第199話「段取り通りにやるのって意外とぎりぎりの綱渡りだよな」
「希玖さん、ちょいそれいっしょに見ていい?」
スイーツのレシピ本を広げている佐藤希玖の机のそばに立って、内藤叶音は声をかけた。顔を上げた希玖は、ほほえんでうなずく。
「もちろん」
「サンキュ」
叶音も笑い返して、希玖の前の席の椅子をぐるりと反転させて、そこに陣取った。椅子の主である西園寺るなは、教室の端で新城芙美と話し込んでいるから、授業が始まるまで戻ってこないだろう。安心して、叶音はそのカラフルなスイーツの写真があふれるムックに目を通す。
クリスマス特集、という風情の誌面は、赤と緑と白の3色で彩られている。フルーツをふんだんにあしらったケーキとアラザンの人形、ついでにテーブルの飾りの作り方まで掲載されていた。百均の材料だけでできる、という触れ込みで、たしかに少々安っぽいが、身内のパーティには充分、という感じのデコレーションだった。
「ハロウィン終わったらすぐクリスマスか、忙しいったらないね」
「年が明けたらあっという間にバレンタインだよ。1年なんて一瞬だよねえ」
「大人か」
叶音のつっこみに、希玖は肩をすくめた。
「叶音さんもけっこうお菓子作る方だよね」
「そだけど。んな話、したことあったっけ?」
「ときどき学校に持ってきてるじゃない。薫子さんとかといっしょに、人に配ってるし」
「よく見てんねえ」
希玖と叶音とは、人間関係的にはあまり接点はない。もともと叶音のグループが翠林らしからぬ雰囲気で浮いている、というのもあり、いままでの学年でもいっしょにならなかったから、何となく話す機会もなかった。
同じクラスにいながらにして、十一月になるまでろくに会話しないというのも、あり得る話だ。
「叶音さんとは、一度ちゃんと話してみたかったんだけど。なかなか」
そのうえ、希玖がそんなことをいう。叶音はきょとんとして、希玖の顔をまじまじと見つめてしまう。メイク越しの人の表情ならかんたんに見透かせるつもりの叶音だが、希玖の顔色はちっとも読めない。何しろ人種からして違うのだ。
だから、希玖が実は怖じ気付いているのか、本心から喜んでいるのか、うまく見抜けないでいる。
「あたし、そんな話しづらい?」
「え、いやそういうつもりは」
はっとした顔の希玖が、ぶんぶんと首を横に振る。
「なんか、あるじゃない? ちょっとしたタイミングっていうか、呼吸っていうか。そういうのが何となくずれてて、そのままになっちゃってて」
「わかる。お菓子作ってて、ひとつ手順を間違えると、フォローしようとしてぐちゃぐちゃになったりして」
「慣れると3つぐらいの行程をいっぺんにこなそうとするから、すこしのずれが命取りなんだよねえ。生地を丸焦げにしちゃったり……」
心当たりのありそうな顔で、希玖は深く嘆息する。叶音だって、そういう失敗を何度も経てきたものだ。しみじみと、同意のうなずきを返した。
「段取り通りにやるのって意外とぎりぎりの綱渡りだよな」
「人間関係もそうでしょう? あっちもこっちもって顔立ててると、だんだんほかの子とつき合う機会がなくなっちゃうの」
「……たしかに」
「だから、まあ、怖いとかじゃないわけ」
まっすぐこっちを見つめる希玖のことばを、叶音は信頼することにした。そうすると、胸のなかで何かがすっと安らいで、背筋まで伸びるような思いだ。なんとなく希玖の胸元に向けていた目線も、自然、上を向いていく。
緊張していたのは自分のほうなのかも、と、叶音は気づく。
「そんなら、ありがたいよ」
「だいたい叶音さん、それほど近寄りがたくもないし、威圧感ないし。それなら平気」
誰と比較しているのかおおよそ想像がつくが、そういうのはいわぬが花だ。ただ、分かり合っている証として、叶音は片目を半分つぶるくらいの笑みを浮かべる。
手元の本のページをめくると、ホールケーキのレシピとともに、親しげなホームパーティの写真が載っていた。子どもも大人もいっしょになって、イチゴたっぷりのケーキを囲んでいる。子どもの手のなかにあるカラフルなクラッカーが、いまにもはじけて音を立てそうだった。いい瞬間をとらえた、すてきな写真だ。
「私たちも、みんなでパーティとかやりたいねえ」
「いいね。クリスマス……は、いつものあれか」
「高等部ってすごく盛大にやるみたいだよ。それはそれで楽しみだけど」
ふたりのいうのは、翠林で行われる”主の聖誕祭”のことだ。何しろカトリック系の学校なので、クリスマスはより荘厳に、豪奢に祝われるのが常だ。世間のクリスマスパーティとは違うニュアンスだが、大規模なお祝いであることに違いはない。
初等部の頃は、気軽なプレゼント交換会だった。中等部となると、まじめに聖歌を覚えて合唱したりする。
高等部では、より本格的なパーティ、地元の名士や卒業生も誘った立食会になるらしい。噂だけは1年生も聞いているが、実態はまだ見たことがない。
「お料理は学校で用意するから、家政科部の出番はないって。ちょっと残念」
「何百人分も作るつもりだったん?」
希玖のことばに叶音は笑うが、はたして、冗談のつもりだったのかどうか。
「けど、毎年あれだと逆に飽きるね。たまにはこじんまりしたホームパーティとかですませたい」
「同感……」
うなずきあって、ふと顔を上げた叶音に、希玖は首を傾げて訊ねる。
「やるとしたら、叶音さんは誰を呼びたい? やっぱり薫子さん? それとも芙美さんとかるなさん?」
「まあ……」
うなずきながら、でも、叶音はすこし迷ったような声を発する。
どちらかといえば、薫子のほうが叶音を誘う側だろう。自宅だか別荘だか、へたをすると客船を借り切ってのクルーズパーティなんて線もある。いずれにせよ、薫子はそういう規模のイベントに慣れていそうだったし、叶音のイメージするようなホームパーティには、彼女はなじまない気もする。
とはいえ、実際呼べば、薫子は珍しがって喜ぶかもしれない。そういうのを想像して、期待するのも、楽しみのうちだ。
一方、芙美やるなは、もっと微妙だ。ふたりっきりにしてあげたほうがいいに決まっている。
「……でも、なかなか難しいね。クリスマスに気軽に呼べる相手」
「そう?」
首をひねる希玖は、ふと、何かに気づいたように目を見開いた。褐色の肌のなかで、真っ黒い瞳は際だって光り、きらりとあやしい眼光を発する。
希玖は、叶音にささやく。
「案外、寂しがってる?」
「そんなこと」
とっさに反論しかけて、叶音は、中途半端に開いた口を閉ざす。一瞬だけ浮いた腰が、ふたたび、椅子の上に落ちた。
「ああ、ごめんごめん。別にからかうつもりなかった」
「いいの。こう見えてあたしもなかなか孤独な身の上よ、最近は」
「もー、すねないでよ。悪かったから」
「繊細な心が傷ついたー」
そっぽを向いて、冗談めかして、叶音はいう。横目でちらりと希玖をうかがうと、彼女は困ったような、けれど、ちょっと怒ったみたいな顔で、じっと叶音を見ている。
本気だかブラフだかわからなくて、ちょっとやりづらい。
でも、そういうのも、悪くはない。叶音は向き直って、目を細めた。
「冗談だって、ごめんね」
「そういうことされると、こっちだって怒っちゃうよ」
「悪かったって。そのうち何かおごるよ」
「それより手作りのお菓子でも作ってきてよ。ほら、これ貸すから」
希玖が押しつけてくる本を、叶音はそっと手で押さえた。
「いらない。レシピだけ写メってく」
「あれ、やる気?」
「自分用」
「ずっるーい」
笑い混じりの希玖に、笑みを返して、叶音はポケットからスマホを取り出す。写真におさめたレシピの文字はちょっとあいまいだったけど、まあ、何とかなるだろう。ケーキができたら希玖にお裾分けするかどうかは、そのときの気分次第だ。