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見守る老犬

 寒かった。あの冬の日は、体の芯から凍えそうなほどに寒かった。


 暖をとりたかった。それが叶わないのなら、せめて日光を浴びたかった。


 しかし、あの日は雪が降り出しそうな曇天で、温もりなどどこにもなかった。


 寒い。寒い。お腹が空いた。寒い。足の裏が痛い。寒い。お腹が空いた。寒い。寒い。寒い――。


 寒さと空腹から、刺すような痛みが内外から走る。目と鼻が乾き、世界が霞んで見えはじめる。辛くて、辛くて、胸の中から何かがこみ上げてくる。


 それでも、私は歩き続けた。上級区に背を向けて、ひたすら街を歩き続けた。


 だって、もう痛い思いをするのは嫌だったから。ぶったり、蹴られたりするのは嫌だったから。だから私は、商人の一家の隙をつき、一目散に逃げ出した。


 当てなんてどこにもなかった。上級区からは出たこともなかった。でも、あそこにはもういたくなかった。


 だから、私は流れに流れて――とうとう、下級区のスラムに踏み込んでしまった。


 人も、犬も、誰もが痩せ細って、そのくせ、誰もがギラついた目をしていた。それが、恐ろしくて、私は必死に逃げ惑った。


 私へと伸ばされる手が何を意味するのか。本能的に悟っていた私は、彼らにも捕まらないよう、人目を忍んでさ迷い続けた。

 

 だけど、商人の家から逃げ出して、三日目。私は寒さと空腹に耐えきれず、いよいよ死を覚悟した。


 下手な育ちのよさから、残飯に口をつけて、お腹を壊していたのもある。しかし、それ以上に、私の心が憔悴しきっていて、体にまとわりつく死の気配を振り払えずにいた。


 いや、むしろ、私は死を望んでいた。生きていてもいいことはないと、死を甘受しようとしていた。


 これで楽になれる。痛いのからも、苦しいのからも、解き放たれる。たった二年しか生きてはいなかったけれど、私はもう生きていたくはなかった。


 でも、やっぱり死ぬのは怖くて――だから、最後は神さまに見守られながら、眠るように死のうと思った。


 ふらつく足で、十字架を探した。神さまの家を探し、せめてその御元で召されようとした。


 ほどなくして、私は小さな教会を見つけた。孤児院が併設されている、本当に小さな教会。上級区の大聖堂とは比べることもできないけれど、夜闇に浮かびあがる壁の白さは、神の神聖さを感じさせた。


 ここだ。ここで、楽になろう。あの十字架の下で、ゆっくりとまぶたを下ろそう。私は、生まれて初めて幸せを感じながら、自らの死へ向けて、歩を進めていった。


 ――その時、ふいに泣き声が聞こえた。


「ああー、あぅー!」


 見れば、教会の扉の前に置かれたバスケットが小さく揺れていた。


 思わず、自分の死すら忘れて、私はバスケットへと駆け寄った。すると、そこには犬獣人の赤ちゃんがいて――。


「ああー! あああー!」


 毛布に包まれた赤ちゃんは、顔を真っ赤にして泣いていた。


 捨て子なのだろう。『クルミア』と書かれた木札をギュッと抱きしめて、犬獣人の赤ちゃんはひたすら声を上げていた。


 その声を聞いていたら、いたたまれない気持ちになった。生きようと、死にたくないと泣いている赤ちゃんを、助けてあげたくなった。


 先ほどまで死のうとしていた犬が、何を言っているのかと、自分でもそう思った。だけど、その時の私は必死になって、教会のドアを引っかき、孤児院に向かって大きく吠えた。


 このまま放っておけば、夜が明けないうちに、寒さでこの子は死んでしまう。それはよくないことだ。それはいけないことだ。私の本能が、この子を助けろと、死にかけの体を突き動かした。


 その結果、教会から神父さまが姿を見せ、驚いた顔をしながら、赤ちゃんを抱き上げてくださった。


 ああ、これで安心だ。これであの子は助かる。そう思ったら、私の意識が薄れていって――気がつけば、私は地面に倒れていた。


 もう立ち上がれない。それほどまでに衰弱していたことを、私はようやく思い出していた。


 でも、後悔はなかった。最後にいいことができてよかった。とても寒かったけれど、胸の中はぽかぽかと温かかった。


 だから、私はふっと体の力を抜いて、冬空の下、そっとまぶたを閉じた。






「ゴルディー! ゴルディ、オンブー!」


「わん」


「ゴルディ! かけっこしようぜ!」


「わんわん」


 あれから十年。私は、ブライト孤児院で、多くの家族に囲まれて楽しく暮らしている。


 あの時、クルミアを拾ってくださった神父さまが、私の命も救ってくださったのだ。


 暖炉の前でパン粥を与えられ、私はどうにか命を繋いだ。そして、家族として迎え入れられることで、その先の人生も繋いだ。


 おかげで、この十年、命を長らえることができた。貧しい孤児院で、山あり、谷ありの生活だったが、振り返ってみれば楽しい毎日だった。


「あむ、あむ」


 この春から新しく入院した赤ちゃん、ワールムの襟をぱくりとくわえる。この犬獣人の赤ちゃんは、幼い頃のクルミアに似て、随分と元気がいい。


 目を離すと、はいはいしたまま港まで行ってしまいそうだ。だから、路地に出そうになったら、その度に連れ戻している。


「ふふっ、ゴルディ、ありがとうね。ほら、ワールム。あんまりやんちゃしちゃ駄目よ」


「あむー」


 ワールムと同時期に入院した人間の少女、ネネが、赤ちゃんをひょいと抱き上げて、孤児院の大広間へと戻っていった。


 あれぐらいのお世話なら、お安い御用だ。この十年、私は何人ものやんちゃたちの面倒を見てきた。彼らに比べれば、ワールムはまだ可愛い方だ。


 ケビンなんて、四歳で裏庭の木に登って、私の肝を大いに冷やした。今は大人しい熊獣人のベアードなんて、三歳でベビーベッドを破壊した。


「ススメー、ゴルディー!」


 そして、つい先日、五歳の誕生日を迎えたリザード族のお嬢さんは、男顔負けのおてんばぶりで私を乗り回す。


 まあ、元気なのはいいことだ。みんな、みんな、このままたくましく成長していってほしい。


「にゃー」


 小さなリラードを背に乗せたまま、ぐるりと孤児院を一周していると、途中の塀の上から猫の声がした。


 見上げれば、そこには黒猫の少女が、しっぽを揺らしながら立っていた。彼女は猫耳をぴくりぴくりと動かしながら、じっと中級区の方を見つめている。きっと、そちらに例の彼がいるのだろう。


 何だかほほ笑ましい気持ちになって、猫獣人の少女、ニャディアをじっと見つめていると、彼女はぷいっと顔を背けて、塀の向こう側へと消えてしまった。


 機嫌を損ねてしまったのだろうか? ――いや、あれは、照れ隠しのようなものだろう。


 獣人は得てして、元となった動物の習性を残しているもの。犬獣人のクルミアは甘えん坊だし、ウサギ獣人のミミルは臆病で寂しがりだ。


 そして、猫獣人は親しいものに対しても、ツンツンしたところがある。ましてや、ニャディアは多感な年ごろだ。自分の心の機微が悟られるのは、イヤなことなのだろう。


「ゴルディ? ゴルディー」


 ぼうっとしていたら、左の耳をあむあむと甘噛みされた。そういえば、私の背には、トカゲのような女の子が乗っていたのだった。


 うかうかしていると、右の耳や、自慢の鼻もかじられてしまうかもしれない。私は、また、てくてくと孤児院の周りを歩き始めた。


「アリガトー!」


 そのうち、リラードも満足したのか、私の頭をなでなでしてから、子どもたちの輪の中へ突撃していった。ボール遊びでも始めるのだろう。彼らの中心には、藁と布で作ったスイカ大のボールが置かれていた。


 その傍らには、神父さまに代わって、六年前から院長を務めているシスター・ルードスの姿が。彼女に任せておけば安心だろう。そう考えて、私は教会の正面へと回った。


 そして、あの日と同じ十字架がかかった聖堂を見上げる。ここから見える景色は、辛いときも、楽しい時も、いつも変わらない。


 私はしばしの間、すとんと腰を落として教会を見やる。裏庭から聞こえてくる子どもたちの歓声を耳で受け止め、すっかり鼻に馴染んだ香りを感じる。


 この十年、色々なことがあった。楽しいこともあった。辛いことも同じだけ、たくさん。その度に、私たちは笑い、泣いて、怒って、喜んだ。


 出会いもたくさんあった。新たに入院してくる子。大人になって、孤児院を出ていく子。地域の住民や、悪徳管理員。そして――異国の匂いをまとった冒険者。


 いや、今は何でも屋だったか。道に迷った彼を助けたことで縁ができ、ミケロッティの件で繋がりを持てた。


 優しい目をした、タカヒロという青年。人の善悪に敏感なクルミアが、一目で懐いてしまった何でも屋さん。


 背伸びをするように、彼に追いつこうとするクルミアの姿を見守るのが、最近の楽しみだ。そういえば、ニャディアも彼にちょっかいをかけている。彼らの恋路がどうなるのか、私は楽しみでしょうがない。


 願わくば、幸せな結末を迎えますように。悲しむものなどいませんように。


 見上げていた十字架にそう祈って、私は重たい腰を上げた――そう、重たい腰を。


 ここ一年、体が言うことを聞かなくなっている。以前のように走り回ることはもうできない。すんなりと立ち上がることすら、最近は難しくなってきた。


 ――もう、そろそろでしょうか? 私は、もう、限界なのでしょうか?


 私は、神さまに向かってそっと問いかける。しかし、待ってみたところで、答えは返ってこない。


 その沈黙は、まるで神さまが、「わかっているのだろう?」と問いかけてくるよう。


 わかっています。本当は、私は、知っているのです。でも、もう少しだけ、今のままでいさせてください。このまま、子どもたちを見守らせてください。


 私は、懇願のような祈りを捧げる。答えはやはり、返ってこなかった。



次章、さよならゴルディ編。

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