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用務員さんは勇者じゃありませんので  作者: 棚花尋平
第四章 立ち寄った地で
93/144

91-嫌な客

 


「天光と古の勇者の道について語らせていただいている、パトロと申します」


 なんとも奥歯に物が挟まったような物言いに、蔵人は嫌そうな顔をした。


「こちらで休ませていただいてもよろしいでしょうか」

 勇者という言葉に一瞬身構えてしまったが、見たところパトロは金髪で彫りが深い白系人種であって、勇者ではない。蔵人に断る権利はなかった。一定の距離をとってさえいればお互いに不可侵というのが遺跡の流儀である。

「……好きにしろ」

 パトロはほっとしたような顔で小部屋に足を踏み入れ、近くも遠くも無い距離に腰を下ろした。

 蔵人は最低限の警戒を残しつつも、視線を絵に落とした。


「――どちらから?」

 パトロは雪白を恐れもせずに話しかけてきた。

「……マルノヴァだ」

 蔵人は顔も上げずに答えたが、パトロは気を悪くした様子がない。

「ではこの間の船で。私はリリアス王国からやってまいりました。傷の治療などはご入用ではありませんか?」

 気になる単語を聞いて、蔵人はようやく顔をあげる。


「治療?」

 パトロはにこりと微笑む。

「龍華国には精霊魔法は存在していませんし、意識的に行使する命精魔法もまだまだ浸透していません。そこで私がここを探索する武芸者たちに治癒を施しているというわけです。探索者にしても自分で使用するよりは多少なりとも魔力を節約できるということで、利用なさる方もいらっしゃいます」

「……無料でか」

「いえ。実は私は吟遊詩人もしてまして、治癒をしている間にほんの少しだけ語らせていただき、治癒とあわせてお代をいただいております。そのお陰か、遺跡の外にいるときもお呼びがかかることも増えまして、浅層を抜けられぬ私でもどうにか生活できています」

 治療代だけではその場限りだが、吟遊詩人としてなら遺跡以外でもお金になるということらしい。

「ご休憩の間に一曲どうですか? といってもさすがにここで楽器を使う訳にも参りませんので、『語り』のみですが」

 蔵人が返答する前に、パトロは勝手に語り始めた。


 意外と、声は悪くない。少なくとも絵を描く邪魔にはならない、と蔵人は放っておくことにした。今いる層ならば物音に魔獣が寄ってきても、十分に対処が可能であった。

 それに、アズロナなんかは近寄りこそしないが興味津々でパトロを見つめている。もしパトロが語りの代金を求めたら、心づけ程度は払ってもいいかと蔵人は再び絵を描き始めた。

 

 絵を描きながら聞き流していたが、パトロの話術は卓越していた。

 話の内容は遥か昔、魔王を討伐した勇者の話であった。

 天光の最後の力によって生み出された勇者が光なき時代と呼ばれた世を巡り、魔獣やアンデッド、怪物に苦しめられる人々を救っていく。その過程で聖女や賢者と出会い、海を超え、ついには魔王を討伐した。

 天光は解放され、勇者は国を作るが、権力者の裏切りにより勇者は失意のうちに死ぬ。

 勇者の剣は墓標のように大地に突き立ち、天の光は陰った。

 勇者の作った国はいつしか分裂し、戦乱が始まる。天の光は少しずつ陰り、それに合わせるように魔獣が蔓延り、弱き人々は再び息を殺して生きることになる。世界は日に日に暗黒の世へと近づいていった。

 だが世界が再び闇に包まれようとしたとき、勇者が降臨した。勇者は弱き人々を救うためだけに大陸を巡り、一般市民の支持を集め、大きな力となった。

 その姿を見た国々は戦をやめ、民を慈しむようになる。だが、天光は復活しなかった。

 国々は勇者に懇願し、再び勇者を王とした。

 すると、天に光が昇った。

 勇者の治世は、勇者が死した後も数百年に渡って続いたという。

 

「ご静聴ありがとうございます」

 蔵人はふと、疑問に思ったことを聞いてみた。

「最初の勇者と、後半の勇者は同一人物か?」

「諸説ありましたが、最近になって別人であるという説が有力になりました。一万年後に勇者様が降臨なされるという伝承があるのですが、旧討暦一万年の節目に本当に勇者さまが降臨なされました。降臨なされた勇者様はどうもこの世界の事情に疎いらしく、そのことから初代勇者様と二代目勇者様が別人であったのではないかと推測されています」


「……へぇ」

 思いもよらぬ場所で勇者信奉の理由の一端を知ることが出来た蔵人は懐を漁るが、パトロはそれを止めた。

「いえ、治癒もせず、勝手に語らせていただいただけにございます。お耳を傾けていただいただけで十分です。もし、もう一度聞いて下さるというのであれば、探索者ギルド近くの食堂に伝言を残していただければと思います」

 そう言ってパトロは立ちあがり、早々に去ろうとした。

「ああ、すまん。時間は分かるか?」

 パトロは立ち止まると懐から手の平大の懐中時計を取りだした。

「二十二と半刻ですね。それでは」

 パトロは軽く一礼し、その場を去っていった。

 蔵人は去っていく背を見ながら笑いそうになる。

 遺跡という決して安全ではない場所で、かたや『語り』、かたや絵を描く。酔狂というほかないだろう。

 しかし探索者とのこんな関わりも悪くはなかった。

「寝るか」

 話を聞きながら眠ってしまったアズロナを抱え、つまらなさそうに目を瞑っていた雪白を一つ撫でて、蔵人は雪白を背に眠りについた。




 蔵人はひと眠りした後、早朝だと推定される時間に起き、簡単な食事を終えてから三層に足を踏み入れた。

 フェイスガードまで降ろした完全装備の隙間、主に眼球の表面がひんやりと冷たい。

 少しばかり気温の下がった三層の洞窟迷路に、蔵人はアレルドゥリアの洞窟を思い出す。

 気候的に気分が良いのか、アズロナを背に乗せた雪白は尻尾をゆらゆらとさせて、先を歩き始めた。

 行先は決まっており、雪白もそれは承知の上である。

 蔵人は雪白の後を追いながら、マップを頼りに人気のない場所へ向かう。

 三層から下は各層に精霊の分布が偏っており、ここは氷精が多い。氷精魔法を試すにはちょうどよかった。


――ぐぁうんっ


 ここからだと雪白もマヌケに見えるな、と雪白の尻を眺めていた蔵人は、雪白の鳴き声にびくりとする。

 不埒なことを考えるなとでも言いたげな、不機嫌そうな雪白の顔が目の前にあった。

「……ん? さあ、行くか」

 蔵人は何事もなかったかのように誤魔化しつつ、足早に目的地へと向かう。コン、と蔵人の頭に罠の矢が当って落ちた。

 罠魔(トラッパー)の罠技であるが、この層も脅威となりそうになかった。

 



 三層の隅にある洞窟を掘っただけの小さな部屋。地図はそこで行き止まりになっており、稀に魔獣もいるということだが。

 ――いた。それも珍しいことに、罠魔である。


 ぶかぶかのローブをフードまでしっかり被った子供のようにも見える、薄緑色の身体。ローブを着ているのではなく、それら全てが身体であり、餅のような質感である。体色は周囲の環境に合わせて変化するが、ここでは薄緑色であった。

腕は四本あり、僅かに見える顔の下半分には三日月にも似た赤い大きな口があった。


 罠魔はすでに蔵人たちを察知していたらしいが、ここは行き止まりで逃げ場がなく、部屋の隅のほうに隠れていた。逃げ足も速く、遺跡の迷宮を熟知しているはずの罠魔にしては珍しいことであった。


 蔵人はちょうどいいと小部屋の入口に立ったまま、おもむろに食料リュックから魔法教本を取り出した。

「試したいことがある」

 罠魔の臆病さに、やる気など皆無の雪白にそう言うと、蔵人は教本の型を読み、イメージし、氷精に魔力を渡す。


「――『氷波』となって、凍てつかせ、削りとれ」


 十の氷精の意思を捩じ伏せるように、怒りすらまとわせて蔵人は命令した。

 無数の氷片と冷気が混じり合った小さな津波が、小部屋あっという間に埋め尽くした。

 中級氷精魔法の『氷波』である。

 蔵人は今まで闇精魔法しか中級魔法は扱えなかった。親和性も習熟度も十分なはずだったが、十以上の精霊にどうやっても意思が伝わらなかった。頼んでみても、下手に出ても、命令してみてもうんともすんともいわなかったのである。


 しかし、リュージを『雪毒』で殺した戦闘中のこと。蔵人は表情には出すまいと押し隠していたが、その内心は焦り、苛立ち、切羽詰まり、いつもより荒々しく、大雑把に精霊魔法を行使した。

 間断ない初級氷精魔法の同時行使で『氷の槍』と『雪毒』を放っていたが、あまりに急いで行使ししため、行使が重なり、十以上の氷精に同時に魔力を渡すという中級氷精魔法の条件を満たしつつ、初級氷精魔法を行使してしまった。

 そのとき発動したのは初級魔法であったが、同時に何かが噛み合うような感覚を得ていた。


 怒りと憎しみを込めて、捩じ伏せるように頼む。


 なんとも矛盾した言葉だが、それが蔵人の中級氷精魔法の行使方法であった。言葉を介しない『意思の伝達』だからこそ、こういった矛盾した意思が行使方法になりえるのだが、この世界の人間に比べれば高等教育を受けている蔵人にとっては、その常識や先入観が邪魔をして中級氷精魔法の習得を遅らせてしまった。


 精霊と人の在り方は、千差万別。行使の方法も十人十色である。

 たとえ怒りを伴った捩じ伏せるような命令で行使されたとしても、精霊にとって何ほどのこともない。それが蔵人と精霊の在り方の形であった。

 ちなみに最も親和性の高い闇精は初級、中級共にさほど行使方法に違いはない。もう少し習熟度を積めば、上級闇精魔法すら可能であり、親和性の高さがなせる技であった。

 

 氷波が過ぎ去った後は、まるでアレルドゥリア山脈の厳冬期を思わせるあり様であった。

 洞窟の小部屋は凍りつき、薄ら雪も積もり、白い靄が漂っている。奥の壁には傷だらけでうっすらと表面が凍っている罠魔がいた。


 蔵人は中級氷精魔法の成功にぐっと拳を握り、雪白を見る。

 しかし雪白は蔵人のドヤ顔など知ったことかと大きな欠伸をして、ふんと鼻を鳴らす。その程度で、と言いたそうである。


 いつかそのふてぶてしい顔を霜で固めて泣かしてやる、といつも反対に泣かされていることを忘れて蔵人は報復を誓いつつ、倒した罠魔に向かう。


 コンっ、と蔵人の頭にまた矢が当った。


 罠魔の最後のあがきを、蔵人は何事もなかったかのように歩を進めた。

 というよりも、氷波とそれを受けた罠魔を見てから、疑問が浮かんでいた。


 死んだと思われる罠魔には薄らと霜が降り、氷片が突き刺さった部分は凍りついていた。氷が突き刺さった場所は、より深く凍結している。

 蔵人の疑問は、随分と迂遠な凍結方式だということ。なぜわざわざ氷なのかということ。本当に氷は必要なのかということ。

 冷凍庫は水を冷やして、氷を作る。

 水と氷の間にあるのは冷却であって、氷は結果である。

 蔵人とて義務教育を終え、一応文系大学も卒業している。薔薇が液体窒素に入れられてパラパラになるのも知っている。

 頻繁に氷精魔法を使い、浅いながらも現代知識を持つ蔵人はそんな疑問があった。


 蔵人はいつものように、思いつくままイメージして、氷精に魔力を渡す。

 その様子を雪白がまた始まったかと嘆息し、アズロナが好奇心一杯に見つめていた。

 アレルドゥリア山脈で体感した厳冬期の寒さと痛みを、その寒さを超える液体窒素を、液体窒素によって完全に凍結した薔薇を。まるで火球(ファイヤーボール)のような、冷気の球を想像した。


 だが、何も起こらない。

 蔵人は諦めずに、さらに魔力を渡す。


 すると、白い煙がゆらめき、そして、ぽんと白煙の玉が浮かび上がった。


「……冷球(フリーズボール)か」

 おお、と驚きの声を上げる蔵人だったが、アズロナが好奇心のままに飛びつこうとしているのを慌てて制し、手近にあった罠魔の死骸に冷球を放つ。罠魔が死んだあとと思ったあとに、罠技が発動したことを忘れてはいなかった。


 白煙に包まれる罠魔。

 胸部の一部が瞬間冷却されたマグロのようになっていた。

「使える、か」

 蔵人が魔力を与えたのはたった一つの氷精であった。

 超低温をイメージ出来ることという制約こそあるが、これは新しい初級氷精魔法である。少なくとも公にはされていないものであった。


 つまり、初級氷精魔法は二種類あって、難易度という点では氷の杭や氷の槍が、ついで中級氷精魔法寸前辺り、もしくは中級氷精魔法を行使できるという条件のもと、冷球の行使が可能になるということであろう。


 現在のところ、この不自然なまでの超低温を生み出すことが出来る魔獣はミド大陸では確認されていない。つまり、これほどの超低温をイメージできるのは蔵人と召喚者、そして別の大陸で純然たる冷気を操る、氷系の上位竜種かそれに匹敵する魔獣と相対した者くらいである。

 もっとも、蔵人が使っているの見ただけでも覚えることが可能になる者はいるはずで、そうなるとこれもあまり人前では使わないほうがいいとも言えるのだが。


 蔵人は思考を切り上げ、罠魔の大きな口から鋭い牙を二本抜いた。

 罠魔に使える素材はなく、この牙が討伐証明部位である。鬱陶しさの割に旨みがないという辺りが探索者や武芸者に嫌われる要因の一つであったりする。


 そして蔵人は精霊魔法の練習を始める。

 蔵人は当初の予定どおり、残った時間で『氷波』と『冷球』の習熟に努め、周囲の魔獣相手に実践で試していった。

 

 そして三日目、地上に戻るべく洞窟を引き返していった。

 船の出航まで、こうして密かに腕を磨きつつ、探索者としてある程度の稼ぎを得られるか、閉鎖環境が自分に向いているかなど探っていくことになる。




 蒼月の五十五日。蔵人が遺跡から帰還し、氷精魔法を試す過程で討伐した魔獣の討伐証明部位で僅かな昇格ポイントと小銭を稼いでギルドを出ると、岩奇街が騒がしかった。

 なんとなしに騒ぎのほうを見ると、全身傷だらけでヨタヨタと歩く武芸者や商人の十数名が龍華国の兵士に縄で括られ、引き回されていた。差し込む夕暮れがいっそう憐れを誘う。


「――隠れ光炎(サンドラ)教徒だな」

 いつのまにか人混みから現れ、蔵人の横に並んでいた大星(ダーシン)が呟いた。

 この龍華国(ロンファ)ではサンドラ教は禁教である。それだけでなく月の女神の信仰や精霊教も禁教とされていた。


 蔵人はそこで遺跡内部で出会ったパトロの不可思議な行動の意味に気づく。パトロは探索者と吟遊詩人を隠れ蓑にした宣教師なのだと。

 蔵人は小声で尋ねる。

「……宣教師は罪になるのか?」

「……会ったのか。まあ、罪にはなる。宣教師は拷問で棄教させられるか、それとも死ぬか。信徒も拷問で棄教か、流刑地送りだ」

「へえ……って知ってたのか」

「遺跡の中に直接買い付けに行くこともある。実際治療はありがたいし、ミド大陸の文化も面白い。だからおれのように信仰しなければいいだけだと、黙認している奴もそれなりにいる。正直馬鹿馬鹿しいと思うが、禁教にする意味も分からないわけじゃない」


 現在龍華国は鎖国に近い状態にあるが、この国の皇帝は海外の情報を積極的に集めていた。ミド大陸北部の国々が遥か昔、アンクワール諸島やインステカを植民地とし、今現在もサウラン大陸でケイグバードを奪ったレシハームを支援していることを龍華国は把握していた。その過程で宗教や商売を利用していることも。

 一般市民は詳しいいきさつを知らないが、商人や耳ざとい者はそれを知っていた。

 

 パトロは探索者と吟遊詩人を装い、布教していたのだろう。そしてそれはパトロだけではない。

 遺跡内で治癒をして恩を売り、次の接触につなげ、あわよくば遺跡の外でも会う。話の内容が説法臭くないのは次に呼ばれるときのためにまずは興味を引く、面白い話を選んでいるせいであった。

 彼らはサンドラ教の素晴らしい教えを伝えるという一心に、殉教覚悟で布教していた。それが侵略的意味合いを持つなど考えもしない。そういう者が選ばれ、この地に来ているのである。


 信教の自由と国家防衛について思うところがないわけではないが、ここは蔵人の国ではない。違法ならば、パトロには出来るだけ近づかないようにするだけである。文章量が無駄に多く未だ詳しく調べていなかったサンドラ教を聞き流すだけで知ることができる良い機会ではあったのだが、仕方ない。

 それでも、悪くない出会いだっただけに少し残念ではあった。


「……ところで、あんたはなんでここに?」

 用務員をしていた頃、挨拶をしただけの関係でしかない生徒が、卒業後に万引きで捕まるのを目撃してしまったような、居た堪れない気持ちを振り払うように蔵人は話題を変えた。

「もちろん、あんたを待っていたんだ。……冗談に決まってるだろ、そんな目をしないでくれ。時間があったからこの辺りで色々聞きまわっていたのさ。まあ、しかし……遺跡から出たばかりだが、疲れてないか?」

 質問の意図は分からなかったが、蔵人は今回はほとんど精霊魔法しか使っていない。多少、緊張疲れしているくらいである。

「――じゃあ、行こうか」

「……は?」

「約束どおり、今日は静かなところで色々聞かせてもらうよ。もちろん、割り勘でな」

 大星は意味ありげにニヤリと笑った。




 白霧山遺跡。地下は迷宮、地上部は岩奇街。ではその上は何があるか。

 蔵人は大星のあとを追って、白い石の階段を進む。

 コツコツと音が響く洞窟階段は綺麗にくり抜かれ、通路の壁には上品な細工が彫り込まれ、それを透かすように内部の灯りが漏れ出ていた。


 通路の時点で、明らかに高級感が漂っている。これは座っていくらの世界である。こんなところで割り勘など御免である、と思ったところで蔵人は大星の笑みの意味を察した。

「――おい、さすがにこんな場所は……」

 何も言わずに蔵人を連れてきた大星は振り返り、蔵人の困ったような焦ったような顔を見ると、プッと吹きだした。

「……ぶはははは、なに、安心してくれ。今日はタダなのさ。タダならどんなに割り勘してもタダだろ?」

 大星はドヤという顔をする。

「……タダ?」

「知り合いにな。大したことをしたわけでもないがお礼にどうしても、って言われてたのを思い出してな」


 タダと言われてさらに警戒を深めた蔵人。

 本気で引き返そうかと考え始めると、大星が途端に申し訳なさそうな顔をした。

「……本当に大丈夫だ。信じてくれ」

 しばらく逡巡してから、蔵人は先へ進むことを了承する。

 蔵人は会って間もないこの男を信用し始めていた。

 理由は分からない。黄系人種の顔立ちが日本人に似ているせいか。妙に波長が合うというべきか。大星がどことなく日本人を思わせるせる気配りをするせいか、それとも雪白たちがまったく警戒していないせいか。それとも、今も昔も自分にはまるでない大星の社交性が羨ましくて、惹かれているのか。


 なのに疑い過ぎただろうか。警戒し過ぎたか。

 いや、警戒してし過ぎるということはないと蔵人は思い直す。

 ……流民扱いされるのだから、警戒して当たり前なのだ。

 蔵人の言葉になるかならないかの自問自答に大星は独り言のように答えた。

「……ああ、そうだよな」

 短い言葉には深い同意が込められていた。

 そのまま無言でしばらく進むと、ぼんやりと灯りに照らされた朱色の門が見えてくる。

「おっ、ここだここだ」



 朱色の門をくぐると、大星に助けられたらしい黄系人種の小柄な老人が出てきた。

 老人はこの店の店主の父親らしく、大星の手を取っていつかの礼を言ってから店の案内を始めた。大星の連れである蔵人、そして雪白たちまでをも粗略に扱うことはなかった。


 先を進んでいた老人が立ち止まり、一枚板に精緻な格子文様の施された扉を開いた。

 潮の香りを乗せて、涼やかな風が抜けていった。

 老人の中へという仕草に誘導され、驚かされることが楽しいといった様子の大星に続いて蔵人が中へ足を踏み入れると、目の前に幽玄な景色が広がった。


 単純ながらも趣のある格子窓の先には、夕日に染まった剥きだしの鋭い岩山があり、その岩肌に生える緑松が鮮やかで、何本かある節くれだった木の枝には名も知らぬ白花が咲き始めていた。視線を下げれば、茜色の海に浮かぶ小舟を漁夫が引き上げ、網にかかった今日の成果を降ろしている。


 雅ながらも閉鎖的な岩窟通路から、いきなり別世界のような解放感のある部屋に通されて立ち尽くしていた蔵人に、老人が椅子を勧める。

 蔵人は言われるままに荷物を置いて座り、雪白たちはその隣にそっと横たわった。最悪の場合を考えて武器を手放す気はなかったが、そんな雰囲気は微塵も感じられない。ただただ穏やかな空気が漂っていた。


 木製の家具はどれも花や動物が巧妙に彫られて艶を放ち、丸机の上にある陶磁の酒瓶は質素ながらも確かな存在感がある。景色も含めて華やかさと侘びしさの混在した、中国の水墨画の世界のようであった。


 蔵人、そして雪白やアズロナが田舎者よろしくきょろきょろしていると、優しくのびやかな弦の音が響く。

「それではごゆるりと」

 老人が静かに部屋を去る。

 蔵人は聞き覚えのある音のほうへ視線を巡らした。


 女が二人、二弓二胡を膝に抱き、椅子に座っていた。その後ろには二本の尾を持つ大きな黒狐が横たわっている。

 女の一人は以前に見た白髪白角の馴鹿(トナカイ)系獣人種、もう一人は黒髪黒耳の黒狐系獣人種であった。どちらも前髪をまっすぐに切り揃え、後ろ髪も長くこれで髪色と種族が同じならば姉妹のようである。

 

 ぴんと張った弦が擦れ、空気を柔らかに震わす。

 あの大星と初めて呑んだ夜の、草原と馬を想起させる曲である。この間とは違い一人増えたせいか、奏でる音はより深く鮮やかに伝わってくるが、前回よりも音は控え目である。

 

「――まずは、一杯」

 大星が蔵人の前に酒杯を置き、陶磁の酒瓶から酒を注ぐ。

 二弓二胡の音量が控えられているようで、大星の声ははっきりと聞こえた。

 大星は自分の分も注ごうとするが、蔵人が酒瓶を掴んで止める。蔵人とて日本のものではあるが、多少なりと酒席のルールは知っている。

 酒瓶を受け取り、大星の酒杯に注いだ。

 ふと雪白を見ると、すでに酒壺が与えられ満足そうにしている。あの老人がやり手なのか、大星が気を回したのか。


「――二度目の酒宴は朋友の始まりさ」

 随分なれなれしいなと思いながらも、蔵人は大星に合わせて酒杯を軽く掲げ、唇を湿らせた。

  

 右側には景色、正面には美しき奏者。

 蔵人はパトロと隠れサンドラ教徒で落ち込みかけた気分は払拭され、大星への警戒もかなり減っていた。ここまでされたら騙されてもいいか、と。それに最悪騙されたとしても、おそらく払えないこともない。

「――それにしても良い部屋だな」

 大星が感嘆の声を発した。

「……ああ、良い部屋だ。それに案内の老人もすごいな。俺はともかく雪白にすら丁寧だった」

「元々この大陸は獣人族が多い。獣顔の奴なんかも稀にいるし、獣を連れている奴もいる。まあ、あそこの黒陽(ヘイヤン)や雪白ほどのはそうそういないがな」

「黒陽?」

「あの芸女さんたちの後ろで睨みを利かせている黒天千尾狐(ヘィテンチィフゥ)のことさ。けっこう有名なんだよ」


 蔵人は鋭い目をした黒天千尾狐の黒陽に視線を向けるが、ちょうど扉がノックされた。

 すると、あっという間に丸机を埋め尽くす料理が運び込まれ、なんと雪白にも四種の肉塊詰め合わせがそっと置かれた。しかも炙りや素揚げといった調理までされている。

「……あんた、いったい何したんだよ」

 料理を運びこんだ給仕が去ったあと、蔵人が大星に尋ねる。あまりにも至れり尽くせりが過ぎている。

「辺境の村を回った帰り道に、妖獣に襲われてるあの老人の一行を助けただけさ。大したことじゃない。それにこの国では盛大にもてなすのが一般的なのさ」

 この大陸では魔獣を妖獣というらしい。

 

 料理が運び込まれると一曲目がちょうど終わり、二弓二胡を置いて二人の女がこちらにやってきた。


「座らせていただきますよ?」


 どこか蓮っ葉な、それでいて丁寧な物言いに蔵人は少し驚いた。外見と口調に少しギャップがあったのだ。

 大星はにこやかに頷くが、女たちはすぐには座らず、まず大星と蔵人の酒杯に酒をつぐ。大星には黒狐系獣人種の女が、蔵人には馴鹿系獣人種の女が。

 酒を注ぐ女の首筋から、ぷんとかすかに香木と化粧の匂いが香る。

 酒をついで椅子に戻る女の後姿に、ぴょんと短い鹿の尾があるのを見つけた。

 そんな些細なことに、蔵人は表情が緩みそうになる。

 相手が娼婦ならばそういう店だと割り切ってしまえばいいが、こんな高級な店に来たことなどないのだから仕方ない。


 そこでようやく二人は椅子に座る。

 大星が二人の酒杯に酒をそそいだ。二人はかすかに会釈をするが、口を湿らせる程度で酒杯を置いた。


「わっちは美児(メイニ)、そしてこっちは弟子の宵児(シァォニ)と申します。今宵はよしなに」

 こうして見ると美児と名乗った馴鹿系獣人種の女は凛として明るく、それとは対照的に宵児と紹介された黒狐系獣人種の女はどこか拒絶感の漂う、はっきりといえば暗い雰囲気の女であった。

 腰まである長い黒髪にばっさりと切り揃えられた前髪。しっとりとした黒い狐耳と黒毛のふさふさした尻尾。美児と同形の、身体に密着しているタイトなモンゴル風の民族衣装は紺地に鮮やかな青華が刺繍され、臙脂色の帯が巻かれている。


 美児と宵児は挨拶を終えるとすぐに立ち上がり、壁伝いにある石壁の窪みにある油皿に火を灯し、二弓二胡の置いてある場所に戻っていった。

 夕日が落ちて薄暗くなっていた部屋はぼんやりと照らされる。そこに浮かび上がる二人の芸女。


 彼女らは『芸女(ユンニゥ)』、それも『侠帯芸女(シァダイユンニゥ)』であると大星は言う。

 この国では娼婦のことを『娼女(チャンニゥ)』というのだが、五十年ほど前から皇帝によって定められたた娼街でしか身体を売ることが出来なくなった。

 すると困ったのは娼婦、だけでなく商人や役人である。

 それまで娼婦を呼んで行っていた接待や歓待といった宴を娼街で行わなければならなくなった。しかし、娼街で行うには相応しくない宴も多かった。

 そこで宴を滞りなく進めるために、身体を売らずに芸を売るという『芸女』が生まれた。当然身体を売ることは許されず、露出のある服装も禁じられた。


 しかし実際は多くの芸女が密かに身体を売っていた。

 そんな中で身体を売らずに芸のみを売ると標榜する者たちは『侠帯芸女』と呼ばれて、持て囃された。

 彼女らは芸の腕のみで座敷を渡り歩き、法を守りながらもそれぞれに工夫を凝らした衣装を着こみ、さらには武侠と謳われることもある武芸者たちの、男用の帯を巻いて身を売らないことを示しているという。


 二曲目が始まる。

 しっとりとした、流れるような弦の音。

 蔵人は侠帯芸女の生き方を想像しながら、聞き入った。


 夜風に花が散る。春が散る。

 散った花弁は、川を流れ、流れていく。

 それを惜しむように、柳の葉がささらと鳴いた。

 

 蔵人がアズロナに料理を分けながら二弓二胡の調べを聞いていると、大星が口を開いた。

「実際、おれたちを案内してくれた老父(ラオフゥ)は立派な人だ。……おれのような元流民にも礼を尽くしてくれる。流民なんぞの恩は恩じゃない。助けて当たり前だ、なんて言う奴も多い」

 大星は自らの出自を告げた。

 蔵人は流民扱いされるが、流民ではなく、そして日本にいた頃から流民という存在の意味を明確には知らなかった。ただ自分が流民扱いされるからこうなんだろうという程度で、大星の出自を知ったところで何が変わるというものでもない。


「ああ、流民なんだから売るのは当たり前、売らないなんて選択肢は端から考えちゃいない」

 サレハドの旧貴族と紺碧大鷲(スニバリオール)を売る売らないで争った。

「銭を投げて、拾えとか言うんだろ?」

「……言われたな。挙句、権力者と結託してろくな仕事を回しやしない」

「流民の手柄は奪って当然。報酬もピンハネされる」

「流民と知れば見下して、好き放題に罵るくせに、自分たちの危機には権力を使って強制的に協力させる」

 蔵人の境遇と大星の境遇はどうやら近いらしい。

 共感を覚える蔵人だったが、徐々に言葉を失くしていった。


「街を探して飲まず食わずで歩き続け、獣に怯えながら、それでも進み続ける。他人どころか知人友人、家族までも脱落するが、進まなければ死ぬ」

 最初のアレルドゥリア山脈の洞窟で精霊魔法を覚えることが出来なかったら、蔵人も凍死していただろう。


「街に入れないなんて当たり前で、なんとか外壁の外に住むことが許されたと思えば、獣が森から溢れたときの肉壁がわり」

 この辺りから、蔵人には身に覚えがない。なんだかんだでマクシームが身分保障をしてくれて、ハンターになれた。


「流民を見れば罪人扱い。物を売ってはくれないし、売ってくれてもふっかけられる。殴られたところで訴え出ることもできず、殺されることだってある。盗まれても、奪われてもなにもできやしない」

 さすがにそれはない。蔵人には雪白がいて、魔獣が蔓延る山でも生きることができた。

 愚痴るように話していた大星だが、蔵人の雰囲気の変化を察し、口調を和らげた。


「――だけど、おれは師父(シフ)に拾われた。玉英(ユーイン)、妻にも出会えた。仲間もいる。捨てたもんじゃないよな?」

 蔵人はこれまで出会った者たちのことを思い出し、頷き返す。やりきれないことも多かったが、決して良いことがなかったわけじゃない。

「よし、呑もう」

「……まだ残ってる。あんたみたいに強くないんだ」

 ノリの悪い蔵人に気を悪くしたところも見せず、大星が言い返す。

「じゃあ、食え。連れに全部食われるぞ?」

 大星の指摘に視線を落とすと、肉の詰め合わせや取り分けた料理を完食し、丸机の上の料理を強奪しているアズロナと雪白の姿があった。

 ちなみに、蔵人はほとんど食べていないが、すでに四分の一ほどがどこかへ消えてしまったようだ。

 蔵人は溜め息をつきつつも、負けじと料理を食べ始めた。

 



 料理もすっかりとなくなり、満腹になったアズロナは雪白の尻尾に揺られて眠っていた。雪白も大きく欠伸をしている。

 格子窓の向こうはすっかりと日が落ち、蒼い半月の光が海面にきらきらと反射していた。

 二弓二胡の調べはもはや何曲目か分からず、今は冬眠から覚めた獣の寝ぼけた様子を思わせる、のんびりした音を奏でている。


「――んっ、いいよなぁ、おれも外の国にいってみたいなぁ」

 大星が酔った声で言う。

 蔵人も少し酔っていた。最初の夜店からこの部屋を思い返し、

「……この国もそれほど悪くないだろ」

 ぽろっとこぼすように言ったそれを、大星は聞き逃さなかった。

「だろぉう?」

 酔っ払いのニヤケた様子が鬱陶しくて、蔵人はそっぽを向いた。


 閉門も近い。そろそろお開きにしよう。大星がそう言うと、弦の音がやんだ。

 そして、美児が蔵人に近寄って言う。

「また呼んでくださいな」

 丸机の向こうから、けたたましい音が鳴り響いた。

 

 黒陽と呼ばれていた黒天千尾狐の尾が、大星を吹き飛ばしたのだ。


 蔵人、そして雪白が即座に臨戦態勢を取ろうとした時、大星はどうにか身を起して制した。

「いや、大丈夫だ。今のはおれが悪い。気にしないでくれ」

 どうやら大星に対して美児と同じように挨拶をした宵児の胸元に、酔って大星の足がもつれて抱きついたらしい。それを反射的に宵児が突き飛ばし、そこに黒陽が追い打ちをかけたというのが真相であった。


「申し訳ありません」

 美児と宵児が深く頭を下げた。

 ただ、本気で申し訳なさそうな美児と違い、僅かに見えた宵児の表情にはほとんど変化はなかった。

 



 突然の凄まじい物音に老人が慌てて部屋に現れたが、なんでもないといって大星と蔵人は店を後にした。

 勘定は本当に請求されなかった。蔵人はここでようやく、最後の警戒を解いたのだった。




 頭がくらくらするという大星と共に、近くの夜店で水を飲みながら休んでいると、美児が姿を見せた。一瞬だけ大星に目配せし、そのまま夜店の粗末な長机を挟んで蔵人の向かい側に腰を下ろすと、言った。

 

「――旦那にお頼みしたいことがあります」


 蔵人は先程の一瞬だけ見せた大星との目配せを思い出し、ようやく納得した。

 会ったばかりの外国人である自分になぜ大星がここまでしてくれるのか。何か理由があるというならば腑に落ちる。

 蔵人の纏う空気が変わろうとし、それに合わせ雪白も蔵人の背後に回る。


 そこに、大星が待ったをかけた。

「すまん。確かに思うところあって声をかけたが、騙すためじゃない。もちろん多少は情を移して欲しいと思ってやったことだが、今までの言葉に嘘はない。おれは本当に元流民で、辺境を回る貧乏商人だ。妻もいるし、師父に拾われたのも本当のことだ」

 大星が賢い妖獣を連れたそれなりに強い者を探していたとき、ちょうど蔵人たちを見つけたのであり、二度目の呑みはその人柄を探るためであったという。


「断っていただいても構いません。もしよければ、という話ですから」

 蔵人は大星と美児の隠しだてのない言葉を聞き、少し考えてから、大星に対する感情を保留した。話を聞いてからでも遅くはないと判断して。


「――『嫌な客』として、振る舞っていただきたいのです」


 ようするに、弟子の育成ということだった。

 先刻、大星がよろめいて宵児に寄り掛かってしまったとき、宵児はそれを強烈に拒絶して突き飛ばし、さらには宵児の報復とばかりに黒陽が追撃してしまった。

 いくら身を売らずに芸を売るといってもあれはやり過ぎで、そもそも侠帯芸女とて仏頂面で酌をせず、スキンシップも拒絶したのでは客はつかない。ある程度、腰に手を回す程度は黙認されていた。


「本来であれば茶館で躾されますが、わっちらは茶館に身を置いておりません。師匠であるわっちが躾けるのが筋なのですが、女の身ではなかなかそれも難しく。そこで旦那に嫌な客として振る舞っていただき、宵児の男嫌いを躾ける機会とさせていただきたいのです」

「……なぜ俺を」

「いくつかありますが、一番大きな理由はそちらの妖獣です」

 蔵人の後ろに控える雪白に目を向ける美児。

「雪白が?」

「宵児と黒陽は幼い頃からいつも一緒におりました。黒陽が宵児より大きくなってもそれは変わらず、むしろ過保護になりつつあります。黒陽を抑えるだけなら武芸者でも構いませんが、黒陽を抑えるときに僅かでも傷つければ、今度は宵児が決して許しません」


 つまり雪白が無傷で黒陽を抑えている間に、蔵人が嫌な客として宵児にストレスをかけて宵児を男に慣らすということらしい。

 他にも、龍華語が堪能であり、妖獣に対して人と同じように接し、酔った高震への対応を見る限りでは並みの武芸者よりもよほど穏便であること。どこの茶館ともつながりがなく、龍華人よりも宵児の心理的圧力が強い外国人で、さらにいつかはこの国を去るため後腐れも無い。

 美児は言い辛いこともはっきりと言った。それが美児なりの誠意であった。


「急ぐ必要があるのか? ゆっくり育てたらどうだ。女に年齢を聞くのもあれだが、二人とも若いだろ」

 美児は蔵人と同程度、宵児は二十歳にも満たないかもしれない。

「……色々と事情もあって、そろそろ宵児を独り立ちさせようと思っています。宵児はあんな子ですから茶館にはおけません。いっぽんどっこが男嫌いの潔癖ではどうなるか、目に見えています」


 蔵人は大星を見る。

「……あんたはなぜ協力を?」

「玉英が美児と知り合いでな、頼まれたんだ」

「……そういや結婚してたな」

「事の成否にかかわらず、出来うる限り報酬は支払います。事が終われば、旦那に恨みがいかぬように宵児に真相を話します。もちろん依頼中はわっちも同行し、黒陽が止まりそうになければ止めます。幸いにもわっちの言葉は聞いてくれるので」


 蔵人はちらりと美児を見てから、背後の雪白に目を向けた。

 船が出るまでは遺跡にもぐって訓練するだけである。蔵人は受けてもいいと考えていたが、今回の依頼はむしろ雪白がメインである。

 視線を受けた雪白は、至極面倒そうな顔をした。

 あの黒狐は気に入らない。

 ずっと睨んで、喧嘩を売っていた。

 あの見下すような澄まし顔も忌々しい。


 乗り気じゃない雪白に、蔵人がぼそりとこぼす。

「……今日はともかく、この間は大星の奢りで随分飲み食いしてたな。タダより高いものはないって言葉は知ってるか?」

 大星ならそんなつもりはないと言うだろうが、それを聞いた雪白は渋面を浮かべ、ギラリと大星を睨む。


 殺意混じりの寒気に大星は身を震わせて何事かと周囲を見渡すも、すでに雪白は殺気を鎮めていた。そして――。


――………………がう


 今にも舌打ちしかねない様子で、一つ唸った。

 受けたということである。借りは作りたくないらしい。


「じゃあ、細かいところを決めて、契約書にしてくれ」

 協会の依頼だと思えばいい。

 契約書は信用するとかしないとかの問題ではない。お互いに信用し、契約を履行するための証である。これを断るのなら、どちらにしろ信用などできやしないのだ。


「ありがとうございます。もちろん書かせていただきます。このご恩はこの美児の名にかけて、きっとお返し致します」

 こうして蔵人たちは細かな条件を詰め、契約書、こちらでいう証文をしたためた。


 


 翌朝。

 『嫌な客』としての仕事は三日に一度、蔵人が旅立つまでということになった

 遺跡での訓練もそれに合わせて行えばちょうどいい。三日潜り、休養ついでに嫌な客としての仕事をして、また潜る。

 今夜から、嫌な客としての仕事がある。

 蔵人は探索者ギルドで遺跡の情報や龍華国のことを調べてから、昨夜のあの高級店に向かった。

 あの高級店の老人は美児とも知り合いらしく、快く協力してくれることになったらしい。




 蔵人は昨日と同じ席に座り、宵児の酌を受けていた。

 何気なく言ってみた。特に深い意味はない。

 それが嫌な客としての言葉であったわけでもない。なんとなく昨日から思っていたことを尋ね、腕を伸ばした。

 

「――耳、いや尻尾を触らせてくっ――」


 ――黒い影が、飛び込んできた。


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