笑に変えながら、そこに驚いた訳ではないことをやんわりと告げる春菜。
春菜の言葉に驚きの意味を理解した蓉子が、微妙に得意そうな顔で春菜に視線を送る。その視線を受けて小さくうなずいた春菜が、とりあえず話を元に戻す。
「で、とりあえず話を戻すけど、確か山口君は海南大学だったよね?」
「ああ。学部も受ける講義も同じにはならんだろうが、また四年間よろしく」
「ん、よろしくね。で、山口君は確か教育学部だっけ?」
「ああ」
「真琴さんが文化人類学の方に行くみたいだから、場合によっては真琴さんと講義が一緒になるかも」
「ふむ、なるほど」
真琴の事情を聴かされ、小さくうなずく山口。それを見ていた美香が、微妙に不安そうな顔で山口に釘をさす。
「真琴さんと仲良くなるのは別にかまわないけど、浮気はだめだよ?」
「心配しなくても、六歳も離れているのはさすがに対象外だ」
不安そうな美香に対し、きっぱりと告げる山口。そのやり取りを見ていたクラスメイト達が、口々にはやし立てる。
ちなみに、対象外だった一番の理由が、大小にはさほどこだわらないにしてもあそこまでの洗濯板は遠慮したい、という、本人に聞かれたらごっつい虎大砲でも叩き込まれそうな理由だったのは、山口の名誉と身の安全のためにも決して外に漏らしてはいけないここだけの秘密である。
「そういえば、その真琴さんって人、確か文化祭の時に来てた藤堂さんの知り合いよね。凄くキラキラしい美男美女の集団の中で、一人だけ親近感がわくレベルでごく普通の一般人って感じだった」
はやし立てる方に回っていた元文化祭実行委員女子の安川が、ふと我に返って春菜に確認する。山口と美香のやり取りの中に、なかなかに聞き捨てならない言葉が混ざっていたのだ。
「そうなんだけど、そのあたりの事と胸の事は結構気にしてるから、本人の前では言わないようにしてね?」
「あ、うん。さすがにそこまでデリカシーない事はしないっていうか、単に確認したいだけだったから今回だけしか言う気はないから安心して。で、ちょっと気になったんだけど、六歳年上なのに講義が一緒になるってどういうこと?」
「真琴さん、ちょっと色々あって前の大学中退して引きこもってた時期があったの。で、もう一度ちゃんと勉強しなおしたいからって、編入試験じゃなくて普通に一般入試受けて合格したから、私達と同じ学年で勉強することになるんだ」
「なるほどね。ってか、中退から海南大学に受かるって、すごいわね。しかも、その経歴だと結構なブランクがあるはずだし」
「うん。だから、すごく頑張って勉強してたよ」
春菜の説明に、思わず真琴に対する尊敬の念を抱いてしまう安川。たとえ比較的マイナーな文化人類学であっても、海南大学は現役で合格するにはかなりハードルが高い大学である。ブランクがある状態で受かるなど、並大抵の努力では不可能だ。
真琴本人が聞けば、申し訳なさのあまりにのたうち回りそうな評価である。
「まあ、その中退した経緯に恋愛沙汰が関わってるから、本人はもうしばらくは彼氏とかいらないって断言してるんだけどね」
「そういう人ほど、ダメ男にコロッと行っちゃうものだけどね」
「さすがに、そのパターンは私達が何とか止めるよ」
ダメ男に引っかかる女あるあるを言い出した安川に、春菜が割と真剣な顔で断言する。春菜としてはこれ以上、真っ当でない種類の男女関係で身内が傷つくのは、正直まっぴらごめんだ。
「真琴さんにしろ蓉子たちにしろ、浮気とかちょっと遊びでポイ捨てしたかったとか、そういう真っ当じゃない理由で一方的に傷つけるような相手との恋愛なんて、私の目が黒いうちは絶対に許さない。どんな手を使ってでも阻止するからね」
「いや、春菜さんの目は青色やから、最初から黒くはないやん」
今までの積み重ねもあって無茶なことを言い出す春菜に対し、あきれたように宏が突っ込んでまぜっかえす。そんな妙なところでまで息があったお似合いの二人をにやにやと見守り、成人式の日にまた全員で飲み会をする約束を交わし、卒業祝いの打ち上げパーティは時間いっぱい盛り上がり続けるのであった。
「なんか、終わっちゃったね」
「終わったなあ」
その日の夜。いつものチャット。家族だけでのちょっと贅沢な夕食をすませた宏と春菜が、ソファーでだらけながら高校生活の名残を惜しんでいた。
ちなみに、現在チャットルームには、宏と春菜、真琴の三人だけしかいない。達也や詩織、澪はもう少ししてから入ってくる予定である。
「振り返ってみれば、やりたかったけどできなかったことが結構あるんだよね」
「そうなんや。例えば?」
「一番大きいのは、部活かな。例の先輩のせいでできなかったから」
「ああ、なるほどなあ」
春菜の言葉にうなずく宏。部活をやっていないのは宏も同様だが、そもそも女性恐怖症的な意味で学校そのものに長居したくなかった宏と、本人には何の問題もないのに外的要因で部活が不可能だった春菜とでは大違いだろう。
「一応、大学にも部活はあるわよ」
「知ってるけど、高校の部活とは雰囲気とかいろいろ違ってくるよね?」
「まあね」
春菜と宏の会話を聞いていた真琴が、同じようにソファーでだらけながら口をはさむ。
部活の雰囲気なんて高校と大学どころか同じ高校でも学校ごとですら違うし、もっと言うならば同じ学校でも部活ごとに完全に別物だが、それでも高校と大学では根本の部分で明確に違うのも確かだ。
根本の部分での特に大きな違いが、成人している人間が混ざることと活動時間の長さ、校則などのルールが緩いことによる自己責任の割合の大きさだろう。
そのあたりの事情により胡散臭い部活も結構多く、高校までと同じように考えると痛い目にあうこともあるのだが、本題に関係ないのでここでは省略する。
「どっちにしても、大学ではあんまり部活とかする余裕はないんじゃないかなあ」
「そうねえ。一年二年はあんまり油断して時間作れるような講義の取り方しちゃうと、あとで単位不足でえらい目見ることになるしねえ」
「あと、偏見かも知れへんけど、大学の部活ってなんか合コンとかで酒飲んでばっかり、っちゅう印象があるんやけど……」
「全部が全部そうじゃないけど、本来の活動と合コンや飲み会の比率がほとんど変わらない、っていう部活は珍しくないわね、実際」
大学で部活を行うことに対し、いろんな側面から否定的な意見を出す宏と春菜。そうでなくても勉強と農業で忙しいのに、部活で夜まで拘束されるのは有難くない。
よほど興味を引く活動内容で構成人員がしっかりした、ちゃんとした活動実績がある部活ならともかく、飲み会の人員集めが目当てとしか思えないような部活に参加するぐらいなら、その時間をフェアクロのログイン時間にでも当てた方がはるかにましである。
そんな話をしていると、入室チャイムの後に澪が入ってきた。
「あ、澪ちゃん。こんばんは」
「ん。師匠、春姉、卒業おめでとう」
「おう、ありがとうな」
「ありがとう」
「で、師匠、春姉、真琴姉。何の話してたの?」
入室と同時にお決まりのやり取りをした後、不思議そうに首をかしげながら澪が問う。澪が不思議そうにするぐらいには、部活の話題は微妙な空気を振りまいていたようだ。
「えっとね、部活の話してたんだ」
「潮見高校に通っとった頃は部活できへんかったなあ、っちゅう話しとって、大学でも部活はあるで、みたいな内容になってなあ」
「大学じゃ、多分部活なんてする余裕はないよね、って結論だったんだ」
「なるほど。師匠達のことだから、大学の部活って変なものとか下半身直結のものが多そうで所属する気になれない、みたいな話になってたのかと思った」
「そういう話も出てたわね。っていうか、今まさにその話が終わったところよ」
やはり偏見に満ち溢れながらも全否定はできない澪の言葉を、思わず苦笑しながら肯定する真琴。ちゃんと真面目に学問と部活、更に場合によってはアルバイトもこなしている大部分の真っ当な学生にとっては、とことんまで風評被害が激しいイメージである。
「どっちにしても、師匠と春姉の組み合わせで大学の部活とか、正直無事に四年間過ごせる気がしないから、やめといた方がいいと思う」
「そこはあたしも否定できないわね」
「真琴姉も、師匠達が引きずり込まれる可能性を考えると避けた方が無難」
「あたしはもともと、大学での部活なんて考えてないわ。普通の大学生がやりそうなことは前の大学で十分経験してるし、勉強と漫画に専念したいし」
澪の指摘に同意する真琴。そもそも、そういう活動をメインに据えたいのであれば、別に大学に入りなおす必要などない。地域の情報誌などを漁れば、新人を募集している社会人のサークル活動などいくらでも見つけられるのだから。
「そういえば、澪は部活とかはどうするの?」
「新年度の部活説明会に参加させてもらった上で、深雪姉とか凛とかと相談して決める」
「なるほどね。まあ、そのあたりに関しては、深雪に任せておけば問題ないでしょ」
「ん、ボクもそう思う」
澪の部活についても軽く確認し、とりあえず部活の話を切り上げる真琴。そのまま、最初の話題に話を戻す。
「で、部活関係で盛大に脱線したけど、高校時代にやりたくてもできなかったことって何よ?」
「これは半分滑り込みセーフなんだけど、恋はずっとしたかったよ」
「じゃあ、ちゃんとできたじゃない。半分滑り込みってのはどういう意味よ?」
「恋はしてるけど成就はしてないし、ちゃんとカップルとしてデートとか日帰り旅行とかお互いの家にお泊りとか、いろいろやってみたかったんだ。あくまで高校生として一般的に許される範囲内で、だけど」
「あ~、それは確かに半分滑り込みセーフってところね。相手が宏って時点で、ちゃんとお付き合いまでこぎつけても日帰り旅行とかは怪しい感じだけど」
「後はその派生で、友達なんかと一泊ぐらいの旅行とか行ってみたかったんだよね。例の先輩とかいろいろ問題があって無理だったけど」
春菜のできなかったことリストを確認し、なんとなくそりゃ無理だろう、という気分になる真琴と澪。藪蛇になりそうな宏は必死になってスルー検定受験中である。
「でも、話聞いてるとあのトチ狂ったストーカー、あんたの高校生活に随分マイナスの影響を与えてるわよねえ」
「真琴姉。ストーカーなんて、基本トチ狂った生き物だと思う」
「いやまあ、そうなんだけどさあ」
「それと、変なストーカーがいなくても、春姉は立場的に彼氏作るのは難しかったと思うし、友達との旅行って間違いなくストーカーの先輩がいなくてもアウトだった気がする」
「って事は、仮にあれがいなくても、部活ぐらいしかやってみたかったことはできてないって事かしらね」
ストーカー先輩に対する濡れ衣としか言いようがない要素を、澪が鋭くえぐりだしていく。その指摘に反論しきれず、しょんぼりした態度を見せる春菜。
「で、宏は何かやりたかったことってある?」
そんな春菜を放置し、真琴が宏に話を振る。
「そら、林間とか修学旅行に参加したかった以外あらへんやろ?」
「ああ、そりゃそうねえ」
「文化祭にもちゃんと参加できへんかったし、一般的な行事はほぼ全滅やで」
「そりゃ、やり直せるならやり直したいわね、実際」
「まあ、その辺に参加できるように、っちゅうたら、下手したら十年ぐらいかかりそうやからどうにもならんけどなあ」
春菜とは別の意味で無念が多い宏の高校生活。若干贅沢を言っている部分がある春菜と違い、宏のものは普通なら特別に望む必要もなく、当たり前のように経験出来るものばかりだ。それだけに心残りも大きいだろう。
特に高校三年の時のクラスは、宏ととても相性がいいクラスだった。ちゃんと修学旅行に参加できていれば、きっといい思い出が作れた事は間違いなく、その分残念さもひとしおである。
「修学旅行の代わりに、四年後に頑張って卒業旅行かなあ……」
「最近は大学生とか社会人向けに、ちょっと豪華な修学旅行って感じの旅行商品も出てるし、どうにかできそうだったらクラスメイト集めてそういうので旅行すればいいんじゃないかしら?」
「そうだね。行くんだったら関西圏は避けて、広島とかあたりがいいのかな?」
「東北とかもありじゃない? あと、あえて那智勝浦や熊野古道なんかの南紀とか、伊勢志摩なんかに行くのもいいんじゃないかしら?」
「そっちもいいよね。特に伊勢志摩は海産物が美味しいし」
修学旅行タイプの旅行商品を眺めながら、そんな話で盛り上がる春菜と真琴。四年も先の事だというのに、ずいぶん気が早い話である。
「春姉、真琴姉。その修学旅行はぜひとも行くべきだと思うけど、まずは無事に大学を卒業すること考えないと」
「まあねえ。さらに言うと、大学も三年とか四年とかだと、就職活動で忙しいものねえ」
「私達は実質、就職については考えなくてもいいから気が楽だけど、ほかのみんなはそうもいかないしね」
揃いも揃って普通のサラリーマンに向かない春菜達。そのあたりに対する割り切りがあり、食っていくための仕事にも十分な当てがあるからまだいいが、そうでなければみんな揃って社会の底辺へと一直線である。
「まあ、過去振り返るんはこんぐらいにしてや。なんにしてもまずは、春休みに何するかと大学始まってからどうするかやな」
「そうだね」
「まずはシラバスとかじっくり見て、ってところよね。できれば、面白くて評判のいい講義と、単位の数合わせ以外では受けるだけ無駄って講義の選別と、そのための情報が欲しい所よね」
「その情報はすごく欲しいよね。特に必修科目で」
「春菜の伝手とかで、どうにかならない?」
「天音おばさんとかにも確認取ってみるよ」
宏の話題転換に乗っかり、主に学問の充実度合いの面で大学生活を左右する重要な点に意識を向ける春菜と真琴。どんな講義にも定員というものが存在するし、履修登録は早い者勝ちだ。ここでの情報収集で出遅れると、一年間必修科目で面白くもなんともない講義を受け、その講義を元にレポートと試験をこなさなければならないという苦行にさらされる。
そういう意味では、春休みはかなり重要な時間である。
「こら休み中にいっぺん、大学行ってリサーチせなあかんかもなあ」
「そうだね。いろんな人に直接聞いた方が、確実そうだよ」
「じゃあ、近いうちに予定を合わせて一度、大学行きましょ。春休みって言っても研究室には誰かしら学生がいるでしょうし、そういう質問に答えてくれる人もいるはず」
いろいろと危機感を募らせ、情報収集に動くことを決める宏。実は、合格が決まった時点ですでに天音が学部ごとのおすすめ講義リストを作っているのだが、宏達が自身である程度情報収集を行ってから渡す予定なので、この時点では完全にしらばっくれている。
「そういえば、春休みで思い出した。春姉、真琴姉。春休み中に、服買いに行くの付き合って」
「いいけど、深雪じゃダメなの?」
「もちろん深雪姉も誘うけど、一部春姉や深雪姉じゃ参考にならない物とかも買うから」
「参考にならない物って何よ?」
「師匠の前であんまり口にしたくはないけど、主に下着類」
下着類、という言葉を聞いた瞬間、宏がその場から光の速さで脱走する。達也が来る可能性とまだ話すべきことがあることとでログアウトまではしていないが、会話そのものは完全に遮断している。
「……まあ、デリカシーって部分で考えても、宏の今の対応は駄目とは言えないわね。逃げ方はもうちょっとなんとかならないか、って思わなくもないけど」
「あ~、うん。でも、この流れでスマートに逃げを打てる宏君って、ちょっと想像しづらいというか……」
「そこも否定はしないんだけどねえ……」
あまりの素早さに一瞬唖然とし、そのあと苦笑交じりに評価を下す真琴と春菜。その会話を聞きながら、申し訳なさそうに宏が消えた方に視線を向ける澪。
「で、澪ちゃん。普通の服は分からなくもないけど、下着は未来おばさんがいくらでも用意してくれてるよね?」
「そう言うと思ったから、春姉や深雪姉じゃあてにならない」
とりあえず話を戻した春菜に対し、澪がばっさり切り捨てる。そのやり取りを聞いていた真琴が、いろんな意味で納得する。
「いくらブランドに疎いボクでも、あんな明らかに高級だと分かる勝負下着っぽいのつけて身体測定に挑む度胸ない」
「でしょうね。ってか、下着晒すって話だと体育の時の着替えもそうなんだけど、そっちはどうしてたのよ?」
「制服で見学してたから、今まで学校の更衣室は使ってない」
「なるほどね。でもまあ、高級ブランドじゃないのにするにしても、直接肌につけるんだからいい生地の奴にはしなきゃいけないわね。特にあんたの場合、酸とか直接浴びても大丈夫なぐらい頑丈になっちゃった割に、意外と肌が敏感だし」
「そうだね。前も間に合わせで用意した安いのでかぶれてたし、少なくともブラはシルクにしておいた方が無難だよね」
真琴の意見に同いて補足する春菜。直接肌につける上に敏感な急所をガードするのだから、下着選びは結構重要なのだ。
ちなみに、間に合わせで安い下着が必要になった理由は、リハビリが始まった頃に起こったちょっとした事故で、原因は澪のうっかりである。枚数が揃っていない時期にうっかりで替えの下着もろとも全滅させてしまい、一日ほど一番安い下着で過ごしてものの見事にかぶれたのだ。
特にブラが触れていた辺りのかぶれがひどかったため、それ以降澪のブラは生地だけは慎重に選んでいる。
向こうにいたころは最低ラインがスパイダーシルクで、しかもそのあたりのトラブル対策にエンチャントをがっちり突っ込んでいたため、かぶれるだの爛れるだののトラブルだけは一切発生していない。
おかげで、その時まで澪の肌にそんな弱点があるとは本人も気が付いておらず、結構大騒ぎになったものだ。
「ん。でも、それ踏まえても、あまり高いものは厳しい」
「そんなにたくさんは必要ないと思うんだけど、どうして?」
「年末ぐらいから急に胸の張った感覚が強くなってきて、なんかスイッチ入ったみたいに育ち始めた。一応九月の時点で結構余裕があるサイズで作ってもらったんだけど、実はすでに結構きつい……」
そう言いながら、アバターの上着を外して現在の正確なバストサイズを春菜と真琴に確認させる澪。凝ったデザインの高級そうなブラが胸にやや食い込んでおり、明らかにサイズがあっていない。
「……ねえ、澪。明らかに向こうにいたころより育つのが早くなってる気がするんだけど……」
「ボクもそう思うけど、でも成長期のスタートが向こうよりだいぶ遅かったし……」
「というか、胸が早く育ってる気がするっていうのもそうなんだけど、向こうに比べて身長の伸びが悪い気がするよ」
そう言いながら、参考データとしてフェアクロでの澪のキャラであるミオンのアバターデータを同意を得て呼び出す春菜。こちらに戻って直ぐの頃、フェアクロ内で合流する際にお互いの姿が分からないと面倒だから、という事で、このチャットルームでゲーム内での外見を披露しあった事があり、その時のデータが残っていたのだ。
そのミオンのアバターデータは、こちらに戻ってくる直前の澪の身長体重スリーサイズをほぼ正確に写しとっている。ほぼ正確に反映できたのは、ひとえに澪の執念のたまものである。
それと比較した結果……
「胸はアンダー同じでトップが五ミリ今の方が大きい程度だけど、身長が二センチ近く低いよね」
「半年ぐらいの時差はあるけど、澪ぐらいの歳になると半年で二センチはさすがに育たないわよね?」
「どうなのかな? ちょっと調べてみるよ。……そうだね、中学一年から二年での身長の変化は、平均だと一年で二センチぐらい。半年ではそこまで変わらないかな」
「そうよね。で、この一年ほどで、どれぐらい身長が伸びてるの?」
「えっと、最初が百四十三センチをやや切ってて、今が百四十五センチをちょっと超えてるから、二センチちょっとかな?」
「このデータだと百四十七センチほどだから、向こうだと一年半ほどで四センチも増えてたわけか」
「うん。ついでに言うと、平均値と比較すると、むしろ今の方が身長の伸びとしては普通な感じかな?」
四月にある身体測定を前倒しするような形で、澪の体格体形を確認していく春菜と真琴。出した結論は
「これ、身長の伸びが胸に持ってかれてんじゃないの?」
「なんか、そんな感じになってるよね」
「てか、今思い出したんだけど、確か澪の下着って発育促進のエンチャントがかかってたわよね?」
「ん」
「それ、下着だけにしかかけてないんだったら、胸の成長速度だけ増幅されてるんじゃないの?」
「「あっ……」」
真琴の指摘に、言われてみればという感じで声をそろえる春菜と澪。
「多分、もともとがこれぐらいの伸びで、向こうで摂取した栄養で上乗せされた分が約二センチ、それがエンチャントの影響でこっちで摂取した分の栄養も上乗せされた上で胸に持っていかれてるとかそういう感じ」
「……胸が育つのはうれしいけど、できれば身長が百五十センチは欲しい……」
「と言われても、私はそういう努力とかしたことないから、よく分からないんだよね。むしろ、深雪の方が詳しいかも」
「でも、一般的に言われてる胸増やす努力と背を伸ばす努力って、大部分が重なってるのよねえ。それ以外ってなると、医療関係なんだけど……」
「一応、低身長の治療っていうのはあるみたいなんだけど、澪ちゃんの場合は保険が効くかも効果が出るかもちょっとグレーゾーンな感じなんだよね。現時点で日本人の基準で見て病的に背が低い、ってほどじゃないし、一番効果的なのって小学校高学年ぐらいに始める事らしいから……」
澪の要望を受け、ざっと調査した内容を説明する春菜。その結果を聞いて難しい顔をする真琴と澪。
「確実な手段となると外科手術になるけど……」
「また入院するのはちょっと……」
「だよねえ」
「とりあえず現状で低リスクで出来そうなことって、可能性に縋るって事で発育促進を全身にかけた上で、向こうの食材のうち身長に効きそうなのを多めに食べる、ぐらいかしらね」
などと話しているうちに、入室チャイムが鳴り響く。その音を聞いて、上半身が下着姿のままだった澪が慌てて服を元に戻し、春菜がミオンのアバターを消す。
それらの作業が終わって約一分後、達也が一人だけで中に入ってくる。
ちなみに、詩織は現在入浴中である。いかに達也と言えども、毎回毎回風呂に入っている女房を襲っている訳ではないらしい。
「なんかそこでヒロがガクブルしてたんだが、いったい何があったんだ?」
「えっとね、春休みの予定決めてる途中で下着の話題になって、澪ちゃんの今の体型とか成長曲線の話になっちゃって……」
「あ~、そりゃ多分、途中で話題かなにかがヒロの方に漏れてたな。この場合、そういう事やりそうなのは澪か?」
「前科があるから否定しないけど、今回はボクじゃない。というか、その手の操作をやってるのって、今回は春姉だけ」
「だよねえ。多分私なんだけど、どこで操作ミスったかなあ……。あっ」
達也に言われて操作ログを確認した春菜が、己のミスに気が付いて固まる。その様子に、何をやらかしたのかという視線が集中する。
「設定よく見てなくて、チャットルームにいる全員の視界内に出現するようになってたのに全然気がつかないまま、ミオンの下着姿のアバターを呼び出しちゃった……」
「なるほど。ミオンの下着姿を目撃しちゃってガクブルしてたわけね」
「ごめん、澪ちゃん。ちゃんと見てなかったよ」
「師匠に見られる分には気にしないし、そういう設定って割と初期設定がトンチキなことになってるのはよくあること」
「今確認した感じ、こんな設定普通は誰も確認しねえ、って言い切れるところに隠れてるから、多分春菜でなくてもやっちまうだろうなあ。ってかそもそも、この設定項目は何のために必要なのかの方が気になるんだが」
「本当にねえ。基本的に無難な項目ばっかりで無難な設定になってるとはいえ、大部分が何のために必要なのか分かんない設定項目よね、これ」
宏に対してとんでもないダメージとなる春菜のやらかしに、原因を確認して遠い目をする一同。結局、この場では身長の話はうやむやのままになり、後日天音に相談したところ、今の普通の技術で身長を強引に伸ばそうとしても、澪の場合向こうでの蓄積で得た体質の関係で効果がないと断言されてしまうのであった。
これにて、高校編は終わりとさせていただきます。
次回からは完全に今まで通りの能天気な内容だったり、無駄にマニアックで専門的なことだったりといった展開ですので、ご安心ください。