20
場違いに、懐かしい思い出が蘇った。
朧な記憶。前世の、たしか子供の頃。図書館で児童向けの小説を読んだ思い出だ。
割と理解の早い子供だった僕は、高学年向けの難しい漢字の使われた本でも次々読んでしまって……
両親はそれを喜んだのか、よく僕を図書館に連れて行ってくれた。
子供の僕には図書館は広くて、見渡すかぎりの本にくらくらするような思いがした。
児童書コーナーで、たくさんの本棚の隅から隅まで、色々な本を探した。
むさぼるように読んだ。
その中に、お気に入りの本があった。
擦り切れた、古いファンタジー小説で。
魔法使いの出てくる本だ。
今ではもう、なんというタイトルなのかも思い出せないけれど……
両手を広げた老魔法使いが、とても格好よかったことを覚えている。
「《縛り付け》、《結び目よ》、《束縛し》――」
莫大量のマナが収束し、奔る。
ガスが極めて正確に、高速に詠唱した《ことば》は流星のように青白い男に向かう。
【ハハハ、賢者よ。全てを知りつつ、抗うか?】
この世ならぬ不浄の気配を発する男は、それをせせら笑い、まばたきのうちに黒い靄のように崩れ……
「《結びつき》、《追尾せよ》っ!!」
しかし、ガスはそれを見逃がさない。
幾条もの闇色の尾を引き、拡散して束縛をかわそうとした靄の塊の周囲に、《ことば》が弾けるように広がった。
何でもないように見えるが、戦いの中で一瞬の相手の変化に合わせ、淀みもなく適切な《ことば》を継ぎ足す極めて高度な技だ。
最後に付け足されたほんの1、2語で、文章全体の印象が変わることがある。
技巧の凝らされた詩文や、トリックの散りばめられた小説のように。
……連なる《ことば》は、時に花開くように変化する。
再び黒い靄から形を戻した男の周囲には、マナによって形成された不定の檻と鎖が、幾重にも重なっていた。
強固で重層な、束縛と封印の陣だ。
【ふむ――】
だが、拘束された靄の男にたいした感慨はないようだ。
余裕の態度を崩さぬまま、周囲を覆う檻状のマナに対して、
【……《破壊よ在れ》】
破壊の《ことば》を投げかけた。
ガスの放つそれすら圧倒的に上回る強烈な破壊の渦動が、あっさりと檻を引きちぎろうとし――
だがその時には、ガスは指運による筆記を終えていた。
右手で書かれた《守護》を意味する《ことば》が渦動を妨げる。
左手で書かれた《消去》を意味する《ことば》が渦動を消し去る。
そしてその時には、展開された《ことば》の連なりそのものが、更に《ことば》を刻んでいた。
【…………!】
檻による束縛が強化される。
――――四重魔法行使。
ぐったりと力を失ったマリーやブラッドの傍で、僕はただただ目を見張っていた。
ガスは優雅にさえ見える動作で両手を開くと、決意の眼差しで青白い男を睨み据える。
「《青褪めた》《死は》《等しき足どりで蹴り叩く》……」
朗々と放たれ始めた、長大な《ことば》の連なりに気づいた男の顔が、初めて変化する。
【……貴様!】
拘束を破壊しようと男が矢継ぎ早にいくつもの《ことば》を発する。
空間が軋む。周囲の地盤がめくれ上がり、千切れ飛ぶほどの衝撃が撒き散らされるが、《ことば》の拘束は揺るがない。
あれは、あのガスの詠唱は。
「《貧者の小屋も》、《王者の尖塔も》!!」
左右の指運によっても増強されるそれは、本来、数人がかりで息を合わせて行う儀式魔法。
一人ではまず行えないはずの、究極の魔法のうちの一つ。
「――――《全存在の抹消》ッッ!!!」
肉体、魂、現象。森羅万象ありとあらゆる《ことば》と《ことば》の連なりをずたずたに分断し、遊離させ、無意味化してマナに還す、無色透明の崩壊の波動。
古代語魔法による破壊の極地。
……《存在抹消》の《ことば》が、丘の一部を抉って抜けた。
◆
まるで巨大な獣の顎に噛みちぎられるように抉られた丘。
急激な地形の変動に大気が震え、波動により何もかもが消滅した空白を埋めようとするかのように、丘の周辺には強風が吹き荒れた。
ばたばたと、抱えたマリーのローブがはためく。
「…………」
《存在抹消》の波動が確かに青白い男を飲み込むのを確認してからも、ガスに油断はなかった。
周囲の気配を警戒し、いくつかの《ことば》で、回避された可能性や、死んだふりの可能性を検証し確認していく。
それからしばらくして、ようやく相手の消滅を確信したのか、ガスは手をおろした。
「……ブラッド、マリー。魂をもっていかれてはおらんな?」
「おう、まぁな」
「な、なんとか……」
ガスはため息をついた。
「なら、とりあえずウィルをなんとかしてやれ。ワシは触れられんでな」
そう言うと、ガスは僕に視線を向けた。
目尻を下げた、今まで見たことがないくらい、優しい視線だ。
「――怖い思いをさせたのう」
言われて、身体が、まだ硬直していることに気づいた。
マリーがそっと、手を握ってくれる。
ブラッドが、不器用な調子で背中をさすってくれた。
「ぁ……」
息を詰めたまま、ほとんど呼吸もしていなかったことに気づいた。
「……っ、は……!」
肺が酸素を求めていた。
荒く息を吸う、吐く。
どっと全身から冷や汗が出てくる。
がたがたと、遅れて震えがやってきた。
自然に、目尻に涙が滲む。
怖かった。
怖かった、怖かった、怖かった、怖かった……!
本当に恐ろしい相手だった。
僕も強くなったはずだ。
戦技ではブラッドに、魔法ではガスに、精神性ではマリーにとても及ばない身だけれど、それでも真面目に訓練はしてきた。
そこそこ強い、くらいの自負はあったのだ。
それなのに、あの黒い靄の男を前にして、僕はまったく動けなくなった。
絶対に勝てない、そう直感してしまったのだ。
「すまねぇ、爺さん。……やっぱ、あんたの懸念通りになっちまった」
ブラッドが言う。
「ウィルが旅立つまでは保たせたかったのですが……」
マリーが残念そうに呟いた。
「……それが二人の決断じゃろう」
ガスが肩をすくめる。
「懸念が当たってしまったのは残念じゃが……ワシとて、それを選んだ意志まで貶めるほど偏屈ではないわい」
二人をいたわるような、優しい口調。
「それに何より、存外、うまくいったではないか」
「……そうだな。格好良かったぜ」
「ありがとうございます。本当に、いつも……」
「なに、いつものことよ」
マリーとブラッドと、そっと微笑みを交わすガス。
何かしらの対立の溝が、埋まったような、そんな雰囲気。
それからガスは、僕の方に振り向いた。
「やれやれ、ウィル。とんだことに巻き込まれてしまったのう」
まぁ、心配はいらんがな、とガスは笑う。
その表情は、ずっと抱えていた懸念が解決したのか晴れやかだ。
「さて。なんと説明したものかな……そう込み入った話でもないのじゃが」
「……まぁ、こんなことになっちまったら、これも伏せとくわけにはいかねぇか」
「ええ。最低でも幾年かは猶予はあるでしょうし……ああ、中に入りませんか? ウィルも寒いでしょう」
薬草茶でも淹れましょう、とマリーが提案する。
まだぎこちない足取りのブラッドが、いいな、と笑って神殿の入り口に向かう。
ガスもやれやれ、といった調子で息をつき、僕に振り向いた。
「そうじゃな。……暖炉の火でも囲んで、話そうではないか。なに、心配するな」
いつにない笑みを浮かべたガスを見ていると、僕もなんだか嬉しくなってきた。
緊張がほぐる。
暖かい暖炉の前で、薬草茶のカップで手を暖めながら、話を聞いてみよう。
ずっと繰り返してきた、家族の団欒だ。
「何もかも、なんとかなったの、」
ガスに向けて、笑い返し。
一歩を踏み出した僕の笑みが――
「じゃか、ら……?」
凍りついた。
――黒い靄でできた腕が、ガスの胸部を貫いていた。
◆
「ぁ゛、か…………」
ガスが。
霊体であるはずのガスが、苦痛に呻いていた。
そして僕が何をする暇もなく。
ガスの身体が、あっさりと、上下に引き裂かれた。
「爺さん……ッ!?」
「ガスお爺さ……っ、ブラッドっ!」
呆けた僕と違い、即座に反応したのがブラッドとマリーだ。
二人ともいまだ体調が戻っていないにも関わらず、ブラッドはマリーの声に応じて前衛となる構えをみせ、マリーは祝祷術を攻撃的に行使する構えを取る。
一瞬の遅滞もない反応は、二人の練達ぶりの証左だ。
その二人が。
【……クハハ】
潰れた。
ぐしゃりと。
地に伏した。
一瞬で。
「が、あああ……ッ」
べきべきとブラッドの全身の骨が破砕される音がする。
黒い靄に圧迫されている。
僕の頬に、弾き飛ばされた骨片が当たった。
「ひゅ……っ」
マリーの喉笛が黒い靄にえぐり取られ、両腕が小枝のように折れた。
空気の漏れる音がする。
もう、神へ呼び掛けることはできない。
【驚いたな。まさか単身で、私の分体を崩壊せしめるとは……】
黒い靄が人の形を取っている。
ノイズ混じりの声。
若い男。不自然なくらい均整の取れた身体。
血が通っていないかのような、青ざめた肌。淀んだ瞳。
【……あらかじめ分体を二分しておらねば、長く活動に支障をきたしたところだ】
男は、片手に握ったガスの上半身に向けて語りかける。
【賞賛しようではないか、《彷徨賢者オーガスタス》よ。お前は確かに、たぐいまれなる大魔法使いだ】
ガスは。
胸から下を引き千切られたガスは、血走った目で男を睨み据えていた。
男はそれを受けて、なお涼しげに笑っている。
「スタ、グ……ネイトォ……ッッ!」
スタグ、ネイト。
スタグネイト。
不死神。
……《木霊》!
【滅ぼすのは惜しい。お前の執着が失われるまでは、待ってやる】
そう告げて、《不死神の木霊》は無造作にガスの上半身を投げ捨てた。
【そして、そこのお前】
不死神の視線が、こちらを向く。
どきりと心臓が跳ねる。
足が、がくがくと震えだす。
目をそらしたいのに、目をそらすことさえできない。
にぃ、と唇が吊り上がるさまが、はっきりと見える。
歩み寄ってくる。
動けない。
僕に近づこうとする不死神を認識したのか。
マリーとブラッドが半壊のまま、男の足元に食らい付こうとし、更に圧し潰される。
骨が砕ける音が幾重にも響いた。
不死神が目の前に来る。
死を、予感した瞬間。
【……よくやってくれた】
笑みを含んで放たれたそれは、
【お前のおかげだ。感謝をしてもいい】
まごうことなく賞賛の、言葉だった。
「なに、を…………」
震える唇と、もつれかけた舌で、なんとか言葉を紡ぎだす。
【これなる英雄たちは、私と契約を行い、最高位の不死者となった】
不死神は両手を広げて語る。
それは、それは、愉快そうに。
【いつか《上王》に対する執着を失ったその時。
再び私とまみえ、完全なる下僕となることを条件にな?】
不浄の気配を漂わせる男が、語る、それは……
つまり、
「ぼ、くが……」
【そうだ】
不死神が嗤う。
【お前のおかげで《賢者》の執着は薄れ、《戦鬼》と《愛娘》に至っては、完全に《上王》への執着を失った】
言葉が耳を通り過ぎる。
理解が、追いつかない。
だって、だって、それは、
【お前のおかげで、まずこの二人は、永劫に我が下僕となる】
不死神は、愉快そうだ。
【…………お前がこやつらの息子として、よく生きてくれたおかげだ。】
それは、だって。
僕は、生まれ変わって。
今度こそ。
今度こそ、生きようって。
ちゃんと、生きようって…………
【ハハハ、よほどショックのようだなぁ! まぁ、無理もない】
思考が、回らない。
【だが、私がお前に感謝していることは真実だ】
声が耳から入ってくる。
【そして未熟なりに、この英雄たちの弟子であるというのも悪くはない】
理解ができない。
【どうだ。お前も私にかしずき、我が陣営に属さぬか】
理解ができない。
【……この三人と、永遠に、仲睦まじく暮らさせてやろう】
「…………!」
それ、は……
【ハハハ。興味があるか? よかろう……】
では考える時間をやろう、大切な家族ともどもな、と不死神は笑った。
【明日は折よく冬至。忌々しき太陽がもっとも力を失う時なれば】
不死神の姿が崩れ、黒い靄と化す。
【――その晩に、返事を聞こう】
風が吹き抜ける。
不死神の姿が消える。
僕は、馬鹿みたいに突っ立って。
何もできないまま、それを、見送るしかなかった。