第30話『ブリュッセルE連合本部は混乱の渦中にある』
開戦初日のフランス降伏━━否。
フランスとα連合国の単独停戦が欧州全域に知れわたるまでには、実に一週間ちかい時間が必要だった。
その理由は実にシンプルであり、欧州域内での通信が全面的に遮断されていたためである。
DSBを中心とした、超高効率最小破壊兵器は、華々しい破壊、あるいはおぞましい殺戮こそ為さなかったが、影響の甚大さたるや、後世の評論家からは『核兵器数発よりはるかに効果的』と形容されるレベルだった。
たとえば、『THE・フォン』。
つまり、遠い昔にケータイとかスマホと呼ばれていた個人用通信デバイスは、まともに機能しなくなっていた。
電話はできない。メッセージングも。もちろんオンライン接続が大前提である、ほぼ全てのエンターテイメントも不可。
せいぜい読書や文章作成、計算、簡素なゲームくらいはローカルでも出来るものの、一切、外とつながりを持たない作業に、この時代、どれほどの意味があるだろうか?
光ファイバーをはじめとする、有線接続のインターネットや固定通信も然りである。
NSAが中心となって行った、欧州全土の通信網支配作戦の成果はまさに決定的であり、各国の名だたる通信キャリアが総力をあげても、全面復旧には膨大な時間が必要と思われた。
そもそも『総力をあげて復旧』と言っても、従業員との連絡すらろくに取れないところから始めなければならないのである。
従業員が自主的に出社してきたとしても、支所は本部からの指示を数日単位で待ちぼうけ。そして、本部は各地の状況を把握するのに、やはり数日かかるといった状況であった。
連絡ができない。コミュニケーションがとれない。
たったそれだけのことでもたらされた、この絶大な混乱とあらゆるプロセスの遅滞は、イタリアの地方新聞が社説で『皇帝が駅から馬を走らせた方が速い』と表現するほどであった。
しかもその社説を読むことができたのは、電子配信の新聞ではなく古めかしい紙媒体での購読を継続していた、ほんの僅かな高齢者たちだったのである。
結果として━━今。
つまり、まだ欧州全土に住まうほとんど全ての人々が、状況を把握していない開戦の翌日。
すなわち、フランスが単独停戦を受け入れた黎明の時間帯が過ぎ、太陽がのぼった午前中。
「どうなっているんだ……これほどの事態がE連合の歴史上あっただろうか?」
ベルギー・ブリュッセルにあるE連合の本部。
この中枢ではE連合大統領のキーリが、暗鬱たる表情であらゆる情報の途絶に肩を落としていた。
「ドイツやフランスとの連絡はまだ取れないのか」
『依然、不通です。有線ホットライン、無線通信ともに途絶しています。
……ただ、パリはここから遠くないので、職員が直接向かっています』
「その職員からの報告は?」
『連絡をとれないのです。ご存じの通り、『THE・フォン』はすべて死んでいます。
他の職員が使っている通信キャリアは様々ですが……全滅です』
「衛星通信はどうなのか」
困り切った様子の秘書官に対して、キーリE連合大統領は矢継ぎ早に問いかける。
彼は通信という分野においては、素人ではない。若き日、まだスマートフォンと呼ばれていた電子デバイスを売りこんで回る、ビジネスマンだったのである。
その後、通信会社の重役を経て、政治の世界に打って出た彼は、並みの政治家よりは遙かに通信というものの技術的詳細を心得ている。
だが、それだけに。
(あらゆる通信手段がある……それがこの時代だ……しかし、それらが全滅など、どう考えてもあり得ない……)
現在、直面している事態が恐るべきものであるという認識もまた人一倍強く、そして深いのだ。
『衛星通信も依然、使えません』
「そんなバカな。
静止軌道にあるんだぞ。エイリアンでも攻めてきたのか? ゴジーラを倒すために撃った核ミサイルが上空で迎撃されたとでも言うのか?」
『核爆発によるEMP障害の痕跡はないのですが……解析にあたっている技術者の話だと、衛星とのネゴシェーションは取れているらしいのです。
ですが、その先の中継ルータでブロックされているとか……何とか。申し訳ありません。私も詳しいところは理解が追いつきません』
「君は財務畑が専門だからな。仕方ないさ」
秘書官に対して失望でも落胆でもなく、いたわる声でそう言ったのは、何もキーリE連合大統領が慈悲あふれる性格だからではない。
(私の職務はいつもこんな具合だ……)
各国首脳の間にはいり、対立をなだめ、あるいは懇々と説得を試みる。相手に足りぬところがあれば、理解を示し、譲歩を引き出す。
ある意味では実に政治家らしい━━しかし『大統領』と称される役職にはまったく似合わない日々。
だが、それこそが『人類史上最高の名誉職』と称されるE連合大統領の日常であった。
(名誉だけがある大統領職。
しかし、その実権は小国の地方州知事よりも劣る情けない職……)
遠い昔、東方の帝国に存在したという、皇帝を指導するだけの『タイフ』という名誉職もこんな具合だったのだろうか。
キーリE連合大統領は、学生時代に読んだ中華帝国の歴史書を思い出しながら、溜め息をつかざるを得なかった。
(もっとも、こんな名誉職が生まれたのも無理ないことだ)
そもそもE連合大統領とは、E連合の各国首脳で構成される『理事会の議長』に過ぎない。
つまり、単なる議長職が慣習的に『大統領』と呼ばれているだけであり、いわゆる国家の大統領とは異なっている。
E連合の各国にはもともと首相もいれば、大統領もいる。もし、旧ソ連圏の共産党政府が加盟していたとすれば、書記長すらいただろう。
(彼らには自国での強大な権力があるが、私にできるのはせいぜい『E連合代表』としてメディアに顔を出すことと、各国の調整くらいだ)
しかし、実権を背景にしない調整役ほどむなしいものはない。
キーリE連合大統領は取引に使える材料もなければ、何かを強制する法的根拠も、そして執行力もないのだ。
そういう意味では、E連合『議会』のいかなるポストよりも貧弱な権力しか持たない名誉職。それがE連合『理事会の議長』たるキーリ大統領の実態だった。
(まったく、いまさらながら無力感を覚えるな……)
とはいえ、これは各国の寄り合い所帯といってよいE連合の持つ本質的な特性━━あるいは歪みである。
だからこそ、彼のようなトップ職の元には、その歪みがリアス式海岸に押し寄せた津波のように増幅されて集中するのだった。
『失礼します!』
悩み悶えるキーリE連合大統領の元に、一人の職員が駆けつけたのは、それから数十分後だった。
オフィスに似合わないプロテクター入りのライディングジャケットを見て、キーリE連合大統領はいつも駐車場に止まっているBMWのバイクを思い出す。
『こんな格好で申し訳ありません。パリから今、戻ってきたところです』
「なるほど、バイクか。はは、何キロで飛ばしてきた?」
『い、いえ、スピード違反など決して━━』
恐らくこの職員は通勤に使っているバイクにそのまま飛び乗って、フランスまで往復してきたのだろう。
「高速道路が閉鎖されている状況で、こんなに早く往復できるのはE連合法にも載っていないバイクだけの特権だな」
『は、はあ……どうも』
普段なら当たり前の調子でつむぎだせる軽口も、今のキーリE連合大統領にとっては、混乱する頭でなんとか思いついた冗談に過ぎない。
「さて、細かいことはいい。フランスの状況どうだ?」
『そ、それが……すでにフランスはα連合国に降伏━━いえ、停戦したそうです』
「………………?
降伏? 停戦?
君は何の話をしているんだ? ロシアとα連合国を言い間違えたのかね?」
『いえ、大統領。
間違いではありません。α連合国はE連合に対して、宣戦を布告しました。
これは昨夜のことです。そして……』
「おいおい! こんな時に不謹慎なジョークはよしてくれ!」
『ジョークではありません!
α連合国はE連合へ戦争を仕掛けました! そして、フランスは……私がつい先ほど訪ねてきたフランス政府は、開戦およそ6時間で単独停戦に同意したのです!!
これはフランス大統領官邸で直接聞いた情報です!』
「………………バ」
第一は非日常の不信。
そして、第二は状況に似合わぬ冗談への怒り。
最後にその冗談が真実なのだと察したとき━━背筋へ走った悪寒。
「バカな……」
『だ、大統領……E連合大統領……』
日々、キーリE連合大統領を補佐してくれる秘書官もまた、表情を凍り付かせるだけ。
「君……フランス大統領官邸でその情報を誰から聞いた?」
『クリスチャン大統領……および大統領の弟でいらっしゃるドミニク副大統領です』
「フランス名物の兄弟大統領から直接その耳で?
こう言ってはなんだが、大した役職でもない君が、アポも無しに面会を?」
『大統領官邸は……静かなものでした。
あらゆる通信がここと同じように途絶しており、政府内での連絡すら思うに任せず……私がブリュッセルのE連合本部から来たというと、執務室へ通され、口頭で大統領および副大統領から直接、状況の説明を……』
「………………バカな」
もう一度、否定のニュアンスと共に。
「そんなバカな!!」
そして最後に一度、絶望のニュアンスと共にキーリE連合大統領はその言葉を繰り返した。