第157話「うっかりミスをありがたがるのなんて、たちの悪い野次馬趣味だわ」
「くしゅん」
肘で顔を押さえてくしゃみをしたドロシー・アンダーソンの手元が、ずるりと滑った。佐藤希玖のノートに彼女が書き付けていた文字の線が、ジャンプしたみたいに盛大な弧を描いて紙面の隅にすっ飛ぶ。
「やっぱり風邪じゃない?」
希玖が気遣わしげに訊ねるが、ドロシーは険しく眉をひそめる。
「たいしたことないわ。鼻水が出て、すこし熱があって、頭が痛むだけ」
「充分たいしたことだと思うけど」
朝の始業前、希玖は3時間目の古文の課題についてドロシーに相談していた。出席番号と席順のパターンからして、今日は希玖が当てられる可能性が濃厚なのだ。国語はドロシーの得意分野なので、いつものように、希玖はドロシーから教えを乞うことにしたのだった。
が、肝心のドロシーのほうが、今日は不調らしかった。白い肌が不吉な感じに赤みを帯びているし、ずっと鼻をすすっている。
教える側がそれでは、教えられるほうも気が気ではない。
「保健室行ったら? 無理するとよくないよ」
「心配ないってば。おきくは自分の心配をなさい」
「強情なんだから……」
あきれつつ、希玖は消しゴムを手に、書き損じを消そうとする。が、ふと思いついて、スマホを取り出す。
「ドロシーさんの荒れた字ってちょっと貴重じゃない?」
「画像に撮るほどのもの?」
首をひねったドロシーは、希玖がシャッターを切る前にさっさと書き損じを消してしまう。ノートの端へと続いていた美しいラインがあっけなく消滅して、希玖は思わず天を仰ぐ。
「面白かったのに」
「ちっとも。うっかりミスをありがたがるのなんて、たちの悪い野次馬趣味だわ。集中して練り上げられた渾身の書のほうがずっと……」
言い掛けて、はくしゅん、と、ドロシーは大きくくしゃみをした。希玖はスマホの代わりにポケットティッシュをドロシーに差し出す。
「じゃあ集中できないとだめでしょ」
「面目ないわ……」
「とりあえず、1時間目くらいは休んできたら?」
「でも」
「古文は3時間目だし、その気になればひとりでも何とかできるよ。ドロシーさんの体のほうが大事」
「……そう」
ティッシュで鼻の周りをごしごしと拭きながら、ドロシーは気落ちした様子でつぶやく。鼻のてっぺんが真っ赤で、そんな間の抜けた姿はドロシーにはいっそう似つかわしくない。
希玖はドロシーの背中を押して、立たせる。足取りはしっかりしてはいるものの、視界がぼんやりしているのか、机の角に太股をぶつけて顔をしかめた。
むう、と唇をとがらすドロシーを、希玖は保健室まで連れて行った。
……1時間目が終わって、希玖は、ドロシーの様子を見に保健室に向かった。
養護教諭は席を外していて、保健室は静かだった。白いカーテンと白い薬品棚が、あたりの空気をひんやりと張りつめさせているみたいに思える。希玖は、この保健室の空気が、すこし苦手だ。
ドロシーを寝かせたベッドの前には、カーテンが引かれている。
そっとのぞくと、ドロシーはぐっすりと眠っていた。目を閉じ、かすかな呼吸で胸を上下させている彼女の姿に、希玖は安堵する。薬が効いているのか、肌の色はすっかり白く落ち着いて、人形のようなふだんのドロシーに戻っていた。
そっとしておくべきだろうか、と、希玖は足を引く。
と。
「……希玖さん」
ぽつり、と、つぶやかれたドロシーの声に、希玖は動けなくなる。
しん、とした静寂が、希玖の首根っこを捕まえて、押さえ込もうとしているようだった。全身が緊張して、希玖は、ただドロシーの顔を見つめることしかできない。
うすく、そっと開かれたドロシーの唇からは、ただ呼気だけが漏れてくるだけ。その息づかいは、薄いカーテンすら揺すぶることなく、ただ彼女の上でそっとたゆたうだけ。
薄桃色の唇が、希玖の目の前で、動いている。
「……ん」
ぱちり、と、前触れもなくドロシーの目が開いた。
「あれ、おきく?」
すっ、と、機械仕掛けのようにドロシーは上半身を起こす。シーツが横に滑り落ちる。両腕を持ち上げて伸びをしたドロシーは、漆黒の瞳で希玖を見つめて訊ねる。
「今いつ?」
「……1時間目の休み時間」
「何だ、意外と早かったのね」
「体調はどう?」
「寝たら治ったわ。薬と睡眠の効果って偉大ね」
「ならよかった。2時間目は出られそう?」
「平気。無理せずに休んでおいてよかったわ。ありがと、おきく」
勢いよくドロシーはベッドから立ち上がる。スリッパに足を突っ込んでしゃきっと立つ彼女の機敏な動作は、まるで隙のないふだんのドロシーそのものだ。夏服からぴしりと伸びるしなやかな手足も、ほほえみに似たりりしい表情も、すべて。
「ねえ、ドロシーさん」
だから、希玖はつい、口を開く。
「何か夢でも見てた?」
つ、とドロシーは眉をひそめる。
「……覚えてないわ。何か、寝言でも言ってた?」
希玖は一瞬、どう答えようか迷った。そんな彼女の逡巡を蹴散らすように、ドロシーはすたすたと足を早めて、希玖の脇を通り過ぎて保健室のドアへと一直線に歩み抜けていく。
その後ろを追いかけて、希玖は答えた。
「おばあちゃんのこと呼んでたよ。英語で」
「……そんなわけないじゃない」
振り返ったドロシーは、思い切り顔をしかめていた。生まれも育ちも日本の彼女が、たとえ祖母の母国の言葉だからといって、英語で人の名を呼ぶはずはない。わざとらしい希玖の嘘を、ドロシーは一瞬で見透かしたようだった。
保健室を出て、ひんやりと静かな廊下を歩き出しながら、ドロシーは希玖の頭に手を伸ばし、ぐいっとつかんだ。
「ほんとは何言ってたのよ、教えなさい」
「何も?」
「そういうのやめなさいよ、正直にばらされるよりよっぽど恥ずかしいわ」
「だから何も言ってないって」
「おきく、いつからそんな意地悪になったのよ」
「さあねえ」
後頭部を押さえつけて苦情を言い立てるドロシーの表情を見て、希玖はくすくすと笑う。この秘密は末代まで持っていこう、と、希玖は、そのとき思った。