第189話「外見なんて余録だけれど、それなりに意味があるものだしね」
書道部が活動している教室のドアを開けると、ふんわりと、苦いような墨のにおいがした。それは、幼稚園にも入る前の手習いを思い出させ、近衛薫子はなつかしく目を細める。
「ごきげんよう」
「あれ、こっちにくるなんて珍しい」
半紙から顔を上げたドロシー・アンダーソンが、きゅっと眉をひそめた。
「先生なら来ていないよ」
「あら、では行き違いになったかしら……失礼」
たおやかにお辞儀をしてきびすを返した薫子の背中を、ドロシーの声が追いかけてきた。
「待って、私も行く」
振り返ると、ぱたぱたと高い足音を立ててドロシーが駆けてくる。その姿がほほえましくて、薫子はちょっと口角を上げた。薫子の隣に立ち、ドロシーがじっとこちらを見つめる。
「何、その顔」
「ちょっと思い出したの。昔の私みたい」
それを聞いて、ドロシーはぎゅっと眉をひそめた。人形のように冷たく整った顔の彼女が、そうして感情をむき出しにすると、なんだか画中の妖怪か化け物のような凄みを感じさせる。
「……薫子さんにガキ扱いされる筋合いはないよ」
勢いよく教室のドアを閉め、ドロシーが先に立って歩き出す。薫子は笑みを崩さないまま、すぐに隣に並んだ。
「かわいらしいって褒めたの」
「よくいう。私と薫子さんじゃ、背丈も顔もそんなに変わらないのに」
「それは光栄だわ。私、ドロシーさんのお顔、大好きだもの」
薫子のその言葉を聞くと、ドロシーはいつも黙り込んでしまう。顔を褒められてうれしくない、ということもないだろうけれど、何か不愉快に思うことでもあるのだろうか、とたまに気がかりになる。
でも、それを訊いて答えてくれた試しはないので、薫子はもうそんな質問はしないようにしていた。
そういえば、彼女は写真を撮らせてくれたこともない。
「また、お家の話?」
ドロシーは、さっきまでの会話をなかったことにするかのように、そう訊ねた。薫子は、内心ですこし悲しみを感じつつも、うなずく。
「ええ。結局、今年もお断りしてしまったから。私から改めてお詫びを、と」
「一度くらい、蔵開きしてもいいんじゃない?」
「それは私の決めることではないし」
旧家である近衛家には、その家と同じくらい長い歴史を持つ蔵がある。その収蔵品のいくつかは、室町か、下手をすると鎌倉時代までさかのぼるかもしれない、といわれているのだが、本格的な調査の手が入ったことはない。
その近衛家の蔵を調査したい、と主張しているのが、翠林に長く勤めている国語教師、すなわち書道部の顧問である。
調査の許可が下りれば、学院からも予算が出る。文化財に指定されれば、保存のための資金も公に出せるだろう。しかし現状では私的に保護するしかなく、万が一の災害などあれば貴重な文物を失しかねない。あるいは、虫食いなどでいままさに失われつつあるかもしれないのだ。
そう主張する教師の調査要求を、近衛家の主、すなわち薫子の祖父はいっさい拒絶してきた。
「何のこだわりなのかな」
ドロシーはふしぎそうに首をひねる。薫子だって、その疑問に対する答えなど持ち合わせていない。祖父は開明的な人だが、こと”蔵”の件に関しては沈黙を守り、がんとして意見を曲げなかった。
「文化とか何とかいう以前に、蔵の中のものは家のものだから。それを守りたいのではないかしら。平穏を保ちたい人なのよ、祖父は」
「それってわがままじゃない?」
「わがままなのよ、うちの人間はみんな」
薫子が肩をすくめて自嘲気味にいうと、ドロシーは薫子の横顔を見つめて、深々とうなずいた。
「なるほどね」
「……何を納得したの」
「きっと、おじいさまは、薫子さんに似てるのだろうな、って」
「いまの話の流れでそんなことをいわれても……」
「褒めたつもりだったんだけど」
意趣返しのようなことをいって、ドロシーがにんまり笑う。薫子は唇をとがらせて、そっぽを向いた。
ふたりとも、歩調がまっすぐで迷いがないから、廊下を歩くのも早い。そろって階段を下り、薄暗い踊り場を抜けて、すたすたと階下に向かう。
「でも、今年は何だかずいぶん要求が激しかったと聞いているわ。何かきっかけがあったのかしら?」
薫子がつぶやくと、ドロシーが細くため息をついて、振り返った。その目には、いくぶんあきれたような光がある。
「あなたでしょう」
「私?」
「せっかく近衛家の人間が翠林の高等部にいるんだもの。あなたの存在がおじいさまを動かすかもしれない、って思ったんじゃない?」
「……別に、私自身も蔵の文物には興味がないわよ。なのになぜ?」
確かに、彼女は近衛家と翠林のちょうどいい接点で、孫娘のことばなら祖父も無碍にはできない、と思ったのかもしれない。単純だが、効果的な交渉だ。
そんな薫子の単純な憶測を、しかし、ドロシーのことばは裏切った。
「あなたの誉れにもなる。先生、前にそういっていたよ」
「……誉れ」
思いがけないことばだった。きょとんとした薫子に、ドロシーは重ねて告げる。
「近衛家秘蔵の文物のいくつかを、文化祭という機会に公開できないか。先生、そんなこと考えていたみたい」
「……初耳だわ」
「でしょうね。私もたまたま独り言を聞いてしまっただけだし。でも、だからこそ本音だと思う」
近衛家に眠っている宝物を文化祭に出すなら、薫子の名前で公開するのがふさわしい。クラス展示というにはあまりに大仰すぎるが、そのくらいのインパクトがあってしかるべき、と考えていたのかもしれない。
しかし、それが薫子の名誉に当たるとは、ぴんとこない。
それに、あの先生が薫子のことをそこまで考えている、とも思えなかった。
「単なる口実では?」
「口実だとしても」
戸惑う薫子を、ドロシーの視線が鋭く突き刺す。
「あなたの名前や行動は、それくらいの力があるわけ。ちょっとくらい、気にしてたほうがいい」
「……そういうものかしら」
「旧家だし、お金持ちだし、ついでに美人だし」
「ついで、って」
「外見なんて余録だけれど、それなりに意味があるものだしね」
冷めた声で、ドロシーは皮肉げなことばを口にした。
たぶん、彼女にとって、それは褒めことばの内ではないのだろう。生まれもった見映えのよさなど、評価する意味はない、とでも思っているのかもしれない。
それは、薫子とは合わない見解だけれど、彼女のそういう端的さには、敬意を表する。
「ドロシーさん、写真撮っていい?」
「……話聞いてた?」
ぎゅっと、いっそう眉をひそめたドロシーの怒りの顔つきは、ぞっとするほど美しい。それを褒めたところで、きっと彼女は一筋も喜びやしないだろうけれど。
薫子は、にこやかに目を細めて、じっとドロシーの冷たく白いかんばせを見つめた。撮影できないのなら、せめて、記憶にとどめておきたかった。