挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
フェアリーテイル・クロニクル ~空気読まない異世界ライフ~ 作者:埴輪星人

後日談 春菜ちゃん、がんばる?

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

208/220

第26話

今回は、大阪編とは正反対の意味で書きづらかった……
「春菜ちゃん、この伝票書いといてくれる?」

「はい」

「今から取りに来るらしいから、悪いけどこっちの納品書も頼むわ」

「分かりました」

 春休み初日。宏の実家が経営する町工場、東工作所にアルバイトという名の嫁入り修行に来ていた春菜は、のっけから八面六臂の活躍を見せていた。

「おばさん、今月分の領収書は、今日までの分はこれでおしまいですか?」

「そうやね。洗剤とかごみ袋とかの類も在庫あるから、後は支払日までは大丈夫やわ、多分」

 頼まれた伝票の処理をサクッと終え、宏の母・美紗緒に確認を取った上で、中途まで進めていた経理作業を一気に進める春菜。今まで手書きでやっていた分を全て表計算ソフトで処理できるように変更し、過去の手書き伝票や資料を入力し終えて一息つく。

「おばさん、終わりました」

「すごいなあ、もう終わったんや」

「過去の分に関しては、スキャナとか使って楽はしましたけどね」

「それでもすごいで。私とか、パソコンそこまで使いこなせへんし」

 そう言いながら、自分と春菜の分のお茶を淹れる美紗緒。自分も仕事がひと段落ついたので、休憩がてら春菜と茶飲み話をすることにしたようだ。

「ほい、春菜ちゃん」

「あ、ありがとうございます」

「今の時点で予想はつく思うけど、経理と伝票だけやと、毎日来てやってもらうほどの仕事はないんよ」

「そうですねえ」

 お茶を受け取りながら、美紗緒の言葉に素直にうなずく春菜。普通なら嫌味か無神経な反応かのどちらかにしかならない返事だが、美紗緒の表情や態度を見て正直に言うことにしたのだ。

 第一、既に指示された以上の作業を終え、手が空いてしまっている状態で否定しても白々しいだけである。

 そもそもの話、少々忙しすぎるというだけで、もともと宏の両親だけで経理も加工作業も賄えていたのだ。春菜の処理能力が必要になるほど、派手な受注などないのである。

 ついでに言えば、その程度の経理作業しか発生しない割に、東工作所の売り上げおよび利益は悪くない。余計な人員を抱えていないので無理な受注が必要ない事と、同業他社がまねできない特殊な技能による難易度の高い加工がメインであるため、単価が高く受注件数が少なめになることがその主な理由である。

「でも、伝票の発行は、少量とは言っても毎日あるんですよね?」

「あるけど、それぐらいやったら私らでもどうとでもなる範囲やしなあ」

 そう言って、お茶を一口飲んでため息をつく美紗緒。アルバイトとはいえ、春菜を雇うことに対していろいろ葛藤があるようだ。

「一日の大部分が暇になるっちゅうんが分かっとって、人一人雇うんはなあ……」

「お給料の事なら、そんなに気にしなくても……」

「そらあかんで。いくら息子にアピールする意図があるっちゅうても、その厚意に甘えて安値でこき使うとか、商売人失格や。っちゅうて、元から正当な労働もないん分かっとって長時間拘束してただで給料渡すっちゅうんもあり得へんしなあ」

 商売の当たり前の原則を元に、春菜の申し出をバシッと断る美紗緒。その結論に、普通そうなるかとため息を漏らす春菜。

「まあ、春菜ちゃんがうちの事務関係以外も覚えて手伝ってくれるんやったら、さくっと解決する問題やねんけどなあ」

「教えていただけるのであれば、どんな仕事でも頑張ります」

「うちとしても、春菜ちゃんやったら大丈夫やと思うから、教えること自体は問題ないんやけどなあ……」

 春菜の宣言に、少々困ったような笑みを浮かべてそう応じる美紗緒。零細企業における新人教育というのは、常にとある問題との戦いとなるのだ。

「春菜ちゃんに教えるんにちょうどええ仕事、っちゅうんが今ないねんわ」

「あ~……」

 零細企業、それも製造業において、新人教育の壁となる最大の問題。それは、必ずしも素人にしてもらえるような仕事が確保できるとは限らないことにある。

 そもそもの話、従業員数ひと桁台の零細企業の大部分は、教育だけのために不要な材料を用意したり無駄な製品を造ったりするような余力はない。

 必然的に、人件費の面で赤字でもいいので、何らかの形で売り上げに寄与してもらわなければならないのだが、工作機械を触るのも初めて、というレベルの素人となると、どうしても自動機に製品を取り付けてボタンを押すだけ、という誰がやっても問題ない作業からスタートせねばならない。

 だが、下請けで量産部品の加工を行っているタイプの会社ならともかく、東工作所のように多品種少量生産主体で特殊な技能が売りの会社だと、新人教育向けの仕事が常にあるわけではない。

 ならば営業努力で確保すれば、というと、段取りさえすれば素人でもできるような仕事で後から確保できるようなものは、総じて材料費で赤字ぎりぎりとか月に何万個単位で零細では二十四時間フル稼働でも不可能とか、そういう類のものばかりだ。というより、そういう仕事だからこそ、いつでも確保できるような状態でたらい回しにされて宙に浮くのである。

 新人教育に手ごろで適正な利益が出て数もほどほど、なんて美味しい仕事が宙に浮くことなどめったになく、また、最初にその仕事を行っていた会社が廃業したなどで新たな発注先を探す事になっても、普通は別の取引先からの伝手などですぐに話がまとまる。

 かといって、経験がある人間を雇えばいいかというとそうでもない。経験があると言ってもピンキリであり、二十年以上鉄工所で働いていると言いながら、自動機で加工する製品を交換してスイッチを押すだけ、という仕事しか経験がない人間というのもごろごろいる。また、経験があるのに宙に浮いている人材というのは、割と低くない確率で大した腕でもないのに人の話を聞かず勝手な理屈で作業を進めるタイプに当たりやすい。

 そういう人材を雇うぐらいなら、多少教育に苦労しても全くの素人を一から仕込んだ方がはるかにましであろう。

 かくして、優れた技術や技能を持っていればいるほど、難しい仕事をしていればしているほど、新規に人を雇うハードルは高くなっていくのである。

「えっと、とりあえずバリ取りとかそのあたりの作業はありませんか?」

「せやなあ。なんもしてもらわんのも居心地悪いやろうし、まずはそのあたりからやってもらおうか。っちゅうても、大した数はないんやけど」

「はい」

 春菜の提案にうなずき、お茶を飲み干して立ち上がる美紗緒。春菜も美紗緒に従って同じようにお茶を飲み干し、流しに湯呑を返す。

「ああ、そうや。バリ取りの前に、先に作業服手配やな」

 そう言いながら、一冊のカタログを引っ張り出し、普段注文している作業服のページを開いて春菜に見せる美紗緒。

「サイズ分からへんかったから、今日春菜ちゃんが事務やってる間に手配する予定やってん。ただ、朝一で急ぎの注文が飛び込んできてもうて、バタバタしてるうちになあ」

「今朝はものすごく忙しそうでしたよね」

「せやねん。まあ、忙しいんはほんまにちょっとの間やったけどなあ。で、春菜ちゃんはどのサイズになるん?」

「えっと……」

「念のために言うとくと、ウェストは若干緩めの方がええで。かがんだりとかの作業も多いからお腹圧迫されることも多いし、必要に応じて中に一枚着こまなあかんなったりとかもするから」

「じゃあ、上着はこれで、ズボンはこのサイズです」

 美紗緒の勧めに従い、表記されているサイズを元に、自身の体型で一番無理なく着れるものを選択する春菜。ズボンに関しては、言われた通りウェストをワンサイズ大きいものにしている。

「……見た目で予想しとったけど、またほっそいなあ。内臓どこに入ってんの? っちゅうぐらい細いでこれ」

「割とよく言われます」

 春菜が指定したサイズを見て、深々とため息をつく美紗緒。その美紗緒の反応に苦笑する春菜。美紗緒の言葉に嫌味も妬みも含まれていないから笑って済ませているが、同じ反応でも相手によっては非常に面倒くさい絡まれ方をするのが厄介なところだ。

「まあ、これで注文しとくわ。既製品やから、遅くても週明けには入ってくるはずやで」

「はい」

「ごめんな、手際悪くて。正直に言うて、さすがに半日もかからんと過去の分の電子データ化まで終わると思ってへんかって」

「正攻法でやっちゃうと、便利ツールを使っても一週間ではちょっと厳しいぐらいはありましたから、普通はそう考えてもおかしくないですよ」

 作業服の手配遅れに関して申し訳なさそうに告げる美紗緒に、それが普通だと笑って告げる春菜。実際、平均して七年ほどの保管義務がある各種書類や経理資料をすべて電子化するとなると、いかに零細企業とはいえなかなかの大仕事にはなる。

 いくら便利ツールを駆使したところで、普通なら一週間は必要なぐらいには書類の量も種類もあるのだ。間違っても一人で作業して半日かからず終わらせられるような作業ではない。春菜でなければ美紗緒の見立て通り、どころか下手をすれば春休みに終わらない可能性すらあったのだ。

 どう考えても、春菜は張り切りすぎである。

「とりあえず、今日のところはざっと作業見学してからバリ取りで、明日からは作業服入ってくるまで、普通の服でもできそうな事適当に見繕ってやってもらうことにするわ」

 そう言いながら、工場内で行われている作業の説明のために春菜を案内する美紗緒。何をするにしても、また注意事項を知ってもらうためにも、ある程度作業の詳細を知っておいてもらう必要がある。

 事務仕事だけなら見て分かるレベルの危険に注意してもらえば十分なのだが、加工作業やバリ取りその他のような工場内軽作業の類をやってもらうとなるとそうはいかない。

 一般の生活ではピンと来ない種類の、しかも安全対策の取りようがない危険というのは、鉄工所にはいくらでも転がっているのだ。

「とりあえず、うちでやってる加工をざっと言うと四つあんねん。具体的に言うと、旋盤、フライス、歯切り、スロッター加工やな。旋盤は汎用旋盤とその自動機になるNC旋盤が、フライスは汎用のフライス盤とその自動機のNCフライスとマシニングセンターがあるんやけど、このあたりはフライス屋とか旋盤屋を名乗ってたら大体持ってんねんわ」

「機械加工にはあまり詳しくないんですけど、NCフライスとマシニングセンターって、どっちもフライス盤の自動機なんですよね? どう違うんですか?」

「NCフライスは単純に汎用フライスにプログラム加工機能付けただけのもんで、工具交換は自分でやらなあかんねんな。それに対して、マシニングは工具の自動交換機能がついとって、一回のプログラムでいろんな加工が一気にできるねん。細かいこと言いだすと他にいろいろ違いはあるんやけど、大きい違いはそんなとこやで」

「えっと、素人考えなんですが、それだったら汎用フライス盤はともかく、NCフライスって必要ないような……」

「マシニングは段取りがむっちゃ面倒やから、単品の品もんの一か所だけ角をRに落としたい、とかそういうんに使うには向かんねんわ。それに、加工によってはマシニングやと工具の取り付け構造の問題で主軸がビビる、っちゅうケースもあるし。もっと言うたらそもそも、マシニングは汎用機みたいな使い方するには全然向いてへんから、単品やとNCフライスの方が楽やったりするんよ」

 美紗緒の説明に、いろいろ納得する春菜。必ずしもフルスペックのものが便利だとは限らない、その一例であろう。

 なお、世の中には汎用機に近い感覚で操作できる機能のついたマシニングセンターというものもあるが、結局マシニングセンターはマシニングセンターなので、段取りの面倒くささをはじめとする他の弱点はさほど変わらない。なので、安い買い物ではないこともあり、さほど普及していなかったりする。

 余談ながら、旋盤にはマシニングセンターに当たる機械は存在しない。これは単純に、汎用旋盤の時点で工具交換の機能が存在しているため、NC旋盤にも当たり前のように工具交換の機能がついているからである。

 一応NC旋盤をさらに発展させた複合加工機という機械もあるが、そちらについては対比する相手がマシニングセンターではなく、五軸加工機や五面加工機と呼ばれるもっと複雑で多機能なものになってくる。

 因みに東工作所の持つフライス盤関係は全部で六台ほどあり、万能フライスと呼ばれる一台を除き、すべて立型と呼ばれるもっとも一般的なタイプの機械だ。サイズは四番から六番と呼ばれる範囲の、これまた一般的なサイズ、もしくはやや大きめの物ばかりが揃っている。先に出てきた五面加工機や複合加工機は、値段と設置面積の問題で東工作所では導入していない。

 これらがどういうものなのかは、長くなる上に文章からは想像しにくいものなので割愛する。

「で、話戻すけど、春菜ちゃんは旋盤とフライス盤の違いって知ってる?」

「前に軽く聞いた感じだと、旋盤は材料を回転させて固定された刃物で切削加工を行う機械で、軸などの円柱もしくは円錐が基本になる製品の加工をするもの。フライス盤は刃物を回転させて固定された材料を削っていく機械で、基本的には直方体をベースにした多角形のものを加工する、でいいんでしたっけ?」

「まあ、そんなとこやわな。NCフライスとかマシニング使えば丸もんもいけるけど、穴はまだしも軸に関しては旋盤ほど精度も真円度も出えへん上に時間かかるから、普通はやらへんな。ちなみに、うちにはあらへんけど、複合加工機っちゅうて刃物をフライスみたいな動かし方できる機械もあるけど、それも得意分野は軸の先端を四角とか六角に削ってついでにその面に穴空ける、みたいな加工やねん。結局、あくまで旋盤は旋盤、フライスはフライスっちゅうこっちゃな」

「へえ」

「興味あったら、そのうち宏と機械の見本市に行ってきたらええわ。ああいうところは行くんがほとんど男の人やから、道中さえ何とかしたら宏でもそないにプレッシャー感じんで済むやろうし。それはそれとして、仕事の説明やな」

 ちょっとわき道にそれた説明を切り上げ、そのまま自社が作っている製品などについての説明に移る。

 と言っても、東工作所も基本的には下請けなので、自社製品と呼べるようなものはない。様々な部品を受注生産するのがメインで、この時代では希少価値となった鋳鉄の加工を得意としている事と、同じくこの時代では希少価値となっている、歯車に必要な加工を焼き入れと表面処理及び研磨関係以外すべて一社で行える事が売りの、高度成長期にはいくらでも存在した類の町工場である。

 この手の町工場にありがちなことだが、東工作所も非常にややこしい形状の、素人には何をどうやればこの形に加工できるのか想像もつかないような製品が大量に転がっている。大部分は自社で治具や取り付けを工夫して作り上げたものだが、中には追加工の依頼を受けたものも結構あり、そのどれもが加工できる会社は希少価値という厄介なものばかりだったりする。

 この時代まで生き延び、後継ぎが普通に存在するような町工場は、どこもかしこも辞められては困るような技を持ち合わせているのだ。

「えっと……」

「とりあえず、春菜ちゃんにやってもらえそうな仕事がない、っちゅうんは分かってもらえたと思うねんわ」

「はい……」

「一応念のために言うとくとな、毎日まじめに仕事しとって三年もあれば、フライスか旋盤かスロッターかの一つぐらいは、うちらがやってんのと大差ないぐらいにはできるようなるんよ。ただ、どんなにすごい人でも、一カ月やそこらではどないにもならんのも鉄工所の仕事やねん」

 美紗緒の言葉に、小さくうなずく春菜。鉄工所に限らず、職人仕事なんて大抵はそんなものだ。

 もっと言うなれば、その大差ないというレベルの差が割と品質に直結していたり、一日当たりの生産量や疲労度合い、不良率などに大きく影響を与えていたりするのも、そのちょっとの差を埋めるのにかなりの努力が必要なのも、ありとあらゆる職人仕事に共通するポイントである。

「大体仕事の説明はこんなもんやから、今日のところはありったけのバリ、とってまおか」

「はい」

「やすりはこれな。で、バリ取った後の面はこれぐらいになるように」

 春菜に軍手とやすりを渡し、片手で持てるサイズの軸穴にキー溝と呼ばれる回り止めの溝を入れた歯車を手に取って、バリ取りの見本を見せる美紗緒。

 手早い動きで大きめのバリを落とし、必要最小限の面取りで目に見えないバリを取り除いていく。この歯車はキー溝の加工のみを引き受けたものなので、バリが出ているのもキー溝の周辺のみである。

 ものの十秒ほどで裏表のバリ取りを終え、見本として春菜に渡して確認させる。

「まあそない急いでやらんでもええし、どうせ向こうでもっかい研磨するから、素手で触らな分からん程度のカエリは気にせんでええで」

「はい」

 素手で触っても全く引っかかるところがないキー溝を確認しながら、美紗緒の言葉にうなずいてバリ取りが終わっていない物を手に取る春菜。

 見本として見せられたとおりに、まずは大きいバリを取ろうとやすりを当てて、加減を探りながら力を入れて擦っていく。本気でやればえらいことになってしまうため、かなり軽めの力加減で擦ってみると……

「むう……。全然取れない……」

 上手く目が噛まずバリの表面でやすりが滑って、まるで取れる気配がない。

「まあ、一応金属やからなあ」

「でも、あんまり力を入れるとちょっと……」

「春菜ちゃんの場合、そこが難儀やわなあ」

 初手から苦労している春菜に、まあそうだろうなあと頷く美紗緒。さすがの春菜も、初めてやるこの種の作業をいきなりうまくこなせるわけではないという事を認識し、内心で多少ほっとしてしているのは人には言えない秘密である。

「っちゅうか、向こうで鍛冶の作業とかやっとったって聞いたんやけど、やすりは使わんかったん?」

「えっと、基本的には焼き入れを終えてから砥石で仕上げ成形だったので……」

「ああ、やすりでバリ取りとかはやってへんねんな」

「はい」

 力加減ややすりの動かし方に四苦八苦しながら、美紗緒の問いに答える春菜。焼き入れをしてしまうと普通のやすりでは歯が立たないこともあり、春菜が金属のバリ取りをする機会はなかったのだ。

 キー溝を掘るためのスロッター加工は、その原理からどうしても結構大きなバリが出る。その種のバリは、コツを知らなければなかなかうまく取れないのだ。

「そんな慌てんでもええけど、うちに就職するんやったら割と必須のテクニックやから、頑張って覚えてな」

「はい」

「まあ、っちゅうたかて基本大した作業やないし、デカいバリの取り方ぐらいはやってるうちに割とすぐ分かるから安心し。単にちょっとしたコツの問題やから、分かってもうたら簡単に終わるしな」

 そう言ってもう一つ歯車を取ると、春菜が手こずっている大きめのバリを落とす作業を、今度はちょっとゆっくりやってみせる美紗緒。

 その動作を真剣な目でじっと観察した春菜が、再び手元の歯車のバリを落としにかかる。

「……取れた!」

「な? 分かったら簡単やろ?」

「はい!」

「ほな、あとは任せるから、終わったら言いに来てな」

 そう言って、残りを全て春菜に任せて自身の仕事に戻る美紗緒。

 結局、この日春菜は、予定時間までひたすらバリ取りをして過ごすのであった。







「ねえ、ファル姉」

「なに?」

「師匠のおうちのお仕事、どんな感じだった?」

 春菜の初バイトも卒業記念パーティも終わったその日の夜。フェアクロ内。グランドクエスト進行のために必要なアイテムをチェックしている春菜に、パーティでなんとなく聞きそびれたことを澪が聞く。

 ちなみに、春菜のキャラはファルナという名前なので、ゲーム内では澪はファル姉と呼んでいる。春菜にしても澪にしても、自分の本名に近いキャラクター名にしているのは、不意に呼ばれても反応できるようにというのと本名で呼ばれてもごまかしがきくようにの二つの理由がある。

 なお、グランドクエストに関してはメンバーそれぞれの進行度合いがかなりばらけているため、今回は同じクエストをこなす春菜と澪だけが一緒に行動している。

 宏はというと、春菜や澪と同じ第二章ではあるが、ルートの違いにより進行段階的に三つ四つ手前のところで止まっているため、今必死になって追いつこうとしているところだ。

「経理関係は、そんな分量はなかったよ。それ以外となると、とりあえず当分は雑用かなあ……」

「そうなの?」

「うん。作業服の手配がまだだった、っていうのもあるけど、根本的な問題として、工作機械を触ること自体初めての素人にはとてもできそうもない仕事ばかりだったんだよね」

「やっぱり、工作機械使って、っていうのは勝手が違いそう?」

「まだ分からないけど、多分……」

 澪の質問に、割と本気で困ったようにうなずく春菜。別に機械音痴というわけではない春菜だが、工作機械、それも手動操作がメインとなる汎用機は、どうにも今まで使ってきた機械類とはいろんなところで印象が違うのだ。

「テレビとかで映ってるの見ても分かんなかったけど、実物見ても結局何が起こってるのか分かるんだけど分からないって感じなんだよね、あの手の機械」

「現物見てもそうなの?」

「うん。例えばヒロ君がメインで使ってるフライス盤って機械なんだけど、刃物が回転してるっていうのは分かるし、それで削ってるっていうのも分かるんだけど、なんでそれで表面がデコボコの材料が結構つるつるに削れるのかがいまいち分かんないの」

「ファル姉、刃物ってそういうものだと思うしかないんじゃ?」

「まあ、そうなんだけどね」

 澪の身も蓋もない言い分に、ため息交じりにうなずく春菜。実際のところ、切削加工を行う工作機械の刃物など、使っている職人の大部分は、基本的にはなぜそれで削れるのかなど正確なところは理解してはおらず、機械と加工の種類に応じてどんな形状でどの角度の刃物をどういった条件で使うかというのを知っているだけだ。

 一応の理屈は知っているため、同じように見える刃物でちゃんと削れなかったり穴が開かなかったりするものについては、なぜそうなるのかは説明できる。が、なぜその形状なら削れるのか、なぜその回転数ならいいのか、なぜその刃先角度で削れるのか、と言われると説明できないのだ。

 なので、実作業に影響が出ない限り、春菜のような疑問を持っても澪が言ったようにそういうものだとスルーしているのが普通である。

 身も蓋もない事を言えば、現場においては、削れるのであれば細かい事はどうでもいいのだ。

 余談ながら、現場の職人というのは詳細な理屈は知らないので、意外とカタログに書かれている使用条件というのを信用していない。ものと使い方によりけりだが、メーカーが示した使用条件を無視して使っている事例はいくらでもあり、結構それで困らないのが普通である。また、メーカーの指定通りの使い方でうまくいかなかった事例も枚挙にいとまがなく、それもカタログの使用条件を信用しなくなる原因となっている。

 無論、色々試した結果、最終的にカタログ通りの使用条件に落ち着くケースの方が圧倒的に多いのは事実だ。単に、カタログを鵜呑みにするのを嫌い、自分で試さないと納得しないのが職人のスタンダードなだけである

「そもそもの話、これが刃物だって言われてもそうは見えないものが多かったんだよね」

「そうなの?」

「うん。刃物だって納得できたの、はっきり言ってドリルと回転のこぎりぐらいだったよ」

 ドリルに回転のこぎりという単語に、澪の目が輝く。ロボにロマンを感じる人種にとって、その二つはなかなかに魅惑的なワードだろう。

「その顔で何期待してるか大体分かっちゃったけど、ドリルも回転のこぎりも、多分ミオンちゃんが期待してるような物じゃないよ」

「具体的には?」

「ドリルは潜地艇の先みたいなのじゃなくて、どっちかっていうと丸棒型の鉛筆とかボールペンの外周に螺旋状の溝が彫ってある感じだった。回転のこぎりはイメージ通りの外見だけど、そんなにものすごい回転速度では回してなかったし、切り込んでいく速さもかなりゆっくりだったよ」

「ドリルは見たことがあるから一応知ってたけど、回転のこぎりってゆっくりなの?」

「うん。アニメとかゲームでのイメージと違って、高速回転で火花飛び散らせながら切るような真似はしてなかったよ。多分、そういう刃物と機材もあるんだとは思うけど……」

「むう、ちょっとがっかり」

 春菜の説明を聞いて、表情を変えずに全身で心底しょんぼりしている様子を表現する澪。回転のこぎりという存在に、相当過剰な期待を寄せていたようだ。

 なお、春菜が東工作所で見た回転のこぎりは、一般にメタルソーと呼ばれるもので、用途としては澪が期待するような切断関係よりも、どちらかというとパイプの片側だけに切れ目を入れて締め込めるようにしたりといった加工に使うことが多い。

 刃物の厚みや刃数、直径、材質、更には何をどう切るかによってかなり違いがあるが、基本的には一分間で五十~百回転ぐらいの低速で回転させ、切削剤などをかけて刃物を保護しながら一分間に数十ミリ程度のゆっくりした切り込みで加工を行う工具である。

 モノによりけりではあるが、澪が期待していたような使い方をすれば、あっという間に刃が飛んで使い物にならなくなる、意外と繊細で扱いが難しい工具なのだ。

 宏達の日本の場合、一応超高速回転で鉄はおろか焼きの入った鋼ですらすぱすぱ切り落とすようなメタルソーもあるにはあるのだが、値段がべらぼうに高いうえに素材がちょっと動いてこじってしまうと簡単に割れる欠点は解消されていないため、東工作所のような零細の町工場で導入しているところはほぼ存在しない。

 このあたりは他の刃物についても言える事だが、詳細についてはここでは省略する。

「……ねえ、ファル姉。ボク、ちょっと違う意味で興味がわいてきた」

「鉄工所っていうのも、見てみると結構面白いよ。理解できるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだけど」

「見学とか、させてもらえるかな?」

「宏君のご両親にお願いすれば、多分見せてもらえるんじゃないかな?」

「ボクでもお手伝いできそうなことって、あるかな?」

「私が今日やったバリ取りなんかは、コツさえ分かれば誰でもできる類の物だから、そういう作業は多分他にもあると思うよ。そもそもヒロ君もヒロ君のお姉さんも、小学校の頃からお手伝いしてたって話だし」

 春菜の話を聞いて、町工場というものに今までになく強い興味を持つ澪。宏の実家が町工場とは知っていたが、春菜がバイトを始めるまで、どうにも自分と地続きの存在であるという実感が薄く、見学したいとアクティブに言い出すほどの興味は持っていなかったのだ。

「そういえば、ファル姉。師匠のお姉さんって、正月には帰ってきてなかったけど、理由知ってる?」

「うん。塾講師のアルバイトが入ったんだって。年越し特訓と三が日特訓で合わせて十万円ぐらいもらえるからって」

「十万円は大きい……」

「大きいよね。特に、ヒロくんのお姉さんって仕送りなしでやり繰りしてるから、こういう臨時収入は重要らしいし」

 春菜の説明に、なるほどとうなずく澪。

 宏の姉・恵美えみはこの春から大学四年で、現在地方の国立大学に通っている。宏の治療に悪影響を与えないようにと、大阪にいたころの実家からも潮見からも遠いところに進学したため、帰省しようにも交通費が大学生の財布には厳しい事になり、なかなか帰ってくることができていない。

 ちょうど宏の例の事件が大学受験に直撃したため二浪し、合格したタイミングで工場の引っ越しやら何やらが絡んだために一時的に実家の家計が極端に悪化するという、かなり運の悪い人生を歩んでいる女性である。

 仕送りを受けていないのもそのあたりが理由で、無利息の奨学金と授業料免除を受けた上で塾講師や賄の出るバイトでどうにかやり繰りしている。ひそかに初年度以外は奨学金に手を付けておらず、お洒落その他を最低限に切り詰めた生活のおかげで初年度に使った分も上手くいけば卒業までに穴埋めできるかもしれないという、かなりすさまじい大学生活を送ってきた人物だ。

 それだけに、帰省したのはこれまでに三度だけ。春菜達がフェアクロ世界から帰ってきて以降は、一度も潮見には足を運んでいない。

「師匠のお姉さん、春休みには帰ってくる?」

「就活があるから、内定取るまでは帰ってこれない、って言ってたよ」

「そっか、残念」

「とりあえず、応援のためにせっせと野菜は送ってるけど、どの程度役に立ってるんだろうね?」

 春菜の素朴な疑問に、澪も首をかしげる。

 恵美が住んでいるのは大学の学生寮だが、女子寮は原則、食事は自炊である。なのでとりあえず宏は、月に二回から三回の間隔で、一人分に過不足ない程度の野菜を送っている。三回に一回ぐらいは両親が調達した米も一緒に送っているが、それがどの程度食費の軽減につながっているかは宏達の側にはよく分からなかったりする。

 実際にはこの野菜、下手に現金での仕送りをもらうより恵美の家計を助けており、一部物々交換で教科書やおしゃれ着に化けるなど、奨学金の穴埋めにかなり貢献している。

 バイトで生計を立てる独り暮らしの大学生にとって、野菜の代金は非常に厳しい出費なのである。

「師匠のお姉さんの話はとりあえず終わるとして。ねえ、ファル姉。仕事してる時の師匠、どんな感じだった?」

「仕事中だからあんまり浮かれられなかったけど、すごく格好よかったよ。それに」

「それに?」

「ヒロ君がこのゲームでずっと生産をやってきてた、その原点というか根源みたいなものが、なんとなく分かったよ」

「……なるほど」

 恋する乙女を微妙に表に出しながら語る春菜に、心底納得したと頷く澪。ものを作る・加工するという、人間が人間たる所以である行為。宏はどこまでもそこから逃れられず、逃れる気もないのだろう。

「そういえば、ファル姉。ファル姉が師匠のところでアルバイトするって聞いて、ちょっと興味が湧いたから産業関係の技術史みたいなの調べたんだけど、なんで師匠のお家みたいな小さな工場がAIによる自動生産に駆逐されてないの?」

「そのあたり、私もなんとなく気になっておばさんに聞いてみたんだけど、産業機械や加工設備のマザーマシンみたいな大量生産に向かないものになると、結局人間の出す精度や効率にはAIは勝てないんだって」

「そうなの?」

「うん。一番どうにもならないのが、いつきさんみたいなタイプでも結局ロボットはロボットだってこと。機械はどこまで行っても機械だから、人間みたいに経験に合わせてリアルタイムで体を作り替えるような真似はまだ無理だし」

「人間の体って、そんな事してたの?」

「うん。一番分かりやすいのが、向こうで武器振ってる人の手。私達みたいな一般的な日本人の手と違って、あっちこっち硬い所があって武器を持つのに最適化されてるでしょ? ロボットだと、いつきさんのレベルですら、リアルタイムでそういうふうにボディを最適化するような真似は無理なんだよ」

 春菜が挙げた例を聞き、言われてみればとまたしても納得させられてしまう澪。普段はあまり意識しないところだが、生物の柔軟性と適応能力というのは思われているよりはるかにすごいのだ。

 それこそ、時には環境に過剰に適応しすぎて種が滅んでしまうぐらいに。

「おばさんに言わせれば、どんなにAIの思考能力とか判断力とかが人間に近づこうと、それで解決できるのはあくまでソフトウェアの問題だけだって」

「……普通に考えれば当たり前の話だけど、それでも脅威論がいっぱいでてる」

「まあ、センサー技術もすごい事になってるから、人間に勝るとも劣らない思考力と判断力をAIに、人間をはるかに超えたと思われるセンサー類を組み合わせれば、って思っちゃうのは当然だよね。それで人間のやってること全部置き換えられるんだったら、そのセンサー技術で人間がもっと高度な事をやるのが先だって言うのがおばさんの意見だけど」

「……なんか、すごい納得した」

「もっと言うと、いちいち一つ一つの作業に最適化した機械を作るより、人間一人に複数の道具を使わせてやってもらった方が結局コストも手間もかからないんだよね。そこを置き換えられそうないつきさんとかは、社会的な問題が大きくて試作と社会実験だけで終わっちゃったし」

 現在の人とAIとの関係について、非常に身も蓋もない話をする春菜。結局、人間が恐れるほどにはAIの活躍の幅は広がってはいなのである。

 ちなみに、現在はソフトウェア開発におけるプログラミングに関しては、大部分がAIに取って代わられている。そのため、プログラムがプログラムを作るという冗談みたいなことにはなっているが、実のところNC旋盤やマシニングセンターのプログラムなどは、かなり昔から図面をスキャナで取り込んで自動的にプログラムを作るソフトというものが存在している。その範囲が広がっただけだという感じなので、現場ではそれほど気にはしていない。

 失業者に関しても、どうせもとより人が足りていなくてデスマーチが横行していた業界なので、結局AIだけでは全然手が足りずに、人間のプログラマーがかなりブラックな労働環境でこき使われている環境は変わっていない。メインをAIがやるようになってプログラムの規格や癖が統一された分、若干デバッグやモジュールごとの整合性取りが楽になった程度である。

「結局、凄く優れた新技術が出ても、結構全部は置き換わらない?」

「世の中、分かりやすい目先の合理性だけで動いてるわけじゃないからね~。感情論もあるし、一見して非合理なやり方が実はすごい合理的だったって事例もいくらでもあるし、枯れた技術による古いやり方を残しておくのもリスク管理の面では意味があるし」

「むう、難しい……」

「こういうのは、なるようにしかならない事だから、もうそういうものだって思っておくしかないよ。私達どころか、国やおばさんたちが旗振りしても思う通りに進められるとは限らない事なんだし」

 ちょっとした雑談から、思った以上にディープな話に突っ込んでしまった話題。その複雑で奥の深い内容に消化不良を起こす澪を見て、思わず苦笑する春菜。

 少なくとも、四月から女子大生になるまだギリギリ女子高生と現役女子中学生が、ちょっとした雑談で話す種類の話題ではないのは確かである。

「ヒロ君がそろそろ追いつきそうだって話だし、私達もそろそろクエスト進めよう」

「ん」

 宏からそろそろ追いつきそうだがどうかと進捗確認の連絡が来たことで、思ったより長話をしてしまったことに気が付く春菜と澪。微妙にルートが違うのでもう少し先の共通ルートまで合流は無理だが、先に進まれると一緒にクエストをこなせるタイミングがさらに遠のいてしまう。

「ファル姉、駆け足」

「うん」

 この後大急ぎでクエストをこなしたこともあり、どうにかこの日のうちに宏と一緒に共通ルートに入り、三人で仲良くクエストを進められるようになったのであった。







 そして翌日。

「作業服は明日届くから、春菜さんには今日のうちにこれやってほしいんよ」

「……何、この図面の束?」

「明日以降、春菜さんにマシニングの取り換えとかでやってもらう製品や。春菜さんには、座標計算頼みたいねん」

「座標計算? この、訳の分からない角度がいっぱいかいてある外形とか、大量に書いてある穴の位置とか?」

「そうそう」

「計算するのはいいけど、パソコンとかで自動的にはできないの?」

「これとこれみたいに、穴のピッチがちょっと違うだけみたいなんが結構あるんよ。それいちいちパソコンでプログラム作ってとかやっとったら、そっちの方が手間やし」

 宏の台詞に一応納得するも、結構な枚数があるのを見てやはり腑に落ちない、という顔をする春菜。全部をパソコンのソフトで作らないにしても、ベースとなっている物だけ図面を取り込んで自動でプログラム作成をし、それを書き換えて対応すればいいのではないかと思ってしまうのだ。

 もっと言うなら、作業服と安全靴が届き、本格的に作業指導を受けるまでやることがあまりない春菜のために、無理やり仕事を作ったのではないか、という疑問を感じてしまうのである。

「一枚自動プロで作って、それ打ち変えたらええんちゃうん? みたいなこと考えとるやろ?」

「うん。まさしく、今そう思ってた」

「自動プロで作ったプログラムっちゅうんはな、どこにどの加工が入っとるか探すん、すごい苦労するんよ。ドリルとかエンドミルとかの送りと回転の設定も、たまにとんでもない事になっとったりするしな。手計算でどうやっても座標出せんような厄介な形やったらともかく、この程度の図面やったら手で打ったほうがトータルで確実やねん」

「そうなの?」

「せやねん。でもな、この座標計算っちゅうんが、枚数あると手間かかってきついし、っちゅうたかて誰でもできるほど簡単なもんでもないしやから、春菜さんに頼むんにちょうどええ、思ってな」

「あ~……」

 誰でもできるほど簡単ではない、という言葉に、しみじみ納得する春菜。ある一点を中心に直径四十ミリの円周上に八等分で穴をあけるぐらいまでなら、幾何学の初歩的な計算なのですぐにわかる。

 問題なのは、ある位置から四十五度の角度で長さ三十ミリの位置に穴をあけ、そこから三十度捻って一辺二十五ミリの正方形で四カ所に穴をあける、といった複数の角度が絡む座標計算である。

 他にも大量に外形寸法だの穴のピッチだのが書かれていることもあり、数学はそこそこ得意な春菜でもどう計算すればいいのか即座には判断できない。

 言っては何だが典型的な肉体労働で、高度な技は要求されてもこういった形で頭を使うことがある印象ではなかった町工場において、よもや学校で学んだ数学を生かす羽目になるとは流石の春菜も思ってもみなかった。

「関数電卓はこれな。別にパソコンに取り込んで座標だけ計算させてもええけど、汎用機で手動で一面だけ角度つけて削るっちゅうケースもしょっちゅうあるから、慣れといた方がええで」

「あ、うん。でも、これだけだと寸法が多すぎてどこを基準にしてどう計算すればいいか分かんないから、ヒントとかもらっていい?」

「せやな。基準については印入れとくわ。で、計算の仕方やけど、こういうやつはここに補助線引いて直角三角形にして……」

「……そのあたりは基本に忠実でいいんだ」

「そらな」

 宏に説明を受け、せっせと座標を計算しては図面に書き込んでいく春菜。時折設計者が何を思ってこの形状にしたのか、とか、こんなに複雑に角度をひねりまくる意味はどこにあるのか、とか、ひたすら突っ込みを入れたくてしょうがない怪しい図面に悪戦苦闘しながらも、学校の授業以外で初めて使う数学の知識を駆使して対応していく。

「ねえ、春姉」

「ん? あれ? 澪ちゃん?」

 昼休みを挟み、マシニングセンターで加工するものだけでなく宏や宏の父孝輔が汎用機を使って削り出すものも計算を始める事約二時間。そろそろ三時の休憩というところで、ジャージ姿の澪に声をかけられた。

「ん。多分聞かれると思うから先に言っておくと、今日は五限までしか授業無かった。見学の許可は取ってる」

「あ、なるほど」

「ジャージなのは、ここの更衣室借りて着替えさせてもらった。さすがに制服でこの中うろうろするのは危ない」

「だよね。部活でもないのに、まだ寒いのにその格好で下校してきたりはしないよね、普通」

「ん」

 春菜の台詞にうなずきながら、手元にある図面と関数電卓の数式をじっと見る澪。そこには、親しいものにははっきりと分かる程度に、恐怖の表情が浮かんでいる。

「……なんか、すごく難しそう」

「正直、数学の授業以外でSINとかCOSとか初めて使ったよ」

「うわあ……」

「角度逆算して、そこから別の角度出して、とか、何枚もやってるとだんだん頭こんがらがってきそうに……」

「……ボク、ここでのお手伝いは無理かも……」

「別に、そんなややこしい角度計算せなあかん奴ばっかりっちゅう訳でもないけどなあ」

 春菜ですら頭から煙を吐きそうになっている面倒な図面の数々。大量に寸法線や加工指示が入っているがゆえに、なおのこと複雑な印象になっているそれらに慄く澪を見て、苦笑しながら宏がそう突っ込む。

 その後、春菜がどういうところに苦労しているかなどを聞かされ、AIに置き換えられないような業種は頭が悪いとこなせないと思い知り、今後どんなに意味が分からない学問でもきっちり勉強しようと心に誓う澪であった。
専門分野だと、どこまで書けばいいのか、どこまで書いてしまっていいのかが分からずにえらいボリュームになりかけたりとかで、今までとは逆方向ですごい苦労しました。
旋盤とかについてどんな動きをしているかは、詳しくはネットで動画を探して確認してください。文章だとどう説明しても限界が……。

なお、今回は正確には違う、とか、理論や現実はそうじゃない、とか、そういう点が山ほど入っていますが、そこ詳しくやるときりがなかったり、文章では非常に伝わりにくかったり、誰得すぎて文章ボリュームの割に……、だったりするので、そういうものだと思っていてください。

本作は専門書ではないので、町工場の実態とか職人作業ってこういう感じなんだ、程度に思っていただければ幸いです。

あと、作中で触れたAIに関してですが、恐らく長年職人仕事やってきてる人は似たような実感を持っていると思います。世紀単位で未来のことになればわかりませんが、少なくとも十年二十年でハードウェアのほうのコストの問題に片が付くことはないんじゃないかな、と作者は考えています。
フライス屋だったらどこの町工場でも持ってるような普通の立型マシニングセンターですら、町工場に普及し始めてから半世紀近くたってようやく、新品で億を平気で超える値段だった6番とかの比較的大型のものが二千万円切る程度の値段で買えるようになった感じですし。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ