第200話「好きな人は誰、とか、そういう話は暗闇でしないほうがいいよ」
ばちん、という音がして、急に室内の明かりが消えた。
手元の本の文字が読めなくなって、とっさに阿野範子は、部屋のテーブルのはす向かいに座っていた真木歩へと振り返る。スマートフォンで誰かとメッセージを交わしていた歩の顔が、画面の光に照らされて人魂のように真っ暗闇のなかに浮かび上がっていた。
「停電?」
言わずもがなのことを範子が問うと、歩は画面から目を離さないままうなずく。
「凛さんとこも真っ暗だって」
「じゃあ、街じゅう一帯か……」
歩の体越しに、範子は窓のほうを見やった。カーテン越しに届くのは、昼から強さを増した風雨の音だけだ。どこかで屋根が外れたのか、がたん、がたん、と断続的な音が響く。しまい忘れたハロウィンの飾りも、この風ではいっぺんに吹っ飛ばされてしまうかもしれない。
台風のシーズンも過ぎてからの、季節はずれの秋雨は、底冷えする空気も手伝って不安を駆り立てる。
そのうえに、この停電だ。
「どこかで電線が切れたのかな」
範子がひとりごとのようにいうと、歩がこちらに上目遣いだけ向けてくる。
「予断で話しても何にもならないし、どうにもできないよ。復旧を待とう」
「……わかってる」
すぐに目線をスマートフォンに戻してしまった歩に、範子はすこしだけ、不満だった。彼女のことばは端的で、正論で、範子には反駁のしようがない。そうやって会話を閉ざされるのは、寂しいことだ。
ほんとうに原因を突き止めて、何かしたい、というわけじゃない。
ただ、ことばをつないで、声で暗闇を満たして、この膨れ上がる不安を押しつぶしたいだけだ。
闇の中で本は読めない。こういうときには、電子書籍の優秀性を痛感する。紙は自ら光を放たない。
範子は手探りでしおりを挟んで、厚いハードカバーをテーブルに置いた。さっきまでいっしょに食べていたクッキーの皿が本の角に当たる。
「お」
ぽつりと、歩が声を発する。こういうときの彼女の声は、驚いているのか、感心しているのか、いまいち区別が付かない。こんな淡々とした反応で、しばしば劇的なことをいうのが歩だ。読書感想文が県の優秀賞を取ったときも、近くの中学の男子にラブレターを渡されたときも、だいたい同じだった。
いまは、ことに、歩の顔色がうまく見えなくて、なおさら範子は戸惑う。
「何?」
「凛さん家の非常用ライトがかわいい」
流れてきた写メを、歩がこちらに見せてくれる。お茶くみ人形のような形状のドールが、行灯型のLEDライトで机の上を照らしている写真だった。画面の端には、宇都宮凛のものとおぼしき指先が写っている。
「こういうの、範子さんも好きじゃない?」
「別に」
江戸時代の風物には、そこまで興味がなかった。時代物の小説も嫌いではないが、どこか娯楽っぽさが強すぎる感じがして、さほど読んでいない。
気のない範子の反応を察してか、歩はすぐにスマートフォンを手中に戻した。
そうして彼女は、ふたたび、画面のなかに没頭し始める。
きっとそこで繰り広げられているのは、停電の不安と興奮とを味わいながら、抑えきれない感情を画面にタッチして伝え続ける、際限ない少女たちの宴だ。それはなんだか、炎を消した暗幕のなかで行われる百物語にも似ている。
最後のメッセージが既読になったとき、何かが起こる。そんな予感でも抱いているのかもしれない。
ばかばかしい、と範子は首を振る。そういうのは、書物のなかだけの話だ。それも、小中学生が読むような、安い作りのホラー。彼女も昔はそれらにかぶれたが、安易でどぎついだけの展開に耐えきれなくて、すぐに卒業した。
なのに、こういうときに思い出すのは、洗練された背筋も凍る恐怖ではなく、びっくり箱の中身と変わらないような張りぼての衝撃のほうで、それがやけに心を揺さぶるのだ。
「歩さん」
「ん」
画面から目を離さずに、歩は首だけちょっとひねる。
範子は、テーブルの縁に沿うようにして、歩のほうに体を寄せた。
「そっち、行っていい?」
「許可を取る必要はないよ。私たちの仲じゃない」
歩はそういって、ようやく、目線を上げた。
「けど、珍しいね。こんなことでビビった? 意外と暗所恐怖とか」
「……退屈なだけ。本が読めないから」
「そう」
範子の素直でない憎まれ口を、まるで真に受けたみたいに、歩はうなずくだけ。そんな相手に、まるですがるように近づくのはしゃくに障るけれど、この際そういう屈託は捨てたかった。
テーブルの角におなかを押しつけるみたいにして、歩のそばに座ると、肘がぶつかる。歩が部屋着にしている古いトレーナーは、去年から着ているものだ。ゆったりしたサイズ感のせいか、それとも歩の成長が止まってしまったのか、ちっとも苦しくなさそうだった。
一方で、範子の黒いセーターは、先日買ったばかりの新品。
「そういえば範子さん。髪、どうしたの?」
突然、歩が訊いた。範子は一瞬戸惑う。彼女が髪を切ったのはもう1週間くらい前で、歩もその日のうちに見抜いていたはずだ。人の髪を撫でたり触れたりするのが三度の飯より好きな真木歩のことだから、すぐに根掘り葉掘りしてもおかしくないくらいだった。
「いまさら、そんな話?」
「訊ねるタイミングなかったからさ。色気付いたのかな、って沙智さんとも話してたけど」
「何よ、色気って」
「そのままの意味」
「そういうことをいいたいんじゃなくて」
暗闇に、ようやく目が慣れてきた。小さい割に力の強い液晶の輝きは、人の目には強すぎて、暗順応を遅らせるのかもしれなかった。
ほんのりと浮かび上がる歩の横顔の奥で、ノートが眠るように学習机に積まれている。
「私が、誰かを好きになったり、とか」
ぽろり、ぽろり、と、ことばがこぼれる。
「そういうふうに、見えるわけ?」
「そりゃあ、人を好きになるくらい、誰にだってあるよ」
「……歩さんは?」
「好きな人は誰、とか、そういう話は暗闇でしないほうがいいよ」
真っ向から切り捨てるみたいな、端的な断言だった。とても歩らしくて、だからこそ、ぞくりとする。
その通りだ、と、範子も思う。暗闇で語られることばは、何か重大な意味を抱え込みすぎて、異常に重くなる。みんな、そういうことばを聞きたいし、話したいのだけれど、それはことばの端々にあるたいせつなディティールを歪めて、別のものにしてしまう。
闇の中で本を読まないほうがいいのも、そういう理由なのかもしれなかった。
そして、歩がさっきからずっと、画面のなかばかり見つめているのも。
こういう時間には、きっと、たいせつなことは起こらないのだ。
ほんとうに重要なことは、たぶん、後からそうだったのだとわかる。
停電の直前、何か予感がしたような、そういう錯覚とおなじなのかもしれないけれど。
いくぶん緊張していた範子の背筋から、力が抜ける。カーテンの奥の窓の外からは、まだ風雨の激しいざわめきが届くが、いまはいくぶんか、落ち着いて聞こえる。
「……そろそろ、電気がつきそう。あと5秒」
特に何の根拠もなく、思いつきで範子は口を開いた。
歩はちらりと、こちらに目を向けた。彼女の瞳の色が、ようやく、おもしろそうに色づいた。
「私はあと10分はかかると思う」
「賭けようか」
そういっているうちに、残り時間は3秒。
2秒。きっと、こういう賭けに勝つような奇跡が、物語になるのだ。
1秒。