025:深まる聖池
「ま、ここなら連中も来ないと思うわ」
軽く呼吸を整えながら、ユノが言う。
「じゃあ、ちょっと一息付けるね」
ユズリハに至っては、ほとんど呼吸が乱れていなかった。
ぬかるんだ地面に、草花や木々の枝などが邪魔して、足場も視界の悪い森の中を走ってきて、二人ともこれである。二人とも生半可な鍛え方はしていないのだろう。
「……クァウ」
一方で、ドラはやや疲れているようだ。
二足歩行で走り回るのには馴れていないのだろう。それでも二人についてこれるのだから、やはりただのトカゲではない。
ふぅ――と息を吐いて、ユズリハは周囲を見渡す。
「湖……いや、池?」
「ええ。どちらかといえば池に近いわね」
そこは大きな池の畔だった。中央を見るとボコボコと水が沸いて出ている。無数の小川が池と繋がっていて、その全てがこの池の水を外へと流しているのだろう。
この池の畔のあちこちに点在する鬼灯に似た花も、雰囲気作りに一躍買っている。
さらにもう一つ。周囲に浮かぶ光の粒子――これは、可視化したマナだろうか。それが尚更、この池から現実感を遠ざけていた。
「綺麗なところだねぇ」
「ええ。結構お気に入りなのよね」
木漏れ日がどこまでも澄んだ池を照らし、水面に反射した光が、まるで花のように水草や木々を煌めかせている。
そして何より、この場は湿りながらも澄んだ空気が満ちているのだ。
しかも、ただの澄んでいるだけの空気ではない。
「無色に近い水のマナ? それにしては何か澄んでるような……」
「もしかしてユズリハって、霊力過敏?」
人はある程度、周辺にあるマナを読みとることができる。
それは別に花術師などでなくても、当たり前のようにある感覚だ。
ただ、それでも一般的には、『この辺りのマナの密度が濃いな、薄いな』程度のもの。『水のマナが濃い、炎のマナの活動が激しい』などといったところまで感じ取れるのは、訓練された花術師の領分だ。
だが時々いるのだ。
そんな訓練された花術師の感覚を、軽く凌駕してしまう天性の感覚の持ち主が。
ユズリハは、間違いなくその類である。
同じ属性のマナであっても、細部に違いがあるなどということを知識として知っていようが、感覚として分かる花術師は少ない。
訓練を重ねてようやくというレベルの話を、ユズリハのような霊力過敏の人間は、たやすく感じ取ってしまう。
「そうなの。細かくマナの違いが分かるのに、霊力門が小さいから、ロクな出力が出来ない花術不能者なんだけどね」
そして、マナ感覚とは別に存在する、マナを巡らせる――あるいは、ある程度のマナをコントロールする術と言える――チカラを、人は生まれながらに持つ。
とはいえ、ユズリハのように先天的にそれがままならない者が生まれるのも事実だ。
「だから即席花術弾に傾倒したのね」
生活必需の花導品の使用にすら僅かなマナを必要とする。
時折、それらのコントロールにすら四苦八苦するくらいの人達がおり、そういう人達をその原因の如何に問わず花術不能者と呼ぶ。
それでも、日用品程度のものであれば、僅かでも霊力門が開いていれば、訓練次第で使えるようになることは多い。
「前にも言ったけど一応、葉術は使えるんだよ?」
東の最果て周辺で使われるマイナーな術式の名を彼女は告げる。それは確か――ユノの記憶が確かであれば――マナではなくオドというチカラを用いた術だったはずだ。
そういえば、今度見せてくれるとか言っていたのに、まだ見せてもらっていない。
「でも、葉術は私にとって、地元の裏街で習得した裏技。
だから、表街で暮らす以上は、別の力が欲しいな――って」
それで興味を持ったのが即席花術弾だというらしい。
確かに即席花術弾は作り方次第では、ほとんど自分のマナを使わず使用出来るものも作ることが出来る。
花術不能者が、花術や花導武装として使うには、これほど効果的な導具はそうないだろう。
「でもまぁ、気が付くと今は単純に集めたり作ったり使ったりが趣味になってるかな」
「そ」
花術不能者――それは言ってしまえば、蔑称だ。
だがユノは花術不能者であることを嘲笑ず、マイナーな即花弾趣味にも嘲笑ことなく、ただいつものように、うなずいた。
その――こんな話をしているのにも関わらず――いつも通りの態度が、ユズリハは無性に嬉しかった。
「あ、で――話戻すんだけど」
「うん」
「この池を中心にしたこの辺りの区画をね、『常濡れの聖池』っていうのよ」
「由緒があるの?」
「由緒どころか……アクエ・レミリスの住まいとも言われてるわ」
アクエ・レミリス――水精母とも呼ばれ、水の精霊を統括している精霊の王の一人とも言われている。実在しているかはともかくとして、その存在は絵本などにも出てくるので、世間的にも広く知られている存在だ。
「……なるほど」
普通に言われたら眉唾だと思う。だが、この周辺に満ちる神聖な空気を肌で感じながらだと中々の説得力があった。
ユノは説明を終えた後で、適当な石に足を掛けて、飛び移っていく。
「ユズリハ、ドラ」
こちらの名前を呼んで手招きをする彼女にうなずいて、ユズリハも同じように石を飛び移っていった。ドラもその後をついてくる。
そうして、腰を落ち着けられるような大きく平たい岩の上にたどり着く。
すると、ユノは膝を付いて手を合わせた。
「お祈り?」
「違うわ――ああ、でも……この仕草の発祥はユズリハの故郷だったかしら?」
言って、彼女は池の水へと手を伸ばした。
「お祈りというよりも、一言掛けたって感じかしら」
「水精母様に?」
「そ。貴女の住まいに湛えられた水を少し頂きますって」
美味しいのよ、ここの水――そう言ってユノは池の水を手で掬って口に含んだ。
それに倣い、ユズリハも手を合わせた。ドラも一緒に手を合わせている。
「ちょっと意外かな」
「何がよ?」
ユノの横に座り、水を掬って口を湿す。なるほど、確かに美味しい。
ドラも舌を伸ばして器用に口に含んでいる。
もう一口掬ってすすりながら、ユズリハが笑って答えた。
「ユノが手を合わせたコト」
「そう?」
「だって、ユノの場合、精霊の都合なんて知るものか――みたいなノリで、池の水をガブガブ飲みそうなイメージあるし」
「心外ね」
肩を竦めて、ユノは改めて池に向かって手を合わせた。
「精霊への敬意を忘れたコトなんてないわよ。
別に精霊信仰者ってワケじゃないけど、精霊を蔑ろにした花術師や花職人って、未来が無いと思うもの」
花は精霊の宿であり、宿代としてマナを残す。
花はそのマナを自らのうちに取り込み生きる糧とし、マナの残りは蓄えとするか、あるいは外へと放つ。
花が取り込んだマナや、蓄えたマナ、あるいは放出したマナを、人間は生活に利用する。
それだけでなく、人間は自然にマナを体内に取り込む。取り込んだ霊力は体内で命力と呼ばれるチカラへと変換され、必要な分を体内に残し、残りは外へと無意識に吐き出す。
吐き出されたオドは、精霊達が取り込み、マナに変換していると言われている。
「精霊がオドを取り込む話は、まだ証明も解明もされてないけどね。
でもね。結局はあたし達は精霊に生かされてるみたいなものかもしれないの――まぁだからって別に卑屈になる必要はないんだけどさ」
言って、ユノは自分の愛杖を示した。
「あたしが言いたいのは、精霊が居るから、あたしたちは生活が出来てるってコト。
同じように、花導品……ううん、それだけじゃない。家にしろ、食材の調理法にしろ……そういうのを発見し、発想し、作り出した始祖創造者達に対して、そしてそれらを発展させて来た様々な人や存在に、あたしは常に敬意を払ってるわ。
あたしたちの仕事も、生活も、世界に住まう精霊や、偉大なる先人達によって形作られてるんだもの。ただただ使い潰すような、無粋な味わい方はしたくないの」
池の水と同じくらい澄んだ瞳で、真っ直ぐ何かを見据えながら、ユノが語る。
水面に反射した木漏れ日を纏い、キラキラと輝いて見えるその横顔に、ユズリハは我を忘れるように魅入ってしまった。
こんな場所だからだろうか。
ユズリハは、ユノが水の精霊達に祝福――あるいは激励か――されているかのよにも思えた。
「だからってワケでもないんだけど」
ふっ――と肩の力を抜くように、自嘲気味の笑みを浮かべる。同時に神秘を纏うかのような空気もゆっくりと霧散していった。
「最近増えてきた、精霊や花をマナを生む便利な導具くらいにしか思ってない連中がムカつくのよね」
それはそうだろう。そんな考え方をしているユノにとっては、そういう人達は認められるわけがない。
「あ、ムカつくで思い出したんだけどさ。さっきは、何であんなの怒ってたの?
こういう言い方は何だけど――小娘なんて言われ慣れてるじゃない?」
実際、街の外からフルール・ユニック工房を訪ねて来た人達は、初見はユノを小娘だと訝り、侮ることがある。
「工房に訪ねて来る人達は、工房に持つイメージと現実のあたしのイメージのズレから、小娘だとつい言っちゃってるだけでしょ?
だいたいは、仕事をしっかりして見せれば、そのコトを詫びてくるなり、態度を改めるなりしてくれるし」
言われてみれば確かにそうだ。
「だけどね。さっきの騎士は別」
首を振って、息を吐く。思い出して一瞬だけムカついたのを、息を吐くことでクールダウンしたのだろう。
「あれは、自分が絶対的優位に立つべく、こっちの絶対に改善不能な一点を見下してきたのよ」
「あー……」
確かに、あの騎士達は、こちらがどれだけの力量を見せようとも、小娘の分際程度の反応しかしないだろう。
高い実力や才能も、小娘のくせに子供のくせにと、ただ呪いの言葉を投げるだけだ。
「女であるとか子供だとか、それこそ花術不能者だとか――そういうある種の不可抗力にして、自身の力だけではどうあったって変更不可能な領域を侮蔑の対象にして、その一点だけで、自分を優位に立たせようとする奴が、私……超が付くほど嫌いなのよ。
それに何より、あいつらみたいなタイプはね。実力を見せつけたところで、小娘と見下すのよ。
自分たちが優位だからと言って声高々に好き勝手振る舞って、人も花も精霊も使い潰す」
吐き捨てるように、ユノが告げた。
(だけどまぁ、昼間のおっさん騎士は、そこまでムカツかなかったんだけれども)
ユノはそれを敢えて口にしなかった。わざわざ話をややこしくする必要もあるまい。
あの騎士は恐らく、言葉や態度とは裏腹に、言うほどユノを見下してはいなかったのだろう。
それでも、相手を下に見ておかなければ、きっとどうにもならないような気持ちでいるのではないだろうか。
(それこそ学術都市を捨てた直後のあたしのような……)
まぁ考察は置いておくにして、それを踏まえてみても、行動と言動にいろいろ問題はありすぎる人物だとは思うが。
「納得。それとゴメン」
ユノに対して、ユズリハが小さく頭を下げる。
「なんで謝るのよ?」
首を傾げるユノに、ユズリハが苦笑する。
「だって、何か嫌な過去とか思い出させちゃったっぽいし」
「気にし過ぎ。
自分の知らない相手の過去まで気にしてたら、会話なんて出来ないでしょうに」
「そうだけどさ。私が謝りたいから謝っただけ」
「あっそ」
ユノは素っ気なくうなずいてから、立ち上がる。
衣服を軽く叩いて、大きく伸びをした。
それに、ドラが残念そうな顔をする。
「ドラ。その泥だらけの状態で、人の膝に乗ろうとしたわね?」
ユノが半眼を向けると、ドラは顔をそっぽに向けた。
そんなドラの様子に小さく笑いながら、ユノが告げる。
「さて、そろそろ行きましょうか。『濡れ沈む遺口』とやらへ」
「しっかり名前を記憶してたんだ」
「当然でしょ。重要な情報じゃない」
それにユズリハもうなずいて、立ち上がる。
ドラも準備できてるとばかりに、後ろ足で立ち上がった。
「場所は分かるの?」
「ええ。この森は庭みたいなものだもの。あの二人の騎士の出て来た辺りから、だいたいの位置は想像が付いてるわ」
そうして、二人は不敵な笑みを浮かべあうと、森の奥を目指し始めた。
ちょっとだけ、お互いのコトを知り合った二人。
気を抜くと空気になりそうなドラ。
次は『濡れ沈む遺口』に突入の予定です。