第15話 怒られたさん。
もう何度目のため息だろうか。
フレデリクは、煮込み料理の皿の前、深いため息を吐き出した。
それはもちろん、料理に感嘆したためではなかった。
深い悲しみと、憂いのため息――。
「まさか、あのクラウス君が予言の魔法使いだったとはねえ……。ああ……。ラーシュ君のこと、彼はちゃんと丁寧に扱ってくれているでしょうか」
ここは、キースたちのいる都市より北の町。昼どきを過ぎ客足もまばらになった、小さな食堂だった。
テーブルに座る、五名の旅人。クラウスを追って旅に出た、魔法学校の教師のフレデリクとその親族たちだった。
フレデリクの眼鏡の奥の瞳は、この店の看板メニューの一品を、ただの映像として脳に伝える。
「フレデリク! そんなのん気なことを言っている場合か!」
フレデリクの前に座る年老いた紳士が、テーブルを叩く。
フレデリクの叔父、ベルトルドだった。テーブルに並んだ料理の皿やグラスが揺れる。
「そうですね、ベルトルド叔父さん。今は言っている場合ではありませんでした。食べなければならないときです。せっかく提供された料理、食べなくては」
フレデリクはうなずき、ようやく料理を口に運ぶ。
「そういうことを、言っているんじゃない!」
ベルトルドは、ふたたびテーブルを叩く。
フレデリクの隣には、フレデリクの息子ハンスが座っていた。そして、叔父ベルトルドの隣には、フレデリクのいとこのイデオンとアンネが座っている。
「お父さん、テーブルを叩いたり大声を出すのは、迷惑ですよ」
いとこのイデオンが、小声で父をたしなめる。
「なにっ」
怒りの矛先が少しイデオンに向きそうになったところ、
「そう。マナー違反よ」
人差し指を自分の唇に当てたアンネのささやき声が、兄のイデオンに続く。
イデオンとアンネが、フレデリクへ助け船を出した形だが、当のフレデリクはというと、
「叔父さん。焦っても仕方のないことですよ。焦ったところで物事は変わりません」
さらっと、火に油を注いでいた。
ベルトルドの怒鳴り声が響く。
「フレデリク! まったく、お前の管理がなっていないからこんなことになるんだ! お前の父さんたちが生きていれば、『知恵の杯』のラーシュが盗まれるなんてとんでもないことは……!」
「お父さん。もうその話は何回も……」
「そうよ。お父さん。お父さんが怒っても、いい案が浮かぶわけでもないし。お父さんの血圧が上がるだけだって」
イデオンとアンネが、怒るベルトルドの説教に割って入った。
フレデリクは、フォークを置いた。
「叔父さん。これは北の巫女様の予言されていたことです。必ずいつかは起きることでした。それがたまたま私の代だったというだけです」
「父さん! その言いかたはさすがにちょっと……!」
フレデリクの息子、ハンスがたまらず声を上げる。
「フレデリク……! まったく、お前という男は……!」
ベルトルドの顔は真っ赤になり、テーブルの上に置いた握り拳は震えていた。ベルトルドの血圧は、確実に上昇し続けている様子。
「だいたい、悠長に店で飯を食ってる場合では……!」
「いえ。叔父さん。食べてる場合ですよ。だって今はお昼を過ぎてますから。むしろ遅いくらいです」
「フレデリクーッ!」
イデオン、アンネ、ハンスがうつむく中、フレデリクだけが食事を続けていた。ベルトルドが、なにか叫び続けているようだ。繰り返される同じ内容。
ここ数日間で、フレデリクはある結論を導き出していた。
聞いていなくても聞いていても、結果は同じ。
どのような返事をしても、叔父の怒りが収まらないのはわかりきっていた。
そして、『知恵の杯』が戻らないということも。
謝罪と反省の時期は過ぎている、自分で決めるべきことではない気もするが、自分たちはもう次の建設的なステージに進むべき、という考えだった。
それは、自分の心を守るためというより、叔父や他の皆の心身の健康のためにも重要だと思う。
ラーシュ君。
心、と考えたとき、ふと、ラーシュの顔が浮かぶ。
一刻も早く連れ戻したい。一刻も早く、元気な顔を見たい。
初めて食べたはずの料理だが、どこか懐かしい味がした。
生まれる前から、ラーシュはフレデリクの屋敷にいた。
『フレデリクさん』
時折、ラーシュは青年の姿で現れた。
優しい笑顔。フレデリクにとって、尊敬すべき兄であり、親友であり、かけがえのない――。
ラーシュ君……。
目頭が熱くなっているのに気付く。フレデリクはまたため息をつき、皿の隅にフォークを置いて眼鏡の位置を直した。
焦るな。クラウス君の行方がつかめない現在、やみくもに動いたところでどうしようもない。
フレデリクは、冷静に考える。
ラーシュ君は、偉大な魔法使いヴァルデマー様によって生み出された傑作のひとつ。計り知れない才能の持ち主クラウス君をもってしても、完全に支配することは不可能のはず。それに――。
まだ時間はある、と思う。
スノウラー山の吹雪が晴れる三日間――来年の『緋色の月』の十三日――までクラウス君も目立った動きはしないだろう、最悪、それまでにノースカンザーランドに到着すればいいはず。
一通り考えを巡らせてから、フォークを取る。少し気持ちが落ち着いたせいか、煮込み料理の風味の豊かさに、今更気付く。
鶏を赤ワインで煮込んだのですね。ふむ。風味づけに、使っているハーブは……。
「聞いているのか! フレデリク!」
ベルトルドの説教は、まだ続いていた。
今は怒られどきだ、叔父さんの気が済むまで存分に怒られておこう。
フレデリクは、腹をくくっていた。たっぷり絞られて、それから食事を済ませて、その後改めてこれからの動き方を講じよう、いっぺんにいくつものことを進めようとしてもよい結果は生まれないだろうと考えた。
「父さん……」
隣で小さく縮こまる、ハンスの呟きと、ため息。
フレデリクは、息子の気持ちや立場などにはまったく思いを馳せず、どこまでもマイペースだった。
緑の光あふれる公園。穏やかな時間が流れていた。
ベンチに並んで座る二人、キースとアーデルハイト。
隣のベンチには、カイと妖精のユリエと、ドラゴンのゲオルクとペガサスのルーク。皆、キースとアーデルハイトを見て微笑み、いつのまにか隣のベンチにそおっと移動していた。隣のベンチだけすごい人口密度である。もっとも、隣のベンチのほうに移動した一行に人間は一人もいなかったので、人口密度という言いかたは正しくない。摩訶不思議メンバーの集結した、不思議ベンチと化していた。
アーデルハイトとキースの間には、沈黙が流れていた。沈黙を先に破ったのはキースだった。
「アーデルハイト……」
「な、なあに? キース」
キースは、視線を合わせようとせず、うつむいたままのアーデルハイトに声をかける。
「思うんだが……」
「え……?」
アーデルハイトは顔を上げ、キースを見つめた。風が、通り抜ける。
「アーデルハイトは、引き返したほうがいいのかもしれない」
木漏れ日が揺れる中、キースは言葉を絞り出した。
「え……」
「このまま旅を続けても……。ますます辛い思いをするだけだと思う」
アーデルハイトのエメラルドグリーンの瞳が、揺れている。しかし構わずキースは言葉を続ける。
「俺には、辛い結果しか見えない」
「辛い……、結果……?」
「……平和的な解決は望めないと思う」
死体がひとつ――、もしかしたら、ふたつ、転がるだけだ――。
キースには、恐ろしい未来が見えていた。
クラウスの身代わり人形と剣を合わせてみたからわかる。これは、死闘になる。俺か、クラウス、どちらかが死ぬ。もしかしたら、相打ちでどちらも死ぬ。きっと、そんな戦いになる。
ざわめく、葉影。この瞬間キースは、隣の美しいアーデルハイトではなく、地上に刻まれる影を見つめていた。
俺は人を殺めてしまうのだろうか。そんなことは絶対にしたくはない。しかし、相手が全力で向かってくる以上――、不幸な結末は避けられないだろう――。
俺が負けたら、とキースはふと考える。
もし、俺が負けてしまったら、世界はどうなるのだろう……?
キースは首を振る。
きっと、世界は回り続ける。俺がいなくても、必ず次の救世主が現れるはずだ。たとえいっとき世界が破滅に向かったとしても、それでも皆、それぞれ自分の人生を生きられるはずだ――! 一人一人にちゃんと役割があって、定められた運命、そしてさらにそれを越えた自分の望む人生を生きられるはずだ!
キースは信じていた。一人一人の運命を。それぞれの力を。
たった一人の魔法使いに、世界が、人間が、人間以外の生命が、星の数ほど膨大な尊い魂たちが、翻弄されるわけがない――!
キースは影から目を離し、アーデルハイトを見つめる。微笑みを浮かべる努力をしながら。
「俺は、アーデルハイトには笑っていて欲しいと思う」
「え……」
アーデルハイトには、明るい未来を歩んで欲しい。アーデルハイトには、もっと――。
ふっ、とキースは笑った。
「大丈夫だって! 俺が、救世主のこの俺が、後はなんとかするから! どーんとまかせとけ! まあ、アーデルハイトは、家に帰ってゲオルクと遊んだり、家族や友だちとおいしいものを食べたりして、のんびり過ごしなよ! うん! そのほうがいいと思う!」
キースは無理に明るく話していた。
「だから、旅はおしまい! 予言はちゃんと俺が責任を持つ! アーデルハイトはゲオルクと一緒に、家に帰りなよ」
責任を持つ、そんな自信はなかった。でも、アーデルハイトの未来に、もっと可能性を広げてあげたいと思った。
今度は、いい男を見つけなよ。クラウスなんかじゃなく。
キースは、アーデルハイトが光あふれるあたたかな家で、誰かと穏やかな暮らしを営んでいる様子を思い描く。
心の片隅にでも、俺のことを覚えておいてもらえたら、それでいい――。
「……この男は、なんですぐ暴走するかな……」
ぼそり、とアーデルハイトが呟いた。
「……へ?」
思いがけないアーデルハイトの言葉。
暴走、とは……?
キースは思い当たらず、きょとんとした。自分は、しごくまっとうなことを述べたはず――。
アーデルハイトはうつむき、肩を震わせていた。そして、いきなり顔を上げた。
「私のこと、勝手に決めつけないでよ! そのほうがいいなんて、軽々しく言わないでよっ!」
アーデルハイトは、叫びながらベンチから立ち上がっていた。
隣のベンチにいたカイやユリエ、そしてゲオルクやルークまでもが目を丸くした。
皆、突然のことに呆然としているようだった。
「ばかっ!」
「ば、ばか……?」
アホ、じゃなく、ばか……?
「もう、ばかばかばかーっ!」
なにゆえ「ばか」の連呼? 「ばか」のオンパレード?
「キースの、ばかーっ!」
は……?「ばか」の、大売り出し?
ひたすら「ばか」という言葉が並ぶ。今日は、ばかの特売日だろうか。
「人の気も知らないでっ……!」
なんで俺はまた、キレられてんだろーか……。
キースには、なにがなんだかわからない。ただ、アーデルハイトが怒っていることだけはわかった。
「いい? 予言の救世主だかなんだか知らないけど、あんた一人ができることなんてたかが知れてるんだからっ! 私だって優秀な魔法使いなんだから! 私をここで帰したりしたら、キース、あんた絶対後悔するわよっ!」
アーデルハイトは、キースを睨みつけ、指差しながら言い放つ。
「え、えーと……」
ここは、なんと言うべきなんだろう。
まったく予想できないアーデルハイトの反応に、キースは頭が真っ白になっていた。
「それにこれは、私の旅でもあるんだからっ! 口出しされる筋合いはないわ!」
うーん。確かに、ないなあ。
「じゃあ! もう行くわよ! キース、のんびり座ってないで、出発よ! カイ! ユリエちゃん! ゲオルクにルーク! みんなも行くわよ!」
ぽかあん。
一同、目が点になっていた。
「……キース。いったい、なにがあったんです?」
おそるおそる、カイがキースに尋ねる。
「カイ。俺に聞くな。わからん……」
アーデルハイトは、美しい金の髪をなびかせゲオルクの背に乗り飛び立っていた。キースたちも、後に続く。
アーデルハイトは、後悔していた。
ばかなのは、私だ。もう! 私のばかっ! せっかくいい雰囲気だったのに――!
キースが、自分を思って言ってくれたのはわかっていた。わかっていたのだが――。
キースと一緒にいたい、ここでお別れなんて嫌だ、素直にそう言えばよかった、私はなんてばかなんだろう、これじゃ全然かわいくない!
アーデルハイトは、一人悶々とする。
「ばかーっ!」
アーデルハイトは、空に向かって叫んでいた。
キースの呟きが、耳に届く。
「俺、なんで怒られてるんだろう……」
それぞれに揺れる想いを抱えながら、青空を駆ける。