第21話「歌詞になるような台詞なんて、自分じゃ思いつかないもの」
すっきりしない感じが、指先に残っていた。
書道部の活動が終わって、人影の消えた廊下を、ドロシー・アンダーソンはもやっとした気持ちを抱えたまま歩く。なんだか、墨汁といっしょに、割り切れない気持ちを半紙の上に残してしまったような気がしていた。
書道部では、古典の臨書をしている。昔の人が残した書をお手本にして、自分の手で書き写す。
臨書なら、意味がわからなくても、形を模写すればそれなりのものにできる。ほんとうは意味を飲み込んで自分のものにするべきだ、と先輩や顧問は言うが、自分の中にない言葉は逆に無心になって書けるから、ドロシーはその方が気に入っている。
でも、今日の臨書では、何か割り切れないものが残った。どうしてか、迷いが生じた。
その理由がよく分からなくて、ドロシーは、書き損じみたいにだらしない足取りで帰途についている。
玄関から外に出たところで、ケホン、と、かすかに咳き込む声が聞こえた。
校庭の片隅にある水飲み場で、蛇口からほとばしる水を口で受け止めているのは、同じクラスの山下満流だ。口元で跳ねた水が、体操服の襟やジャージの裾にかかるのにもかまわず、ごくごくと冷水を堪能している。水しぶきが跳ねる。
満流は演劇部員だと聞いていたが、演劇とはだいぶ体力を使うものらしい。たしかに、ステージ上で声を張り上げてセリフを発するのは、それなりにきついのだろう。
あ、え、い、う、え、お、あ、お。意味をなさない声をひたすらに張り上げ続けている場面を、何かで見た記憶がある。
満流が顔を上げ、ドロシーの方へ振り向いた。眉をひそめて、彼女が問いかける声は、練習の後だからかだいぶ嗄れていた。
「……何か用?」
なんでもない、と言ってしまえばそこで話は終わりだ。実際、今こうして面と向かって問われるまで、満流にかける言葉なんて何も想定していなかった。
しかし、ドロシーの口からは、自然と言葉が滑り出る。
「満流さんは、舞台の上で何を考えてるの?」
「何、って言われても」
口元についた水滴をごしごしと乱暴に拭き取って、満流はドロシーをじっと見つめる。見上げるような姿勢のせいで、三白眼気味の目がいっそう険しさを帯び、ドロシーは一瞬たじろいだ。満流のどこか近寄りがたい雰囲気は、たぶんに、その視線のせいだろう。
「いろいろ。役柄のこととか、台詞を思い出したりとか」
「どんな風に演じようとか、そういうのは?」
「……あんまり考えない。へたなこと考えると、固くなるから」
ジャージの腰に挟んだタオルで、頭や顔を荒っぽく拭きながら、満流はかすかに苦笑いを見せた。ぐしゃっと乱れた髪には未だ湿り気が残り、細く鋭利な先端が重力に逆らってつんと立つ。一瞬だけ感じるワイルドな満流の気配に、ドロシーははっとする。
「えらそうに言ったけど、まだ新人だからね。無難にこなすだけで精一杯」
「今は、何か役の練習はしてる?」
「夏にチャリティーの公演があるけど……端役よ。舞台の端に突っ立って、ひとこと言うだけ。まあ、台詞があるだけ上等」
と、満流は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。頭を振って汗と水滴を振り払うと、すたすたとドロシーの方に近づいてくる。
「聞いたよ。歌のこと」
「……そんなに噂になってる?」
鶫がドロシーの言葉にインスピレーションを受けて作ったという新曲、『ドロシー』。そんなにみんなが知っているのか、とドロシーはいぶかる。まだ彼女自身も聴かせてもらったことはないというのに。
不審げなドロシーの様子を見て、満流は面白そうに肩をすくめてみせる。
「うちは軽音とは仲いいんだよ、ボランティアつながり」
「満流さんは、その、例の曲、もう聴いた?」
「そこまでは。まだ練習してるところだって話だけど」
満流はドロシーの目の前で立ち止まる。ドロシーは、思わず居住まいを正してまっすぐ彼女と向き合う。身長は満流の方が高いので、向こうが斜めに見下ろす形になる。陽射しを背に受けて影を帯びた満流の姿は迫力があるのだけれど、目線が下向きになったせいか、面差しから険しさが抜けて、むしろ親しみやすい雰囲気が立ち現れる。
そういうギャップが、満流の魅力なのだと気づく。
満流は意外なほど人なつっこい笑みで、言う。
「なんだか、いいなあ。歌詞になるような台詞なんて、自分じゃ思いつかないもの」
「……いや、私だって思いもしなかったよ。見つけてくれたのは美礼さんだし」
ドロシーは、ほとんどつぶやきに近い小さな声を漏らす。なんだか、背筋にピンと張っていた力が抜けるような感じで、自然と顔がうつむいてしまう。上から下まで真っ直ぐに落ちる長い黒髪が、だらりと体の横に落ちる。満流の白い体操着が皺になっていた。その内側にある、彼女のしなやかな身体を意識する。
あまり、自分の中にあるものなんて、考えたことはなかった。
何も考えないで、内側にあるもののことに囚われないで。
そういうのがドロシーのやり方だった。
「いきなり、歌になんてされちゃうと……」
言い掛けて、ドロシーは指先で唇の下をなぞる。とがった下顎に、自分の指が文字を描いているような気分だった。指は、顎の先を通過して、やわらかいのどへ向かう。
襟元を強く閉ざしているタイの生地に触れて、指の動きが止まる。
「落ち着かない」
「いやなの?」
「そうじゃない。嬉しいし、面白いし、わくわくするけど……」
ぽろぽろと、こぼれてくる感情は水のようにとらえがたくて、形がない。
その水底、地下水の溜まる地層のさらに下に堆積する熱い岩のように、圧力を受けて固着した気持ちが眠っているような気がする。
いつか、火山みたいに爆発するんだろうか。
テレビや動画でパフォーマンスを披露する書道家みたいに、巨大な筆で馬鹿でかい半紙に揮毫する自分を思い浮かべる。
そんなのは似合わない、自分のすることじゃない、と思っていたし、今でも思う。
でも、気分だけが、すこしだけわかった。
「わー、って、叫びたいような感じ」
「言いたいことあるなら、舞台、使う?」
「……やめてよ。私は別に、役者でも、パフォーマーでもない」
演劇みたいに美しくまとめられた文章も、芸術めいたあふれんばかりの衝動もない。
そんな、たいしたことのない自分でも、声に出してみたいことがあって、それが無心になる邪魔をしている。心の中身を、はじけさせようとしている。
私でも、こんなふうに、お手本のない言葉を紡ぎたくなる。
満流は、ドロシーのそばを離れずに立っている。ドロシーは、静かに深く呼吸する。言葉はまだうまく形を見つけられないまま、ドロシーの奥底でとろけて、時を待っている。
第4、19、20話と続く『ドロシー』のエピソード。だんだんと続き物っぽくなってきました。