第94話「自転車は片目しかないでしょ」
真夏の太陽にかざすように、スマートフォンを駅ビルのほうにかざして、近衛薫子はシャッターを切る。
棗沙智は、横から画面をのぞき込む。薄灰色をしたバイパスの高架が、青空の下の景色を斜めに区切っている。高架になかば覆い隠されたビルのたたずまいは、何か、あえて秘密めかしているかのように見えた。
「……沙智さん、意外と遠慮ないのね」
薫子が、すこし驚いた様子で沙智に振り返る。その視線が思いのほか近く、沙智は薫子の透明な目線を真正面から受ける形になる。その鋭さに一瞬、胸がどきりとして、沙智は後ろめたさを感じながら半歩退いた。
「ごめん、つい。いつも愛さんといるときのノリで」
「……彼女とは、そういう感じなの?」
どこか胡乱げな薫子の目に、沙智はあいまいにうなずく。薫子はかすかに息を吐いて、小首をかしげる。
「よかったの? 私といっしょで」
「そう毎日毎日べったりでなくてもいいんだけど」
「早くも倦怠期なのかしら?」
「まさか!」
思わず大声で即答して、ちょっと沙智は顔を赤くしてしまう。薫子は何もいわず、にやにやしているだけだ。沙智は手のひらで口元を押さえ、薫子から目をそらした。
「その顔、撮っていいかしら?」
「やめて」
くぐもった声でいいかえすと、薫子はつまらなそうに息を吐いた。ちょっと前なら、許可もなくバシャバシャ撮影していただろうから、すこしは反省したのかもしれない。
沙智が薫子といっしょに下校していることに、さしたる理由があったわけでもない。
1年撫子組で電車通学しているのは、沙智と薫子のふたりだけで、実は降りる駅もいっしょだ。それなのに、乗り慣れた車両の違いなど、いろいろな案配のせいで、なかなかふたりがいっしょに登下校する機会はなかった。
そのことが、沙智はなんとなく、もったいない気がしていた。それで、帰り道の途中にいた薫子に声をかけたのだった。
薫子が写真を好きなことも、沙智はもちろんよく知っている。
「……私なんかより、もっと別のもの撮りに行かない?」
横目で薫子を見つめ返しながら、沙智はそう提案する。
「別のものって?」
「バイパスの下あたりとか、意外と変な落書きとか、珍しいものがあったりするよ」
「高架の下……?」
薫子がきつく眉をひそめた。表情の豊かな彼女は、内心を隠すということをしない。教室で遠くから見ているだけでも、彼女の気持ちの快不快は手に取るようにわかるほどだ。
「高架、そんなに苦手?」
「排ガスの匂いが濃いでしょう? あまり好きではなくて」
「そっか。被写体探しには面白いかと思ったんだけど」
「でも、回り道というのはいい提案ね。すこし遠回りしましょう」
いうなり、沙智の答えも聞かずにとことこと薫子は歩き出している。横断歩道を早足で渡る彼女のそばを、一足早く夏休みに入ったやんちゃな子どもたちが駆け抜けていく。沙智は小走りに彼女を追いかけつつ、声をかける。
「どこいくの?」
「モールの向こうの旧道。さびれた神社とかあるでしょう?」
「ああ、あのへんね」
高架下を抜けて、駅前のショッピングモールを横目に国道を西に進むと、ふいに古びた街並みが顔を出す。
かつては、街の北西部と駅とを結んでいた旧道の周辺は、駅前の再開発に伴ってさびれていき、いまは時代に取り残されて灰色みを帯びた建物ばかりの並ぶ区画だ。薫子に導かれるようにして、沙智は、時代をつかのま飛び越えるように、旧道へと踏み行っていく。
「わあ……」
シャッターの下りた古い書店や、安っぽいパックの並んだ総菜屋の店頭を、薫子はすごい勢いで写真に収めていく。突然の撮影音に、いささか途惑い顔をする店主もいたが、おおむね反応はおだやかだった。このへんは、翠林の制服の効果かもしれなかった。
薫子は、足早に駆けていっては立ち止まって写真を撮影、というペースを繰り返していて、なんだかピンボールみたいだ。あんな勢いに合わせていては、汗をかいてしまう。沙智はのんびりと歩きながら、ときおり、旧道の脇をのぞき込む。
と、暗がりの奥で、何かと目が合った。
「ひゃ!」
「何?」
「わかんない。なんかいた」
先を行っていた薫子が、声を上げて駆け戻ってくる。その間に、暗がりの奥にいたものはあっという間に消え失せて、見えなくなってしまう。足音さえ聞こえなかった。
猫だったような気もするが、それにしては、目が異様に大きかった。一瞬だけ見えた体躯も、猫というより大型犬に近く、それにしてはおそろしく素早かった。
薫子と沙智は、いっしょに暗い小径へと入り込んでいく。ほんの数歩、奥に踏みいるだけで、紗をかけたようにあたりは宵闇に近づく。その先には、脇道と割れた小窓、そして長らく放置されたままの、錆びた自転車。
薫子は、自転車を正面から写真に収めた。一瞬のフラッシュが、自転車の割れたフロントライトに反射した。
「……これじゃないの?」
「自転車は片目しかないでしょ」
「それもそうね」
つぶやきながら、ふたりは小径を端まで歩み抜ける。その先は、民家と商店が建ち並ぶ古い住宅街だった。
結局、ふたつの目の正体はわからずじまいだった。沙智の錯覚かもしれなかったし、得体の知れぬ生き物かもしれなかった。けれど、いまさら振り返って、暗い小径の隅を確かめる気にはなれなかった。
「残念、取り逃がしたわね」
「まあいいよ……何か、写真に撮ったら、よけい怖いことになりそう」
「私は、沙智さんの怯え顔を撮っちゃったから満足だけれど」
「ちょっと待っていつの間に」
沙智は抗議するが、薫子はスマートフォンを懐にしまってすまし顔だ。彼女を相手にとっくみあいをする気もなくて、沙智はあきらめてため息をついた。悪用さえされなければ、それでいい。
通りすがりの精肉屋でコロッケを買い、自販機で買ったジュースといっしょに、歩きながら食べる。あまりこういう食事に縁のなさそうな薫子は、コロッケをひとくち食べて、ふむ、とちいさく息を吐いた。
「素朴ね。むりやり調味料で味をつけている感じが」
「こういうジャンクな味、私は好きだよ」
沙智の意見に小首をかしげ、薫子は缶に入った冷茶を口にし、こほ、と控えめな咳をした。
「……ときどき、叶音さんが、こういうのを食べさせてくるのよ」
「ああ、彼女らしいね」
内藤叶音と近衛薫子の仲は、沙智の目から見るとわりとふしぎだ。接点のなさそうなふたりだし、彼女らは各々独自のグループを持っているのに、個人同士としてとても仲が良さそう、という、よくわからない関係だ。
たぶん、沙智の知らない時間に、何かがあったのだろう。教室の狭い世界、たかだか3ヶ月の生活では、見えないことがたくさんある。
「こういう味、叶音さんに教わったのは、いつごろ?」
広い車道の前で立ち止まって、沙智は問う。横断歩道の信号は赤く、ぎらぎらした真夏の日射しの下を、銀色の車体が駆け抜けていく。薫子は、排気ガスの匂いを嫌うように、口元を覆いながらコロッケを飲み下した。
それから、肩をすくめて笑う。
「昔の話よ。中等部」
「ふうん」
薫子の怜悧な微笑の片隅に、コロッケの衣の欠片がはりついているのを横目で見ながら、沙智は、もうすこし薫子と話していたい、と思った。
真っ昼間に下校しているのは、この日が終業式だったからです。
明日からは夏休み篇でお送りします。