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用務員さんは勇者じゃありませんので  作者: 棚花尋平
第三章 船を待つ日々/前月
71/144

70-ハンターらしい生活の始まり

 

 昇り始めた朝日と居残った白月が睨み合うような位置にある、そんな早朝の薄明かりに照らされたバルティスを囲む土壁には蔵人と雪白、蔵人のフードにおさまったアズロナの影が伸びていた。

 蔵人はふと頬に当たる風が数日前よりも冷たくなったように感じた。

 暦が白月に変わって数日しか経っていないが、肌寒さは増し、木々の色合いも変わり始めているようだった。

 蔵人はバルティスの門に向かって、歩き出した。

 蔵人がなぜバルティスに来たのか。

 それは客と娼婦がベッドで交わした、冗談のような、願いのような、果たされる保障のない戯れのような約束を果たすためだった。

 



 娼婦であるエスティアを買った日の翌日、夜も明けきらぬ薄暗い早朝。

 帰り支度をして、蔵人がエスティアに料金を支払った時のことだ。

「……一つ、お願いがあるのだけど」

 そういってエスティアは、蔵人に頼みごとをした。

 こまごまとしたことを無視して簡単に言うなら、北バルークでハンターとして活動してくれれば、一夜の料金を半額にするということだった。

 以前にも何人かのハンターに頼んだが、ほとんど果たされなかったという。

 北バルークには協会がなく、全ての依頼は直接交渉になる。

 しかし協会を通さない依頼は違法でこそないが、近くに協会がある土地でそれをすると協会が良い顔をせず睨まれる原因ともなり、協会を通さない依頼はランクアップにもつながらないため多くのハンターは嫌がるのだとか。

 なぜそんなことになったのか。

 ようするにハンター協会が仕事をしないことが原因なのだが、政治的かつ感情的な問題が絡んでいるため協会としてもどうにもできずにいるというのが現状であった。

「あたしはバルーク人だからね……」

 エスティアはその猫のような目で蔵人をじっと見つめた。

 蔵人はこの世界はそういうものなんだろうと不思議に思わなかったが、マルノヴァ人はこの縦長の瞳を、バルーク人に残る獣人の特徴を蔑視していた。

 バルーク人とマルノヴァ人の確執は根深かった。

 ミド大陸北部と南部の中間地点であるバルークの国民は北部の白系人種と南部の獣人種の血が数千年単位で混じりあった者たちがほとんどで、獣人種の身体能力こそ受け継いではいないものの、エスティアの瞳が猫の特徴を残しているように、身体のどこかに獣人種の特徴を残していた。

 隣接しているために歴史的にも色々とあり、それらが相まってマルノヴァ人はそれを嫌うようになったという。

 精霊魔法の使い手がエルフ以外にはいなかった時代、自律魔法も開発できず、自覚的な命精魔法も使えなかった獣人種の多くは長く北部の国々に支配され、北部の国々も支配するのが当然だという考えがあった。

 しかし獣人種が精霊魔法や自覚的な命精魔法を扱えるようになり、支配から脱却した今でも白系人種は彼らを蔑視する傾向があった。

 マルノヴァ人はそうであり、獣人種の特徴を残すバルーク人を一段下に見る傾向にあり、バルーク人もそんな目で見られては友好的になれるわけもなく、特に隣接する北バルークは長い間そんなマルノヴァ人と付き合わざるを得なかったせいか、マルノヴァ人を敵視するようになっていた。

 そんな関係ではマルノヴァ人のハンターがバルーク人のエスティアを興味本位で買うことはあっても、その頼みを聞くということはなかった。ハンターとしても、マルノヴァ人としても旨みがなかった。

 たまに訪れる流れのハンターも一度は了承するが、二度とエスティアのところには現れなかった。料金の半額だけが目当てで、またどこかに流れていってしまった。

 それでもエスティアは客がハンターならば頼んでいるという。

「生まれ育った場所だからね……」

 それ以上の理由は、語らなかった。




 そういうわけで蔵人はバルティスに来た。

 船を待つ間、隠れ巣にこもってずっと絵を描いていてもいいのだが、今はどうにも筆が止まってしまっていた。

 描きたいものはあるのだが、何かが足りなかった。

 技量なのか、技法なのか、道具なのか、理解なのか、見当もつかなかった。

 それなら暇つぶしにハンターとして行動するのも悪くない。

 正直なところをいえば、マルノヴァにはあまり近づきたくないということもあった。

 今回のことは包み隠さず雪白とアズロナにも説明してあった。

 アズロナは首を傾げてよくわかっていない様子だったが、雪白は面白くなさそうだった。

 だが雪白に隠れ巣に残っているかと聞くと不機嫌そうにフンと鼻を鳴らし、そっぽを向き、長い尻尾でべしべしと蔵人を叩きながらも、ついてきた。


 雪白とアズロナを魔獣厩舎に預けた蔵人は初めてバルティスに足を踏み入れた。

 マルノヴァと同じように石造りの街並みではあるが、規模は比ぶべくもなく小さい。早朝だということもあるのだろうが、街全体が寂れ、どことなく活気がなかった。

 蔵人はエスティアに言われた酒場を探して、そこに入った。名前などない、ただの酒場である。

 ここにいる女主人がバルティスの町長の娘であり、協会のないこの街でハンターに依頼を仲介しているという話だった。

「今日はもう終わりだよ」

 店のドアを開いた蔵人に向かって、カウンターの奥で店じまいをしていた恰幅のいい女主人が気だるそうに言った。

「エスティアの紹介といえばわかるらしいんだが、あんたがレイレさんか?」

 レイレは胡乱な目を蔵人に向ける。

「……あんた、ハンターだろ。星は?マルノヴァ人じゃなさそうだが」

「八つ。流れのハンターだ」

「……帰りな、と言いたいところだけどエスティアの紹介だしねぇ。パーティは?」

「一人……というより一人と二匹か」

「……まあ一人のほうがトラブルがなさそうだね、八つね。まあ、座りなよ」

「朝からすまんな」

「ほんとだよ、あたしはこれから寝るところだったんだ。まったく……」

 ぶつぶつ言いながらも、蔵人が座ったカウンターにコップを置く。

 コップの中には薄切りにした柑橘系の果実が浮いていた。

「まず先に言っておくよ。今の北バルークでまともな報酬は期待しないでほしい。それでもここで、ハンターとして活動するっていうのかい?」

「頼まれたからな」

「言っちゃ悪いが娼婦の戯言だよ?そんなものを真に受けてどうするんだい」

「正直なところでいえば暇つぶしの物見遊山だが、娼婦の願いを聞くのも悪くないとは思ってる」

 呆れたような目をするレイレ。

 蔵人はエスティアを描きたいと思ったことは言わなかった。言っても仕方がない。描くために、エスティアを知るために、エスティアの願いを聞く気になった。

 イライダが身をもって体現するところの、他のハンターがいないところでこそハンターをするというのを無意識のうちに考えていたのかもしれない。

「……正直なところ八つ星(コンバジラ)くらいのハンターなら間に合ってるんだよ」

 少し申し訳なさそうに、暗にいらないから帰れとレイレの口調は言っていた。

 エスティアの話との齟齬に蔵人は少し戸惑った。

「……その様子だと、知らなかったみたいだね。まあ、あの娘も十年以上この街にいないんだから分からないのもおかしな話じゃないんだけど。まったく、もうこんなことしなくてもいいっていうのに」

「……何人か、来たのか?」

 レイレは不快そうに顔を顰める。

「冷やかしにね。報酬が安いと分かるとさっさと帰っていったよ」

 蔵人は少し考えてから言った。

「塩漬け依頼のようなものはないか?ランクは気にしなくていい」

「……あるけど、ほとんど中位の上二つ以上に頼むようなものばかりだよ」

「リストがあるなら見せてくれ」

「……」

「流れのハンターなんだ。野垂れ死んだところで痛くも痒くもないだろ」

 しょうがないねとため息をつきながら、レイレはカウンターの下から紙束を取り出して蔵人に渡した。

 ぱらぱらとそれを眺めながら、何枚か抜いていく蔵人。

「ちょっと、あんた」

「これだけ受けていく。で、報酬なんだが」

「……だからいったろ、まともな額じゃないって」

 確かに蔵人が抜いた依頼の報酬は難易度に比べて安かった。

「それはわかってる。この街に腕のいい鍛冶屋はいるか?」

「いるわけないじゃないか」

 碌なハンターの出入りがないんだと呟くレイレ。

「そうか。なら革防具の職人はいるか?」

「……いないこともない。今はもう引退して、手慰みに街の人間相手に日用品を作ってるけどね」

 蔵人は自分の荷からぐるぐる巻きにしておいた朧黒馬(フォネスカッロ)の皮を取りだす。

 協会で売るのを辞めた後、蔵人は思いつきで朧黒馬の皮を食料リュックに入れてみると、何故か入れることができた。皮の内側に肉や脂が残っていたために入れることができたのか、それとも焼き鳥の鶏皮のように皮は食べられると判断されたのか、しかしそのお陰でほとんど劣化することなく皮を保管出来ていた。

「それは……」

 レイレの顔が歪む。

 朧黒馬はバルティスの南にある草原を生息域としており、バルークでは緑鬣飛竜と並ぶ最も獰猛な魔獣として知られれていた。人や魔獣、時には飛竜すら食らう悪食で、バルークの人間は黒い悪魔といって決してその縄張りには近づかなかった。

 安全策を取るなら高位ハンターが数人がかりで狩る相手であり、少なくとも八つ星の狩れる相手ではない。

「連れの猟獣が高位魔獣でな、盗んだものじゃないから安心してくれ。なんなら魔獣厩舎で確認するか?」

「……いや、いい」

「そうか。でだ、この塩漬け依頼の報酬はいらないからこの皮を俺が望むように加工してほしい。もし俺が依頼をこなせなかったときは、正規の値を支払う」

「マルノヴァならいくらでも職人はいるだろ?」

「鍛冶屋にいけば追い出されて、協会では買い叩かれそうになってな。ちょっと面倒臭くなって放置してたんだが、交換条件ならちょうどいいかと思ってな」

 レイレがどこか不憫そうに蔵人を見る。

「運が悪いのか、間が悪いのか。うーん、そうだねぇ、ちょっとその依頼書、見せてみな」

 蔵人の抜いた依頼書を受け取り、これはアンデールのとこかい、それにウルとアリツか、となにやら呟きながらぺらぺらとめくっていくレイレ。

 そして顔を上げると、蔵人にいった。

「……なんとかなりそうだね。ちょっと待ってな、エカイツ爺さんを呼んでくる」

「こんな時間に来ておいてなんだが、いくらなんでも早いだろ」

「年寄りは早起きなんだよ。それにエカイツ爺さんもエスティアを知らないわけじゃないしね」

 ポツンと朝の酒場に残される蔵人。

 カウンターに忘れられたように放置されていたぬるいレモン水モドキを氷精で冷やしてから、口に含んだ。


 低位ハンターは必要ないという齟齬こそあったが、エスティアの言っていたことに間違いはなかった。

 もし次も買ってくれるなら、半値でいいよ。きっと報酬はそれほど払ってもらえないと思うから。

 エスティアはそう言った。

 北バルークになぜ協会がなく、魔獣車で一日ほどのマルノヴァを頼れないのか。

 なぜそれほどに困窮しているのか。

 それは北バルークの立場にあった。

 バルーク自治区は南部にある中心都市エルギアがユーリフランツに恭順を示しているが、北部は独立を目指していた。ただ北部とて武力で独立できるとは考えておらず、実態としてはユーリフランツに従いながら緩やかに独立を目指しているというところだった。

 しかしユーリフランツに同化したい南部のエルギア行政府により、北部に協会の支部を置かないという嫌がらせを受けていた。マルノヴァに近いのだから、そちらを頼れということらしい。

 だが北バルークとマルノヴァは近いがゆえに、犬猿の仲である。

 バルーク人がマルノヴァの協会を頼ったところで依頼をまともに受けてはもらえず、よしんば依頼が張り出されたとしてもそれを受けるマルノヴァ人のハンターはいなかった。

 ユーリフランツとしてはバルーク自治区を緩やかに自国へ同化させたいとの思惑からマルノヴァに北バルークへ協力するように要請しているのだが、上手くいっていない。

 ユーリフランツではそれぞれの都市の権限や市民意識が強く、マルノヴァ人の持つバルークへの差別意識もあって、政府の思惑通りにはなかなかいかなかった。

 そもそも白系人種が獣人種を蔑視する傾向にあるのだから、政府として本腰を入れているとは言い難い状況でもあった。

 さらにそこへ勇者による飛竜の卵の奪取があり、それを機にマルノヴァはさらなる嫌がらせを始めた。

 ユーリフランツと北バルークを跨ぐように存在する竜山には緑鬣飛竜が生息しており、古くから両国の土地をおおよそ均等に縄張りとしていた。

 だがマルノヴァは勇者による飛竜の卵の強奪によって発生する飛竜の報復行動を防ぐためと称し、ユーリフランツ側の縄張りから飛竜を追い出して封鎖するように治安維持の飛竜隊を配置した。

 その結果、北バルーク側に飛竜の縄張りがせりだし、飛竜災害が増大することになり、北バルークへの人の出入りが減って、経済的にも困窮することになる。

 治安維持という名目上、ユーリフランツ政府がマルノヴァに対してそれを辞めさせることもできなかった。

 ただでさえ少なかったバルークの依頼を受けるマルノヴァのハンターは、北バルークでの飛竜の活動活発化を知ると、自らの腕を鑑みて辞めざるを得なくなったという。

 この時代にそれほど珍しくもない話だが、エスティアは生まれ育った故郷を見捨てることはできなかった。だが娼婦の自分に出来ることなどなく、こうやってハンターの客に頼んでいるという。

 

 蔵人がそんなことをエスティアの伏した目とともに思いだしていると、レイレが腰のまがった老人を連れて戻ってきた。

 腰が曲がってなお蔵人ほどの身長はあったが、白髪に白い顎髭はどこか老いた熊を思わせた。

 その老人はカウンターに置いてあった朧黒馬の皮を見ると垂れた眉をピクリと動かし、蔵人に目を向ける。

 蔵人が頷くと老人は丸められた朧黒馬の皮を持ち、丸テーブルの上に広げると、食い入るように皮を見つめた。

 レイレが呆れたような顔をする。

「名乗りもしないで、まったく。この爺さんはエカイツ。昔はバルークでも指折りの職人だったけど、随分前に引退して生まれ故郷のここで日用品なんかを作ってくれてる。

 で、本当にいいのかい?」

「ああ――」

「――高位魔獣を従えているというのは嘘じゃないようだな」

 蔵人の返事を遮って、エカイツが言った。二人の話を遮ったことなど気にした様子もなく広げた朧黒馬の皮の喉元を指差す。

「喉元が綺麗に食いちぎられてる。この様子だとほとんど一撃だ、朧黒馬相手にこんなことができるのは同格以上の魔獣しかないだろう。緑鬣飛竜の噛み痕でもないし、この辺りではみない魔獣だ、死んでたのを持ってきたわけでもなさそうだ。

 皮は……肉がところどころに残っていて剥ぎ方は荒いが、鮮度は悪くないからどうにでもなる」

 エカイツはどこか懐かしそうな顔をして皮を見つめていた。

「で、どういう風にしてほしいんだ?」

 我が道を行く老人の楽しげな視線を感じながら、蔵人はレイレを見る。

「……あんたが塩漬け依頼をこなせば、加工費用はこっちが持つし、北バルークで仕事をしやすいように斡旋もする。こなせなかったら費用はそっち持ちだ。ハンターとしての活動自体はあたしに止めようはないからね、好きにするといい。八つ星でどれだけ相手にされるかはわからないけど」

「わかった」

 蔵人は即答して、エカイツと相談しだした。

 レイレには蔵人の行動が分からなかった。

 北バルークに肩入れすれば、マルノヴァ人から睨まれることになる。エスティアに深入りしている様子もないのにたかだか娼婦の願いになぜここまでするのか。そもそも高位魔獣を従える力を持ちながらなぜ八つ星なのか。

 エカイツ爺さんと真剣に話し合う様子の蔵人を見ながら、レイレは不思議でしょうがなかったが、優秀なハンターなら儲けもの、だめならだめで失うものもないと、ちょっとした暇つぶしのつもりで放置しておくことにした。 

 本当に高位魔獣を従えているなら、安易に刺激していい存在でもないのだから。



 エカイツとの相談を終えると、蔵人はレイレの酒場を出て、すぐ外へ向かった。

 目的地はバルティス側の竜山麓にある森であった。

 門を出ると雪白は不機嫌そうな顔をしながらも尻尾をピンと立てて、狩りへの期待を露わにし、蔵人のフードが定位置となったアズロナも竜山から降りたときから新しい景色に興味津々なようでフードの中で落ち着きなくキョロキョロしていた。


「――魔獣は狩らないぞ?」

 蔵人の何気ない言葉に、雪白は愕然とした顔をして蔵人を振り返った。

「受けたのは採取依頼ばかりだからな」

 闇精魔法の親和力が最も高い蔵人にとって採取が一番リスクなくこなせる依頼であった。それも雪白がいる限りは飛竜が手を出してこないのだから難易度は格段に下がり、蔵人としてはこれを狙わない手はなかった。

 唯一の誤算は、期待を裏切られてべしべしと蔵人の脚を尻尾で叩く雪白のことだろうか。

「狩りは次回だな。アズロナを頼むよ」

 蔵人はフードからアズロナをつまみ上げて雪白の頭にそっと乗せた。

――がぅうううう

 雪白は覚えておけよとでも言いたげに一つ唸ると、アズロナの胴体に尻尾を巻きつけ、そのまま背中に移した。

 日が完全に暮れる前には竜山麓の森に到着する。

 森の様子はマルノヴァ側とそれほどかわりはない。

 普通のハンターならば例え獣人種だとしても好んで夜の森に入ることはないが、雪白が背後に控える蔵人にとっては稼ぎ時である。

 蔵人はさっそく光精を追い出すようにして増えだした闇精に魔力を渡して闇を纏うと、気配を夕闇と同化させながら森の奥深くに進んだ。

 一時間ほど歩くと人の手があまり入っていないせいか、入り組んだところまで探す必要もなく、バラよりも花びらの少ない赤や青、紫の花の蕾が十数輪、群生しているのを見つけた。

 蔵人は風精で空気中に残っている香りや花粉を風下に散らしてから、布を口に当てて蕾を摘み始める。

 マルノヴァの協会で見た資料では吟遊詩人の花(ヴァーヒオ)、バルークでは喜びの番い花(ガスレア)と呼ばれる。

 赤い花が青い花の花粉を受粉すると紫に変色して活性化し、強い香りを発生させ、その香りを感知して青い花もまた紫に変色してさらに花粉を生産する。

 この時に紫の花が生み出す香りはタマネギを切ったときのように目を刺激して涙を流させ、花粉はしばらく止められないほどの笑いを引き起こす。さらにこれらが混じり合ったものを吸ってしまうと昏倒すらするというところから、まるで悲劇喜劇を自由に操る吟遊詩人の歌のようだということでマルノヴァでは吟遊詩人の花と呼ばれている。

 しかし両方とも蕾の内は紫の花に対する解毒薬となり、バルークの年寄りが罹りやすい風土病にもよく効く薬となる。

 死ぬことはないが身体の節々が疼痛に苛まれるこの病はマルノヴァ人には罹らない。おそらく獣人種の血が混じったバルーク人に特有のものだろうと考えられていた。

 本来ならば開花時期前に摘んでしまうのだがハンターの数が少なく、十分な量が確保できなかったらしい。死ぬことはない病だということで後回しにされたともいえた。

 開花時期に一斉に咲くわけではないので夜になって紫の花が閉じた頃を見計らい、その時に変色していない花の蕾を取ればいいが、飛竜が頭上を飛び、多くの夜行性肉食魔獣が活性化する夜に竜山の麓に来る酔狂なハンターはおらず、半ば塩漬け依頼のようになっていた。

 

 蔵人はマルノヴァの協会にあった資料を思い出しながら、時には資料を書き写した雑記帳を見ながら森の奥に進み、依頼の品を集めていく。

 採取をしながら、ふと背筋に寒気を感じて蔵人はちらりと背後を見る。

 闇夜に、ギラリと光る灰金色の双眸があった。

 ぶすっとした雪白である。

 ジロリとこちらを睨むように見る雪白。

 蔵人は闇に光るその双眸から視線を逸らして、来た道を引き返した。

 依頼の品は全て集まっていた。

 バルティスに戻る間、蔵人は雪白の視線を背後に感じ、いつマルカジリされるかと妙な緊張を強いられることになる。

――ギプー

 幸せそうに雪白の尻尾に包まれて眠るアズロナの寝息が蔵人には羨ましかった。


 森を出たのは、まだ空も薄暗い頃だった。

 蔵人は軽くひと眠りしてからバルティスに向かい、夕暮れには到着した。

 未だ御機嫌斜めの雪白とそんな雪白に物おじせずじゃれついているアズロナを魔獣厩舎に預けると、蔵人は早朝とは違って騒がしいレイレの酒場に足を踏み入れた。

 途端に、険しい視線が飛んでくる。

 見知らぬ余所者に対する警戒心であろうか。

 北バルークの状況を考えればおかしなことでもないと、蔵人は担いでいた布袋を足元に置いてカウンターに腰かけた。

「何か飲むかい?」

 レイレの言葉に蔵人は首を振って、足元の布袋をカウンターに乗せた。

「これでいいんだろ?凍らせて問題ないとあったから全部凍らせたがまずかったか?」

 蔵人の言葉にしばし唖然としていたレイレが布袋の口を開いてのぞき込むと、そこにはぎっしりと依頼の品が詰め込まれていた。

「いやむしろこっちがお礼を言いたいくらいだ。全部凍らせてあるなら、加工を急ぐ必要もないしね」

 そういってカウンターから布袋を下ろし、奥の男衆を呼び付けて持たせた。

「随分と早いね」

「相棒が優秀なんでな、気兼ねなく採取できるんだ」

「そうかい。じゃあ、これが約束のもんだ」

 レイレは蔵人の前に小さな木の板と何枚か紙を置いた。

「木の板は紹介状のようなものさ、他の村についたら村長に見せるといい。そして紙のほうはいくつかの村までの地図さ」

「この街でハンターとして活動すればいいんじゃないのか?」

「協会じゃないんだ、あたしが管理できるのはこの街の中のことくらいさ。他はそれぞれの村にいってもらわないといけないんだよ。

 試すようなことをして悪かったね、北バルークでハンターとして活動してもらえると助かるよ」

 レイレは頭を下げた。

 蔵人はこの街でハンターとして生活すれば、エスティアの感じていたものが多少なりともわかり、筆も進むと思っていたのだが当てが外れた形になった。

 ただ、バルティスにまるで近づかないということもないだろうし、どうせ暇つぶしである。

 多くを期待しても仕方がないと蔵人は紹介状と地図を見つめた。

「……ということは報酬もそれぞれの村で交渉ってことか」

 レイレは頭を上げて、答える。

「そういうことになるね。最初にいったように、大した金額は払えないんだ」

「ああ、金はい――」

――ドンッ

 蔵人のすぐ横を通って、カウンターに拳が叩きつけられる。

「――どこのハンターだか知らねえが、何しに来たっ!」

 酔ったハンターらしき中年の男が蔵人を睨みつけていた。

「流れのハンターが、ハンターとして――」

「――そんなこと聞いちゃねえんだよっ!おめえがエスティアに誑かされてここに来たことはわかってんだっ!」

 余所者の出入りが少ない街では、大きな猟獣と飛竜の仔を連れたハンターは一日もしない内にその目的まで知られてしまっていた。

「それの何が悪い」

「裏切り者の売女に憐れまれる筋合いはねえっ!とっとと帰ってあの売女のこぎたねえカラダでも抱いてやがれっ!」

 酔ったハンターがカウンターに置かれた木の板に手を伸ばすが、蔵人はそれを遮った。

「てめえ、やんのかっ!」

 蔵人に腕を握られたまま、ハンターは拳を振り上げた。

「――やめんかっ!」

 聞いたことのある声が酔ったハンターを一喝した。

 その年季の入った大声に、酔ったハンターを支持するようにはやし立てていた酒場の客も静まり返る。

「碌な腕もねえハンターが折角来てくれたハンターに絡むんじゃねえっ!」

 酔ったハンターは蔵人の腕を乱暴にほどき、一喝したエカイツを睨みつける。

「腕がねえとは聞き捨てならねえな。こんな得体の知れねえ野郎より、俺のほうが弱いってえのかっ!」

「はん、おめえが朧黒馬を狩ったなんて聞いたことねえからな」

「あんっ、こいつが朧黒馬を狩ったてえのか?ボケるのは早すぎるぜっ!」

「うちに皮を持ちこんだからな。頭はボケたかもしれねえが、この目は曇ってねえよ」

 酔ったハンターはちらりと蔵人を見て舌打ちすると何人かを連れて酒場を出て行った。

 長老格の一人であるエカイツと朧黒馬を討伐したとされるハンターでは相手が悪いと酔った頭でも理解できた。

 酒場は静まり返っていたが、エカイツはそんなことは気にも留めずに蔵人の隣に座った。

「余計なことだったか」

「いや、助かった。無駄な争いはしないに限る」

 蔵人は戦闘狂ではないし、緊張や敵意、戦うことそのものもを楽しいと思ったことはなかった。敵対するから、攻撃せざるを得ないだけである。

 エカイツが飲むか?と言うが蔵人は首を横に振る。

 ただでさえ雪白が不機嫌だと言うのにこれで酒の匂いでもさせて帰ったなら何を言われるかわからない。

「あいつらも街のために頑張ってくれてるんだが、やはりこんな状況だとな。

 ああ、注文の品だが十日後くらいに一度来てくれ。その時に補修もしちまうからよ」

 付き合いの悪い蔵人に気を悪くした様子もなくエカイツは言った。

 蔵人はその言葉に頷くと、立ち上がった。

「……何もきかねえのか?」

 裏切り者と言われたエスティアのことだろう。

「しょせん娼婦と客の関係だ。娼婦が言わないなら、聞かないほうがいい」

 そう言い残して、蔵人は酒場から立ち去った。


 残されたエカイツはなんともいえない顔をして、成り行きを見守っていたレイレを見る。

「今回のはずいぶんとおかしなハンターだな」

 レイレも首を傾げる。

「ほんとに」

 まあ悪い奴じゃなさそうだけどね、レイレはそう呟いて頬杖をついた。

 エカイツもちげえねえと呟いて杯を呷った。


 日はとっぷりと暮れていたが蔵人は街を出た。

 街を囲む土壁の近くに簡易な小屋を作り、そこに寝そべった。

――ぐあぅ

 ぬっと雪白が目の前に横たわり、アズロナを適当に地面に転がすと尻尾で蔵人に催促する。

 蔵人はへいへいと返事しながら、ブラシを取りだし、雪白の柔毛を梳き始めた。

 転がされたアズロナは一対の翼腕と全身を上手く使って、まるで氷の上を這うアザラシのように前進して雪白の尻尾に到達すると、まるで子猫のように雪白の尻尾にじゃれついた。

 雪白もブラッシングを堪能しながら素知らぬ顔をしているが、だらんと伸びた尻尾の先を右に左に巧妙に動かしてアズロナを遊ばせていた。


 

 翌朝、幾分機嫌のよくなった雪白といつも通り元気なアズロナを連れて、蔵人はバルティスを南下する。バルティスの南にある北バルーク唯一の漁村であるドノルボにいくつもりだった。

 

 ドノルボには丸一日かけて到着した。

 蔵人は濃い潮の匂いにどこか懐かしさを覚える。

 紹介状とタグを見せて、質素な門をくぐると、まさに漁村があった。

 小さな漁村に魔獣厩舎などなく、雪白やアズロナも一緒に門をくぐり、もの珍しいその景色を見つめていた。

 村の中を進み、門番に聞いた村長の家に行くとその家の前に、見たくない顔を発見し、蔵人は吐き気と眩暈に襲われる。


 そんな蔵人を見て、雪白がご愁傷様という目をし、アズロナは大丈夫?といういたわりの目をした。

 

  

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