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用務員さんは勇者じゃありませんので  作者: 棚花尋平
第五章 砂漠と荒野の境界で
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110-己ゆえに

 

 ラケルと殴り合いをした翌早朝。

 蔵人はナザレアの外壁から少し離れた場所で、まだ夜も明けきらぬ蒼暗い荒野をぼうっと眺めていた。

 雪白はいつもの狩りから戻り、今はアズロナと共にそばで丸まっている。


 最初に見た砂漠の暁と、今見ている荒野の暁はよく似ていた。

 足下の大地が砂か、土かの差だけで、どこに行けばいいのかわからないほどに大きな世界が寂しげに広がっている。いっそ同じではないのか錯覚するほどに。

「……ああ、そういうことか」

 蔵人がぽつりと漏らした独り言に、横にいた雪白とアズロナが首を上げて蔵人を見つめた。

 ようやく気づいた。

 ラケルと殴り合い、話し合い、一夜を置いて、その朝に荒野を見つめ、考え続けて、ようやくわかった。


 結局のところ、この国に来たときのままなのだと。


 砂漠と荒野の境界線で、何をしようか、どこに行こうかと立ち止まっていたときのままなのだ。

 そこから動くことなく、目の前を通るサディやリヴカ、ファルシャ、レシハーム人や自治区の者たちを見つめていただけ。どうしようかと判断できずに、迷っていただけ。

 ジーバの依頼を果たしたり、そのためにサディの依頼を受けたりはしたが、それも恩や恩に付随するついででしかない。ファルシャの先導者にしても、義務的に受けただけ。

 骨人種たちの自立を助けて共に立とうとしたわけでもないし、リヴカと共にレシハームと旧ケイグバードの融和に向けて動こうとしたわけでもない。


 己が己のまま、彼らと付き合っていた。


 それが悪いなどとは無論思っていない。

 良い事もあった。悔いはない。

 しかし自分を保つために培ってきた精神、それは結局のところ自分が窮屈と言った精霊教やアスハム教にこだわるリヴカやサディとなんらかわりのないものだった。

 いや、一部でも自分をかえようとしない蔵人は、自分たちの罪を認めてそれでも前へ進むために融和を果たそうとしているリヴカや、過去にこだわりすぎずに融和を目指していたサディよりも頑迷といえるかもしれない。


 異教徒だから。

 確かにそれも原因の一つではある。そのせいで、受け入れられなかったのだから。

 実のところ、最初に荒野と砂漠の境目で出会い、後に再会した骨人種の女は初めて会ったときに蔵人に素顔を晒して許しを乞うたために、アスハム教の教義に反したとして罰を受けていた。蔵人が事情を説明しようとしても、アスハム教のコミュニティーは、そしてなにより女自身がそれを望まなかった。教義に反したのは事実であり、甘んじてそれを受け入れていた。

 サディの件も、フーリという女が総合療養施設の男を連れてこなければ、アドの言うように『異教徒が口を挟むな』という言葉に返す言葉もなかったはずである。家族の問題でもあるためなおさら。

 そして、今回のリヴカとの関係も蔵人が異教徒だから、発生したことである。

 ことごとく拒絶されていた、とも言える。


 ただそれは当たり前のことでもある。

 今の自分、異教徒のままでどこかに帰属しようというほうが、この世界ではおかしなことだ。

 同じルールを守るという誓いも立てられない者を受け入れる者などいない。


 ならば改宗することができるかと言うと、それも難しい。

 生きるために心を作り上げ、その心は日本にいた頃の、そして異世界に来てからの蔵人を救った。

 日本にいた頃はそれでどうにか自分を保ち、道に外れずに済んだ。異世界に来てからは、敵と味方をきっちりと区別し、筋をとおすことで、敵に対して殺人という手段を用いても、己にはなんら悪いところなどなかったと思うことができ、殺人という最大の禁忌を犯す罪悪感を緩和することができた。

 そしてそれは雪白やイライダ、ヨビ、ジーバ、大星やほか様々な者たちとの友誼を深めることにも繋がった。


 だからこそ、筋のとおらぬレシハームや精霊教、アスハム教を受け入れることはできなかった。

 確かに、大星や骨人種を見て、どこかに帰属したいという微かな想いはあった。

 だがかつて龍華国の閻老師も言っていたようにその国の人間になるならば、骨を埋める覚悟というものが必要になる。それは良い面だけではなく、因習も罪も受け入れなくてはならないということ。それがその国に生きるということであった。


 ならば、どうすればいいのか。

 そう考えると、蔵人は途方に暮れてしまった。

 まるで荒野や砂漠のど真ん中に置き去りにされたようで、それこそどこに行けばいいのかわからなくなった。

 己を手放すことはできず、されど帰属地を求める。

 蔵人は自分の滑稽さに笑いすらこみ上げてきた。


 それを横で見ていた雪白が呆れたようにため息をついた。

 無言で身を寄せ、ぐりぐりと蔵人に頭を押しつける。アズロナも心得たとばかりにばさりと飛んで、拙い飛行で蔵人の顔にへばりつく。

 成長した今のアズロナに不意をつかれれば耐えられようはずもなく、蔵人は地面に倒れ込んだ。

「おいっ……、ま、待て、なにをうぇ」

 アズロナのぷにっとした腹が久しぶりに蔵人の顔面を襲い、雪白の頭突きが蔵人の内臓を口から吐き出させようとでもしているかのように威力を増していく。

 暇だからへんな考えに囚われるんだ、吐き出させてやるっ、とでも言いたげにスキンシップを始める雪白。

 なんだかわからないけど遊べば元気になるよっ、とアズロナも蔵人の髪をくしゃくしゃにする。

「……」

 そう答えなど出ようはずがない。

 もとより己はこの世界の異邦人なのだから。

 蔵人はどうにもできない問題をどこかに置いておき、雪白とアズロナに反撃を始めようとした。

 が、雪白だけでも手に負えないのに、アズロナもそれなりに強くなってしまっていた。

 抵抗むなしく、蔵人は朝日が完全に顔を出して気温が上昇し始めるまで、二人にもみくちゃにされ続けた。




 少なくとも居場所はここにある。

 ならば、焦ることはない。

 蔵人はそんな風に思いながら、自分でスキンシップをしたくせに暑いっと苛立たしげにする雪白にせっつかれて、ナザレアの借家に戻っていった。




 雪白とアズロナを家に残し、蔵人は協会に来ていた。

 習慣といってしまってもいいかもしれないが、とりあえず身体を動かせば何か変わるかもしれないと仕事を探しに来た。ぼうとしていたところでいい考えなど浮かばず、絵筆も先に進まない。

「――あの、クランドさんにメッセージが届いています」

 張り出されている依頼票を眺めていた蔵人に小柄で胸の大きな職員のハンナが声をかけた。

 それを受け取ると、折り畳まれた紙には短いメッセージが書かれている。


『近々サウランに行く。もしまだサウランにいるようなら、通訳を頼む』


 イライダとヨビからであった。

 イライダはアンクワールで魔獣災害に対処しなければならず、サウラン行きはしばらく延期だと聞かされてから、すっかり忘れていたというのが正直なところだった。

 しかしこれで、船が来ればサウランを去るという選択肢は潰れたことになる。

 残るのか、そんな風に思うも、しばらく考えを巡らせていると、それが決して嫌ではないことに気づいた。

 リヴカとは何もなかった。

 だが、友人であることまでやめたわけではない。

 面倒な奴だがラケルもいる。月の女神の付き人や骨人種たちも。

 別に絶縁したわけではない。

 嫌いじゃない奴らがここにいる。

 それで、いいのかもしれない。


 蔵人はそれでなんとなく納得して、ハンナに礼を言ってから再び依頼票を眺め始めた。

 近くでハンナがまだ何か言いたげにしているが、言い出す気配が一向にない。

 しばらくしてこちらから聞くか、と蔵人が思った頃、

「――ちょっとよろしいですか?」

 ハンナにかわって、見知らぬ女性職員が蔵人に声をかけた。

 振り返って見ると、どことなく雰囲気はリヴカに似ているが、年齢は二十以上も上の中年女性である。

「初めまして、アンジェと申します。クランドさんにぜひ紹介したい依頼があるのですが」

 唐突なことに戸惑いながらも蔵人は答える。

「いや、俺の担当はリヴカだろ?」

「今日は急な用件でベレツに行っていますのでお休みさせていただいております」

「なら確か、副担当はさっきのハンナじゃあ……」

 するとアンジェはちらりと自分の後ろに視線を向けた。

 そこには、小さな身体をさらに小さくしたハンナがいた。

「えっと、アンジェさんはわたしの上司でして……」

 どこの世界にも上司に逆らえる職員はいないということか。ハンナを見て蔵人は状況を把握したが、なぜそうなったかがわからない。

「……知ってると思うが護衛依頼は受けない。怪しいのもな」

 しかしハンナたちの上司であったとしても態度を変えるような蔵人ではない。なんだかんだでサレハド、ラッタナ、マルノヴァと責任者や支部長クラスと面を合わせ、あまりいい思い出がないのだから仕方ない。

 リヴカとのことでいろいろと考えてはいたが、早々に性質(たち)というものは変えられないらしい。

「……その件でも少しお話があります」

 そう言ってアンジェは協会内にある個室へ蔵人を案内した。



 応接間のような部屋に蔵人、そしてアンジェとハンナが向かい合うように座っていた。

「――流れのハンターには独特の信条ややり方があるのは理解しておりますし、そんなハンターを取り込むために担当制を用いているのはこの国の都合です」

 アンジェはそう切り出した。

「ですが担当するハンターのために担当者たちは日々、自分の担当するハンターに適した依頼を取り合い、直接営業に行くことすらあります。もちろんそれもこちらの都合です」

 ただ、と一息入れて、アンジェは続けた。

「担当職員もこのハンター協会という組織でうまくやっていかなくてはなりません。いつも良い依頼を担当ハンターに回せるとは限りません。そのあたりはどう思われていますか?」

 アンジェは穏やかに、しかし強く蔵人に問う。

「確かに、俺が受ける依頼は限られているが、別にうまい依頼を回してくれと言っているわけじゃない。紅蓮飛竜だって塩漬けだっただろ?」

「ええ、知っています。……ですが、あなたはリヴカと結ばれるつもりはないのでしょう?」

 その言葉に蔵人は目を鋭くした。上司だかなんだか知らないが、人の内心に土足で踏み込んでいいわけがない。

「……プライベートな問題ですからご不快なのは理解しています。ですが、あの娘は赤の他人というわけではありません。日々の態度から心の変化を読み取れる程度の付き合いはしております」

 冷酷とも言えるような蔵人の怒気に、さすがは長く職員として勤めているだけあってアンジェは怯むことなくそう言った。


 アンジェの言葉に、親戚のようなものかと思い当たった蔵人は多少怒気を引っ込める。

「……あの娘はへんな男にひっかかるくせに、いつも最後の一歩を踏み込めません。そしてそれはこれからも変わらないでしょう」

 本人がいる前でそう言い放ってしまう度胸に呆れる蔵人だったが、あまりにも真っ当な評価に言い返す言葉もなかった。

 魔獣と暮らし、この国では公にすることを禁止されている絵を描いている。ハンターであるが、七つ星以上に上げる気もなく、将来性という意味では見込みは薄い。食うに困ることはないだろうが、人の社会で出世する気配など微塵もない。

 それくらいは自覚している。そもそも結婚などとうに諦めていたのだからしょうがない。


「……そんなことは、ないと思うが」

 なんとかそうリヴカを擁護するが、蔵人自身が最後の一歩を踏み込めていないのだから説得力は無い。

「そうすると、この協会で働き続けることになり、その立場が問題になります。あの娘は馬鹿正直に担当ハンターの希望に沿って依頼を選んでしまいます。正直に申しますと、ほかの職員はハンターを転がしていい気分で依頼を受けさせるくらいのことは平気でしますし、それが普通です。ですが、あの娘にはそれができません。そしてハンターを取り込むこともできません。当然評価も偏りがちになっているのですが、自分の出世なんてものは考えもしていないので気にしていません」

 リヴカは生真面目すぎるほど生真面目だ。ファルシャのときのように適正ではない依頼を受けようとすれば即座に跳ねるが、ハンターがやりたくない仕事を無理にさせることはない。

 蔵人はそれが普通だと思っていた。

 だがそれでは協会というものが回らないということは、少し考えればわかることである。


「それなりに有能ですからクビということはないでしょうが、これではいつほかの職員から疎まれるかわかりません。いまはまだ若く、ハンターを取り込む役目もあるため何も言われませんが、あと五年もすれば……。私がそうでしたから、よくわかります」

 アンジェは行き遅れという年齢でどうにか結婚したが、結婚が決まるまでは針のむしろ状態であったという。

「……俺に、どうしろと?」

 その言葉を待っていたかのように、アンジェは横に座るハンナは見た。

 ハンナはぴんと背を伸ばして、緊張した面持ちで話し出す。背を伸ばしているせいか、ただでさえ大きな胸がより大きく見えた。

「――蔵人さんに受けていただきたいのは、こちらの依頼、『燃える水の調査隊護衛』です。基本的には砂漠の浅い部分で行われる調査隊の護衛ということになっています。レシハームにとってとても大きな仕事で、レシハームの未来がかかっているといっても過言ではありません」

「……護衛、か」

 困ったように呟く蔵人。基本的に護衛依頼は受けないことにしている。

 そんな蔵人の反応にハンナが困ったような顔をするが、アンジェが補足した。

「あの紅蓮飛竜の依頼をこなしたことで、この協会でのクランドさんの評価は高まりました。七つ星ながら戦闘ならば高位ハンタークラスの実力がある、と。むろん猟獣を含めた評価です。結果、それが担当であるリヴカの評価にも繋がりましたが、今後もそれを続けられなければ依頼を受けさせられないリヴカが無能と言われてしまいます。もちろん、リヴカがこんなことを言っているわけではありません。私の勝手なお節介です」


 まだ渋る蔵人に、アンジェはさらにたたみかける。

「護衛といっても近づいてくる魔獣を片っ端から狩るだけです。守るのは調査隊のメンバーだけで、狩った魔獣はハンターで分配、報酬も破格です。現地で野営するのが基本ですが、二十日ごとにかわりのハンターが現地に向かいますので、身体を休める時間は十分にあると思います。それに護衛の指揮系統はハンターにあり、被護衛者に振り回されることもないでしょう。ある程度は現地の方針に従っていただきますが、基本的にはハンター個人の意思が尊重されます」

「……最悪自分だけで動いてもいいのか?」

 蔵人がぽつりと返した一言に、アンジェは手応えを感じた。

 興味を持ってくれた。こうなればこちらのものである。

「それはよしたほうがいいでしょう。なにも嫌がらせで言っているのではなく、サウラン砂漠の性質の問題です。特別な準備もなしに砂漠に足を踏み入れれば、いかに高位魔獣と一緒にいたとしても確実に迷います。たとえ、もと来た荒野を確認しながら歩いていたとしても、いつのまにかそれが蜃気楼のような幻とすり替わっている。そうして方角を失い、さらに迷い込んで、文字通りの帰らぬ人になってしまいます。『帰らずの砂漠』と呼ばれているのも伊達ではありません」

 サウラン砂漠に入るためだけに作られた魔法具だけが、サウラン砂漠の出入りを可能にしていた。


「……なら、やは――」

「――ただ、それ以外ならある程度の融通は利きます。たとえば……もし何かあれば、そうですね、貴方の猟獣を捨て駒にするような命令があった場合、それを拒絶し、依頼を放棄するなんていうことも可能です。もちろんそのときには私に報告してもらいますが」

 断ろうとした蔵人は、その言葉に驚いた。

「……いいのかそんな約束をして? ほかのハンターもみんなそうなのか?」

 最初に言った条件も相当な厚遇である。

「浅い部分とはいえ、それだけ砂漠は危険なのだと心得てください。やる気のないハンターがいればそれだけで調査隊は壊滅してしまいます。『準最前線』とお考えください。それと、最初の条件はすべてのハンターに当てはまりますが、依頼放棄の件についてはクランドさんだけです。それだけ、紅蓮飛竜の件が評価されたのだとご理解ください」

 依頼放棄、これだけで蔵人の心の天秤は傾き始めていた。

「それに、リヴカも貴方を信用しているようですし、依頼放棄を悪用することはないと信じております」


 率直に信用されていると言われて気恥ずかしい蔵人は、それを誤魔化すように依頼についてさらに質問した。

「燃える水ってのはなんだ? それに誰がなぜそんなものを探してる?」

 燃える水とはおそらく石油だろうと確信していたが、蔵人は一応尋ねた。

「燃料になると聞いております。依頼人は国と深い関係のある開拓組織で、協会も信用する組織です。燃える水を探す理由としましては、砂糖にだけ頼ることはこれからのレシハームを考えると危険であり、燃える水が発見されればこの国が豊かになります。そうすれば現実問題として存在する二級市民や自治区への差別もある程度は緩やかになっていく、と考えられています」

 ハンナとは違って、資料を読むことなくすらすらと語るアンジェ。

 無論、額面どおりには受け取れない。

 だが蔵人はこの国に来て初めて、貧困が差別を引き起こす一因だと提起する言葉を公の組織内で聞いた気がした。

 表向きの言葉かもしれないが、表向きの言葉すらない世界よりはよっぽどマシとも言える。


「えっと、ラロさんも参加してますので、孤立するというような状態にもならないと思います。蔵人さんが参加するかもしれないと言うと、頼もしいなと喜んでました」

 ハンナがそう言った。

 蔵人が渋い顔をすると、アンジェがすかさずハンナの耳を抓り上げる。

「あなたはどうしてそう口が軽いのですっ。まだ決まってもいないことを話すなんて信用に関わるとなぜわからないのですっ」

「いだっ、ごごごめんなさい、つ、つい……」

 しょぼんと背を丸めるハンナ。この女もまた最初から変わっていない。

 アンジェはハンナの耳を放し、コホンと一つ咳払いしてから話を続けた。

「……失礼しました。ハンナにはあとからキツく言っておきます。それでどうでしょうか?」


 蔵人はそこで即答することなく、さらにいくつか質問を重ねた。

 イライダたちを待つ間限定でもかまわない。何かあればアンジェが随時対応する。雪白の身柄を押さえてしまうような行動を取らない。

 質問すべてに対してきちんと返してくるアンジェに蔵人は断る口実を無くしていった。

 それに、リヴカの窮地とあっては無視はできない。

 アンジェの言葉を信用するか否かというよりは、少し想像力を働かせればわかる問題である。すべてハンターのいうとおりに依頼をさせていれば、塩漬け依頼が山となっているだろう。

 そして、リヴカを心配する女の頼みということも大きかった。

 おそらくこの中年女性は相当にやり手の受付職員だったのだろう。まさに言葉どおり、ハンターをうまく転がして仕事を受けさせてきたと実感できた。

 だが、リヴカのためにそんな手練手管を用いている、つまりはリヴカが愛されているということもまた事実で、そんな相手を粗略にも扱い辛かった。

 いろいろあったとはいえ、リヴカへの情がなくなったわけではない。


 最終的には雪白に相談してからの話であるが、蔵人は受けてもかまわないと思い始めていた。

 アンジェの言葉はすべて書面にして残してある。

「それでは良い返事をお待ちしております」

 蔵人が立ち上がると、アンジェも立ち上がって、蔵人が立ち去るのを見送った。

 転がされるというのはこういうことかと苦笑しながら、蔵人は雪白に相談するべく協会をあとにした。






*******




 

 ベレツにある賢者宅の一室にトール、アキラ、ユキコ、そしてリヴカの姿があった。

 トールは大きな机に座り、その後ろにアキラとユキコが立っている。

 リヴカはいつも以上に緊張した面持ちで、机を挟んでトールの前に立っていた。

「しばらくぶりですね」

「はい。賢者様もお元気そうでなによりです」

「はは、相変わらず堅いですね。そんなたいした存在じゃありませんので肩の力を抜いてください」

 そう言われて、肩の力を抜けるくらいならリヴカはこの年になるまで堅物だなどと言われてはいない。そもそも相手は精霊教でも雲の上の存在である。何度会おうが慣れるわけがない。

「仕方ありませんね。それでは、以前に伝えておいたクランドというハンターの調査報告を聞かせてください」

 トールはリヴカから提出された書類に目を通しながら、実際に担当として接したリヴカの報告を聞きたがった。アキラという同じ日本人の顔見知りが見た蔵人像ではなく、現地の完全に初対面から始まった人間が見た蔵人という人物の人となりを知りたいと思っていた。


 リヴカとトールはかつてトールがこっそりとこの地を訪れたときからの知り合いであった。

 ハンターと職員という関係で付き合っていく中で、リヴカが旧ケイグバードとの融和を望んでいることに気づいたトールが改めて賢者として接触し、リヴカから市井やハンター情報を得るような間柄になっていた。

 ただそれはトールとだけの関係であり、変身していたアキラのことは知らず、お互いに調査のことは知らなかった。この場においても、アキラは今日リヴカのことを知らされたが、リヴカは今もってアキラのことは知らなかった。

『とても強力な魔獣を従えているという話を聞いてね。その猟獣に危険性はないか、ハンターがそれを悪用しないかを調査してほしい。人となりもね』

 トールがリヴカに調査を依頼したのは、蔵人が拘束された直後、リヴカが蔵人の担当になるであろうと決まったときのことである。


 リヴカは堅い口調で報告を始めた。

「……猟獣は飛雪豹(イルニーク)という高位魔獣で、名前はユキシロ。資料にある飛雪豹という存在とは比べものにならないほどの戦闘能力と知能を持ちますが、完全に人の社会を理解して行動しているようで、突然暴走するということはないかと思います。現に私も友好的な関係を築くことができました。

 飛竜の変異種のほうはアズロナといって、単眼で脚なしの四翼、まだ成竜になっていませんが、飛ぶのも走るのも苦手で、水中を好むようです。こちらはまだ成竜ではないので未知数ですが、非常に人慣れしており、かつて龍華国では食べ物に釣られて誘拐され、干物にされかけたこともあると聞いております」

 干物というところでトールの後ろに立っていたアキラが吹き出しかけていた。

 トールはそんなアキラの気配を背中で感じながら、相槌をうつ。

「それはすごいですね。調教手段が確立していない高位魔獣を従えたのは遙か昔冒険者時代には稀にあったらしいですが、ここ百年で確認されているのは一例か二例というところですからね。ああ、勇者は除いて、ですが。それに飛竜の変異種ですか、……生育が相当に難しかったと聞いていますがよく育てたものですね。しかも変異というよりは欠損といったほうがいいような飛竜なのに……」

 魔獣使い(インスタントテイマー)の加護を持つ勇者は高位魔獣とアズロナと同時期に生まれたと推測される六翼の飛竜を従えている。


「はい。しかし調教手段を確立したというよりは、偶然幼獣の頃に出会ってそのまま飛雪豹や飛竜の生活環境下で生活を共にしたこと、そしてクランドというハンターの精神性が大きいかと思います」

「……精神性?」

「はい。他人から見れば偏屈で狭量、非情に警戒心が強く、野生で生まれ育った人間、というほうがしっくり来ます。しかしそれは猟獣に合わせた結果、ともいえるような気がします。護衛依頼を受けないというのも、他者の責任まで負えないとご自身が言う理由のほかに、他人の指揮下に入って猟獣を使い潰されないようにしているという面のほうが強いのではないかと思います。それに今回は猟獣も一緒にという条件で家を借りてくださりましたが、今まではほとんど猟獣と共に野営していたそうです。もちろん猟獣が人の社会への理解を示しているという部分も大きいですが、それだけ猟獣側に生活を合わせたなら、信頼関係も築きやすいかと思います」


 トールは呆れを通り越して、感心してしまった。

「なるほど……そもそも飛雪豹の生活環境で生活っていうのも想像を絶しますね。おそらくは洞窟で暮らしたんでしょうが、外の気温はマイナス二十度じゃきかないだろうに……。では本人にも魔獣にも危険性はないと?」

「はい。……ただ、過度な干渉……いえ、敵対的な行為や裏切るような行為を一度でもしてしまったら、信用を得るのは難しいかと思います」

 ラケルとの初対面やなすりつけの話をしていたときの目、冷酷な怒りを帯びた目をリヴカは何度か目にして、気づいていた。

 万が一にもその生活を脅かそうものなら、なにをするかわからない、と。


 だが、そこまでは言わなかった。

 これはリヴカの推測でしかないし、それは人としてある意味では当たり前のことでもある。あえて言葉にして不安や警戒感を煽る必要はない。

 レシハームと旧ケイグバードの融和を目指している賢者にならばなんでも協力したいところだが、その周囲がそうであるとは言い切れない。

 蔵人に迷惑をかけるわけにはいかなかった。


「そうですか。……一つ不躾な質問をさせてもらいます。――結婚相手としてはどうですか?」

 レシハームの職員は優秀なハンターをレシハームに取り込む役目も持つ。もちろんそれは本人の意思を無視したものではないが、職員も将来有望なハンターならば、と積極的に動いている者も多かった。

 リヴカは一瞬喉を詰まらせるが、すぐに答えた。

「――難しいですね」

「それはなぜ?」

「クランドというハンターはレシハームに帰属しません。そして精霊教への改宗も決してしないでしょう。改宗しない限り、精霊教徒である私は結婚できません」

 まごう事なき、これが蔵人を諦めた理由だった。

 

 アスハム教とケイグバード。

 精霊教とレシハーム。

 どちらに属せば、どちらかと戦う恐れがある。そのどちらにも知り合いがいる蔵人は決して選べないだろう。

 そして何より、蔵人は信仰をというものを持てない。いや、すでに持っているからこそ、それ以外の信仰を必要としない。だからこそ雪白とアズロナが共にあることができる。

 誇りとか、矜持とか、意地とか、そういうものをひっくるめて、信仰している。

 たとえばアスハム教徒の極端な男尊女卑を受け入れられない。正確にいえばアスハム教の男尊女卑は極めて緩やかなものであり、大本のアスハム教が生まれる以前のサウラン文化が、アスハム教を利用して極端な男尊女卑にしてしまっているのだが、蔵人にとっては同じ事である。

 精霊教にしても骨人種を魔獣と規定してしまったり、選民思想的なものが強かったりする。現にリヴカの祖父の世代がそれを建前にケイグバードを侵略したのだから。

 もちろん宗教側にも言い分やそうなった歴史はあるのだが、あの人はそんなことを考慮しない。

 ならばなぜ、他者を排斥するような教義を変えようとしない。

 平気でそんなことを言ってしまうだろう。

 そんなところが、苛立たしかった。

 最初は、そうだった。


「ああ、そうか。精霊教はサンドラ教以外の異教徒とは結婚できないんでしたね。それなら確かに……」

 トールの言葉を聞きながら、リヴカの脳裏に先日の蔵人の顔がちらついた。

 なすりつけたハンターを、それを見逃すレシハームを、彼を決して許せない。

 だからこそリヴカは惹かれつつあった想いを断ち切って、蔵人を諦めた。

 そう、惹かれつつあった。

 それを認めた瞬間に諦めるとは、なんと皮肉なことだろうか。

 強さに惹かれたわけじゃない。うまく転がせば稼ぎも良さそうだなどと思ったわけでもない。担当職員の役目として取り込もうと思ったわけでもない。まして賢者に情報収集を頼まれたから取り入っておこうと思ったわけでもない。

 そもそもリヴカは、社会性のない男は嫌いであった。


 ただ、社会性のない理由を知り、それが許せることならば、それは障害にはならなかった。

 リヴカには早くから家族がいない。

 だからかもしれない。

 蔵人と雪白、アズロナの姿に幼い頃になくしていた家族を重ねていた。

 たぶん、そこにまず惹かれた。

 惹かれた目で見ると、性根も悪くない。稼ぎだって悪過ぎるわけでもない。あの絵はどうかと思うが、芸術といえないこともない。

 スケベで多情なのが気にはなるが、それは多くの男に共通することである。レシハームにすらいない厳格な精霊教徒でもない限りは、その力が許すなら愛人を持っているのが常である。

 ならばあとは、精霊教徒に改宗してくれさえすれば、それでよかった。

 何も厳格な精霊教徒になどならなくていい。世俗的で、最低限定められた教義を守ってくれればそれでいい。リヴカの周りにもそんな者たちはたくさんいる。

 だが、蔵人はそれですら無理だという確信があった。

 いや精霊教徒にはなってくれるかもしれない。

 けれど、レシハーム人にはなれない。


 ならば自分がついていく。

 それも、無理である。

 リヴカはレシハーム人だ。両親がいないとはいえ親戚もいないことはないし、ラケルやハンナといった友達もいる。話せる言葉もレシハーム語とアルバウム語を少しというくらいで、雪白はおろか蔵人ほどの戦闘力もない。流れて暮らすなどできるわけもない。

 何より、レシハームのために自分ができることがあるはずだと信じている。

 レシハームの罪も未来も、すべて見つめながら、生きていくと決めている。ほかの地で生きていくことなどできない弱い自分ではケイグバードをケイグバードの民に返すことなどできない。ならばせめて、かつてケイグバードがそうであったように、アスハム教も精霊教も共存していくことを目指すしかない。

 

 どっぷりと惹かれてしまう前でよかった。

 ラケルに言わせればいつもそうらしいが、思い返せば確かにそうであったような気もする。勝手に好きになって、勝手に諦めていた。

 ただ今回は少し違うような気もする。

 なんといえばいいか。

 ……今はまだ、わからない。

 

「……こみ入ったことをお聞きして申し訳ありませんでした。しかし、お陰でよくわかりました」

「……クランドさんに何か問題がありますか?」

「とんでもない。まったく問題ありませんし、この情報をどこかに漏らすことも致しません。こちらから干渉することは一切ないでしょう」

 トールがそう言って手元の資料を一瞬で燃やし尽くすと、話を終わらせた。


「一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


 リヴカは迷いに迷っていた言葉をついに、言った。

 ずっと考えていたことだった。

 この機会しかないと。

「ん? 答えられる限りのことについては答えるよ」

 トールは唐突なリヴカの問いに、気分を害した様子もなくそう答えた。

 その人の良さそうな表情に後押しされるように、リヴカは尋ねた。


「――ファルシャ、という牙虎族の少年を知ってますか?」


 その言葉にトールは記憶をあさるも、思い当たるものはない。

「聞いたことはありませんが、何かありましたか?」

 リヴカはじっとトールを見つめるも、本当に知らないという顔をしていた。

 それでも一縷の望みをかけて、ファルシャが死んだときのことを語った。それが真実であるかわからない。できるだけ客観的に、蔵人のことはぼかしつつ、しかし『なすりつけ』を匂わせる風に。





 リヴカの話を聞き終えたトールは、途中から何か考え込んでいるようだった。

「……いまのところ、本当にわかりませんが、少しだけ心当たりがあります」

 数分の沈黙のあとにトールがそう言った。

 リヴカが驚き、身を乗り出しそうになったが――。

「――ただ、今はなんとも言えません。必ず調査してお知らせします。だから、この件からは手を引いてください」

「……わかりました」

 リヴカもトールの言いたいことはわかっていた。

「隠蔽する気は一切ありませんが、おそらくその状況ですと証拠はありません。ですので公にされることはないでしょう。いえ、できないかもしれません。しかし、必ず真実をお知らせするとお約束します。だから、これ以上は首を突っ込まないでください。どこに魔王の目が潜んでいるかわかりませんから」

 魔王の目はどこにでも潜んでいる。

 そんな言い伝えから、この言葉は日本語でいえば壁に耳あり障子に目ありと同義で使われていた。

 聞きようによっては脅しにもとれるが、トールにそのつもりは一切無い。『精霊の剣』絡みとなるとどうしてもギディオンの影がちらついてしまう。ギディオンの手にかかれば勇者ならともかく、一介の女性職員を消すことなど容易い。

 だからこそトールは、リヴカがこれ以上首をつっこむのをとめた。


 そしてリヴカもわかっている。これはそんなに簡単な問題ではない。

 トールに話したこととて、綱渡りである。

 だが蔵人のあんな顔を見ては、どうしても調べずにはいられなかった。

 確かに男女の縁はなかった。

 だが、情がきれてしまったわけではない。

「……荒唐無稽な話をして申し訳ありませんでした」

 リヴカは正式な精霊教の挨拶を交わして、トールの部屋を出ていった。





 リヴカが部屋を出たあとも、トールはじっと考えていた。

 アキラもユキコもソファーに座って、それを心配そうに見つめていた。 

 どれだけ時間が経ったか、ふいにトールが言った。

「――影なき牙、いますか?」

 虚空に告げただけの言葉であったが、しばらくするとトールの部屋のドアが開き、執事風の獣人種の男が姿を見せた。

 これが影なき牙の表向きの顔であった。

 影なき牙をじっと見つめ、トールは尋ねる。

「なにか聞いてますか?」

「……報告せずに申し訳ありません。罰はいかようにも」

 影なき牙が跪く。

「罰の前に、事情を教えてください」

 影なき牙は跪いたまま、ありのままを報告した。

 トールと影なき牙の契約は『決して嘘をつかないこと』。

 ゆえに影なき牙は契約に抵触しないよう黙秘していたが、気づかれてしまっては言い逃れする気はなかった。


「……『精霊の剣』に潜入中の部下は、赤月長蛇の討伐戦を拒否することができず参戦。しかし部隊は壊滅、逃走するも逃げ切れず、任務を優先するために荷物持ちのパーティに赤月長蛇をなすりつけて逃亡したとのことです。すべては私の責任です」


 トールは奥歯を噛みしめた。

 潜入していた諜報員が逃げ切れたからこそ、ギディオンを黙らせる証拠を手に入れることができた。それは事実である。だからといって、いくらハンターといえど尊い犠牲などあってはならなかった。

「……その部下を連れて来てください」

 それでもどうにか絞り出した言葉であったが、影なき牙の言葉にトールは動揺する。

「――すでに自害しております」

 アキラもユキコも喉の奥で小さく悲鳴を上げた。

「……命じたのですか?」

「いえ、賢者様の御心にかなわぬと自ら悟り、すべてが終わると死んでおりました」

 トールはそれを聞いて、沈痛の面持ちで瞑目した。


 それを見て、影なき牙は自らの失策を恥じた。

 部下にしろ、一般人にしろ、諜報戦に犠牲はつきもので、社会の闇で行われる戦争といっていい。もちろん犠牲はないにこしたことはないが、人の死なない戦争など存在しない。

 それがわかっていたため、影なき牙はトールに報告しなかった。

 トールが余計な重荷を負う必要はない。

 ギディオンという敵を討った責務は負ってもらわねば困るが、それに至る道の過程にある薄汚いものまでを負う必要も見る必要もない。

 だが結果は、重荷を背負わせてしまった。

 それだけが心残りであった。

 

 トールは迷った。

 彼らはハンターではなく、生き馬の目を抜くどころか心臓を抜くような仕事を生業にしている。諜報員としては決して間違っているとはいえない。

 だが、この暗闘を仕掛けたトールとしてはそう簡単に割り切れるものではなかった。

 葛藤に揺れるトール。

 すると突然、影なき牙が倒れ込んだ。

 トールは駆け寄ったが、影なき牙はすぐにそれを手で制する。

 よく見ると足下に何かが滴っていた。

「――陰腹なんてっ」

 血であった。

「……我が死を持って、しょ、少年への償いと賢者様への謝罪と、させていただきたく……。次の頭領は弟に任せています。怠惰なやつですが、組織に混乱はない、かと。……決して、この問題を公にしては、なりま、せん……」

 影なき牙の声は絞り出すような、途絶え途絶えのものであった。

 かつて日本では武士は切腹をして責任をとったが、すぐに死ぬわけにはいかない事情があるとき、腹を切ってからサラシを巻き、その事情を終えたあとにそのまま果てたという。

 当然そんなことを影なき牙が知るはずもなく、彼は事情をすべて話したあとに死ねるようにと、トールに呼ばれるとすぐに大腿の太い血管を切り裂き、包帯を巻いて、治癒せずに放置していた。

 目の前で切ろうとすれば、トールは必ず阻止しようとする。だから、こうした。

 トールがずっとレシハームにいるわけではないのはわかっている。

 だが彼はレシハーム、いやこの世界の光となり、希望となる。

 それがひいては旧ケイグバード、いやサウラン大陸の希望にもなるはずである。

 短い付き合いであったが、影なき牙はそう確信していた。


 駆け寄ろうとするトールを影なき牙は最後の力を振り絞って、遠ざける。

 しかし急に、身体が重くなる。何か押さえつけられているようである。

 その隙に杖を握ったトールが駆けよって、治癒を始めた。

 だが、影なき牙は拒絶する。強固な意志は、命精の本能すらもねじ伏せて、治癒を拒否した。


「――死ぬなっ」


 トールがなりふり構わずに叫んだ。

「おまえが死んでも、誰も生き返らない。生きて、この国のために尽くせっ。そして終生、その罪を背負って生きろっ。ファルシャという少年のためにも、部下のためにも。二度とこんな悲劇を起こさないために、レシハームの影として生きろっ」

 それは自分にも言い聞かせる言葉であった。日本に帰りたい者のために帰還手段は探す。しかし自分は、この世界に生きて、死ぬと。それが無辜の少年を巻き込んでしまった責任なのだと。

「……薄汚い敗者に、こ、この上まだ生きろ、と?」

「薄汚かろうが、死んで罪が償えると思うなっ。おまえしか、おまえしかいないだろっ、こんな悲劇を起こさずに、この国のために尽くせるのはっ」

 だが、影なき牙は首を横に振って、治癒を拒み続けた。そして――。

 ついに、トールの腕の中でその身体から力を失った。

 トールはそれでも治癒魔法をかけ続けた。


 アキラやユキコは止血を手伝ったり、薬を持ってきたりすることしかできず、影なき牙の姿を呆然と見つめた。

 特にアキラにとっては目の前で自害した姿のほかにも、サディという仮の姿を通してとはいえ言葉をかわしたことのあるファルシャが『なすりつけ』の果てに死んだのは衝撃的なことだった。

 ギディオンを退け、強硬派のラザラスを失脚させた。融和派は潤沢な資金を手に入れ、これで融和派はしばらくの間、誰にも邪魔されずに活動できる。二級市民だけでなく、自治区の多くの民が救われる。


 だがそこに、一人の少年の犠牲があった。


 ギディオンとの戦いを始めたときからわかっていた。いや、わかっていたつもりだったが、実際はわかっていなかった。

 百万を救うために、一人の犠牲を割り切る。

 それがどんなに苦痛と責任を伴うかということを。

 ある意味でファルシャを殺したのは自分たちなのだ。

 その事実は今も治癒魔法をかけ続けるトール、そしてユキコやアキラに重くのしかかっていた。

 






 

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