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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣  作者: 河東ちか
第一章 神官グレイスの章
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5.月下の盗賊<1/4>

 主神である大地の女神レマイナを筆頭に、大陸内には様々な神に属した教会がある。

 神官達の中には、仕える神に由来した奇跡の力を行使できる者達がいて、一般に『法術師』と呼ばれている。

 例えば、レマイナの力は人の傷や病を癒し、天空神ルアルグの力は風を操り、農耕神デュエスの力は雷雲で雨を呼ぶ。それは、政治や軍事には介入が制限されるし、だいたいの場合はさほど強力なものではない。それでも確かに存在し、今日(こんにち)でも神の力が地上に及んでいることを示していた。

 その中で、唯一神官が法術を与えられていないのが、死と眠りを司る神カーシャムだ。

 法術の代わりに、カーシャムの神官は皆、卓越した剣の技量を身につけ、煙水晶を柄に埋め込まれた美しい長剣を持っている。

 彼らには、『カーシャムの慈悲の指先』としての役目が与えられている。それは死が目前に見えていながら、それまでの時間がただ苦痛でしかない者に対する救いの手になることだった。

 特に戦場では、死にきれずただ苦しむだけの者に、永遠の安らぎをもたらす黒き使者として語られる。

 もちろん非常に判断の難しいことなので、平時では身を守る以外に剣を抜くことは滅多にない。行政の依頼で軍の治安部隊に協力することもあるが、特定の国家の利益のためにカーシャム教会が力を貸すことはなかった。

 神官になることに剣の技量が求められるだけで、カーシャムの神官達に、人の手で行える以上の奇跡を起こす力はない。それでも、黒い法衣をまとったその姿は見る者に、死へ畏怖と永遠の安らぎへの憧れとを思い起こさせる。

 気力だけで生きながらえていた老人が、自分の前に現れたカーシャムの神官の姿に、生から解放される許しを見たような気分になったのだとしても、無理はなかったのかも知れない。



 ランシィは泣かなかった。揺り椅子に座ったままの、もう二度と目を開くことのない祖父を、表情の薄い瞳で見つめている。その姿が、逆にグレイスには痛ましく見えた。

 この子供は、自分の感情の表し方がよく判っていないのかも知れない。

 死者の細くて軽い体を寝室に運び、とりあえずの処置を施したあと、グレイスは少しの間呆然と居間の椅子に腰掛けていた。

 いくらなんでも、こんな小さな子供を老人の遺体と置いていくわけにはいかない。冬の間は遺体ももつだろうが、やはり埋葬もせずそのままにしていくこともできない。

 村から連れ出したとして、受け入れてくれる親類がランシィにはあるのだろうか。そんなものがあったら、あの老人はとっくに手を打っているような気もする。

 自分が本来予定していたように、雪で道が閉ざされてしまう前にランシィを連れてラウザの都にたどり着き、そこでしかるべきところに相談するのが、今は最善のように思われた。

 決断しなければいけないことが、いくつもできてしまった。行動するなら早い方がよいのだろうが、唯一の肉親であろう祖父を失ったばかりの子供を、せかすように村から連れ出すのもためらわれた。

 そうやってグレイスが悩んでいる間、ランシィは淡々と、たぶん毎日自分がするように暖炉に薪を足し、湯を沸かし、二人分の簡単な粥まで用意していた。

 老人がグレイスに変わっただけで、このまままた同じ生活をするつもりでもいるのだろうか。どう声をかけていいのか戸惑っていたら、最後にランシィが持ってきたのは古びた地図だった。

「自分が死んだら、ラウザに行けってノムスが言ってた」

 ノムスとは、老人の名前だろう。ランシィはグレイスの正面に座ると、前髪の間から見える灰色の左目でグレイスを映した。

「雪が深かったら、春まで待てって言った。もし雪が積もる前なら、自分はそのままにしていいから、急いで行けって言った。おじさんは、どっちがいいと思う?」

『連れて行って』と言うのでもない。この子は、一人で残されたとしても、村を出て町に行くつもりだったのだ。

 ランシィは、驚いたグレイスの答えを待つように、粥の入った椀を抱えたままこちらを見上げている。感情の表し方は下手なのかも知れないが、この子供の目はまっすぐ自分が生きる方向を見据えていた。

 そうか、子供だからといってなにもかも、代わりに大人が決めてあげなくてもよいのだ。

 グレイスはそこでやっと自分が、ランシィに関する全責任を老人から引き継いでいたような気になっていたのに気がついた。

 老人はランシィに、自分がいなくなった時になにをすればいいか、それなりに教え込んでいる。それならその選択肢の中で、その時に最善と思われる方法を、自分が助言すればいい。選択肢が足りなかったら、足してあげればいい。もともといなかった存在と思えば、自分がいること自体がランシィの益になっているはずだ。

 ……たとえ一人でひと冬過ごせるだけの力があったとしても、雪に閉ざされた中で想定外の事故がないとも限らない。

 雪は昼の日差しでほとんど溶け、今残っているのは日陰になっている場所ばかりだ。地面も凍るほどではない。本格的に積もるまでには、まだ日にちがあるだろう。

 それなら、今の段階で自分と一緒に村を出た方が、ランシィにもよいように思われた。

「この状況なら、明日にでも出発した方がいいと思う」

 グレイスは居住まいを正した。

「地図を改めて見ないとなんとも言えないけど、もう昼になってるし、今からじゃ明るいうちに、宿を取れる場所に出るのはは難しいと思う。それなら、今日はしっかり支度を調えて、きちんと体を休めて、明日の朝早くに出発した方がいいんじゃないかな」

 それまで途方に暮れていたグレイスの顔つきが、急にしゃきっとしたものだから、ランシィも真面目な顔になって話を聞いている。

「それに、僕はカーシャムの神官だから、きちんときみのおじいさんが土に還れるようにしていってあげたい。ちょっと大変な仕事だけど、大事なことだと思うんだ」

「土に還るって、埋めてあげるってこと? 死んだ人にはもうなにも判らないんでしょ? 人は死んだらなんでもないものになるから、生きているものをまず大事にしなさいってノムスは言ってたよ?」

 とても合理的な考え方をする老人だったのだなぁ。グレイスは微笑んだ。

「埋めてあげるのは、なにも死んだ人のためだけじゃないんだよ。土は新しい命を産んで、それを雨が育てて、風が種を運んで、土がまたその種から次の命を作るんだ。死んでしまった命を無駄にしないことは、生きているもののためになることだよ」

「……?」

「難しいかも知れないけど、死は『そこで終わり』って意味ではないよ。姿形を変えて、いろいろなもののなかに命をつないでいくことなんだ。今生きている人は、かつて生きていたたくさんの人と一緒に生きているんだよ」

 ランシィはやはり、腑に落ちない様子だった。

 人の死自体が、まだランシィにはよく判っていないのだろう。ひょっとしたら死んだ人は死んだ時のまま、何年経っても腐りもせず人形のようになるだけだとでも、思っているのかも知れない。

 住人が去って寂れる一方の村では、新しい命が生まれるのを見ることも、人が亡くなる場面に立ち会うこともなかったろう。本当なら、いろいろな経験を通して知っていくことを、言葉だけで今すぐに伝えるのは難しい。

 グレイスは真剣な表情でランシィを見返した。

「……とにかく、自分の大事な人にきちんとお別れをしておくのは、生きていく人のためになることだよ。今はよく判らなくても、きっと君が生きていくために大事な思い出になるから、少し大変だけど、ちゃんとおじいちゃんとお別れして、土に還れるようにしていってあげよう。あのまま寝台に寝かせていったら、土になるのは大変だからね」

「うん……」

 ランシィはまだよく判っていないようだ。それでもグレイスが自分のために正面から助言しているのは伝わったらしく、それ以上はもう異を唱えなかった。

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