世界編 こぼれ話1
1.澪の誕生パーティ
「うーみー!」
馬車から降りて港を見た瞬間に嬉しそうに叫ぶライムを、保護者一同が温かい目で見守る。
宏達がファルダニアへと出発するその日。アズマ工房職員一同は澪の誕生日パーティに参加すべく、揃ってウルス港まで来ていた。
「おチビちゃんは、海は初めてかい?」
元気いっぱいに叫ぶライムを見て、水夫の一人が相好を崩しながら声をかける。なんだかんだと言って、ライムぐらいの歳の元気な子供というのは珍しい。
特に、今彼らが向かっているのは客船が出入りするエリアだ。船旅をする子供というのは金持ちか貴族と相場が決まっており、ライムのように元気に叫ぶような教育は受けていないのである。
が、海の男としては、お高くとまって澄ました態度を取っている子供より、ライムのように好奇心に任せて元気に動き回る子供の方がよっぽど好みだ。
なので、ひそかにライムにかまいたそうにしている水夫が、あちらこちらで声をかける機会を狙っている。
「ハルナおねーちゃんたちに、海水浴につれていってもらったことはあるの!」
「この子ら、海はともかく港は初めてやねん」
「海も、その海水浴に一回だけだしね」
「なるほどな」
好奇心に目を輝かせるライムを見ながら、大体の事情を理解する水夫。ウルスは港町ではあるが、対角に移動する場合は徒歩だと余裕で一日以上かかる巨大都市だ。
人口の多さも相まって、ウルス生まれのウルス育ちでも、港を見るのが初めてという人間などいくらでもいるのだ。
今回の場合、海水浴は経験している、というのが少々珍しくはあるが、それだって少数派だがそれなりにいる。
「それで、あんたたちはどこに行くんだ?」
「ちょっとファルダニアまでな。こっちの四人は今晩の船上パーティにだけ参加して、終わったら転送石でとんぼ返りやけど」
「贅沢な真似するなあ。それやるのに、いったいいくらかかると思ってんだ?」
「うちの場合、自作しとるから材料代だけで行けるで。使うんも、売りそびれて使用期限が近いやつをありったけ、っちゅう感じやし」
「……もしかして、あんたたちがアズマ工房か?」
「せやで」
最近、こういう会話が多いなあ、などと思いつつそう答える宏。
アズマ工房のおひざ元であるウルスで、弟子を船上パーティに参加させるためだけに転送石を使い倒す、などと言い出せば正体が一発でばれる、ということに一切気が付いていない。
「ヒロシ様、そろそろ乗船開始のようです」
「もうそんな時間か。おっちゃん、またなんかあったら頼むわ」
「ああ。良い船旅を」
どうやら、そろそろ出発の時間らしく、そんなあいさつで船員と別れる宏達。こうして、宏達はこの世界で初めて、ファム達工房職員は生まれて初めて、海の船旅を体験することになるのであった。
「うわあ……」
目をキラキラ輝かせて、船上から海原を観察する年少組。その中に、神の船での移動を経験しているはずの澪の姿が含まれているのは、ご愛敬であろう。
「船の上は、意外と寒いのです」
「そろそろ秋だもの」
そんな年少組の元気な姿を見守りながら、潮風を浴びてそんなことを言い合うノーラとテレス。こちらはこちらで、生まれて初めての海の船旅を楽しんでいるようだ。
実のところ、澪以外は海の船旅を経験したことがある日本人チームも、この規模の客船でのクルーズとなると春菜以外は初めてなのだが、船の規模に驚きはしても船旅自体にはあまり関心を示していない。
豪華客船クルーズに対する興味や好奇心より先に澪の誕生日パーティの準備に意識が向いている上、神の船や潜地艇など特殊な船に乗った経験が邪魔をして、純粋に初めてとは言えない普通の船旅にはいまいち感動が薄いのである。
そういう意味では、澪はいろいろと得をしているのかもしれない。
「それにしても、港から見るのと船の上から見るのとでは、全然印象違うわね」
「ノーラとしては、こんな大きな船でも意外と揺れるのが驚きなのです」
港と船の上とで大きく印象が異なる大海原を見て小さく感嘆の吐息を漏らすテレスに対し、現実的な驚きを口にするノーラ。
同じ船と言っても、ある程度人工的に作られた運河を移動する船と海を進む大規模な客船とでは、いろんなところが違うものだ。
運河の乗り合いゴンドラしか利用したことがないテレスやノーラにとって、そのあたりの違いは感覚的な面や技術的な面でいろいろ興味深いところである。
年少組のように、純粋に景色や新しい体験に歓声を上げるのではなく、そういった方面に好奇心がずれていくあたり、テレスとノーラも大概ずれているというか残念な女の子だと言えよう。
実のところ今日はやや波が大きいため、甲板に出ていると海面が見えていて風が強いから揺れているように感じるだけで、船内に入ればほとんど揺れを感じなくなるのだが、まだ中に入っていないテレスやノーラはそのことを知らない。
「……あ、魚がはねた」
「……釣竿を用意したら、何か釣れるのでしょうか?」
「シーサーペントでも引っ掛けたら大事になるから、おとなしくしてましょう」
「親方たちがいて今更シーサーペントごときでどうにかなるとも思えないのですが、自力で対処できない事態を誘発しかねない事をするのは無責任、とテレスは言いたいのですね?」
「そこまでは言わないけど、こういう時に余計なことをすると、大体ろくなことにならない気がするのよね。今までの経験的に」
反論しづらいテレスの言葉に、この船で釣りをすると何が釣れるのかという好奇心が急速にしぼんでいくノーラ。日頃はその手の突っ込みをして水を差す役割をやっているノーラとしては、珍しい姿である。
どうやら、なんだかんだと言って豪華客船でのクルージングに、表面上はともかく内心ではかなりテンションが上がっているらしい。
「パーティまで、のんびりしてましょ」
「分かったのです」
他人の船で、許可なく余計なことはできない。その事実になんとなくテンションを下げつつ、おとなしく執事やメイドの接待を受けながら変わりゆく海の表情をのんびり楽しむテレスとノーラであった。
「船旅はどないや?」
水平線に降りていく夕日に目を奪われている澪に、パーティの準備をあらかた終えた宏がそんな風に声をかける。
「意外と島とかいっぱいあって、移動してる感が楽しい」
「このあたりはまだウルス湾が近いからな。無人島も結構あるみたいやけど、漁とか交易の中継基地になっとる島もようけあるらしいねんわ」
「なるほど」
宏の説明に、納得したように何度もうなずく澪。今まで、主な活動フィールドがひたすら陸地、それも主に山の中とか森の中に偏っていたこともあり、そのあたりの事情はあまり詳しくない。
ちなみに宏の方は、というと、冒険者協会で漁の助手兼海洋モンスター対策の人員として何度かウルス湾に出ている。その時に漁師たちの船を控えめなレベルで魔改造していたり、わかめや昆布などの海藻をかき集めたりといろいろやりたい放題やっており、このあたりの地理には結構詳しい。
「おっきな魚とか結構いたの!」
「この辺はウルス近海でも屈指の漁場やから、一匹五十クローネ以上つくような魚もようけおるんよ」
「へ~! そんなお魚、食べてみたい!」
「残念ながら、今やったら味ではリヴァイアサンに完全に負けおるから、多分食うてもそんな感動はあらへんと思うで」
「そーなの?」
「せやねん」
「むう、残念なの」
ライムの希望を、身も蓋もない理由で叩き潰す宏。別にお金の面では一切困っていないので、ライムの望みをかなえても全く問題ないのだが、なんとなくがっかりさせるためだけに五十クローネという安くはない金を出すのは、とてつもなくもったいない気がしてしまったのだ。
余談ながら、モンスター食材以外で最も高級な魚は、一匹千クローネの大台に乗っている。あまり水揚げされないということもあるが、サイズが二メートルを超えて可食部が多く、どの部位も美味なのでいい値が付くのである。
立場でいえば、クロマグロなどが近いだろう。
そんな魚でも、残念ながらリヴァイアサンにはどうやっても味で太刀打ちできないのだから、神の食材は卑怯極まりない。
「あたしは結構あっちこっちに港があるのに、結局どこにも寄らなかったのがちょっと気になった」
「この規模の船が寄れる港は、今日通ってきたあたりやと三か所しかあらへんからな。それに、この船は王家の快速船で普通の倍以上の速度が出おるから、普通の船ほど頻繁に寄港する必要もあらへんし」
「へえ、そうなんだ」
宏の説明に、ファムだけでなく澪とライム、果てはいつの間にか来ていたテレスにノーラまで感心した様子を見せる。
もっとも、宏にしてもこの辺の知識は漁師や漁港関係者からの聞きかじりが大半で、宏自身の知識は今乗っている船の速度と最低限どの程度の間隔で寄港する必要があるかぐらいなものだが。
「パーティの準備はもう出来とるから、日ぃ落ちたら中入りな」
「ん、了解」
宏の言葉に一つうなずくと、再び夕日に見入る澪。それに倣うように、他の職員たちも水平線へと視線を固定する。
この後のパーティでアヴィンが気を利かせて楽師隊やダンサーなどによるショーを用意してくれていたこともあり、澪はこのクルーズパーティを大満足で終えるのであった。
2.ウルスの新米収穫
「素晴らしいです!」
実りの秋を迎えた、ウルスは旧スラム地区の実験農園。
今日も今日とて食い詰めたものが日々の食い扶持や屋根のある生活と引き換えに農作業を行う中、たわわに実って黄金色の穂を垂れる稲を見たエアリスが、間違いなく豊作だと分かるその様子に歓喜の声を上げていた。
「一年目としては十分すぎるほどの収穫ですね」
アルフェミナ神殿での修行の傍ら、農業指導を兼ねた農作業の手伝いで頻繁にここを訪れていたアルチェムも、万感の思いを込めてそうコメントする。
宏が土壌改良も含めて大半を終わらせてくれたので、普通に新たに開墾するよりはるかに早く作業は進んでいたが、それでも農業というのは、そんなにたやすいものではない。
オルテム村との環境の違いには、みんなしてずいぶん苦労させられた。
まだノウハウ蓄積中の一年目故、単位面積当たりの収穫量はオルテム村には及ばない。だが、最初想定していたものから比べれば、倍近い実りがある。
もっと上を目指すのは当然だが、文句を言っては罰が当たるぐらいには恵まれた状況だ。
「ここから先が、結構大変なんですが……。エル様、本当に作業なさるのですか?」
「当然です。今後、アルフェミナ神殿でもお米を栽培する予定があるのですし、それに、姫巫女と言えど神殿では普通に農作業を行っていますし」
「まあ、そうなんですけど……」
宏謹製の鎌と軍手を身に着け、やる気ばっちりなエアリスに思わずため息が漏れるアルチェム。最初から農作業前提の汚れてもいい服装で来ていた時点で予想はしていたが、出来れば今年は見学だけにしてほしかった。
正直なところ、アルチェム自身は別に好きなだけ稲刈りをすればいいと思うのだが、ファーレーン政府の一部お偉いさんがそういった事を恐ろしく気にするのだ。
ただ気にするだけならまだしも、その文句が全部アルチェムに集中するのだから、たまったものではない。
それに、農園の側もあまりがっつり作業をされると気になってやりづらいらしく、遠回しに本格的な作業は控えてくれとの訴えがアルチェムのもとに届いている。
過度に体面を気にするお偉いさんの意見はともかく、エアリスの気持ちも農園側の気持ちも分からなくはないだけに、アルチェムとしてはいろいろ悩ましいところだ。
どうせ他にも農作業はあるし、来年からはアルフェミナ神殿でも稲作を行う。エアリスには申し訳ないが、今年は見学、やってせいぜいパフォーマンスの範囲で、というところで我慢してもらえれば一旦は丸く収まる。
収まるのだが、輝かしい笑顔でやる気満々のエアリスにそれを言い出せるほど、アルチェムの気は強くない。結局、諦めて妥協できる範囲で妥協することにする。
「今日はまだほかに予定があるようですから、エル様は最大でもこの畝の刈り取りだけでお願いします」
「分かりました」
百五十メートルほどの長さがある列を一つ指し示し、そこが妥協点だと指示をするアルチェム。パフォーマンスと呼ぶには、少々はみ出た作業量である。
アルチェムの指し示した範囲を刈り取るべく、喜々として作業を始めるエアリス。専業農家に比べればまだまだだが、そのスピードはなかなかのものだ。
腕力的には貧弱なエアリスの作業スピードが主に鎌の性能によるものであることについては、触れないでおくのが優しさであろう。少なくとも、アルフェミナ神殿での修行により、体力そのものは十分あったのだから。
「さて、私もやりますか」
エアリスばかりに農作業をやらせるわけにはいかないと、鎌を手に刈り取り作業に参加するアルチェム。オルテム村の住民相手ならともかく、エアリスをはじめとした他の人間に農作業で負けるわけにはいかない。
そんな妙な気合を入れたのが悪かったか、実験農園で働いている食い詰め者たちを置き去りにする勢いで稲刈りを済ませてしまう。
「アルチェム、ちっと張り切りすぎだべ」
「ごめんなさい、つい勢いで……」
農業指導に来ていた中年のエルフにそうたしなめられ、肩を落とすアルチェムであった。
そして三日後。
「あの、エル様……」
「はい、何でしょう?」
「さすがに、まだ食べるには早いと思うのですが……」
アルフェミナ神殿の厨房には、いつの間にか脱穀・精米を終え、いざ炊飯という状態になった新米を前に、頭を抱えながらそう突っ込んでいるアルチェムの姿があった。
刈り取った米を美味しく食べるには、それなりの手順というものがある。その手順をちゃんと踏めば、普通は刈り入れから一週間以上かかる。
この世界の場合、ベテラン農家の技の粋を尽くせば収穫した日に美味しく食せる状態にすることも可能だが、エアリスをはじめとしたアルフェミナ神殿の人間には、それだけの技を持つ人間はいない。
だが、目の前で今からたかれようとしている米は、間違いなく今年ウルスでとれたばかりの新米だ。アルチェムの農業スキルでは味の状態までは分からねど、間違いなく三日前に収穫してここに持ち帰った米なのは断言できる。
オルテム村で生まれ育ったエルフが、いつ穫れた米かを間違えることなどあり得ないのだ。
「大丈夫です。天日干しなど時間のかかる作業は、王家の魔法で何とかしました」
「そんなことに、王家の魔法を使わないでください……」
やたら自慢げにそんなことを言うエアリスに、アルチェムが力なく突っ込む。使ってはいけない、という法は無いが、あまりに用途が俗っぽくて、主に権威の面でそれは大丈夫なのかと心配になってくる。
そういったことが多少は分かるようになる程度には、アルチェムも王制について学んでいるのだ。
「食べるために魔法を使う、というのは、一番真っ当な使い道だと思うのですが?」
「いやまあ、確かにそうなんですけど……」
言い返しづらいエアリスの反論に、思わず言葉に詰まるアルチェム。
食べるために魔法を使うのは、間違いなく一番真っ当な使い方だ。そこには否定の余地はない。
問題なのは、別にそこまでする必要がない時に、少量の食料を早く食べられるようにするためだけに、わざわざ貴重な王家のリソースを使うのは真っ当な使い道なのか、という点である。
別に構わないといえば構わないのだが、アルチェムとしてはさすがにそれは権威やらなにやらに影響しそうな気が激しくするのだ。
これが、エアリスがアランウェンのように農業神としての面を持つ神の巫女であれば、おそらくアルチェムも一切気にしなかったであろう。
こう考えると、立場とか属性というのは結構重要である。
「アルチェムさんが気になさっていることも、分からないわけではありません」
「はあ……」
「ですが、ヒロシ様の国では、新米というのは神にささげる儀式があるほど重要なものと聞いております。それだけのものに王家の魔法を使うのですから、権威が傷つくことなどありません」
やけに自信たっぷりに言い切るエアリスを、思わず残念なものを見る目で見てしまうアルチェム。アルチェムには、この後の展開が読めてしまったのだ。
「ヒロシ様の国でそれだけ重要なのであれば、我が国にとっても同じぐらい重要なものになる可能性があるわけです。それならば、わが国でもアルフェミナ様に新米をささげ、実りを感謝すればいいのです」
「……やっぱりそう来ますか」
「そういう訳ですので、アルチェムさんも手伝ってくださると助かります」
大層いい笑顔でそう言われ、まあいいか、と手伝うことにするアルチェム。こうして、ファーレーンでも稲作開始とともに新嘗祭が執り行われるようになり、ファーレーンの伝統行事として定着していくことになる。
なお、新嘗祭において炊き上げたお米は炊き立てを維持した状態で保存され、その日の夜に漬物やみそ汁などと一緒に王家の皆様が美味しくいただくことになり
「ふむ、これがウルスで初めてとれた新米か」
「さすがにまだまだオルテム村の米には及ばないが、いい味だ」
「そういえば、ヒロシ達が陰でテコ入れしたおかげで、最近はウルスでも生で卵を食せるようになったと聞く」
「……お父様、あれをやりますか?」
「うむ。まだ残りがあるのなら、頼めるか?」
「もちろんです」
純粋にコメの味を楽しめる食べ方を一通り確認した後に、エアリス経由で伝わった卵かけごはんに化けて一粒残さずきれいに王家の皆様の胃袋に収まるのであった。
3.ユリウスとエレーナ
宏達がファルダニアへ向けて旅立った後の、ある日のお茶の時間。
「ユリウス、もう少し気楽になさいな」
「はっ」
婚約者として同席していたユリウスの態度を、苦笑しながらエレーナがたしなめる。この隙のない貴公子には珍しい事に、傍目で見てわかるほどユリウスは緊張していた。
体も完治し、あとは日程さえ決まれば完全に自身のものとなる王女。その婚約者としてどう振舞えばいいかわからず、どうしても態度が硬くなってしまうようだ。
悪いことに、毒の後遺症でやせ衰えていても魅力的だったエレーナが、一級ポーションで完治したことで健康美を取り戻し始めているのだ。体重の戻りはまだまだだが、それでも随分と体つきが柔らかさを取り戻している。
あまりに長く毒で弱っていた王女が、一足飛びに健康を取り戻す。それに関してどう対応すれば正解なのかが判断できず、緊張に拍車をかけていた。
「冷静で勇猛なユリウスも、エレーナ相手となると分が悪いか」
「……陛下」
「……お父様」
そんなお茶会なのかお見合いなのか果し合いなのか分かったものではない空気に、何とファーレーン王が割り込んできた。
この程度の時間を空けるのも四苦八苦するほど多忙なはずの、ファーレーン王。その参戦に驚きの表情を隠せないユリウスとエレーナの反応を無視し、飄々とした態度でそのまま話を続ける。
「まあ、ユリウスの気持ちも分からんではない。恐らく、毒の事がなければ、エレーナはとうに嫁いでおっただろうからな。身分的にも立場的にも、本来万に一つも可能性がなかろう相手が自分のものになる、とくれば、どう対応すればいいか分からなくもなろう」
「そういうものなのかしら?」
「そういうものだろうな。我々からすればピンときづらいが、本来ユリウスの立場であれば、エレーナは仕えるべき対象であって嫁にと求める相手ではない。そういう風に見ていたのであれば、フェルノーク伯もああも意固地に反対すまいさ」
主君に戸惑いと緊張の原因の大部分を見抜かれていることに、傍目では分かりづらい感じで恐縮して見せるユリウス。夜会などでは一度も見せたことがない、実に人間味あふれる様子だ。
夜会などで群がってくる女性に対しては、クールを通り越してブリザードが吹き荒れるような感じのユリウスも、こういう場ではずいぶんと勝手が違うらしい。この様子を現在適齢期でいろいろ焦っている貴族の娘さんたちが目撃した日には、いろんな意味で大騒動になりそうである。
「まあ、いくら自分のものになるのが確定しているとはいえ、現状では王族とただの一貴族だからな。どの程度まで許されるか分からず、態度を決めかねるのは仕方あるまい」
「別に、そこまで気にする必要はないとは思うのだけど……」
「いや、ユリウスとしては気にせん訳にはいかんよ。何せ、こいつも戦場帰りの時は娼婦を買わねばおさまらん程度には、若くて健康な男だ。今までなら一切縁のない相手、しかもここ二年ほどは毒だの後遺症だのですっかり体つきから女らしさが消えておったからまだよかったが、今後はそうではなくなるのだ。結婚してからならともかく、現段階ではどの程度そういう目で見ていいのか、というのも、若い男としては悩ましい問題だろう」
「まあ……」
若い男のプライドとして、婚約者だけには知られたくなかった事情をあっさり暴露されるユリウス。相手が婚約者の父親であり、自分の上司であり、この国のトップなので、その口をふさぐこともできない。
そんな羞恥プレイを必死になって耐えているユリウスに、どこかほっとした様子でエレーナが話しかける。
「ユリウスは、私をちゃんと女としてみてくれているのね……」
「無礼かとは思いますが、その、どうしても……」
「むしろ、私はとてもうれしいのよ。だって、今までが今までだったでしょ? 恐らく子供を産むことはできるでしょうけど、正直女として見られるような状態ではなかったから……」
「そんなことはありません!」
そんなエレーナのどこか自虐的な言葉に、思わず本気になって否定するユリウス。
「褒め言葉ならともかく、うら若く高貴な方に己の獣欲を垂れ流しにするのはあまりにも失礼でみっともないのでこらえていましたが、エレーナ様は私にとって、そういう意味でも困るぐらいに魅力的でした」
「婚約者でしかもお互い別に嫌いあっているわけではないのだから、むしろ少しぐらいはそういう所を見せてくれた方が、私としてはうれしかったのだけど……」
「私にも、男のプライドというのがあります。たとえ婚約者相手といえど、誰が見ているかわからぬ場で色香に負けて色欲をあらわにするのは、恥以外の何物でもありませんので」
生真面目に言い切るユリウスに、はっきり苦笑を浮かべてうなずきあうエレーナとファーレーン王。
「それにしても、ユリウスが女を買っていたことは気にせんのだな?」
「若い独身の男性騎士というのは、そういうものなのでしょう? おかしな病気さえ持っていなければ、気にしてもしょうがないと思っているわ」
「そういう部分は、あまり物分かり良くされると身の置き場がないのですが……」
抵抗しづらい王族からのいじり攻撃に、白旗を上げながらもささやかな抵抗を試みるユリウス。そこには、お茶会当初の妙な緊張感はみじんもない。
「さて、いい加減あまり仕事を放置するわけにもいかん。余はこれで戻るが、式までにもう少し夫婦らしくなっておくようにな」
「……善処します」
「何だったら、多少の婚前交渉は黙認するぞ?」
「……いえ。大変魅力的なお言葉ではありますが、まだエレーナ様のお体が心配です。結婚式が終わるころにはもっと健康的で魅力的になっておられるでしょうから、それまで待たせていただきます」
国王にいじり倒されて吹っ切れたか、ユリウスがそんな風に言い返す。それを聞いた国王が面白そうに笑顔を浮かべると、そのまま軽く手を振って立ち去る。
「……やはり、陛下はタヌキでいらっしゃる」
「……まったくね」
未来の娘夫婦のために、あえてデリカシーのない父親を演じて壁を取り去っていったファーレーン王に、そんな風に感謝の気持ちを口にするユリウスとエレーナ。
これ以降、二人の間には妙な遠慮や緊張がきれいさっぱり消えてなくなるのであった。