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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第188話「すごく神々しくて、絶対に保存しておきたかったのに」

 初めて会った頃は、こんなふうじゃなかったのにな、と内藤(ないとう)叶音(かのん)は、塀を乗り越えて被写体に迫る近衛(このえ)薫子(かおるこ)を後ろから見やる。

 今日の狙いは、古びた無人の家の中に捨て置かれた粗大ゴミだ。ときどき寄り道に使っている路地の途中にあるその荒ら屋を、薫子はこれまでも時折気にするそぶりがあった。それが、磨り硝子の向こうの居間に放置された戸棚の存在に気づき、俄然興味を引かれたらしい。
 塀を乗り越え、誰のものだかわからない土地に進入した薫子は、ぼうぼうと生える雑草を踏み越えながら、割れた裏窓のそばに近寄っていく。
 声を出したら、誰かに気づかれて、叱られるかもしれない。そう考えると、叶音はうかつに声も出せない。

「ひゃっ!」

 と、甲高く叫んだのは薫子だった。はっとして振り返れば、家の影から飛び出した野良猫が、薫子の胸元に飛びかかってくる。

「かおさん逃げな!」
「え、ええ!」

 手招きする叶音のもとに、薫子が這々の体で逃げてきた。おろしたてみたいにまっすぐだったソックスは葉っぱやクッツキムシで汚れて、まっさらだった冬服にも猫の毛がべったりついてしまっている。慌てて走ってきたせいで、息も絶え絶えだ。

「怪我ない?」
「大丈夫」

 野良猫は塀の向こうから、いまだ警戒心をむき出しにしてこちらをにらんでいる。首輪もないし、入浴した気配もないし、ひどくやせていて、そのくせ凶暴な、本物の野良だ。
 翠林の近くに現れる連中とは違って、ああいう手合いは危ない。怪我どころか、病気をうつされる恐れだってあるのだ。

 つかのま、未練がましく廃屋を見つめていた薫子だったが、すぐに、首を横に振った。

「ひとまず撤退ね」

 こういうとき、彼女の決断は早い。きびすを返して歩き出す薫子に、叶音は肩をすくめてついていく。

 猫に襲われて草むらから飛び出してきたとは思えないくらいに、薫子の歩く姿は颯爽としている。くるぶしの上にオナモミがしつこくへばりついているのも、おかまいなしだ。
 そして彼女は、すっと角を曲がってまた細い路地に入っていく。

「何、また何か見つけた?」
「ううん、ちょっと休もうかと。そこでお茶でも」

 彼女の指さす先には、民家しかないように見え、叶音は小首をかしげた。と、門柱のそばに立てられた、メニューの書かれたボードに気づく。それがなければ、誰もここを喫茶店だとは思わないだろう。
 正直、この手の店は、叶音は苦手だった。一見お断り、という空気を感じると、つい腰が引ける。

 薫子は平然と、敷地に踏み込んでいく。叶音はちょっと不安な気持ちで、しかしなるべく気後れした様子を見せないように、顔を上げて店に足を踏み入れる。
 人が良さそうな女性店主に案内され、ふたりで奥の席に腰を下ろした。薫子が高そうな抹茶を頼み、叶音はなるべく安価な緑茶を頼む。

「はあ、びっくりした」

 天を仰いだ薫子は、深いため息交じりにそういうと、ぱっ、と、胸の辺りを払った。しつこくへばりついていた猫の毛が、はらりとこぼれる。

「まさか、あんな場所で猫に襲われるとは」
「だいじょぶ、かおさん? 怪我してなかった?」
「それは平気。ただ、まだ、すこし心臓がドキドキしてる」

 胸に触れた両手を、薫子は、じっと強く押しつける。そうして、古い木製のテーブルに顔を映そうとするように、かるくうつむいた。
 まぶたを半ば以上閉じて、唇をきゅっと内側に噛みしめた彼女の表情に、叶音は胸を締めつけられるような思いだった。

「無茶なことするから」
「私の中では、ぜんぜん無謀だとは思わなかったのだけれど」
「かおさんは加減ってものを知らないんよねー」

 さっきの行動だって、ギリギリだった。民家がほぼ完全に廃屋で、持ち主もいないような場所だから、まだよかったというだけだ。
 土地の所有者が残っているような場所にまで、いまの彼女は、平気で踏み込んでしまいかねない。そういう危うさを、叶音は感じる。

「こないだも、恵理早さん追っかけ回して騒いでたっしょ」
「……ええ。恵理早さんたら、ずいぶん写真がきらいみたいで」
「追っかけられるのが嫌いなんじゃない? あの子、人に拘束されるのいやそうだしさ」
「ちょっと撮影したかっただけなのに。ぼうっとしてる恵理早さん、すごく神々しくて、絶対に保存しておきたかったのに」

 ちらり、と胸ポケットのスマートフォンに目をやって、薫子はつまらなそうに唇を尖らせた。いまもまだ、機会さえあれば恵理早のシャッターチャンスを逃すまい、と思っている顔だ。
 猫に襲われたことに、すこしも懲りていない。
 恵理早が怒ったら、野良猫なんか比じゃないかもしれないのに。

「そんなの、いちいち追っかけてたらキリないよ」
「追わなかったら、2度と出会えないじゃない」
「ライブに全通するファン心理みたい」

 笑いながら茶化す叶音に、薫子はひどいふくれっ面を返してきた。

「それの何が悪いの」

 このひとことを迷いなくいえるところが、薫子の危なっかしくて、不安で、それゆえにいっそう愛おしいところだ。彼女の言動には、一貫した強靱な芯が通っていて、叶音の軽々なことばでは決して曲がりはしない。
 そういう彼女のたたずまいを見ていることは、とても叶音には心地よくて、魅了される。

 だけど、美しいものを見続けるのは、ときおり恐ろしくなる。

「悪いとはいわんけどさ……」
「何」
「……たまには、自分が傷つきやすい人間だって疑った方がいいよ」

 近衛薫子は、美術館の奥に秘蔵されている大理石の像ではない。
 生身の人間は、野良猫ごときに傷つけられるし、たかだか雑草程度で肌を切ったりもしてしまう。やわらかいのだ。

 つかのまの沈黙。薫子は、ふしぎそうな、何かショックを受けたような瞳を見開いて、叶音を見つめる。その瞳さえも、水晶のように透明で美しいのに、触れればきっと簡単に崩れてしまう。
 瞳の中に映る自分を感じて、叶音は、ぞくりとする。

 この瞬間の私を、薫子は、写し取りたいと思っているのだろうか?

 ふたりの静寂の隙を突いたように、注文のお茶が届いた。うっすらと湯気が立つ抹茶は、火傷の恐れもなく調節された、絶妙な温度だ。
 薫子は吸い込まれるように湯呑みをそっと手に取り、かたむけた。

「……おいしい」

 ちいさな声でつぶやく、薫子のほおに、わずかに朱がさした。ほんの一口の苦味が、またたくまに彼女の生命力を取り戻したように見える。
 叶音は、その所作をずっと見つめていて、手元に置かれた湯呑みには指を伸ばせない。

 その代わりに、そっと、薫子の指先に手を伸ばす。
 机に置かれた薫子の指に、叶音の人差し指の爪が重なった。ネイルできらきらに輝く自分の爪の先が、薫子の傷ひとつない肌に触れるのが、妙に胸を揺さぶる。
 薫子はかすかに目を細め、首をかしげる。

「どうしたの。叶音さんこそ、子どもみたいよ」
「……すこし、こうさせて」

 叶音は、低い声で告げた。
 薫子がいつまでも無鉄砲を繰り返すなら、たまには叶音にも、わがままを許して欲しい。幼い思いでも、かまわない。
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