悪夢 4話
《開ケルナ……》
森は終わり……。
俺は家に辿りつく。
《開ケルナ……》
急がなければ間に合わない……
扉を開けるのだ……
助けるのだ……
《開ケルナ……》
だが、誰を?
『兄ちゃん』
アジャニホルトの声が聞こえる。
『兄ちゃんの言うことを聞いてお留守番しましょ、アジャニホルト』
アジフラウが姉さんぶって弟を叱る。
『おいで、××××××××』
アジンエリシフだ……
アジンエリシフが呼んでいる……
俺の目の前には扉があった………
声は扉の中から聞こえてくる……
この中に、皆、いるのだ……
死んだ家族はこの中に……
雪の中で逝ったアジャニホルトも、家に戻っているだろう……
俺の手が扉へと向かう……
その手を俺はどうしても……止めることができなかった……
* * * * * *
「ホホホホホ。なにせ、わしは高名な大魔術師。北方にもちょっとしたコネがある。これ、この通り、通行許可書を貰って来てやったぞ。これさえあれば、ケルティ・バンキグ・シベルアの三国の行き来は自由じゃ。ありがたく受け取るがよい」
侯爵家での朝食の席に、移動魔法で大魔術師カルヴェルが現われた。
手渡された巻物を、女勇者セレスが感激して広げる。
北方諸国から発行された通行許可書だ。女勇者一行全員分の許可書があると老人は言う。
これで大魔王討伐の旅を再開できると、喜ぶ勇者一行。
彼らの興奮をよそに、赤毛の戦士アジャンは朝食の座についたままだった。しかし、食事の手は止まっており、パンを手に持ったまま睨むように目の前の皿を見つめていた。
彼の思考は止まっていた。
『ありえない……北方諸国が許可書を発行するわけがない』
同じ言葉が何度も頭の中をぐるぐる巡る。
あの閉鎖された国々が南の人間を受け入れるはずがない事を、彼はよく知っていた。
しかし、ドロテは言っていた。『世の中、ありえないことが起きちまうものさ』と。
そのありえないものを、大魔術師カルヴェルが持ってきてしまったのだ。
北へ向かえば待っているのは『破滅』。
しかし、それでも……
行き先が故郷でなければ……
「ケルティに行くのか?」
赤毛の戦士アジャンの問いに、巻物の中をあらためながら武闘僧ナーダが答える。
「指定された日時に指定された航路を通って、ケルティの港ハーグナに向うようにと記されています。そこで入国審査に通って初めて、この通行許可書が有効になるみたいです。指定日まで、まだ一カ月近くありますねえ。当分エウロペに足止めですね、これは」
アジャンの口元に笑みが浮かんだ。
進むべき道は、もはや一つしかない……
勇者一行を離れよう……
そう心を決めた彼に、大魔術師カルヴェルが明るく声をかけてきた。
「赤毛の傭兵、わしは、おぬしに貸しがある」
「あん?」
「『聖王の剣』の貸し賃と、くれてやった魔法の分。わしはいつでも好きな時に二回、おぬしを使える事になっておったであろう?」
「ああ」
「今日これから果たしてもらいたい。それほど時間はかからぬ、おぬしの部屋でちょちょいですむことである」
アジャンに、否はなかった。
数日中にセレス護衛の役目から離れると決めた以上、老魔術師との貸借関係も終わらせるべきだった。
大魔術師と共に部屋に帰る途中、アジャンは昔ドロテと交わした会話を思い出していた。
女勇者一行がケルティに向かうと聞いて、感傷的になったせいかもしれなかったが。
まだ若かったアジャンは、脱北者のリーダーであり占い師でもあるドロテに尋ねたのだ。
脱北者のほとんどが、北でにっちもさっちもゆかぬほど行き詰まってから南へと逃げている。
何故、もっと早くに逃げなかったのだろう?
何故、ケルティ人は土地に縛られているのだろう?
アジやハリやネスパ等森に暮らす一族はともかく……
西に住みドラゴン船を数多く所有するエクやウェンは、望めば部族ごと逃げられる。南にでも、新大陸にでも……シベルア人が追って来ない孤島にでも移動できる。
何故、シベルアの支配を甘んじて受け入れているのか?
戦力差がありすぎて戦えないのであれば、逃げればいい。重税を課せられることもなく、土地や財を奪われることもなく、奴隷や囚人に落とされることもなく、家族を殺されることもない土地へ。
シベルア人に支配されている土地に、何故、海から戻ってゆくのか?
何故、あえて死ぬべき運命を選んでいるのだろう?
ドロテはそんな事もわからないのかかわいそうな子だねと、アジャンに言った。
『逃げたい奴はもう逃げてるよ、五十年の間にね。今、残っている者達のうち、若い奴は大半がクソさ。シベルアに尻尾を振る、ケルティ人でない生き物さ』
『では年長者は?』
『己の命よりも家族よりも先祖の血を重んじた、昔気質のケルティ人さ。祖先神への信仰心ゆえに、何も捨てられなかった。先祖から受け継いだ土地を守り通す為に生きているんだよ』
『愚かだな……崇め奉られるだけで何もせん神の為に、己を犠牲とするとは……』
『いいや、愚かじゃないよ。神は、生きる支えをあたし達に与えてくださる。神がおわすから、あたしらは人として生きられる。神を無くせば、無へと落ちるだけさ』
『よまいごとだ』
『ケルティ人は血の宿命に従って生きている。いずれあんたにもわかるよ。自分の進むべき道がね。進むべき時に進むべき道を進まなきゃ、本当の破滅さ。命運が尽きるよ』
『偉そうなことを言うが、あんただって脱北者だろ? 生まれ故郷を捨て南へ逃げて来たあんたが、神への信仰を説くのか?』
『説けるよ。あたしは信仰ゆえに、南に逃げたんだ。あたしの部族……トアはもう無い。シベルアに盾突いた部族は、王もその家族も処刑され、戦士達は粛清された……女子供は、皆、奴隷さ。あたしは神への信仰を捨てたくなかったから、逃げて、南に来たんだよ。神を捨てたあんたとは逆さ』
今……
部族神が、ケルティに戻れと求めているのだろうか?
復讐を果たさせる為に?
赤毛の傭兵は、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
復讐に走れば、それこそ身の破滅だろう。
仇はシベルアに連なるものだ。かくと誰とは思い出せないが、それだけは覚えている。
勇者の従者の立場で家族の仇をとろうとすれば、アジャンばかりでなく勇者一行が犯罪者とされる。
北方三国全てで、おたずね者として手配され、北方で軍隊に滅ぼされ勇者一行は全滅するのだ……
復讐などありえない。
『破滅』など御免だ。
自分ばかりではなく他の者を……殊にシャオロンを巻き込むなどありえぬ事だ。
素直で明るくて何事にも一生懸命で……少年はよく似ていた。
最愛の弟アジャニホルトに……
シャイナに戻り、父の跡をついで武闘家になるのが少年の夢。
その夢へと進む少年を見守りたいと、赤毛の戦士は思っていた。
自分が復讐に走れば、少年までも北方でおたずね者にされる。
危険に巻き込んでしまうのだ。
そんな愚かな行為だけは決してすまい……
決して北には戻らない。
赤毛の戦士は硬く心に誓った。
アジャン用の部屋に着くと、大魔術師カルヴェルはたいへんにこやかな笑みを見せた。
「おぬしにちょいと魔法をかけさせてもらいたい。それで借りは一つ帳消しじゃ。で、その後、ちょっとした願い事をかなえてもらえれば、おぬしとわしは貸し借りなしとなる。なあに、難しい事ではない。おぬしがおぬしであれば、そのままでかなえられる願いよ」
宙に浮かぶ大魔術師が、魔法をかけるぞと断ってくる。
さっさとすませろと、赤毛の戦士は答えた。
* * * * * *
扉の中から声がする……
『おいで、××××××××』
アジンエリシフだ……
アジンエリシフが呼んでいる……
手が勝手に動く。
取っ手を握ってしまう。
《開ケルナ!》
制止の声を聞きながら……俺は愚かな喜びも感じていた。
ようやくこれで……
帰れるのだ、アジンエリシフのもとへ……
もう逃げなくていいのだ。
俺はずっと帰りたかった。
眼を閉じ、耳を塞ぎ、記憶を封じ……南で生きているのが苦しかったのだ。
俺は知っている。
父も母もアジンエリシフもアジフラウもアジャニホルトも、皆、死んだ。
だが、その死の姿を思い出せるのは、雪の中で逝ったアジャニホルトだけ……
シルクドで無理やり記憶を鮮明にされた、あの死の場面だけ……
皆の死から背をそむけ、俺は生きてきた。
ただ、生きてきた……
思い出すことに怯え、悪夢に溺れながら。
己の卑怯を恥じながら。
思い出せば、俺は滅びる。
仇を討ったとて、もはや誰もいないのに。
誰の為にもならぬむなしい殺戮の果てに、破滅を迎える。
だが、悪夢に怯え、良心に苛まれ狂ってゆくぐらいなら……
滅びる方がいい……
家族と共に……
取っ手は軽く、たわいもなく扉が開く。
中は闇。
闇の中から、手が伸びてくる。
俺へと伸ばされた、アジンエリシフの左手。
真っ直ぐに俺へと向かってくる。
『おいで、××××××××』
血に染まった左手が俺を呼んでいた……
* * * * * *
もう悪夢は見ない。
俺はあの日を思い出したのだ。
父が処刑され、母と姉が陵辱の末に殺されたあの日……七つだった俺が、幼い弟と妹を連れて村から逃げた日の記憶。
それは夢などではない、確かな現実なのだ。
『悪夢』 完。
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拝金主義者アジャンのお金の使い道を本編中に書きたかったのですが、ケルティ出身であることがその背景にある為、挿入する箇所が難しく断念しました。
が、金、金とうるさいだけだったのも気の毒なので、番外編にその理由を書きました。
同胞への援助は、復讐を逃げている贖罪でもあります。
越境してじきに傭兵となったアジャンはサイスの世話となり、一時期、サイスの家に下宿していた事もあって、子供時代のミーリアとは親しくつきあっていました。彼女に妹アジウラウの面影を追って。サイスが引退し、少女となったミーリアがアジャンに熱をあげたせいで疎遠となりましたが。『未熟な女にゃ興味はない』と、処女を理由にミーリアを振ったアジャン。大切な女性にはとことん不器用なようです。
ひさびさに現役十三代目勇者一行を書けて楽しかったです。寝ても起きても悪夢のアジャンはかわいそうでしたが。
カルヴェルの魔法で、過去を思い出したアジャンがどうなってゆくかは『極光の剣』で。
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次回は題未定のセレスとカルヴェルの話。暗い話が多いから、明るめにしようか迷っています。
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読者の谷町クダリ様から画像をいただきました。ありがとうございました。