庶民なカオルはお姫様
「実はこいつ、カオス・ドラゴンなんだ」
カオルの大冒険は、この一言から始まった。
神妙な顔で帰宅した弥彦。居間に集められたロックヤード夫妻と、一人娘のカオル。いつも通り無表情なユミエルと、やたら偉そうにふんぞり返るルートゥー。
彼らの前で、事もなげに貴大が放った一言がこれだ。
ルートゥーはドラゴンであると。それも、存在自体が大災害とされている混沌竜だと。
このちみっちゃくて可愛い竜人の女の子が、数か月前、魔の山から飛来して、イースィンドを恐怖のどん底に叩き込んだ存在だと、貴大は言ったのだ。
当然、ロックヤード夫妻は鼻で笑った。
「ハハッ、ナイス・ジョーク」
「タカヒロちゃん、寝ぼけちゃったんでちゅか?」
にやにやと笑って、欠片も信じようとしないアカツキとケイト。もちろんカオルも、貴大の言葉を冗談か何かと決めつけていた。
だが、ロックヤード親子の目の前で、ルートゥーが竜へと変化したことで、彼らの笑いは凍りついた。
『どうだ。これでもタカヒロの言葉を信じぬか』
居間に収まる程度の大きさで、混沌竜に変化したルートゥーが、牙がぞろりと生え揃った口を開く。その姿に、アカツキとケイトは渇いた笑いで頬をひくつかせ、
「ルートゥー様ーっ!」
「娘を生贄に捧げますので、どうか村だけはーっ!」
「ちょっと、お父さん! お母さん!?」
わずかな躊躇いもなく、全面降伏の意を見せた。
「まあ、信じれば良いのだ」
何度もひれ伏しては体を起こし、またひれ伏すロックヤード夫妻の姿に、呆れを通り越して憐れみを感じたのか、ルートゥーは少女の姿へと戻った。
「ルートゥー様、ワインなぞいかがですかな?」
「村の特産品の米ぬかです。砂糖と混ぜて食べるとちょっと黄粉っぽいです」
それでも米つきバッタのようにぺこぺこと頭を下げる二人の姿に、混沌竜様はやれやれと頭を振った。
「さーて、どうしますか、弥彦さん。この調子だと、連れて行くのもままならないと思うんですけど」
「ううん、どうしたものか。せめて息子は連れて行きたかったのだが」
混乱するロックヤード夫妻をよそに、貴大と弥彦が何やら話し合っていた。
彼らなら事情を知っているに違いない。そう考えたカオルは、貴大に向かって問いかけようとした。しかし、それよりも先に首根っこを掴まれて、ひょいと持ち上げられてしまった。
「まあ、こいつでいいでしょ。息子さんよりお孫さんの方がしっかりしていますよ」
「それもそうだな。よし、そうしよう」
「え、ええ?」
訳も分からぬままに話が進み、カオルは家の外で再び混沌竜と化したルートゥーに乗せられた。YESもNOも言う暇もなく、彼女は混沌竜の背中に転がった。
それから、一分も経たない内に出発だ。貴大、ユミエル、弥彦、カオルを乗せたルートゥーは、大空高くへ舞い上がり、流星のように東へと向かっていった。
透明な風防が張られた竜籠のように形を変えたルートゥーの背中は、とても快適だった。床や壁は柔らかでほんのりと温かく、風防越しに見える夜空には、数多の星が瞬いていた。
襲いかかってくる魔物は爪やブレスで薙ぎ払われ、死臭さえも風防の中には入ってこなかった。カオルたちは何の危険もなく、快適な空の旅を楽しんだ。
「いやあああ!? 血がっ! 臓物がっ! ガラスにべちゃってーっ!?」
「大丈夫だって。ルートゥーは強いんだから」
「そういう問題じゃなっ、ひ、ひいっ! また来たーっ!?」
ほんの少しだけトラブルはあったかもしれないが、とにもかくにも、カオルたちは血の一滴も流すことなく大陸を横断し、かつて弥彦が敗れた魔の中部地帯すら抜け、わずか三時間でジパングへとたどり着いた。
――そして、一晩明けて、あの宴会だ。
まるで馴染みのない東洋の城に連れて来られ、触れたことはおろか、見たこともない『キモノ』という名のドレスを着せられたカオル。
事ここに至りながらも、彼女は何も理解できてはいなかった。
「ね、ねえ、タカヒロ。ここ、どこなの? お爺ちゃんの妹とか言ってたあの人、誰なの?」
用意された八畳間の隅にちょこんと座り、まだぷるぷると震えている小動物――ではなく、小市民のカオルは、大の字になって仰向けに寝転がる貴大の裾を引っ張った。
「げーふ」
「もう、タカヒロ! ちゃんと教えて!」
何度か同じようなやり取りが続いたが、腹を大きく膨らませた貴大は、夢見心地でげっぷを吐き出すばかり。他に頼りになりそうな祖父は、まだ宴会場から離れられず、知り合いのルートゥーも、迎え酒だと酒樽に挑んでいた。
唯一、心の支えになりそうなユミエルは、ルートゥーの飲み過ぎを抑える鎖として彼女のそばにいる。つまり、カオルは見知らぬジパングの地において、一人ぼっちも同然だった。
朝も早くから始まった宴会は、昼を前にしてもまだ続いており、遠くからは笛の音が聞こえている。その異国情緒に溢れた音すら気味悪そうに、カオルは心細げに辺りを見回していた。
それから、十分ほどが過ぎただろうか。
竹で編まれた花篭に、カオルが指を伸ばしていた時。唐突に、廊下側の障子が微かな音を立てて開いた。
「ふぃっ!?」
体をビクーンと痙攣させ、変な声を上げて振り返るカオル。彼女を不思議そうな顔で見つめた後、来客である老人は、穏やかな笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。
「これはこれは、カオル姫様。驚かせて申し訳ありません」
好々爺然とした小柄な老人は、お盆を畳の上に置き、茶菓子をのせた皿、緑茶が入った湯呑をカオル、貴大の前へと差し出した。
「あっ、す、すみません……」
小さくなりながら頭を下げるカオルに、白髪を髷に結った、灰の色無地姿の老人は、慌てた様子で両手を振った。
「姫が軽々しく頭を下げるものではありません。一国の姫たる者、常に鷹揚に構えていてちょうどいいぐらいです」
「そんな、私は……って、姫ぇっ!?」
女の子が出してはいけない素っ頓狂な声を上げてしまったカオルに、老爺は嘆かわしそうに額に手を当てた。
「姫って、ひ、姫ぇっ!? お姫様ってことですか!? 私がぁ!?」
「はい。カオル様は、岩庭家の直系、弥彦様のお孫様であらせられますので」
老爺は両膝を着いたまま、深々と頭を下げた。
敬意に満ちた礼によりカオルはたじたじになるも、自分は姫ではない、という言葉は出さなかった。
思い返せば、いくつか思い当たる節があった。岩庭薫が、播磨国の領主であること。薫は、祖父、弥彦の妹であること。つまりは、薫は自分の大叔母であること。
混乱しながらも、断片的に聞き集めていた事実を組み合わせると、どうやら自分は大国の主と血縁関係があることが理解できた。
王の、兄の、孫。それは、つまり、姫ということではなかろうか。
ジパング到着から十二時間後、カオルはようやく、自分の立ち位置が分かり始めていた。
「って、ないない。私が姫とか、タカヒロが黒騎士ってぐらいない」
一般市民が本当はお姫様だった、など、童話の中でしかあり得ない話だ。
子ども向けの絵本じゃあるまいしと、カオルはけらけらと笑って目の前の事実を否定した。
「そもそも、お爺ちゃんからして普通の人だよ? そんな、実は王様でしたー、なんて、そんなこと……」
「岩庭弥彦様は、第六代岩庭家当主であらせられました」
「え、え?」
カオルの言葉を否定するように突然始まった老爺の話に、カオルはまたもやビクッと体を震わせた。
「先々代、頼忠様が病に没したことにより、弥彦様は十四歳の若さで播磨国の当主を継がれました。若さよりも幼さが目立つ若君に、頼忠様は後を託して逝ってしまわれたのです。私は当時から岩庭家に仕えておりましたが、あの時ばかりは決死の覚悟をいたしました。ここぞとばかりに牙を剥く他国の者、妖怪変化どもから、若様を守り抜こう。そのように思った次第でございます。しかし、初陣で敵大将を討ち取った弥彦様の姿を見て、それらはいらぬ杞憂だったと思い知らされたのです」
かつては、いや、今も武士であるのだろう。柔和な笑顔が特徴的だった老爺は、キリリと眉を引き締めて、凛とした空気を纏っていた。
「弥彦様は戦の天才であらせられました。乱戦を長槍一本で駆け抜けて、一騎打ちでは常勝不敗を誇りました。十八歳になる頃には、魂力二百二十にも至り、天下に播磨の弥彦ありと、その名を轟かせておりました」
「こん、りょく? 二百二十って……220? も、もしかして、レベルのことですか?」
「左様でございます。弥彦様は魂力、いえ、れべる二百二十の〈鬼人武者〉でございました」
「お爺ちゃんが……!?」
カオルの脳裏に、いくつもの思い出が蘇る。
隻腕であるがゆえに、人より時間をかけて薪を割っていた弥彦。義足を軋ませて、ゆっくりと丘を登っていた弥彦。庭に出した椅子に腰かけ、のんびりと本を読んでいた弥彦。
そのどれもが、常人離れしたレベルとは結びつかず、カオルは老爺の話をにわかには信じられなかった。
「弥彦様とは何度も戦場で轡を並べました。何度も弥彦様の背中を守り、その何倍も弥彦様に守られました。当時の播磨国は、弥彦様の若さで輝いているようだとも讃えられました。ですが、盛者必衰の故事通り、播磨国は滅亡、岩庭家は没落の危機に瀕することとなります。そう、弥彦様が、神隠しに遭われたのです」
「神隠し……?」
ここが話の核心なのだと悟ったカオルは、固唾を飲んで続きを待った。
「力ある妖怪、大妖。彼奴らめは摩訶不思議な力を操るのですが、神隠しはその最たるものの一つ。人を『戻ってこられない場所』へと隠してしまい、開いた扉を閉じてしまうのです。弥彦様も、ある日、大狐に隠されてしまい、五十年間、消息を絶ってしまわれていたのです」
当時の苦い思い出を思い返しているのだろう。
有能な若大将に率いられた、前途洋々たる播磨国の未来は閉ざされ、後に残されたのは十二歳の少女、薫のみ。今でこそ盤石の基盤を築いてはいるが、ここに至るまで、どれほどの苦労があっただろう。
筆舌に尽くしがたい想いを、言葉の端々から感じられ、カオルは釣られて息を詰まらせた。
「一人残された薫様は、嘘か真かも定かではない、神隠しからは帰還できるという伝承を支えに、ただただ、弥彦様を待ち続けました。いつか弥彦様は帰ってこられる。いつか岩庭家に帰ってこられる。そう信じて、薫様は播磨国を守り続けられました。ですが、老境に差しかかってからは、寂しげな顔をされることが多く――そのような折、弥彦様は帰ってこられました! 薫様が信じられた通り、弥彦様は帰ってこられたのです!」
いつの間にか涙を浮かべていた老臣に、もらい涙を浮かべるカオル。彼らは涙混じりの顔で、目を見合わせて微笑んだ。
「よかったですねえ」
「ええ、本当にようございました。弥彦様が帰られて、若き日の薫様そっくりの姫様まで現れて! それが婿殿の手引きだというのですから、いやはや、お家はますます安泰ですな」
「ええ、本当に……え? 婿殿? って、誰ですか?」
目の端を拭っていたカオルは、思い当たる節のない言葉に、真顔になって老臣へと聞き返す。すると、不思議そうな顔をした老臣は、ピンと立てた指で部屋の隅を指した。
「あの御仁、婿殿だと思っておりましたが。違うのですか?」
部屋の隅で幸せそうに腹を膨らませ、安らかな寝息を立てている黒髪の青年。佐山貴大その人を、老臣はまっすぐに指差していた。
「ち、違いますって! タカヒロが婿だなんて、そんな……」
「違うのですか? 薫様の薙刀を避けたと聞いたので、私はてっきり、婿殿とばかり」
照れて両手を振るカオルを、老臣は釈然としないとばかりに見つめていた。