26-ご機嫌取り
アカリが風呂から出たあと、蔵人は雪白と風呂に入ったが、風呂上りにさんざん雪白をブラッシングさせられた。
新しいブラシも買ってきてみたが、お気に召さなかったようだ。
三剣角鹿の尾のブラシだとアカリにいったら、それ以上の高級品は王都にでもいかないとない、というか女性にすれば垂涎の的ですよ、と言われた。
少し手を入れれば、人間用としても使えるらしい。
その翌日。
日も昇らぬ早朝、昨夜の残りで簡単な朝食を済ませた蔵人、アカリ、雪白の三人はアレルドゥリア山脈での狩りに出た。
二日間こもりきりだったアカリの気分転換と塩漬け依頼、そしてなにより、雪白のご機嫌取りであった。
雪白は尻尾をゆらゆらと立てながら蔵人、アカリを先導するように斜面をのぼる。
「ゴキゲンですね、雪白さん」
「わかるのか?」
アカリはくすっと笑いながらもどこか悔しそうにいう。
「それはわかりますよ。私といた二日間であんなに楽しげなことなかったですから。昨日だってあんなにブラッシングして……うらやましい」
「いつでもかわるよ」
「雪白さんに嫌われたくないんで遠慮しておきます。それにしても、本当にイルニークが人と生活するんですね。日本にいたころから、動物に懐かれやすかったりします?」
「飼ったことあるのはオタマジャクシくらいだな。それ以外は特別飼ったこともないし、ましてや懐かれやすいなんてことはないな。まあ雪白とはこれくらいのときからの付き合いだからな」
そういって手のひらをアカリに見せる。
「手のひら大の雪白さん……」
アカリはまたどこかへとトリップしはじめた。
――ぐぉう
雪白が早くこいといいたげに吠える。
「へいへい、いまいきますよ」
蔵人もトリップしていたアカリも慌てて雪白を追いかけた。
蔵人の食べていた野草にカレー風味のものがあった。
最近ではカレー風シチューとしてマクシームやアカリに振る舞ったあれである。
「わ、私、そんな高いもの食べてたんですか……いってくださいよっ!」
アカリは顔を青くした。
「いや、今、アカリに教えてもらって名前知ったし」
三人は蔵人の棲む洞窟から斜面を登って、山頂近くまできた。山頂には青々としたコケが広がり、その合間にはところどころ雪が残っていた。
背後にはさらに高い山々が白い冠を被って連なり、目下に広がる森林の先にはサレハド村が小さく見えていた。
蔵人は雪をそっと剥いで、その下にあるさらに青くそして透明なコケをまとめて毟り、一気に凍らせた。
「冷たいカレー煎餅みたいでうまかったんだが、これが一塊で一〇〇〇ロドとはね。紺碧大鷲の羽や嘴と同じじゃん」
「『トラモラ草』は雪の下にある状態でこそ、味、香り、効能が高いので、なかなかとるのは難しいんですよ。この山は厳冬期になるとほとんど登攀不可能ですから、大棘地蜘蛛の石化中の三日、白幻討伐の時期しかないんです。でもその時期は暗黙の了解で白幻討伐に選ばれたハンター以外は白幻の居には近寄れませんから、実質的にはだれも依頼を受けられなかったんだと思います」
蔵人がフーンと鼻を鳴らす。
そして雪白もクンクンと鼻を鳴らす。
――パクリ。
「……」
「……」
――パリパリ、もしゃもしゃ。
蔵人は無言で足元の雪をよせて、またトラモラ草を毟って凍らせる。
――パクリ。
「…………」
「ゆ、雪白さんや、食べてしまうとちょっと困るんだが」
――パリパリ、モシャモシャ。
雪白は無言で凍ったトラモラ草を食べ続けた。
結局、雪白に取られずにすんだトラモラ草は三塊ほどで、それらは蔵人の食料リュックに確保された。
それからすぐ、可及的速やかに雪白が希望している狩りに取り掛かることになる。
そうでもしなければ、全てのトラモラ草が雪白に食べられてしまっていただろう。
「この辺はあまり来たことないな」
山頂から洞窟側とは反対の斜面を下っていた。
枯れ葉の混じった低木の葉の上には雪がところどころ残り、あきらかに洞窟側とは気温も違った。
――グルゥ
雪白の喉を奥を鳴らした鳴き声は発見・警告である。
蔵人は音もなく身を低くする。そうしなければ雪白の尻尾が――。
――ぺしっ。
蔵人よりいくぶん弱いながら、アカリの顔に尻尾が直撃した。
アカリは微妙に身をくねらせながらも蔵人のまねをして身を低くする。
うふふっとアカリは嬉しげだ。
アカリの性格的に故意に立ちっぱなしだったわけではないだろうが、その表情をみるとそれも怪しく思えてくる。
蔵人はアカリのことは見なかったことにして、雪白の視線の先をたどる。
人である。
ただし、口がない。鼻がない。目がない。眉がない。耳がない。
それ以外は、傷のある皮鎧を着た、棍棒と盾をもった戦士である。
怪物の全身にはゆらゆらと冷気を纏い、歩くたびに低木や地面が凍りついた。
「っ怪物……」
震えた声でアカリが呟いた。
この世界で唯一絶対の邪なるものがいるとすれば、怪物である。
精霊が腹を減らすなどして魔力が枯渇すると狂い、変質し、具現化する、天災。
何かを食べることもなく、繁殖することもない、あまねく生物の敵といわれていたが、詳しいことはわかっていなかった。
蔵人にとって初めての遭遇だった。
知っているのは魔法教本に書かれていたことだけ。
その習性はただ一つ。
魔力に惹かれて、襲いかかる。
相手は氷精の変異した、戦士型の怪物。
ここには壁になって近接に対応できるような人間はいない。
「……聖霊魔法は使えるか?」
「……ハズレ勇者でも勇者ですからね、叩きこまれましたよ。ただ、少し時間がかかります」
「……ならトドメは任せる。俺は距離をとって時間を稼ぐから、狙われないようにしろよ」
アカリは真剣な顔で頷く。少し震えているようだ。
確かに蔵人も恐怖を感じていた。
根拠のない、得体のしれない恐怖を、心の根っこ、人としての根源に感じていた。
それでも、と蔵人はそれを捩じ伏せる。
退けるならば退くが、どうやら退けそうにない。
獣のようなスピードで怪物がこちらへ駆けてくる。
蔵人は怯みそうになる。
その横っ面を流れ星のように雪白が一掻きして通り過ぎ、怪物の足をとめた。
退けそうにないなら、捩じ伏せるしかないのだ。
蔵人は怯みを押し込め、怪物が足をとめた一瞬にブーメランを投げる。
――ザンッ
それは怪物の顔に突き刺さる。
太いひっかき傷、ブーメランの刺し傷、両方から赤い血が流れるが、流れるそばから凍りつく。
怪物は血を流す。さながら人のように。
蔵人は手を緩めない。
怪物には過剰に攻撃してなお足りないと教本にあったのだ。
怪物の直下から土精魔法で土の杭を射出する。
股から胸にかけて串刺しになった怪物の歩みは完全に止まった。
そこへ背後から飛びかかった雪白が、怪物の首を食いちぎる。
同時に、怪物の地面の四方から突き出た土の杭が、突き刺さった。
ごろりと転がる怪物の頭部。
蔵人は一つため息をついて、アカリをみる。
弓を構えたアカリは淡く光を帯びていた。
「ま、まだですっ」
アカリの警告。
蔵人は振り返った。
串刺しになった土の杭を凍らせて、全て粉砕し、首のないままの怪物が迫っていた。
腰のククリ刀を抜く。
蔵人にできたのはそこまでで、棍棒が振り下ろされた。
一撃で、音もなく物理障壁が破られる。
障壁を修復する間もなく、振り切られた棍棒が跳ね上がって蔵人を襲う。
横合いから雪白が突進したまま噛みつくも、それは盾のある腕だ。
雪白を食いつかせたまま微動だにせず、棍棒は下方から蔵人の顔めがけて振り抜かれた。
棍棒と顔の間に二本の腕が間に合っていなければ、今頃、蔵人の首から上は砕かれていたかもしれない。
無残に折れた蔵人の両腕。
鎖骨の辺りに矢が突き刺さって動かなくなった怪物。
時が止まったようであった。
「ううっ」
蔵人のうめき声に、アカリと雪白はようやく反応して、駆けよる。
蔵人の意識は朦朧としていた。
両腕をへし折ってなお、あの棍棒は蔵人の脳を揺らしたのだ。
思考がまとまらない。
アカリと雪白がこちらへ駆けよるのが見て取れた。
目の前には怪物の死体。
遠くに顔のない頭部が見えた。
「……土の、棺」
最後に土精魔法を詠唱発動し、蔵人の意識は途絶えた。
蔵人が目を覚ましたのは、その日の夕方だった。
それほど眠ってはいなかったらしい。
蔵人が買ったばかりの毛皮の敷物から身を起こす。
「ああ、ダメですよ、寝てないと。両腕と顎を骨折してるんですから」
身体が熱っぽかった。
毛布をはごうとすると、びきりと腕に激痛が走る。
「うごっぅ」
うめいて身をよじる蔵人の毛布をアカリが剥ぐ。
「熱いですよね。意識なかったので、勝手に治療させてもらいました」
申し訳なさそうなアカリが横に座っていることに今、気がついた。
「マクシームさん仕込みの命精魔法ですからね」
それを聞いただけで、どこかマッチョになっているような気がした。
「うごぅっ」
「顎の骨が折れてたんです。まだ喋れないと思います。粉砕してなかったのが幸いでしたね」
蔵人はぐぅと唸る。
「ふふふ、これでも命精魔法の治療は得意なんですよ。意識のないときにかけたきりですから、もう一度かけます。受け入れてくださいね」
意識のない時をのぞき、命精魔法には了承が必要である。それなら意識のない時に洗脳などをかけられそうなものだが、意識のない時の治療は命を維持するだけの治療しかできなかった。
こうして加速度的に回復させるには本人の了承が必要だった。
「があぁあああああああああ」
口を開いたまま、蔵人がうなりを上げる。
折れた顎の骨の亀裂を合わせ、それの回復を促す。歯を食いしばらないように、ご丁寧にも顎の骨を外しているようだ。いつのまにか足も拳も土で固定されていた。
そのまま腕の骨へとアカリが移動する。
「がああぁあああああああああ」
両腕も同じようにされ、最後に顎をはめられて、治療は終わった。
アカリが額を手でぬぐいながら、満足そうに顔を上げた。
治療の時のアカリはサディストそのものである。
「とりあえずつなぎましたので、大丈夫かと。今夜はきっと熱いと思いますけど我慢してくださいね」
命精魔法での身体の修復は早めれば早めるほど、痛みとその後の熱がひどくなった。
「う、あ、おっ、しゃ、べれるな。で、ど、うなった?」
蔵人は怪物がどうなったのか知りたかった。
アカリはやりきったような顔をひっこめて、申し訳なさそうな顔をした。
「用務……蔵人さんが閉じ込めた首はトドメを刺しておきました。土の塊になってなお動いたときはびっくりしましたよ。身体も首も消滅させたので大丈夫です。でも……」
アカリが蔵人の横たわる足の先をみる。
蔵人も首だけでそちらを見ると、
そこにはしょぼんとして座る雪白と、小さな丸盾があった。