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用務員さんは勇者じゃありませんので 作者:棚花尋平

第五章 砂漠と荒野の境界で

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109-結末はどこかで

 今回も、長いです<(_ _)> 前回と同じくらいです。
 読まれる方によって、少し不快に感じられる表現があるやもしれません。ご注意ください。
 よろしくお願いします<(_ _)>
 
 リヴカは蔵人の家を訪問していた。
 じっとりと汗ばんだ肌に髪がまとわりついて煩わしい。こんなことは慣れっこのはずで、そもそもいつもは室内で汗などあまり掻かない。今日はどうにもいつもと調子が違った。

 テーブルを挟んで向かいの椅子には蔵人、その横には雪白が横たわり、リヴカの膝の上にはアズロナが座ってテーブルに首を伸ばしていた。すっかりこれが定位置になってしまっているが、それが嫌なわけでもない。
 この家に来るたびに感じていたどこか呑気な、良い意味で浮き世離れした雰囲気をいつのまにか好きになっていた。
 だが今日はそんな雰囲気などどこにもない。
 正面にいる蔵人は何か思い詰めているようにも見えた。それは剣呑で殺伐とした何かを胸の内に隠しているテロリストの姿にも重なる。リヴカは何度か官憲に連行されるテロリストを見たことがあったのだ。
 来て良かった。
 リヴカはなぜかそう思った。

「……様子がおかしかったので伺わせていただきました。何かありましたか?」
 協会の職員として、蔵人の担当としてリヴカは訪問した。
 自分では、そう思っていた。
 結婚して、そのハンターをレシハームに取り込む。そんな意識すらない、はずであった。
 何かを見定めるように、蔵人はリヴカをじっと見つめた。
「……協会はクランやハンターについて内部監査とかするのか?」
 唐突な蔵人の問いに、リヴカは正直に答える。
「訴えがあり、証拠となるものがあれば、クランを監査することもあります」
「……それがどんなに大きなクラン、高ランクハンターでもか?」
 リヴカは戸惑う。なぜ蔵人がそんなことを聞くのか。
「……正直なところを言えば、社会的な名声を伴うクランやハンターほど監査が機能していないのが現状です」
 法律全般に言えることではあるが、街から遠くなるほどに政府の目が届かなくなる。死人に口なしという状況がままあった。
 なによりこの国ではハンターが、特に高位ハンターが不足している。被害者の存在しなかったり、その立場次第では見過ごされることもあった。

「……そうか。正直に答えてくれてよかったよ」
 蔵人の表情が少しばかり緩んだ。
 仮にファルシャが『なすりつけ』の結果死んだのだとして、それをどうすれば証明できるかを考えていたが、良い考えなど一つも浮かばなかった。
 証拠といえば、討伐対象である赤月長蛇の証言だけ。
 それにしたところで、どうとでもとれる状況である。白に近い、グレーゾーンであった。そのうえ、監査も機能していないとなれば、蔵人にはもうお手上げである。
 だから、蔵人は自らの考え、妄想をリヴカに伝えた。
 物的証拠は折れたブーメランソードだけ。証言は赤月長蛇の与太話だけ。

「そんな、ことが……」
 蔵人の話を聞いたリヴカは困惑していた。
 なんとも、答えがたい。
 つまり、罪とは言いにくい。
 わざわざ討伐対象である赤月長蛇のところに行ったことも正気を疑うし、その赤月長蛇が念話を使用したというのも驚きだった。いや、赤月長蛇がなんらかの人との交渉手段を持っているのは知っていた。政府が魔獣と取引はしないという公式発表をし、協会職員であるリヴカはそれに従うほかなく、交渉できないと思うようにしていたに過ぎない。
 かつてケイグバードの時代には、骨人種の王が赤月長蛇に生け贄を捧げ、それと引き替えにある程度赤月長蛇と共存していたのだ。
 レシハームはそれを野蛮だと責めているが、実際のところ生け贄に捧げられたのは重罪人に限られていた。
 しかしそれゆえにレシハームは魔獣と一切の交渉をしないし、野蛮なケイグバードと同じことをするわけにはいかないと赤月長蛇の討伐を決めた。無論、経済的理由、土地の有効活用、流通路の確保など理由は一つだけではないが。
 かつて多大な犠牲を払って討伐した紅蓮飛竜の主も同じで、巨大な赤黒い飛竜や赤い大蛇、かつて魔王の手先であったと伝わる魔獣とよく似た魔獣と交渉するなど、精霊教徒にとってはあってはならないことであった。

「……分かってる。ただなんとなく話しておきたかっただけだ。少しだけ協会側の情報が欲しいだけで、それ以上はいらない。漏らしても問題ないものだけ教えてくれればいい。当たり障りのない情報だけを探ってくれればいい」
 『なすりつけ』を協会が無視するかどうか、それを知りたいのだろう。
 そしてなによりファルシャを知る者同士として、ファルシャの死に際の姿を知っていてもらいたかった。もしかしたらあったかもしれない事実の別の可能性を知っていてもらいたかった。
 リヴカは蔵人の心をそう解釈した。

 悩みを共有するというのも担当職員の仕事であるし、同じくファルシャという少年に関わった友人として蔵人の気持ちは痛いほどわかった。
 ……仕事?
 ……友人?
 そこでふとリヴカには疑問が浮かんだ。
 本当に、仕事だろうか。友人だろうか。
 仕事でここまでするだろうか。今までそうしていただろうか。
 だんだんとわからなくなってきた。
 仕事のために、こんな与太話を信じただろうか。

 そう、リヴカも信じてしまっていた。

 蔵人の言うように故意か、偶然か、必死の逃亡の末かはわからないが、確かに『なすりつけ』が行われたのだと。
 一介の流れのハンターに過ぎない男の言葉を信じてしまっていた。ニキの証言があったとはいえ、それは当事者のひどくあやふやなものであると言うのに。

 なぜ、信じたのか。

 リヴカは自分がそれほど純粋ではないと知っている。周りがいうほど潔癖でもない。本来であれば蔵人が言うままを信じることなどあり得ない。

 なぜ信じたのか。

 考えに耽っていると、ふと、視線を感じた。
 最初からずっと元気のないアズロナが大丈夫? とでもいうようにリヴカを見上げ、雪白もいつの間にかじっと見つめている。
 リヴカはそこではたと気づいた。
 聡い魔獣である。
 リヴカの内面の変化を、蔵人への感情の変化をしっかりと感じ取ったらしい。それがどんな変化なのかまではわかっていないようであったが、それによって蔵人と敵対するのではないかと注視しているようでもあった。

 リヴカはようやく、腑に落ちた。
 確かに、最初の頃と比べると自分の気持ちは変わっていた。もしかすると、祝祭に誘ったのもそうであったかもしれない。
 それをアズロナと雪白に気づかされた。
 自分自身の思考よりも、魔獣の反応で気づかされる自分の鈍さに内心で苦笑し、魔獣の反応を信じる自分が随分と毒されてしまったと自覚した。
 だがそれが、決して嫌ではない自分がいた。

 見ると、テーブルの上の蔵人の手がきつく握られていた。
 怒りであろうか。
 なすりつけへの怒りか、真実すら分からないことへの怒りか、それとも何もできない自身への怒りか。

 リヴカは無意識のうちにその手に自分の手を重ねようとして、尋ねた。

「……許せませんか?」
「……ああ」

 蔵人の言葉を聞いて、伸ばしかけたリヴカの手が止まる。

「……それはなすりつけた相手がですか? それともこの国ですか? それとも精霊教ですか?」
 なすりつけたかもしれない相手。
 しかしそのことを監査できない協会、ひいては国。
 そして魔獣の証言を取り合わない精霊教の教義。もっともこれは人種全般の社会にいえることではあるが。
 蔵人がこの国に来てから、レシハームの良い面よりも悪い面を多く見てきたはずである。もちろんそれだけではないとレシハーム人であるリヴカは確信しているが、それはここが祖国だからである。
 だから、リヴカは尋ねた。
 生来の生真面目さ故の問い、という以外にも今はあった。

 だが、蔵人は答えなかった。
 おそらくはそのすべて、と言おうとしたのだろうことは蔵人の性格を考えればよく分かる。
 潔癖、というほどではない。
 ずるさも卑怯さもある。決して勤勉ではないし、清廉潔白などとは間違ってもいえない。
 だが決して、悪や不正をよしとしない。それが拒絶や孤立、頑固さにも繋がっていた。
 それは頑固なまでに教義を守る精霊教徒にも似ていた。
 厳格な精霊教徒は今も侵略国家であるレシハームに渡ることをよしとせず、祖国をもたないままにミド大陸を流れて生活している。迫害されようが、差別されようが、己が心にある神との契約を守って生き続けている。
 担当職員として一季も付き合っていればそのくらいは分かるし、それが分からなければ担当職員とはいえない。だがそれゆえに――。

 リヴカは伸ばしかけた手を引っ込めて、きつく握りしめた。

 膝の上に座るアズロナを脇に置いて、立ち上がる。
「……私のほうでも少し調べてみます」
「無理はしなくていい。たぶん、俺の手には負えない。協会がそう動くかだけを教えてくれ」
 監査が機能していない以上、それを罰する機関は存在しない。
 であれば、蔵人ができることなど何もない。
 相手が大きかろうが、小さかろうが、蔵人には頼れる権力者などいない。誰が誰とつながっているのか、誰が誰と敵なのか、誰が味方になり得るのか。どうすれば真実を知る事ができるのか。
 何一つ、蔵人にはわからない。
「当たり障りのないことだけです。できることとできないことくらいは分かっていますから」
 リヴカも深追いする気はなかった。
 ハンター同士の諍い、怪しげな死はたまにある。それらすべてを調査することなど不可能であるし、それはリヴカの仕事ではなかった。
 おそらく蔵人の想像どおり、この件は闇に葬られる。なすりつけが真実であろうが、なかろうが。
 そして蔵人の手にも、リヴカの手にも負えない。たかがハンターや受付職員にできることなど、それこそファルシャの死に際を共有することだけ。
 『精霊の剣』はレシハームの専属狩猟者を輩出し、今なおその専属狩猟者を通してレシハームの信頼厚いクランである。
 こんなグレーゾーンの事態で監査が、レシハームが彼らを罰することなどありえない。討伐に失敗し、半壊しているのだからなおさらである。
 リヴカは思考を巡らしながら、蔵人の家を出た。
 照りつける太陽と熱気に汗がにじむ。
 蔵人の家に入る前に掻いていた汗が、いつのまにか冷たくなって、新しい汗が噴き出していた。

 
 リヴカはそれでもどうにかして『精霊の剣』のことを調べられないかと思ったが、彼らの受けた依頼や構成員などの資料を調べても何一つ分からなかった。赤月長蛇の討伐に関してもまだ混乱状態にあり、詳しいことはやはり不明である。
「――なに調べてんだい?」
 そんなリヴカにラケルが声をかけた。
 何事もなく蔵人の家から出てきたと思えば、いつも以上に厳しい顔をして仕事に没頭している。
「……いえ。それよりニキさんの様子はどうですか?」
 ラケルが困ったように頭を掻く。
 ニキは男のパーティメンバーと組んでいるため『ショシャナーの娘子』に入っていない。入っていれば、たとえ荷物持ちとはいえ赤月長蛇の討伐になど向かわせなかった。
 父親の仇を討ちたいファルシャが一人で荷物持ちとして登録した。それを知ったニキは、父親の仇を討ちたいファルシャの心を慮りながらも、ファルシャを死なせたくなかった。そこで戦闘は決してしないということを条件にパーティで参加した。
 だが、ファルシャは死んだ。
 自分のわがままのために仲間を死なせるわけにはいかないとファルシャはニキを逃がし、ニキはニキでその前に止めればよかったと後悔していた。
「……帰ってきてすぐは呆然としてたようだが、あんたが渡してくれたあの紅蓮飛竜の鎧を見てから火のついたように泣いてな。……まあ、どうにかなりそうだ」
 帰ってきてすぐはまるで人形のようだった。聞かれたことには淡々と答えるが、食事は取らないし、泣きも眠りもしなかった。
「そうですか。お礼はクランドさんにしてくださいね」
「……なんかあったかい?」
 リヴカとの付き合いは長い。
 どこか受け答えの堅いリヴカに、ラケルは違和感を感じていた。
「……なに(・・)もありませんよ。そう、なに(・・)も」


 翌日。
 協会を訪れた蔵人にリヴカは何もわからなかったと告げた。
 すると蔵人はそうかとだけ言って、依頼も受けずに帰ろうとする。怒ったわけではなく、今は依頼を受ける気がしなかった。
 だがちょうどそこに、驚くべき情報が飛び込んできた。

 ギディオンの屋敷が輪切りにされ、『精霊の剣』が解散。ギディオンの右腕であるラザラス議員が失脚した。

 だが事情のわからない蔵人は、急に慌ただしく職員たちの姿に足を止め、きょとんとするばかり。
「――調べてきますので、少しだけ待っていてください」
 リヴカは立ち去ろうとしていた蔵人にそう声をかけると、小走りに協会の奥へと行ってしまった。
 急ぎの用事があるわけでもない蔵人は、リヴカを待とうと協会のカフェに腰を下ろすが、そこにラケルが現れた。
「リヴカなら――」
「――ちょっと面を貸しな。リヴカのことで話がある」
 協会奥にある訓練場を顎で指し示しながら、そう言った。



*****



 ギディオンの屋敷が輪切りにされる少し前のこと。
 トールはベレツにある建物の一室で、ギディオンと対峙していた。
「急な呼び出しに応じてくださり、感謝いたします」
「なに、賢者様の呼び出しとあれば何をおいても駆けつけますよ」
 ラザラスがそう答えると、隣に座るギディオンも頷いた。
 だがラザラスには呼ばれた理由がわからなかった。
 通行規制、自治区への入植や壁の建設、数え上げればきりがないほどトールからの抗議は受け取っているが、さし当たって直接抗議されるものはない。
 ギディオンも同じである。
 隠し畑の妨害、勇者の引き上げ、目の前の賢者はすでに死に体である、はずだった。
 だが、この妙な胸騒ぎは何か。
 ギディオンはミド大陸で精霊教徒への弾圧が始まる前夜のような、不自然な静けさを目の前の賢者から感じていた。

「……これが何か、ご存じですか?」
 トールは白い粉の入ったガラス瓶をテーブルに置いた。
 二人はすぐにそれが砂糖であると見抜く。
「白砂糖とは豪奢ですな」
 精製に時間のかかる真っ白の砂糖は通常の砂糖よりもさらに高級品である。買い手が少ないため流通量自体も少なかった。
「舐めてみてください。味だけで、産地はわかりますか?」
「ほう、我らを試そうと……いいでしょう」
 ラザラスは不敵な笑みを浮かべて、瓶から匙で砂糖を掬い、手のひらにのせて舐める。
 そして、戸惑った。
 甘い。だが、食べ慣れた砂糖の味ではない。
 困惑するラザラス。
 そんなものもわからないのか情けないというギディオンの失望の眼差しが焦りに拍車をかける。
 だが、わからない。
「……やれやれ、まだまだひよっこか」
 今度はギディオンが砂糖を舐めた。
 その瞬間、目が大きく見開かれた。
 それでもどうにか堪え、嫌な予感が大きくなるのを感じながらもトールに問うた。問わずにはいられなかった。
「……これをどこで? これはマーナカクタスではない。もちろんアンクワールのものでもない」
 その言葉にラザラスが驚愕する。
「おや、わかりませんか?」
 目に隈を作ってはいるが、トールはとぼけた顔をして焦らす。
「意地悪をしてくださるな」
「ふふ、そうですね。それは、このサウランで作られたものですよ」
 ラザラスは衝撃のあまり勢いよく立ち上がった。
「こんなものがどこにっ!」
 だがラザラスの怒声を浴びても、トールは涼しい顔を崩さない。
「――座れ」
 ギディオンの冷たい声に、ラザラスは渋々腰を下ろした。
「――これの原料がなにか浅学な私にはわかりませぬが、これはどれくらい用意されているのですかな?」
 ギディオンは駆け引きなしに言い放った。
 この砂糖の何が問題かと言えば、その総量につきる。
 これは何か。どこで収穫し、どこで精製していたのか。聞きたいことは山ほどあったが、この砂糖がどれだけ用意されているかが、一番の問題であった。
 アンクワールの大規模魔獣災害により、現在砂糖は高騰している。今期のマーナカクタスで大きな儲けが見込めるがゆえに、トールと融和派のマーナカクタスを収穫前に買い取ったのだ。
 収穫すら始まっていない今期のマーナカクタスを売る前に、この白砂糖が大量に出回ればその価格は暴落し、大きな損失となってしまう。リスク分散のために他からも金を集めていたせいで金主からも突き上げをくらい、影響力も減じてしまうかもしれない。

「――レシハームが現在生産する砂糖の半分ほど、でしょうか?」

 その言葉にギディオンは愕然とした。
「何を馬鹿なことを。そもそもどこに売るつもりです? 砂糖を運ぶ船はどうします?」
 だがラザラスは鼻で笑った。
 これは賢者による反逆であるが、まだまだ甘い。
 販路も流通もすべてギディオンの息がかかっている。仮に砂糖が用意できたとしても、運べなければ、売る相手がいなければただ倉庫に積まれているだけの厄介者である。
 だがラザラスの余裕をトールが吹き飛ばした。
「我々を誰だと思っているのです? 租借地のアルバウムやほかの北部列強と繋がりはあるし、加護を使えばいくらでも運ぶことは可能です。幸いなことに近々勇者も来訪しますしね」
「アルバウムが買うわけ――」
「買いますよ。あなたたちは少々力をつけすぎました」

「――どういうつもりだ?」
 事ここに至ってこの目の前に座るお人好しの賢者が、ただのお人好しではないとラザラスは気づいた。
 隠していた牙を剥きだしにした、強力な反逆者だと。
「砂糖はレシハームの基幹産業だ。賢者様はレシハームを裏切って金儲けに走り、レシハームの民を苦しめるつもりかっ」
 砂糖産業は国営というわけではないが、ギディオンの息がかかっており、ほとんど国が専売しているよ
うなものであった。マーナカクタスの価格が落ちればその莫大な税収は落ち込み、労働者の賃金も低下する。当然一般市民にも影響がでる。
「隠し畑程度ならば見逃すこともできたが、これは明確な反逆行為だ」
「いえいえ。この砂糖の利益はすべて国のものですよ……融和派の、という但し書きがつきますが」
「なっ……」
 ラザラスは悔しげに唸るが、なぜかそこで腰を下ろした。
 敗北感からではない。どうやって融和派の資金源を奪うかに思考がシフトしたのである。
 トールは喋りすぎた。
 これならばいかようにも対処はできる。少し早いがこれから急いで収穫と生成を行えば損失は最低限にできる。そして国のカネならば、やりようによってはいくらでも奪える。

「……こんなことをして――」
「――ああ、それと」
 ラザラスの言葉を遮って、トールはテーブルの上に紙束を置いた。
「……これは?」
「目を通せばわかりますよ。まあ、それは書き写したものですがね」
 ラザラスが、そして黙り込んでいたギディオンが紙束を手に取り、読み始めた。
 するとすぐに紙束を握るラザラスの手が震えだす。
 紙束には、魔封じの聖杖の売買契約書や『精霊の剣』との癒着を指し示す証拠の書類の数々だった。たとえば自治区での酔仙薬、つまりは麻薬の栽培記録やそれらの売買メモ。自治区のテロリストとの内通を示す記録。
 これが公になれば、対外的には諸外国から非難され、国内的にも重罪となる。

「もう諦めてください」
 トールがそう言うと、部屋に官憲が現れた。
 そのまま二人を連行しようとするが――。
「――触れるでない。私は何も知らぬ。ラザラスが勝手にしたことだ」
 ギディオンはあっさりと右腕を切り捨てた。
 官憲に両腕を捕まれたラザラスが目を見開き、トールが苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「……」
「賢者様はわかっておられるようですな。ここにある書類のすべてに私が関与したという証拠はどこにもない」
 それだけがどうしても見つからなかった。
 魔封じの聖杖の売買契約書の署名もラザラス、精霊の剣への指示もすべてがラザラスを通して行われていた。
 マーナカクタスが砂糖に精製されるまで、という時間制限もあったが、もとよりそんな証拠は残していないのだろう。 
「それでは私はお暇させていただきます。……後学のためにもお教え願いたいのだが、これの原料はなんですかな?」
「例の救荒作物ですよ。テンサイ、いやちょっと違うか。まあ、砂糖大根とでも言っておきましょうか。安心してください。この砂糖大根の加工技術等はすべてレシハームに売却する予定です」
 元は家畜の餌である。
 ギディオンが自治区の魔獣どもに食わせるにはちょうどいいと思っていたそれである。
「――精霊の豊かな祝福が(ロム・)貴方にありますように(バーラク)
「……精霊の豊かな祝福が(ロム・)貴方にありますように(バーラク)
 トールの挨拶にギディオンは自然な顔で答え、背中を向けた。





「……賢者と勇者はすべて殺せ。証拠書類は残らず燃やせ。無論、ラザラスもな」
 ギディオンは官憲の目を避けて屋敷には戻らず、とある別宅に戻ると子飼いの暗殺部隊にそう命じた。
 いつものことである。
 邪魔な者は消す。
 証拠は何も残らない。
 ギディオンとて利用できるうちは賢者を利用したかったが、牙を剥いてきた以上は致し方ない。
「もう少し利口だと思っていたが、買いかぶりであったか……」
 ギディオンは残念そうに瞑目した。
 むろん、将来の儲けがふいになったという意味である。

 だが、それを命じた翌朝に予想外のことが発生した。
 別宅から屋敷に戻ったギディオンは、屋敷の前で目を疑った。初めて、己が耄碌したのかと思うくらいに。

 凸型の屋敷が縦に三等分されていた
 見事な輪切りである。

 使用人たちに死傷者がないこともギディオンの混乱に拍車を掛けた。
 使用人のいない場所を狙って、屋敷を輪切りにする。どうすればそんなことができるのか。
 ギディオンの思考は二百年を超える経験のもってしても答えをだせなかった。
 そこへ暗殺部隊が全滅したとの報告を受け、ようやく賢者の仕業だとギディオンは気づく。
 賢者の力を完全に見誤っていた。

「……(ドラゴン)の尾を踏んだか」
 風通しのよくなった自室でギディオンは一人、呟いた。
 完敗である。
 罪はすべてラザラスに被せた。
 砂糖のほうも損失を最小限にする方法はあるし、損をさせてしまった者たちにも多少の便宜を図ってやればいい。
 だが、それだけだ。
 トールに負けたというよりは、未知の知識と得体のしれない加護という力に負けた。
 五枚揃えたら敵なしのカードゲームにおいて、六枚目、七枚目を揃えてくるような相手に勝てるわけがない。そもそもそんなルールもないし、誰もそんなルールを作ろうとも思わない。完全に別の遊戯である。
 だがそれが、勇者や賢者という存在であった。
 唯一の収穫は、それを知る事が出来たということであろう。
 ギディオンは即決した。
「……よかろう。今は退いてやる。もう十年、二十年先。貴様らが手を出し尽くしたとき、そのときが最後だ」
 ギディオンはすでに二百歳を超えていたが、まだ生きるつもりだった。もしかすると先祖のどこかにエルフの血が混じっているのかもしれない。
 だが、ただで退いてやるつもりなどさらさらなかった。
「……燃える水とやらは私が見つけてくれる。貴様らが知識を食いつぶす間の暇つぶしにはちょうどよかろう」
 ギディオンとて情報収集は密に行っている。
 トールが密かにそれを見つけようとしていることも。
 自分ならば、潤沢に資金を投入し、もっと早く見つけられるという自負も。



******



「――と、そんなことを思ってるんじゃないかと推測してる。でも、おそらく燃える水、石油はこの世界にないと思う。少なくとも地球ほど大量には存在しないだろうね」
 ギディオンの動きを予想しながら、トールは自室でそう言った。
 襲ってきた暗殺部隊を見たこともないような魔法で退け、さらにはギディオンの屋敷を輪切りにした力など微塵も感じさせないトールの様子に、ユキコは安堵しながら問い返す。
「えっ、ないんですか? でも探してましたよね?」
 トールは申し訳なさそうな顔をした。
「そこだけは融和派の人たちにも申し訳ないと思ってるけど、ギディオンを黙らせておくには必要なことだったんだ」
 情報の漏洩すらも視野に入れた、ギディオンを疲弊させる罠の一つであった。
「……だ、大丈夫ですよ、きっと。……でもどうして石油はないんですか?」
「ああ、それはね……」
 骨を食らう骨喰らい(ドゥキン)、そして主に死骸を食べてしまう動く粘水(オートミュカス)の存在が関係していた。
 石油の原料については諸説あるが、生物の死骸という説もあるから、動く粘水が食べてもおかしくないし、骨は骨喰らいが食べてしまう。さらにいえば、地中の石油のみを喰らって生きている魔獣が存在しないと誰が言えようか。
 実際、トールはアルバウムにいた頃、近くにあった冷たい砂漠で密かに調査したとき、わずかばかり石油が湧く場所をたまたま見つけたことがあった。
 だが、翌日にはなくなっていた。すべて動く粘水に食い尽くされていた。

 この世界で現代知識を生かすのは、中々難しいものがあった。
 たとえば蒸気機関を再現しようとすると、まず石炭が存在するかどうかという問題があり、よしんば石炭があったとしても、レールを維持できるのかすら分からない。石炭の量もどれほどあるかわからない。
 人には無害であるが、鉄を喰らう魔獣が縄張りなど気にせず地中からでてくる可能性もあるし、レールの下の地面が掘り返されないとも限らない。それにいつのまにか破壊されているということもある。大魔(オーガ)豚魔(オーク)などは木をひっこ抜いて武器にしたり、死んだハンターや傭兵の武器を拾って使うこともある。レールとて例外ではないはずだ。
 護衛や巡回警護を雇うということもできるが、コストが跳ね上がり、しかも完全な防衛策ではない。むしろ自動車や飛行船といったもののほうが、自律魔法で実用化できそうである。
「まあ、せいぜいカネをばらまいて自滅してもらおう。経済も回るし、しばらく静かになる。僕たちも横断に専念できるし、そのあとも……」
 何もない砂漠を探し続けて、自室で苛立ちながら吉報を待つギディオンの姿がありありと目に浮かんだ。
「――ラザラスが逃げたっ」
 そこに、アキラが飛び込んできた。



******



 牢屋に留め置かれたラザラスは暗殺部隊がトールによって返り討ちにされたため、生きながらえ、政府内にいる子飼いの者の手によって脱走に成功した。
 ラザラスは官憲が見張っているであろう自分の屋敷には戻らず、まさかのときのために用意しておいた別宅に逃げ込む。もしものときのために、宝石や金塊、魔法具、武器といった有形の財産のほとんどをここに隠してあった。

 だが、もぬけのカラであった。

 生活感のない家にあるソファーの下、床下、天井裏、果ては金庫の中まで金目のものは何もなかった。
 ラザラスは呆然と立ち尽くす。
 いかにギディオンであろうとここは知らないはずである。
 いったいなにがあったのか。
 しばらく呆然としていると、テーブルの上に見覚えのないカードが一枚、目についた。
 すぐそれに目を落とし、そしてその端正な顔を歪めた。

『――今までありがとう。さようなら』

 そのメッセージの横には、口紅の塗られた唇の跡があった。
 それだけでラザラスには誰がやったのか、理解できた。
「――ナダーラぁああああああああああああああああっ!」
 脇役女優にして、ラザラスがパトロンをしていた小人種の女、ナダーラ・ヤグの仕業であった。



******



 ナダーラはサウラン大陸沿岸にあるアルバウムの租借地で、現地の高官に取り入り、その屋敷内でのんびりと船を待っていた。
 脱走したラザラスが再び捕まり、あることないことぺらぺらと話しているらしいと、高官から聞いた。
 黙っていればギディオンがなにがしかの手を打ってくれるかもしれないが、ギディオンのことを漏らしてしまえば間違いなく殺される。ラザラスはいま生きていることだけでも奇跡的なことであるのだと、気づいていないようだった。
 ミド大陸の裏側を知るナダーラはその裏で暗躍していたギディオンのやり口を知っている。化け物爺には関わるな、とは物事に固執しない小人種が同胞に伝える数少ない情報であった。

「まっ、どうでもいいことか」
 ナダーラは高官の屋敷にあるバルコニーに大きな日傘を立て、冷えた白ワインを片手に海の向こうをじっと見つめていた。
 ノースリーブの白いドレスとピンクの長く大量の髪が風にたなびいている。
「……さて、次はどこに行こうかしら」
 すでにラザラスのことなど忘れ、次の目的を算段していた。
 ミド大陸の自治区に戻る気などなく、ましてや卵守などまっぴらごめんであった。
 小人種短命で奔放、自分の子供、卵ですら面倒を見ない。だが長く生きると卵守の使命に目覚めるらしく、多くの老いた小人種は若い小人種が最後の良心として自治区に置いていった卵の面倒を見るべく、小さな自治区へと帰っていく。
 だがナダーラにはそんな気はさらさらなかった。
 生きたいように生きて、行きたいところに行く。
 『怖れない・炎』の名が示すように、それがナダーラ・ヤグの生き方であった。
 じっと海を見つめていたナダーラの目が、見慣れない赤い国旗を掲げた大型帆船を捉える。
「……そういえば、龍華国(ロンファ)が友好使節団を送ってくるとか言ってたっけ」
 アルバウムの高官の言葉を思い出していた。
 ちなみにあの船は友好使節団ではなく、その前段階の交渉役を乗せた船である。
龍華国(ロンファ)か、まあ、ほとぼりを冷ますには悪くないわね」
 次の行き先はあっさりと決まった。




******




 レシハームという国が一つの転換点を迎えていることなど知るよしもない蔵人。しかし今はそんなことよりもラケルの話が気に無った。
 ファルシャのことを話したばかりで、リヴカの話とあっては無視することはできず、ラケルの背を追うしかなかった。
 訓練場に到着すると、そこには蔵人とラケルしかいなかった。
 訓練しているであろうハンターや協会職員すらいない。
 どうも『ショシャナーの娘子』のクランメンバーによって、訓練場が封鎖されているらしい。
「で、なんのようだ? 今頃新人イジメってわけでもないんだろ?」
「あんたのどこが新人なんだか……まずはあの革鎧の礼を言わせてもらう。ニキが悲しむきっかけくらいにはなった」
「……必要のなくなった革鎧を新人に回しただけだ」
 蔵人としては本当にそんな程度のつもりでしかなかった。
「……でだこれが本題なんだが、あんた、リヴカになんかしたかい?」

 それが本題かと蔵人は納得する。
「……別になに(・・)も?」
「……本当になに(・・)もなかったのかい?」
「ああ、なに(・・)もない。なにかあったか?」
 蔵人の答えにラケルは顔を険しくし、背負っていた弓、短剣など武器はては防具までを、その場で外し始めた。防具の下には露出度のないインナーがあるとはいえ、身体の線ははっきりとでてしまい、人前でさらすようなものではない。
 癖のある髪を荒っぽく適当に纏めて頭に巻きつけ、男の前でも平気な顔でそのスタイルを晒すような男勝りともいえるラケルであるが、平均よりも僅かに上という容姿の時点で蔵人の視線を引きつけていた。
 今もこんな状況でなければ不躾な視線を送っていただろうが、ラケルの雰囲気はどことなく荒々しい。殺気だってこそいないが、怒気は伝わってくる。

「……なんのつもりだ?」
「なにって、ここでやることは一つだろ?」
 誘惑などではないことは、蔵人もわかっている。
「はっきり言うが、俺はあんたより――」
「――どうでもいいんだよっ、そんなことはっ!」
蔵人の言葉を怒声で断ち切るラケル。
「アタシにはアンタのことがわからない。わからないなら殴り合うしかない」
 蔵人はため息をついた。
 どうしてこういう手合いばかりなのか。武器を捨てている分マシといえばマシであるが。
「俺は、殴り合いが嫌いだ」
「知るかっ。アタシはリヴカやアンタと違って頭が悪いんだ。だから殴り合いでもしなきゃアンタのことなんかわかるわけないだろっ。イヤラしい絵を描いて、化け物みたいな猟獣と同居して、ひ、飛竜の変異種なんて背中にへばりつけてる。アタシにはこれっぽっちもアンタのことがわからないっ」
「だから――」
「――リヴカは認めないけど、最近のアイツは楽しそうだった。べ、別に普段が暗かったわけじゃない。だけど、アンタの家に行くのは楽しそうだった。いくら担当だからって、真っ当な精霊教徒の女が会って間もない男の家に軽々しく足を踏み入れると本当に思ってるのかっ」

 ラケルの叫びに、蔵人はようやく武器と防具を外し始めた。
「……手加減できないからな」
 別に負け惜しみで言っているわけではない。
 蔵人はいまだに手加減が苦手だった。そして、手加減したにも関わらず、反撃されていいように攻撃されることが嫌だった。
 戦闘などいつまでたっても好きになれない。
 雪白とやりあえるのは半分はじゃれあい。もう半分は絶対に殺されない、重篤な怪我にならないという信頼があるからである。

 だが普通の人間相手に手加減せずに『全力の一撃』を放てば、当たり所次第では死んでしまう。死んでしまえば、余計な重荷を背負うことになる。敵ではないのだから罪悪感だって生まれる。だから、『全力の一撃』は使えない。
「……はんっ、七つ星風情が大きな口を叩きやがって。……殺されたって誰も文句はいわないさ。あいつらが証人になってくれる」
 訓練場の出入り口にちらりと見えた女性ハンターが小さく頭を下げ、そして背中を見せた。
 だが蔵人はそれですら信用できなかった。
 契約破棄は強者の特権。今までが、そうだった。
 どう戦うべきか。
 ラケル魔法弓士でありながら近接戦闘もこなす四つ星ハンター。巨人種という近接戦闘に優れた種族ではない人種であるため、かつてサレハドにいた頃のイライダほどではないだろうが、技量でいえば蔵人の遙か上をいく。

「アタシも強化くらいは使わせてもらうが素手でやる。……アンタは精霊魔法でもなんでも好きに使いな。安心していいよ、きっちり手加減してやるから。――さあ、行くよ」
 蔵人の用意が整ったのを見て、ラケルが跳びだした。
 まるで弓から放たれた矢のようにラケルは蔵人のまっすぐ迫った。
 ただただ早い。
 蔵人は反応もできずにその拳を腹にもらう。
 耐久力に重点をおいて鍛え込んだ筋肉の鎧を纏ってなおその衝撃は大きく、身体強化を全開にして、どうにか反応し、どうにか耐えられる拳の重み。
 だが、耐えられない痛みというわけではなかった。

 蔵人は拳を振るう。
 だが正拳突きの動作にこそ修練のあとが見られるが、それ以外がわかりやすい。
 しかもラケルは熟練のハンターである。雪白仕込みの魔獣じみた動きに反応するのはむしろ対人戦よりもたやすかった。
 ラケルはあっさりとそれを避け、さらに拳を振るう。
 蔵人は歯を食いしばってその一撃に耐える。
 手も足も出ないのは、わかっていたことである。

 だから、やれることをやった。
 蔵人は拳を受けながらも、相手に組みついた。
 ラケルがここで初めて狼狽し、顔を真っ赤にして慌てる。
「どっ、どこ触ってんだいっ」
「……言っていいのか?」
「い、言うなっ」
 蔵人にはまずこの戦いがなんなのか、厳密にはわからなかった。なんとなくはわかっていたが、それでもなお勝利条件がわからない。殺し合いではないし、決闘でもない。
 さらに蔵人自身の問題が足を引っ張る。
 手加減はできないのに、全力もだせない。
 殺し合いはできる限り避けたいが、殺し合いでしか十全に力を発揮できない。
 制限がつけばつくほど蔵人は弱体化していく。怪我をしないための制限であるが、そのせいでただでさえ弱い蔵人はさらに弱くなってしまう。
 ジレンマであった。
 だがそれでもどうにかしなければならず、破れかぶれで思いついたのはセクハラ、いや接触攻撃だった。
 相手は女。
 それならば、羞恥で動きも鈍る。そうすれば被弾の数も減るし、一矢報いる機会もあるかもしれない。
 幸いにもこの場にはショシャナーの娘子しかいない。ラケルの女としての名誉は守られ、蔵人も後顧の憂いなく恥も外聞もなくこんなことができるというわけである。
 極めてゲスな戦法であったが、上手く戦えない蔵人のせめてもの足掻きだった。

「――くっ、女なんてハンターになったときに捨ててるさっ」
 蔵人の手を強引に振りほどくが、蔵人の馬鹿げた握力はラケルのインナーを破り取る。ハンターとして生きていく中で培われた腹部の肌が露わになる。
「くぅっ……」
 だがラケルもこれを卑怯などとは言わない。女が男の金的を狙うのと似たようなもので、恥ずかしく感じるほうが未熟なのである。
 ラケルは羞恥を押し殺し、蔵人へ殴りかかる。
 軽いが、速い。
 まるで弓矢を同時に五本ほども打ったような連打に次ぐ連打に、蔵人は近づくことすらできなくなる。強引に踏み込むと飛んでくる強力な一撃に何度も意識を持っていかれそうになるが、それでも必死に剥ぎ続けた。
 打撃は当たらない。
 だが、腕を伸ばし掴むという動作は存外当たる。蔵人の場合は指の一本でも衣服にかかれば、それでいいのだ。

 なぜここまでするのかといえば、あっさり負けるという手段がとれないから。
 決して好ましいタイプとは言えないが、リヴカを通して付き合ってきたラケルというハンターをおちょくるようなことはできなかった。
 あとでリヴカに何を言われるかわからないし、ラケルの表情は真剣そのもの。そこには己の欲など感じられず、ただただ何か、リヴカのために力を振るっている。
 この方法ですら知られてしまえば、あとできっとお説教になるだろうが、それでもこれしか方法がないのだからと蔵人はラケルの全身を強引に剥ぎ続けた。
 人という枠で生きるがゆえのしがらみが蔵人をラケルと殴り合わせ、現実の力とその力を縛るルール、そして蔵人の内面の葛藤がラケルの服を剥ぐという選択をさせた。むろん、女好きということも影響はしていただろうが、殴られ続ける今、そんな余裕はない。
 これが、今の蔵人の限界だった。

 セクハラ攻撃をし続け、その鍛え上げた肉体の耐久力で十数分を粘った蔵人であったが、相手は仮にも四つ星ハンター。
 最後は呆気なかった。
 胸の一部が露出しているのにも関わらず、ラケルは渾身のアッパーで蔵人の顎を振り抜く。
 強化の乗った渾身の一撃をすでに百発以上も殴られていた蔵人が耐えられるはずもなく、一瞬宙に浮き上がり、そして後方に倒れ込んだ。

 蔵人は大の字で横たわり、正真正銘、もう動けなかった。
 対するラケルに傷らしい傷こそないが、顔は真っ赤に染めている。女を捨てているとはいえ、やはり捨てきれない部分はあったらしい。
「……こんなんで何が分かるんだが」
 蔵人が寝転んだまま呟いた。
 ラケルは残った服でどうにか隠すべき場所を隠してから、蔵人を真上からのぞき込む。
「分かるさ。あんたがどうしようもないほどスケベで卑劣で、もう手の施しようがないほどの変態だってこと。……だけど、卑怯じゃなかった。精霊魔法も使わなかったし、隠してあった武器も使ってない。目つぶしもなければ、噛みつきもしなかった。その証拠に、そんな約束はしてないのにアタシは致命的な傷は一切負ってない……恥は嫌というほど掻かされたけど。くそっ、あいつらにあとで絶対からかわれる」
 ラケルは面白くなさそうに訓練場の入り口を見張る仲間に視線をやった。

 訓練場だった。ラケルが武器を捨てた。精霊魔法を使わなかった。殺意もなければ、致命的な急所攻撃の気配すらなかった。四つ星ハンターのラケルがこの戦いで何か利益を得るということもない。むしろ、蔵人の戦い方に付き合うことで損すらしている。
 蔵人の耐久力のある肉体はそれを感じ取り、思考させる猶予を与えてしまい、結果蔵人はラケルのルールに付き合うことになった。
「それに人の気持ちを蔑ろにもしなかった。適当に負けてとっとと帰ることもできただろ?」
「……」

「……何か信仰があるのかい」
 ラケルが唐突に話を変えたが、痺れてろくに身体が動かない蔵人はそれに付き合った。
「……ないと思うが、まったくないとも言い難い、かもしれない」
 蔵人は実際にそれらしい神にあっていた。
 そしてそれを抜きにしても、神など存在しない、だから信仰などないと言い切ることはできなかった。今でもいただきますと言いそうになるし、手も合わせそうになる。死体を見つければ、とりあえずは埋めるか焼くかはしてきた。

「訳がわかんないよ。アンタがろくに契約もできない、理性の欠片もない男には見えない。なら、アンタの行動はなんだ。それは契約をしてる奴の行動だ」
 ラケルのいう契約とは、精霊神との契約。もしくは太陽神サンドラ、黒賢神アスハムとの契約である。契約と魔法的な不思議な力のことではなく、社会のルール、人が生きる上での規範や倫理のことである。
 ゆえに信仰を持たない者は契約を持たない者として、疎外され、軽蔑される。ルールを守るという建前すら誓えないのだから、それも当然と言えた。

「――可能な限り、人に迷惑をかけないで生きてるだけだ。契約だがなんだか知らないが、仮にそういう風に見えるだとしたら、それと同じようなものが俺の中にそもそもあったからだろ」

 日本にいた頃、カネも権力も名誉もなかった。社会の歯車ですらなかった。
 そんな自分の自尊心を保つために考えに考え、その身に必要なものはそぎ落とし、たどり着いたのが人としての誇りや意地、矜持というものであった。
 それがこの物騒な世界に来て、強調されただけのことである。
「……それは契約じゃないのかい?」
「たぶん、違う」
「ならなんで、なに(・・)もしなかった? 禁欲なんかの特殊な戒律があるわけじゃない男が、好意をもった女になにもしないのは不自然だろ?」

 蔵人は何のことかと戸惑い、しばらく考えて気づく。
 ここで訓練場に入る前の、リヴカの話に戻ったのだと。
「……したほうがよかったのか?」
「いいわけあるかっ……だけど、やっぱりなにもなかったのはおかしいだろ? アンタだってリヴカの気持ちは知ってたはずだ。いや、確かにリヴカの気持ちはそんな大きなものじゃない。本人に自覚が薄いからね。それでも、アンタだってまんざらじゃなかったはずだ」
 なにか、というのはなにも身体を重ねることだけではない。心の重なり、好意の確認、そんなものもなに(・・)かである。

 確かにラケルのいうとおり、蔵人はリヴカに惹かれていた。
 いつものことといえばそれまでだが、マメマメしいところ、生真面目なところがどこか日本人を思わせて、それでいて機転も利くし、冗談も理解する。雪白やアズロナとの相性も悪くない。
「……それとも、担当職員がレシハームにハンターを取り込む役目があるっていうのが気に入らないのかい?」
 蔵人は違う、と否定しながら、昨日のリヴカを思いだして、リヴカの気持ちを推測した。
「……俺がレシハームや精霊教に対して反感を持っている。そしてそれを絶対に譲らないことに、リヴカが気づいたんだ。……たぶんな」
 昨日のリヴカの様子の変化に蔵人とて気づいていた。目の前で伸ばされた手を引っ込められては、気づかないわけもない。

 それを聞いて、ラケルはハッとした。
 レシハームの真実を知る者は多くない。レシハーム人ですら知らない者もいる。だから蔵人がレシハームの真実を知らないつもりで話していた。
「……精霊教に改宗する気はないのかい?」
「ないな。いや、精霊教の教義を厳密に遵守するならば改宗してもいいかもしれないが、レシハーム人には絶対になれない」
 だからこそ、なに(・・)もなかった。
 精霊教徒は精霊教徒としか結婚できない。改宗者でも構わないとか、サンドラ教徒なら問題ないとか抜け道はあるが、それが普通であった。
 ゆえに優秀なハンターを取り込む場合はハンターが改宗することになるのだが、流れるようなハンターはそもそも信仰心に薄く、改宗など気にしない。もしくはサンドラ教徒であるため問題がなかった。
 もちろん、蔵人のような例も、蔵人が例外というほど珍しいことではない。

「……好きな女のためにどうにかしようって気にはならないのかい? リヴカは融和派だ、決して今のレシハームを容認しているわけじゃない」
「無理だ。今も自治区を無差別攻撃しているし、もう一度、自治区を相手に戦争がないと言えるか?」
 ラケルはその言葉を否定することはできなかった。
「……ア、アンタだって、やられたらやり返すだろ」
「だからテロリストがやり返してるんだろ? 国を奪われたから」
 その矛盾に、もちろんラケルも気づいている。一部のレシハーム人がもつ矛盾である。
「そうじゃなきゃ、アタシらに居場所はなかった、と聞いてる。それに時代も、そういう時代だったとも」
「確かに、それは理解できる。俺は精霊の民の迫害の歴史も知らないし、そこまで強烈に迫害されたこともない。弱肉強食の時代も知らない。もし侵略の歴史を持つ国に生まれていたなら、それを認めてどうするかという考えにもなるだろうが、あえて自らそれを選ぶことはできない」
 蔵人が作り上げた意地が、矜持が、正義がそれを許さなかった。
 一万年前に奪われた国を奪い返す。
 蔵人にとって到底納得できるものではなかった。
 もしレシハームがきちんと融和に向かって歩むなら、レシハームに残るのも一つの道であっただろうが、世界にはいまだ弱肉強食が燻っている。わざわざ侵略に荷担する気になどなれなかった。
 ケイグバードは弱かったから滅び、レシハームは強かったから生き残った。そこに善悪などなく、レシハームに罪はない。
 それが現実だと理解はできても、それを認めてしまうことはどうしてもできなかった。
 世界の過酷な現実、明日をも知れぬ貧困や死と隣り合わせの迫害を知らぬ者のぬるい信条かもしれないが、世界の片隅にいる凡夫が一人、そんな思想を持って生きていてもかまわないはずであるし、これを譲る気も毛頭なかった。

「……」
「もし仮にリヴカが俺について来るとでも言ったら、拒絶することはできなかったかもしれない。だけどリヴカはそれをしなかった。それが、答えなんだろ」
 レシハームはリヴカの祖国。捨てられるはずもない。
 ラケルにはもうなにも言えなかった。
 リヴカの態度が、ようやくわかった気がした。
 好き合う前に、お互いがそれとなく身を引いた。
 悲恋というほどの関係性でもなく、しかし無関係といえるほどに情がないわけでもない。
 それがわかるが故に、二人を知るラケルは切なかった。

 身体の痺れがとれた蔵人が立ち上がる。いや、痺れなどはすでにとれていた。
 それを口実に、自分の心を整理していたに過ぎない。
 だからか、ついぽろりといらないことを言ってしまった。

「――宗教って窮屈だよな」

 女が好きだが、宗教がそれを邪魔する。だから宗教は窮屈だ。だから信仰しない。
 己の不道徳を棚に上げた、至極手前勝手な言葉である。
 蔵人は信仰や宗教を否定はしているわけではない。生や死への理解を深めて恐れを薄め、人としての倫理観を作り出し、人同士の連帯を生み出すことに一定の、いや一定以上の意義はある。
 だがそれでも、窮屈だというのが偽らざる蔵人の本音であった。
 蔵人は武具をつけなおし、訓練場をあとにした。

 協会のロビーに戻るとすでにリヴカが待っており、ギディオンの屋敷が輪切りにされ、『精霊の剣』が解散し、ラザラス議員が失脚したとの情報をその背景とともに教えられた。
 精霊の剣とラザラスの癒着を暴いたのは賢者であるらしい。

 賢者がファルシャの仇を討った。

 そういうことになる。
 そのことを嬉しく思う反面、蔵人は無性に己の無力が虚しかった。
 日本にいた頃と同じように、自分の知らないところで何かが始まり、終わっていく。ほんの少しばかりそれに関わっていようが、そこに介入する力など己にはないのだと。

 
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