エピローグ
「家族を、友を、故郷を守るために命をささげた英霊たちよ……」
マルクト東部、最大の激戦地となった平原に、エアリスの可憐な祈りの声が響き渡り、慰霊碑に吸い込まれていく。
年明けから十日ほど。各国は新年を迎え、無事に慰霊式典へとこぎつけていた。
「……なんかさ。ああいう姿を見てると、本来なら遠い存在なんだって実感するわよねえ」
会場の最後尾、光学迷彩で隠した屋台の前で真摯に祈りを続けるエアリスを見守りながら、思わず真琴が正直な感想を漏らす。
そんな真琴の気持ちを強調するように、エアリスの体や慰霊碑、お供え物、果ては草原全体から荘厳で幻想的な光が立ち上り、小さな光の玉となって漂い始める。
その光景に、参列していた遺族たちの間からもどよめきが起こる。
「あんまり神々しくなられると、いろいろ不安になってくるよね」
年齢に見合わぬ重い立場に立たされ、それにふさわしいだけの威厳や神々しさといったものを身に着けてしまったエアリスに、どことなく心配そうな表情で春菜が言う。
社会構造の問題もあって全体的に成熟が早いこの世界においてさえ、エアリスの歳でここまでの実績と威厳を身に着けた人物は、歴史を振り返っても数えるほどだ。
彼女が本当の意味で年相応でいられた時間、というのは、おそらくその人生において一度もなかったのではないか。
そのひずみが、いずれどこかに出てくるのではないか。春菜がそんな不安を抱いてしまうのも、無理はないだろう。
「まあ、下手したらここにいる女神さまより神々しいんだから、不安にもなるわな。主に立場がないとかそっち方面で」
「いや、別に女神としての立場なんてどうでもいいんだけどね」
心配しても無駄なことに不安を覚える春菜を、達也が軽い口調でわざとらしくからかう。さらにそこに、澪が余計な口を挟む。
「大丈夫。春姉もエルも、一皮むけば同等レベルで残念だから」
「ねえ、澪。それをあんたが言うの?」
明らかにお前が言うな、という突っ込みを待っている類の澪の発言に、とりあえず義務感から一応突っ込みを入れる真琴。残念さに関していえば、澪は春菜やエアリスなど可愛らしく見える次元にいる。
そんなくだらない話をしている間にも式典は粛々と進み、浮かび上がる光の数はどんどん増えていく。
草原から浮かび上がった光の玉が、まるで軍隊か騎士団のように整列したところで、エアリスの祈りの言葉が最後を迎える。
「……英霊たちよ、どうか安らかにお眠りください」
万を超える兵士や遺族、各国の王族や外交官が見守る中、エアリスは堂々と、粛々と、祈りの言葉を最後まで唱え終える。
その最後の一言と同時に輪郭だけ生前の姿を取り戻した兵士たちが、騎士団の礼の姿勢を取った後に一斉に天へと昇っていく。
「姫巫女様に感謝を! 英霊たちに、敬、礼!!」
神聖かつ幽玄、幻想的なその一連の流れに、今回の国家側の総代表に選ばれた、とある部隊の兵士長が感極まった声で敬礼を宣言。その合図に、参列した王族や貴族、騎士団、果ては末端の兵士まで、練習をしたわけでもないのに一糸乱れぬ動きで騎士団の礼を取る。
その中に白くて巨大でつぶらな瞳がラブリーなワイバーンとその家族がいたが、一応彼らもこの件においては戦友なので問題ない、と言うことにするしかない。
なお、王族や騎士団長などを差し置いて満場一致で代表に選ばれたこの兵士長は、今回のウォルディス戦役において最大の激戦区で戦い抜き、他の隊が全滅に近い被害を受けた中で、唯一損耗率を一割未満に抑えた猛者だ。
無限に湧くウォルディス軍相手に半ば孤立した状態に追い込まれ、どんどんと倒れていく友軍を助けるべく奮闘し、一人でも部下や他の部隊の兵士を生きて帰らせるために最後まで戦場に残り、その助け出した部下が連れてきた援軍により救出されたという、壮絶な経験をした人物である。
文字通り化け物の集団であったウォルディス軍相手にそれだけの事をした結果、この兵士長は左腕を完全に失い、右足の膝も歩くのがやっとというレベルで壊れている。救出され神の城に搬送された時点ではまだ間に合ったため、当然三級ポーションで治療することを申し出たものの、部下たちを多数失ったことや、所詮大した技量でもない自分が特別扱いを受けるいわれはない、などの理由で全面拒否され、治療できなかったのだ。
戦闘能力だけでいうならドーガなどには足元にも及ばないが、間違いなく今回の戦役における最大の英雄の一人であろう。
宏達の視点では割とのんきなことをやっていたウォルディス戦役だが、最前線はやはりかなり悲惨な戦いを強いられていたのだ。
「……とりあえず、一つだけ言えるんは、や」
恐らく、後世において神話か伝説となるであろう慰霊式典。その一部始終を最後まで黙って見ていた宏が、ずっと思っていた事を言うべく口を開く。
「屋台隠しといたん、間違いなく大正解やったな。これ最初から表に出しとったら、いろんな意味で台無しやった」
何を言い出すのか、と身構えていた一同が、宏の言葉に複雑な表情を浮かべて脱力する。
確かに、宏の感想は一切間違っていない。間違っていないのだが……。
「それを口に出して言っちまったら、それこそいろんな意味で台無しだろうが……」
台無し感あふれる言動に、その場にいた人間を代表して一応達也が突っ込む。正直、式典の最中にほんの少しとはいえ余計なことをだべっていたのだから、宏に突っ込む資格はないのは分かっているが、それでも誰かが突っ込まねばならない気がしたのだ。
結局、真面目な式典の間ですら、その残念さとマイペースさは変わらぬアズマ工房であった。
「くださいな」
一般参列者の献花と屋台がスタートしてから一時間。どうやら、社交とか外交とかそういった要素のある付き合いを終えたらしく、エアリスがドーガとアンジェリカを伴ってやってきた。
「はーい。どれにする?」
「そうですね……」
並んでいる料理をじっと見て、真剣に悩むエアリス。ここで売られている料理は、どれを選んでも外れはない。それが分かっているからこそ、悩みが深いのだ。
屋台で提供されるだけあって、並んでいるものは下ごしらえにかかる手間を度外視すればどれも簡単な料理ばかりである。
だが、簡単な料理だからこそ、腕や素材の差ははっきりと出るもので、おそらくここで出されるものを一番最初に食べてしまえば、少なくとも今日一日は、他の屋台で提供されるものを美味しく食べることはできなくなるだろう。
今日に関してはもともとここ以外の屋台など触らせてもらえないエアリスには関係ない話だが、なかなかに罪作りな話ではある。
「決めました。ローストベヒモスサンドとリヴァヒレスープのセットをお願いします」
意外にも割とがっつりしたものを注文してきたエアリスに微妙に驚きつつ、手早くサンドイッチとスープを用意する春菜。
ちなみにこのサンドイッチとスープ、素材とかかっている手間から予想できる通り、今回の屋台で最も高額なグループに属する料理だ。
サンドイッチはどれも神小麦を使った、それもサンドイッチ用に製法をこだわりぬいて作ったパンで挟んであり、マヨネーズを始めとした調味料も神の食材フルコースだ。中にはさんであるローストベヒモスやリヴァイアサンの白身フライなどの具材もいい部位を手間暇かけて調理しており、普通なら屋台で売る軽食に使うなどもってのほか、という出来栄えになっている。
リヴァヒレスープもふかひれスープのふかひれの代わりにリヴァイアサンのひれを使った最高級スープで、体が温まるのはもちろん、極上の旨味なのに何杯食べても飽きないという究極の料理となっていた。
神の食肉シリーズを使ったサンドイッチとスープはいずれも一つ六十五チロル、セットで一クローネと二十チロル。屋台で売るには高すぎるとかそういう次元を超えた値段設定になっているが、この値段設定に誰も文句を言わない。
結果として、当初の予定とは裏腹に、最も高い物から順番に飛ぶように売れていくという厄介な現象が起こっていた。
そもそも、アズマ工房のネームバリューに加え、一部例外を除きモンスター食材というのは基本高級食材なのだから、リヴァイアサンがどうとか関係なく、サンドイッチ六十五チロルは普通に安い範囲に入るのだから、ある意味当然ではある。
「は~い、かしこまりました。ドルおじさんとアンジェリカさんも同じでいいの?」
「そうじゃのう……。儂はそれに醤油のモツ煮もいただこうかのう」
「我はスープをミネストローネにしてもらって、あとはじー様にモツ煮、だな。味噌の方で頼む」
ドーガとアンジェリカの注文を聞き、手早く商品を用意する春菜。その手さばきはもはや熟練の領域だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。あの、それで……」
「私たちもお話したいことがあるから、これが終わってから……。そうだね、晩御飯の時間にお城に来てよ」
「はい、わかりました」
春菜の言葉にうなずき、料金を渡した後素直に引き下がるエアリス。自身の後ろにも続々と客が並び、また他の売り子たちも忙しく動き回っているこの状況で、あまり長話をするのは気が引ける。
それに、屋台をやっているときの春菜は、宏と一緒に作業しているときとは違う方向で、同じぐらい輝いているのだ。ここのところなんだかんだとストレスがたまることが多かったのだから、こういう楽しみを邪魔するのはエアリスとしては最も避けたいところである。
なので、屋台が余程暇そうでもなければ、もともとアポイントを取る以上のことをするつもりはなかったりする。
「それにしても、本気で屋台をやっておるとはな……」
「そういえば、アンジェリカ殿はハルナの屋台に遭遇するのは初めてじゃったか」
「ああ。話を聞いたときは、女神なのに屋台をするのか? と、耳を疑ったものだぞ」
「女神になる前からやっておった、というより、アズマ工房にとっては原点のようなものじゃからな。人間を卒業しようともやめられんのは仕方あるまい」
異常なまでに活き活きと商売を続ける春菜に、思わず生ぬるい視線を向けながらそんな会話を続けるアンジェリカとドーガ。その間も、どんどん商品は売れていく。
「ここであまりのんびりしていても、迷惑になるだけです。早くお兄様の元へ戻りましょう」
「そうだな。だが、王太子とリーファ王女の分はいいのか?」
「それについては、あれをご覧ください」
エアリスに示された方向を見て、思わず納得とあきれの入り混じった表情を浮かべるアンジェリカ。視線の先には、いろんなものが入ったレジ袋をぶら下げて、各国の王族のもとへ飛んでいくオクトガルの姿があった。
転移でもよかろうにあえて飛んでいくあたり、間違いなく遊んでいる。
本来なら、エアリスもあれを受け取るべきなのであろう。だが、今回の一連の件で最も頑張ったのもエアリスであるだけに、これぐらいのわがままは許されたようだ。
「それにしても、オクトガルもすっかり馴染みましたなあ……」
「そうですね。なんだか昔から身近にいたような気がしてしまいますが、よく考えたらウルス城に出入りするようになってから、まだ一年も経っていないのですよね」
「言われてみれば、そうですな」
その人懐っこさと便利さから、ものすごい存在感なのに普通に生活の一部として溶け込んでいるオクトガル。その脅威的な馴染みやすさに、なんとなく遠い目をしてしまうエアリスたち。
「それを言い出せば、我と王女が知り合ってから、まだ三月ほどしか経っておらん」
「エアリス様がヒロシとハルナに助けられたのも、大体一年と三カ月ほど前ですしな」
「……どれもこれも、もっと昔の事のような、それでいてつい先日の事のような気がしています」
「それだけ、王女が密度の濃い日々を暮らしている、ということだろう」
思ったよりも経過していない時間に、しみじみと驚きの言葉を発するエアリス。それに内心で共感しつつも、エアリスの日々の暮らしを思い出して半ば遠い目をしながら、ありがちなコメントをするアンジェリカ。
「それでも、逆に言えばもう一年以上経っているのですね」
「なんだかんだ言っても、時の流れは早いものだからな。我など、もう何千年も生きておるものだから、本当に一年ぐらいはあっという間よ」
宏達と出会った頃の懐かしい日々を思い出しながら、少し寂しそうに微笑むエアリス。もはやどう頑張っても、立場的にも気持ち的にもあの頃に戻ることはできないし、仮に戻れるとしても戻るつもりもない。それでも、エアリスが初めてただのエアリスでいられたあの宝石のような時間を、もっと長く過ごしていたかったという気持ちもある。
そんなエアリスの姿をファーレーン王やレイオットが申し訳なさそうに、寂しそうに見守っていたことに、エアリスは最後まで気が付かなかったのであった。
「とりあえず、うちらが向こうに帰るんは早くて今月末、伸びても二月の中頃やな」
式典が終わったその日の夜。神の城でファム達やアルチェムを交えての夕食の席で、宏からついに帰還のスケジュールが告げられた。
「……結構すぐだ」
「せやで」
「まだ引き継ぎも教えてもらいたいこともたくさんあるのです。せめて、あと一カ月余分にもらえないのですか?」
「そうしたいんは山々やねんけど、その期間を外したらなんぞややこしいことになりそうな感じでなあ」
一番長くてもあと一カ月ほど。その事実に動揺を隠せないファム達。邪神がいなくなれば宏達が故郷に帰ってしまうのは分かっていたが、なんとなくもうちょっと猶予があるものだと思っていたのだ。
「ほんまやったら、もうちょっと早いうちに言いたかったんやけどなあ……」
「アルフェミナ様たちも頑張ったんだけど、日程が確定できたのが昨日だったんだよね」
「原因が、邪神戦に他の世界の神とかが関われんかったんと同じ種類のもんやから、こればっかりはしゃあないしなあ」
日程に関して出ると分かっていた苦情を聞いて、苦笑しながらそう告げる宏と春菜。これに関しては、誰を責めるつもりもない。
大体、その期間しか帰るための道を作れないのは、半分ぐらいは宏と春菜のせいである。特に春菜の因果律かく乱体質は、この世界だけでなくあちらこちらの因果律をバタフライエフェクト的に乱しまくっている。
それを邪神戦の時にやりたい放題やりまくった宏がさらにかき乱したのだから、かなり大事になっているのだ。
道を作ることすら宏達の手に余る現状、多忙を押してちゃんと道そのものは作ってくれるアルフェミナたちに文句を言う筋合いはない。
「まあ、いっぺん帰りさえすれば、今度は割と自由に行き来できるようになるから、安心し」
「逆に言うと、一度は帰らないと、行き来するための道が完成しないんだよね」
「割と自由に、っていうことは、すぐに戻ってきてくださるのでしょうか?」
「色々あって、最初の一回はすぐにっていう訳にもいかないんだよね」
「せやな。それに、行き来そのものは自由にできるようになっても、四六時中こっちと向こうを行き来するんは無理や。僕らにも向こうでの生活があって、それにスケジュールとかが拘束されるから」
エアリスの問いかけに、現在確定していることを告げる宏と春菜。向こうでの生活に言及され、思わず黙り込んでしまう工房職員たち。
宏達にもこちらに飛ばされてくる前の生活がある、という当たり前のことに意識が向いていなかったのだ。
「それでは、最短でこちらに再び戻ってくるのは、いつになるのでしょうか?」
「向こうに戻った時の日付が四月末だから、多分五月の頭になるかな?」
「五月、ですか?」
「うん。こっちと向こうとで暦がずれてるとややこしいから、ちょっとそこのところを調整することになったんだ」
「最初の一回がすぐ戻ってくるわけにいかん、っちゅうんも、結局はそういうことやしな」
「そう、ですか……」
日付と理由を聞き、手元の料理を見つめるような形で顔を伏せ、力なくそう呟くエアリス。宏達が一月末に戻ったとしても、たかだか三カ月ちょっと。大した期間ではなく、最近の忙しさならばあっという間に過ぎ去ってしまうことも分かっている。だが、その間、どうやっても会うことはできないというのは、とてつもなく寂しく心細い。
なんだかんだと言って、一カ月以上顔を合せなかったことなど今まで一度もなかったのだ。三カ月というのは、未知の領域となる。
それはファム達工房職員やアルチェムも同じのようで、エアリス同様、小さく顔を伏せている。
たった三カ月、されど三カ月。現時点でのエアリスたちの気持ちをくじくには、三カ月というのは十分すぎるほどの期間であった。
「……あの、一つだけ気になったんですが」
「なんや?」
「向こうに戻る日付が、どうして四月末なんですか?」
話を聞いて、途端に味気なくなった料理をもそもそと口にしていたアルチェムが、思い切って四月末という日付の理由を聞く。他のメンバーもそのあたりが気になったのか、宏達の回答に注目する。
「うちらがこっちに飛ばされたんが、向こうの日付で四月二十七日やったからや」
「行方不明とかの騒ぎにならないように、飛ばされてから十分ぐらい経った時間に戻ることになってるんだ」
「僕らはまだしも、兄貴はそれぐらいの時間に戻るようにせんと、無断欠勤で失業確定やからなあ」
「……そういうこと、ですか」
全ての事に、重要な、もしくはどうにもならない理由があることを知り、それ以上駄々をこねるような形の追及はやめることにするアルチェム。それに倣い、とりあえず泣き言を飲み込んで食事に専念するこの世界の住民たち。
そんな彼女たちに、達也がさらに爆弾を投げ込む。
「そうそう。その時間軸に合わせて肉体年齢とかが一時的に戻る関係で、澪だけはこっちに戻ってこれるのが早くて七月か八月、下手したら年末ごろになるかもしれん」
「……それはまた、どうして?」
「澪は、日本にいた頃は治療法が発見されてない難病を患ってた上、事故で首から下が動かなくなってたんだ。こっちに飛ばされたときにそのあたりは治ったんだが、治ったままで向こうのその時間軸に戻ると騒ぎになるから、一週間か二週間ぐらいかけて奇跡的にどっちも回復した、って流れでちょっと時間をかけてこっちの体に状態を合わせることになってる」
「おんなじ原因不明の奇跡でも、医学的にある程度納得いく形で兆候とか経過とかを確認できないと、かなり洒落にならない騒ぎになるのよね、日本、というか地球の先進国の場合」
反射的に聞き返したテレスに対し、ことの背景を全部説明する達也と真琴。かなり不安をそそる達也たちの説明に、先ほどまでとは違った意味で顔が不安にひきつるエアリスたち。
「私たちが五月頭までこっちに来れないと思う、っていうのも、そのあたりの偽装工作をしなきゃいけないからだし、ね」
「ん。しかも、そこまでやってもいきなり体が普通に動くと不自然だから、そこそこの期間のリハビリが必要」
「さらに、澪は一人娘でしかも今まで健康だった時間が一秒たりともなかった感じだからな。ご両親が過保護なんだよ」
「うちの両親、すごく心配性。多分監視の目がなくなるの、早くて秋ごろ」
いろいろ手遅れで残念でダメな感じの澪だが、その半生はなかなか壮絶だ。正直、この性格でこの言動でなければお涙頂戴系の物語で主役をできる、そんな人生を過ごしてきている。
「まあでも、来年にはこっちに常駐してないってこと以外は、大体元通りになる感じね」
「真琴さんはプーやから、こっち入り浸っとっても問題あらへんしな」
「その世知辛い事実を突きつけるの、やめてくれないかしら……」
どうにも盛り下がるだけ盛り下がってしまった場を少しでも軽くするために、余計なことを言う宏。割と本気でグサッと来ながらも、宏の意図を酌んで雑談に乗る真琴。
そんな中、珍しく黙ってひたすら食事に専念していたライムが、最後のひと口を平らげたところでおもむろに立ち上がる。
「親方! ライム、親方が戻ってくるまでもっと勉強する!」
「えらいやる気やな」
「ライムが立派になれば、親方安心できる!」
「別に、そんなに気合い入れて早くに立派になろうとせんでもええんやで?」
「違うの! ライムが立派になれば、親方が安心してライムたちを連れまわせるようになるの! 離れてる時間が少なくなるの!」
「……今回は、そういう種類の話やないんやけどなあ……」
「今まで親方から置いてかれたの、大体そういう理由だったの!」
ある意味事の本質を突いたライムの言葉に、思わず天を仰ぐ宏達。何が問題かといって、基本反論できないところが問題だ。
子供というのは見ていないようでよく見ており、分かっていないようで案外よく分かっているものだ。
「てか、三カ月も間が開くっていうのはいいの?」
「ライムいい子だから、それぐらい我慢する! だって、親方たち、帰ってくるって約束は絶対破らないもん!」
「だって。エル様もアルチェムもファムもノーラも、ライムがここまで言ってるんです。わたし達も大人として恥ずかしくないよう、胸を張って頑張らないと」
「そうですね。ライムさんに恥ずかしいところは見せられません。私も、ヒロシ様のおそばにいられるような、手放せなくなるような立派な人間にならないと」
ライムに触発されて、何やら入ってはいけないスイッチが入った様子を見せるエアリス。
「なんか、ある意味では安心して戻れるけど、ある意味では戻るんがむっさ不安になってきたで……」
「そうだね……」
どうにも明後日の方向に気合が入ってしまったエアリスたちに、一抹の不安を感じざるを得ない日本人チームであった。
そして、時は流れて二月三日。いよいよ、宏達が日本へと帰る日がやってきた。
「豆まきもした。今年は恵方巻も食った。やること大体やったから、そろそろ向こうに帰るわ」
「ローリエちゃん。私達がいない間の事とか、こっちに戻ってくるときの時間軸調整とか、よろしくね」
特別に通路を開く、とか、そんなことをするでもなく、夕食の後片付けを終えて全員が集まったところで、そんな風に軽く宏と春菜が切り出す。
「時間軸の調整と、こちらに残る者たちの事はお任せください」
「特に時間軸の方は頼むぞ。一年間違えた、とか言ったら、下手したら澪とエルの歳が逆転するからな」
「そういや、一年半ほど巻き戻るから、澪とエルは学年でいうと同じになるんだっけ?」
「ん。不本意ながら、同学年。胸はもっと差が……」
現在の、澪の掌ならややこぼれるぐらいの大きさの胸を名残惜しそうにこね回しながら、本気で不本意そうに言う澪。最終的にボリュームはともかく比率やらなにやらは普通に巨乳のカテゴリーに入れることは分かっていても、せっかく育ったものがまた無いよりはまし程度までしぼむのは悲しいらしい。
「まあ、澪の名残惜しさは置いとくとして、や。エル、しばらく会えんけど、ほどほどにな」
「はい。お待ちしております」
「ファム、ライム。自分らも、あんまり焦って大人になる必要はないで。あんまり一気に物事進めると、大概ろくなことにならんしな」
「そうだぞ。お前たちはもう、生活って面では立派に一人前なんだからな。焦らなくても、誰もお前たちを軽く見たりはしない」
「でも、あたしは早く大人になりたいよ」
「……ライムも」
「あせんなくても、あんたたちなら時が来ればちゃんと大人になれるから。今は、今しかできないことを楽しみなさい」
「せやで。僕らが帰った後、自分らが最優先でやらなあかんことは、後ろで寂しそうにしてるお母さんにちゃんと甘えたげることやで」
しゃがみこんで、子供たちに目の高さを合わせて、その頭をなでながらやさしく語り掛ける真琴。ファムもライムもまだまだ子供だが、保護した当初と比べればずいぶん大きくなった。体つきもしっかりしてきているし、親離れ、親方離れもそれほど先の事ではなさそうな気がする。
「テレス、ノーラ。後は任せんで」
「テレスさんとノーラさんは、もう工房の日常業務は完ぺきにこなせてるから、不安がらずに胸を張って、ね」
「ええ。留守中はお任せください」
「ファムとライムも、ちゃんと無理しないように見ておくのです」
「ん。後、留守中にいい人ができたら、紹介よろ」
「「そっちは余計なお世話です(なのです)!!」」
せっかくいい雰囲気で進んでいたのに、澪の余計な一言に思わず全力でかみつくテレスとノーラ。そんな二人をスルーして、最後に一番後ろに控えているレラに声をかける宏。
「レラさん。こいつらが無理せんよう、目ぇ光らせといてな」
「あと、私たちとか王家とかに遠慮せずに、ちゃんとファムちゃんとライムちゃんを可愛がって甘やかしてあげてね。二人とも、頑張りすぎるぐらい頑張ってるから」
ちょっと名残を惜しむようにファムとライムの頭をなでる宏と春菜に向かい、無言で侍女の礼を取って承知したことを告げるレラ。今まで意図して目立たない立場に徹してきたレラだが、なんだかんだと言って彼女もこの一年ちょっとで随分と成長している。
折に触れ他の管理人たちや王宮から来た使用人などに教えを請い、今では王族が出入りするフロアに控えることもできるほど、ハウスキーパーや側仕えとしての能力を磨き上げていた。
彼女に任せておけば、無理をしそうな弟子たちについても不安はない。王族の出入りするフロアで側仕えができる、というのはそういうことだ。
「ほな、行くわ」
「また五月にね」
「達者でな」
「って言っても、私たちの感覚だと何日かしか変わらないんだけど、ね」
「ボクはもっと先になるけど、忘れないでね」
そう口々に言って、転移光とともにその姿を消す宏達。そんな風情も何もない、ありふれた日常の一コマという感じであっさり立ち去った宏達を見送ると、黙って自分たちの部屋に戻っていくエアリス達。
口を開くと余計な泣き言を言いそうで、そして、誰か一人がそれを口にすると、連鎖して泣き言が続きそうで、誰も何も言えない。
必ず戻ってくる。それは分かっていても、今までとは何かが決定的に変わってしまった。そのことを誰もが自覚していた。
「お早いお帰りをお待ちしています、ヒロシ様」
ウルスまで帰る気力もなく、神の城に与えられている自室に戻ったところで、こらえていたなにかとともに小さくつぶやくエアリス。
こうして、アズマ工房の関係者全員にとって一つの大きな節目となる出来事は、これまでの日常と大して変わらないようなあっさりとした形で終わりを告げるのであった。