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現国の授業なのに何故か教師の言葉は知らぬ異国の言葉としか聞こえない。
英語では言葉というよりも異界への門を開かんとする魔術師の呪文詠唱に聞こえた。
数学では白のチョークやら黄色やら赤やらで書かれたアラビア数字に眼を眩ませた。アルファベットや、その他の記号全てが幾何学文字かそれに近い正体不明の線にしか見えない。
俺は教室にいながら、突如としてメソポタミア文明全盛期時代のミシシッピ川流域にタイムスリップさせられたような気分を味わう事になったのである。
無論この仮想タイムトラベル、まるで楽しくもなんとも無い。
漫画なら机に平伏す俺の頭から蒸気が出ていることだろう。
アレよコレよと情報をインプットしてはアウトプット、ダウンロードしてはアップロードするという作業に酷使された脳。全身の司令塔はその疲弊を訴えるかの如く、業火にでも焼かれているような高温を帯びていた。
この瞬間こそ、俺がこれまでの人生をリセットしてやりたいと思う瞬間だ。
昔に戻り勉強という概念を窓の外に投げ捨て、俗世の戯れに惚けていた自分に活を入れてやりたい。
禁固刑にして二十四時間勉強付けにしてやれば、俺も少しはマシな学力を得ている事だろう。私立校の首席とまでは行かずとも、このくらいの授業でオーバーヒートしてしまわぬ程度には。
休息を強制する頭に逆らわずに時間を送るのが、俺の昼休みの始まりである。
数分が経過。
完全とは言い切れない状態ではある。が、それでも空腹状態につき勢力二倍となる食欲には諸手を挙げて賛同し、行動できる程度には体力も回復した頃合だ。
食堂の人気メニューは完売になってしまっただろう時間帯。
現在昼休み開始より五分が経過した頃。
俺は学生鞄からナプキンに包まれた弁当を取り出し、首の関節を二度左右に揺らして席を立った。何分昼休みという時間は教室で生徒達の騒ぎ声が最大ボリュームで響く時間である。
昼飯くらいは静かに済ませたいと考えるのは、特に変という事は無いだろう。
◇
行動を起こしてから現状に至るまで、時計の秒針はそう何周もしていない。
現在地。校舎屋上に繋がる扉の前。
生徒立ち入り禁止などと張り紙がされているわけではないのだが、暗黙の了解の内に屋上という場所は立ち入り禁止区域だと生徒達の頭に刻まれているらしい。
ここにやってくる生徒は多くない。
それをいい事に、無人フィールドを我が物としているここの少ない常連客は俺の他に一人。それ以外は知らない、というよりもいない。
扉一枚で隔てられた外の世界はまさに異界。
時折グランドからの声が届くものの、大抵の場合は風の音とそれにそよぐ木々の音しか聞こえない。小鳥の囀りこそ無いが、実にメルヘンな場所だ。
……もっとも俺がメルヘンの類を嗜好している訳ではないのだが。
言ってしまえば静かに昼休みを過ごすに、ここが一番なのである。
所々に錆が見られる扉に手を掛ける。その重量と長い年月により老朽化した立て付けの所為で、開いていく扉はぎしりぎしり耳障りな摩擦音を狭くて暗い踊り場に響かせた。
鼓膜を引き千切らんばかりの騒音が止んで、開いた扉の隙間から太陽の光と涼しい風が浸入する。
完全に扉を開くとそこには青い空に少しの白い雲。
そして、彼女だけがそこにいた。
短く切り揃えられ深い藍色を帯びた黒髪。少女は風に流れる短髪をまるで無関心のままにそうさせている。白い顔に備え付けられた眼、鼻、口、それら全てのパーツが僅かな無駄も無く整っていた。例えるならば人形。古い日本の活き人形に西洋の妖精のような雰囲気を持たせたような、つまりそんな感じの人形。
名前は知らない。別に知る必要も無いだろうという事で、お互いに尋ねたりはしなかったからだ。ただ解るのは互いに静かな世界を求めてここにやってくるという、共通の目的だけ。それだけで人が打ち解けるには十分だと俺は思うね。
思っているのは俺だけなんだと思うが。
「よお」
気軽く声を掛けると、少女はトマトサンドを口に運ぶ作業を中断して俺に冷たい一瞥をくれた。
そのアクションに軽く肩を竦める。
今日もまた言葉での挨拶が頂けなかった事を悟る。まあ、彼女にすればこれが挨拶なのだ。しかしながら……悲しいっちゃあ悲しい。
広いか広くないかで言えば前者な面積の屋上。俺は名前も知らない少女の対面に座って胡坐意を掻いた。
彼女と出会った――大袈裟かもしれないが、そう言っておくことにする――のは今年の四月。新学期が始まって早速、倦怠的な教室の雰囲気が嫌になった俺は一年からの習慣もあり昼休みに屋上にやってきた。普段通りの屋上。けれど一部分だけ違ったのは、普段は誰も居ない貸しきり状態のそこには先客がいたことで――それがこの少女だった。
「…………」
弁当を口に運びながら重くなっていく空気を感じ取る。
今日も素晴らしいまでに会話は無い。
沈黙、静寂、静謐、無音。
固体化した空気が喉に詰まって、食等が胃に向かうのを妨害でもしているようだ。
「な、なあ」
錘入りのリュックサックを背負った気分で、俺はどうにか場を盛り上げようと声を出す。
苦し紛れにひねり出した短い言葉が、頭で思ったよりも随分低音だった事に驚く。
声は少女に届いたらしく、表情の無い白い顔がこちらを向いた。
遠くを見つめている瞳。
その視界に俺が居る事は出来ても、それは所詮彼女の瞳に映る景色の一部でしかないのだ――と思わせるほどに圧倒的なまでの無関心の色を帯びた瞳だった。
俺はそんな眼に捉えられて、氷山の中で永年を過ごしたマンモスのように硬直する。
話題。何か俺に話題を。
「えーと……お前、名前なんていうんだ?」
やはり共通の目的だけでは人は打ち解ける事は出来ないらしい。
それを一ヶ月かけて自覚する事が出来たのだから、これまでに吸い込んだ物質的気体は無駄ではなかったというものだ。そうでも思わなければやってられん。
愛想笑いを表情いっぱいに咲かせた俺は、しかし内心では切腹を命じられた武士の心境を味わっていた。この間は一体なんだろう。異常に息苦しい。
がしゃり。少女が背中を預けていたフェンスが揺れた音。見るからに細い華奢な身体は、それ相応の体重しか持たないらしかった。フェンスの揺れが生み出す大気の振動は小さな音しか生まない。
食べ終えたトマトサンドの袋をビニール袋に入れて、立ち上がる。
……もしかして俺の事完全無視?
後ろ髪を揺らして、少女はさっさと立ち去ろうとする。
線の細い身体が鉄の扉の前まで来て、ようやく思い出したように彼女はこちらを振り向いた。
「楠涼音」
ぽつりと溢した言葉。
クスノキ、スズネ。
初めて語られる少女の名前。初めて交わった二人の言葉。
「あなたは?」
思えば彼女の声を聞いたのはこれが初めてだった。
感情の浮かばない白い貌は玲瓏過ぎて、少女を人外の何かに思わせる。
黒真珠のような瞳に見据えられながら、俺はようやく言葉を紡いだ。
「遙瀬橙弥」
「そう。……それじゃあ橙弥、一つだけ忠告」
冷たい瞳はが語ったのは短い一文だった。
「私とは話さない方がいい。あなたにとっても、私にとっても」
忠告と称された言葉は、もしかしたら絶縁状なのかもしれない。