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◇
お父さん、お母さんへ。
とおくへ行ってしまったとききました。
おしごと、がんばってください。
わたしも大きくなったら、お父さんとお母さんのおしごとをおてつだいしたいです。
ずっとまっています。できるだけ、早くかえってきてくださいね。
◇
一限目が終わり休み時間に入る。
チャイムが鳴り終わるよりも早く、流深がやってきた。
「朝の話だけどね」
ノートを閉じて鞄に仕舞おうとする動きを唐突に中断。今朝方聞かされて、まだ頭にひっ掛かっている矛盾話を思い出した。まだ記憶に新しい、出来る事ならさっさと忘れ去りたい通り魔の事件の話。
溜息を飲み込んで、俺は流深を見上げた。
その話は終わったはずだと思っていたのだが……。
「通り魔について、何か思い出したのか?」
「ん? ううん。そっちじゃなくて風邪の話。このクラスにも欠席者が出ちゃったみたいだよ」
風邪の話? と予想だにしなかった言葉を反復する。その行動が通り魔の陰に隠れて存在感を皆無のものとしていた、風邪流行説を思い出させた。そういえばそんな話もした。遂に正体不明のウイルスはこのクラスにも浸入してしまったらしい。
「なんだろうね? 新型のインフルエンザかな?」
「だったら、こんな時期に流行りはしないだろ。それで誰が休んでるんだ?」
「ええと……なんだっけ、ふあ、んんと……ね、確か」
「悪かった。お前に名前を訊ねたのが間違いだったよ」
果たして俺はそこまで脳内を混乱させてしまう質問をしただろうか。
まだ悩んでいる流深を無視して、俺は教室中から空席を探す。休み時間だけに席に座っている生徒とそうでない生徒の比率は圧倒的だったが、欠席者を割り出すのはそう困難な仕事ではなかった。
「あれま。まさか橘が病欠って……」
俺が割り出した欠席者のフルネームは橘湊人。凡そ真面目といえる生徒ではなく、一般に不良とか言われる類の人間で、短い茶髪は後天的なもので間違いない。そういった意味では目立っていた生徒だから、俺が彼の存在の消失に気付くのもそれほど時間が必要にはならなかったのだ。
不良といってもやたら体格のいい、古い表現を使うなら番長とかの柄ではなく、どちらかというと小柄だったと記憶している。流行に流される最近の若者と表現すればいいだろうか。彼の全体像を簡単に纏めると、細い華奢な身体に、どちらかというと童顔な金髪気味の茶髪生徒。
「たちばな、くん?」
はっきりと思い出せないらしい流深は呟いて首を傾げていた。
橘の事を知っているのなら、今日この場に姿が見えないのは病魔による体調不良ではなく、単なるサボリだと考えるのが普通なので、彼の存在を流深が知らないというのはあながち嘘ではないだろう。しかし疑問点があるとするのならば、橘はこれまでに学校に来なかった事は無かったと思う。俺の記憶が正しいのなら、特定の授業中教室に居ない事はあっても、朝から一度も見かけなかった事は無かったはずだ。
「金髪の男子だよ。覚えてないか?」
どうしてもモンタージュが浮かばず、積年の恨みの相手を呪いに掛けるように名前を反復する流深に告げてやると、どうやらそれで思い出したらしい。憑き物が取れた晴れやかな表情が再び戻る。
「あの人ってそんな名前だったんだ」
「しっかり覚えとけよ。俺の場合みたく勝手なアレンジを加えて呼んじまったら、それこそどんな対応するか解らん野郎だからな」
……出来れば、話しかけない事が最善だ。
橘は華奢な身体付きと幼目の面構えの所為で、一目にワルだと判断する人間は案外多くない。だが橘が付き合っている連中は一目でそうだと解る、薬にだって平気で手を出すような輩でグループの規模もこの辺りでは最大だという。
水面下での闘争なんかがあるとは俺も想像していないし、実際他のグループに喧嘩を売りに行くような事は相当の理由がないとしないらしい。日々喧嘩に日常を費やすなど、ナンセンスな事はしないそうだ。
何度か話したことがあり、上記のことはその時に聞かされた話だった。
さっさと足を洗えば、それなりに仲良くもなれそうな奴だったのが。
「まかせといてよ。あたし、人の名前を覚えるのは得意なんだ!」
「……そうかい」
得意げに胸を張るその姿に、俺は言いようも無い悪寒と、どうしようもない不安を感じていた。
◇
お久しぶりです。突然のお手紙をすいません。
お仕事の邪魔になるといけないので、出来るだけ我慢していたのですが。
三年ぶりですが、お二人は元気でしょうか。私は元気です。
お父さん、お母さん。お仕事が落ち着いたらまた会えると聞いているのですが、まだお忙しいようですね。少し寂しいですが、私はお二人の帰りを待っています。
いつか、必ずまた会えると思っています。
お返事を頂けると嬉しいです。お仕事、がんばってください。
◇
昼休み。俺はオートパイロット設定されたように、習慣化された屋上での昼食に向かっていた。
途中の廊下ですれ違う生徒達は誰もが風邪引きのようには見えず、マスクをしている者が居るわけでもなければ、咳き込んでいる者がいるわけでもなかった。これでは風邪が流行っている、といわれてもいささか信じられない。現に同じクラスの生徒が欠席していても。
病原菌は静かに学内を汚染し、気が付いた頃には大量の生徒が正体不明の病状に苦しむ、などという状況にならなければいいのだが。どこかの誰かがバイオテロを企てていたりは、流石にしないだろうけど。
「――そんな事があるわけなんだが、どう思う?」
「…………」
空。今日も青空。
平穏を象徴するかのような静かな雲の流れと……気まずい沈黙だけが漂っていた。
場所は屋上。夏場前の吹きつける風が涼しくて気持ちいい――なんて爽やかな心境になる事など出来ず、俺はただ無言を返答に決め込んだ楠涼音にインスタントスマイルを向けることで場を和ませようと努めている。……無駄なことだとは解っていても、努めている。
あの日。絶縁状のような一言を突きつけられてから今日まで、俺たちの間に会話は無かった。適当な話題を俺から振る事はあっても、それに対する返事が無いから、会話が無い。ここで言葉を発するのは唯一俺だけという虚しい事実は、会話の一切無い思い空気の中の暗い食事を現実としていること現在進行形だ。
「…………」
感情の浮かばない黒瞳。
楠涼音の興味はその手にあるサンドイッチのみに向いていて、それ以外のものはまるでそこに何も無いかのような無関心に殺されている。
「あ……そうだ、あれ知ってるか? 通り魔の話」
どうにかして関心を得ようと、俺はそんな事を口走っていた。
苦し紛れに飛び出した言葉は、しかし初めて彼女の心に触れていた、らしい。
指示された動作を実行している最中に電池切れしたロボットのように、或いは唐突に身体の動かし方を忘れてしまったかのように、楠涼音は停止している。時間そのものが止まっているような静止。瞬きさえも忘れていた少女は開いた小さな口を閉じ、ゆっくりとその瞳を俺に向けた。
「通り魔?」
久方ぶりに聞く声。疑問符付きの言葉には、ほんの少しだけ、けれど確かに、
感情のようなものが、添付されていた。
その衝撃が強すぎたのか、俺の意識はうっかりすればそのまま二時間は固まったままでいてしまいそう。だがそれはようやく交わった言葉によって生じた会話により、瞬時に再起動を果たした。
「あ――あぁ。なんでも最近そういう噂が流行ってるらしい」
「それってどういう噂?」
食事の途中だって事は完全に忘れているらしい。
俺は自らの弁当箱に残ったおかずを確認して話を続けるべきか思案し、結果続行を選択した。
「俺も詳しくは知らないけどな」
と前置きし、
「誰も殺されてない、らしい。けど妙なことに、誰も殺されてないのに被害者は死んでるんだと。これ、どういう意味か解るか?」
知りえる全ての情報を口外した。全てといってもこの程度でしかないのだが。
「あなたはどう思うの?」
質問に質問で返すのはどうか――と反論したくなるが、初めにそれをしたのは俺の方なので仕方ない。
この時何故か、今朝方軽く考えてみたが、脳が悲鳴を上げたところで放棄した思考を再開する事を俺は選んでしまっていた。
殺されていないのに死んでいる。それはつまり、通り魔と呼ばれる人物は誰も殺していないが、その被害者は何らかの形で死んでしまった、ということだろう。でもそれでは、そもそも『通り魔事件』なんて噂自体が発生するはずが無い。死人に口なし。被害者は死んでいるのだから、その死の原因が何らかの形で通り魔事件に関わっているのだとしても、それを誰かに伝える事は出来ない。一般の通り魔殺人は、被害者の死に方や殺害現場の情報、及び周辺の目撃情報などから初めて『事件』として処理認識される。だから誰も殺されていない『通り魔事件』なんてのは存在し得ない。なぜならそれを『通り魔事件』だと伝える要因である『殺人』が存在していないのだから――。
何度も繰り返した思考。何度も行き着く同じ結論。
「有り得ないだろ、そんな事って。誰も殺されていないんなら、そこには死が存在しないわけだし、だったらそもそも『通り魔事件』なんてものが存在するわけがない」
「そう思うの?」
僅かに感情を含んだ言葉。俺はそれを――哀しみと感じてしまった。
気付けば彼女の眼は確かに俺を捕らえていて、会話は確かに成立していた。
「私はそうは思わない。人の死は、つまりその意味を無くすということ。だったら、もしも――その人を誰も見なくなったら? そこにいるのに誰にも気付いてもらえないとしたら? 存在自体はそこにあるのに、誰にも触れられることなく、誰からも認識されないのなら――それは、死といえると思わない?」
……散々無口を決め込んでおきながら、ここへきて急に饒舌になったものだ。
しかしながら彼女の言う事にも一理ある。というよりも素直に頷くことが出来ると言っていい。色即是空という考えに似ているが、全ての存在は他者の干渉を受ける事でその存在を保っているという概念で、例えば歴史上に名を残した人物がいて、歴史の教科書か何かでそれを一人の人間が知ったとする。それによって過去の人物はその存在を『在った』と認識されて、初めて『存在』として確立する事が出来る。だが仮に、この国に歴史の授業、大袈裟に言えばこの世界に考古学事態が存在しなければ、歴史上に存在したとされる人物は誰にもその存在を認識される事が無く、初めから無かったことと同じになってしまう。これは何も故人だけではなく、今生きている人間、今在るモノにだって同じことが言える。この世の全てのものは、誰かに観測されるからこそ存在していて、最終的には自分自身が自らを観測して、存在として在るということだ。
もしも一人の人間が周囲から完全に孤立し、どんな干渉も受けられなくなってしまった挙句、自我さえも無くしてしまったとしたら――――
それは、死と言えるのではないだろうか?
……多分、彼女が言いたいのはそういうことなんだと思う。
「なるほど確かにそうかもな」
長い思考の果てに、ようやく俺が現実に目を向けると、楠涼音は食べ掛けだったサンドイッチの最後の欠片を口に含み、咀嚼し嚥下していた。
ごみ入りのビニール袋を持って、彼女はさっさと立ち去ろうとしている。
その後姿に何か言葉を掛けようと考えていると、先手を打たれていた。
「その通り魔。きっと淋しかっただけなんだと私は思う。あなたには解らないと思うけど」
これはもう、感情のような、とか曖昧なものではなく、間違いなく本物の感情が籠もった言葉。明らかに心から出た想い。
「ちょっと待った、それってどういう――」
意味なんだ。
疑問は閉ざされた扉に跳ね返され、虚しく、短く反響した。