18話 夜霧 〖挿絵アリ〗
か細いレンの声は、再び船を襲った大波にかき消された。ざぶん、とバケツで水をかけられたように、甲板は大量の水しぶきで洗い流される。けれど、ほとんどの者達は既に意識を失っており、もう悲鳴をあげる事すらできなかった。
セイレーンの歌もいつの間にか止んでいる。
「お迎えに参りんした、姫様。……炎の一族は、ほんに水に弱いこと」
既に意識のないレンのかたわらに氷鯉がひざまずき、抱き起そうと手を伸ばした。
その瞬間、背後から恐ろしいほど強い魔力を感じ、慌てて水の壁を作る。振り返るとそこには、よろよろと立ちあがる司令官の姿があった。水の壁の向こうでぼやけてはいるが、その手に火を集中させていることがわかる。氷鯉は舌打ちすると、左手で水の壁に更に魔力を込め、右手で川の水を操り司令官めがけて波を放った。
「ここは川の上、わっちの魔力は増幅し、水を浴びたぬしは魔力が弱る。わっちに敵いんせん!」
水をかぶった司令官の、その手にあった火の玉の勢いが明らかに弱った。だが、すぐに再び氷鯉に向かって両手をかざし、手に火を集め始める。大きさこそ拳程度だが、その威力は相当なものだろうと氷鯉も両手を水の壁に向け防御に専念した。
レンを巻き込まないよう、氷鯉に狙いを定めているのがわかり、身構える。
「汐音! 歌の続きを!」
氷鯉が叫ぶと、再びセイレーンの歌声が霧の運河に響き渡った。
「むぅ。もうちと威力を増したかったが、意識を失っては元も子もない」
司令官は両腕を大きく振り、火の玉を放った。小さな太陽のようなその火の塊は、勢いよく水の壁を進む。氷鯉が防ぎきれないと判断し、横へ跳んだ。 壁を突き破った火の玉は、川の中へ落ちると、巨大な水柱をあげて爆発する。間一髪で避けきったと思った氷鯉は、もう一つ、火の玉が自分の方へ飛んでくるのを見て顔を強張らせた。
「二発撃っていた……!」
既に目前まで迫っていて、防御は間に合わない。氷鯉はとっさに顔の前に手をかざし、目を閉じた。
「ずぶ濡れでもこの威力とは、流石よのう」
「煌牙様……」
その声に、氷鯉は驚いて目を開ける。自然とそう呼んでしまったが、氷鯉はいや、違うんだと悲しそうに唇をかんだ。
「何度も言わせるでない。夜霧じゃ。あれはもう表には出て来ぬ」
煌牙の姿をした夜霧と名乗る男は、片手で司令官の放った火の玉を凍りつかせ止めた。
「お前……闇か!」
セイレーンの歌声に、意識を持って行かれそうになりながらも、必死で耐えながら、司令官は苦々しい表情で夜霧を睨みつけた。
「何のつもりだ。こんな事をして、ただで済むと思うな!」
「余もいい加減、飽きてきた。退屈は大嫌いじゃ。煌牙は面白かったぞ? 余に『夜霧』と名をくれた。そんな奴は長く生きてきたが、初めてじゃ。それに、お前の困る顔が見てみたくなってのう」
夜霧がニッと口の端で笑う。
「馬鹿な事を……!」
心底悔しそうに顔を歪め、司令官はガクンと膝から床に落ちると、両手を床についた。
「覚えておれ……」
そう言い残して、ついに意識が途切れた。横たわる司令官を見おろし、夜霧はふっと笑うと、レンを抱き上げる。
「面白くなってきた。さて、我々も意識を失う前に退くとしよう」
楽しそうに空を切り裂くと、船を残して、夜霧たちは空間の隙間へと飲み込まれていった。
水の里の外れ、森の木々に守られ隠れるようにたたずむ、古い教会があった。宿泊施設も備えたその教会は、昔は旅人達が行きかい、利用する者も多かったのだが、離れた場所に大通りが作られてからはすっかり廃れてしまい、今では外観は廃墟そのものだった。
精霊界に「神」は存在しない。
では何を信仰しているのかと言えば、先祖や太陽、月などの自然を対象としていた。この世界で教会という場所は「祈りを捧げる場所」と同時に、「集会所」や「宿泊施設」という意味合いが強かった。
そんな誰の記憶からも忘れ去られた、教会の聖堂に空間の割れ目が出現し、夜霧たちが姿を見せる。
「ああ、すっかり濡れてしまったな。お前、この娘を風呂にでもいれてやれ」
夜霧はぐったりしたままのレンを、まるで荷物でも扱うかのように、氷鯉に向かって放り投げた。氷鯉が慌てて受け止める。
「しかし、お前の弟の歌は強力だな。まさか『闇』にも効くとは思わなかった」
「あれは、汐音が水の中にいる時にしか使えんせん。陸では効かない事、覚えていておくんなまし」
「そうか。心得た」
夜霧は素直にそう返事をすると、二階へと続く階段をのぼりはじめた。
「どちらへ?」
「しばし休む」
二階へと消えていった夜霧の背中を見送ると、氷鯉は小さく息を吐いた。ひとまずレンを長椅子に寝かせ、バスタブに湯をため始める。
この教会は氷鯉の生家に近く、幼いころによく遊びに来ていた場所だった。今は亡き両親を天へ送り出したのも、この場所である。その頃からすでに寂れていて、滅多に訪れる客もいなかったが、それでもたまに通りがかる旅人の話を聞くのが好きだった。
二年ほど前、もう誰も訪れる事もない、用の済んだこの教会は取り壊そうかという話が出た時に、氷鯉が買い取ることを申し出た。思い出の詰まったこの場所を失うのは、やはり辛かったからだ。取り壊す手間や費用を考えたら、氷鯉の申し出は有難いと、破格の値段で譲渡してもらった。それからは、弟の汐音がここに棲み、氷鯉も合間を縫っては手入れをしに戻って来ていたため、見た目には廃墟でも部屋は不自由なく使えるし、水も湯も出る。
隠れ家にはうってつけだった。
「これが巫女姫様か。可愛いね」
聖堂の長椅子に横たわるレンの頬を、人差指でツンとつつくと、汐音は笑った。レンよりも少し幼い印象の汐音は、左目には黒地に更に濃い黒い糸で金魚の刺繍が施された眼帯をしていた。その眼帯を隠すように、長く伸びた浅葱色の前髪が、顔の半分を覆っている。長い前髪とは対照的に後ろの髪は短く、着物の襟から見える華奢な首筋を際立たせていた。
「汐音、あなたも少し休みんなし。あれだけ歌えば疲れたでありんしょう?」
「そうだね。久しぶりに歌ったから、少しくたびれた」
レンが『黒炎』という、一族でも珍しい能力を持っているように、汐音も『セイレーン』という特殊な能力を持っていた。
歌声を聴いた者の意識を奪うという強力な技だが、汐音が河川か海の中で歌う事で初めて発動されるという条件付きで、激しく魔力を消耗するため長時間歌い続けることが難しい。また、同じ水属性の水や氷の一族には、効果が現れるまで少しだけ時間がかかるなど、難点もいくつかあった。
「ああ、忘れていた。汐音、悪いけれど休む前にこの水晶を使って、炎除けの魔法陣をニ階の一番端の部屋に書いてくんなし」
「うん、わかった。そこに姫様を閉じ込めるんだ? 黒炎のペンダントか。真っ黒で、闇のペンダントとよく似ている」
汐音はステンドグラスから差し込む光にレンのペンダントをかざすと、そう言って笑いながらニ階の部屋へと向かう。氷鯉はレンの傍らに腰を下ろすと、レンの顔に張り付いた濡れた髪を、そっと横へ流してやった。
「今の煌牙様のお姿を見たら、どう思うのでありんしょうね」
静かに眠るレンに向かって、悲しそうにぽつりと呟く。
宮殿を追われた後、身を隠すために氷鯉は、意識の戻らない煌牙を連れ、闇と共に空間を移動してこの教会に来た。闇に蝕まれ覚醒したばかりの煌牙にとって、香澄の白い光は致命傷に成り得る攻撃だったらしく、意識は取り戻したものの、起き上がることもままならない状態が続いた。闇の方も、ペンダントを身に着けていた氷鯉よりも煌牙に馴染んでいたようで、その煌牙からの魔力の供給が途絶えて徐々に衰弱していった。
ここに来て二日目の朝。
姿を保っていられなくなった闇は、煌牙の枕元で再び水晶の中に戻り身を休めていた。
「なあ、聞こえるか?」
弱々しくかすれた声で、煌牙が水晶に向かって声をかける。水晶からは少しずつ、黒い霧が洩れていた。その様子を見て、煌牙は少し笑う。
「俺自身が闇に染まる事で、もっと大きな闇に気付く事ができたよ。しかし、お前を『闇』と呼ぶのは少し不便だな。……夜霧なんてどうだ? 今の俺では、レンを助ける事が出来ない……なあ、夜霧。力を貸してくれないか?」
「煌牙様、無理に話すとお体に障りんす。それに、闇に力を貸せなど」
氷鯉が心配そうに、煌牙の額の汗をぬぐった。
『夜霧か、気に入った。そうだな、名の礼にお前を助けよう。余がお前の体に入れば、互いに補い合って闇の力も、白い光で受けた傷も回復する。ただし、意識は余のものとなるがな』
ヒッと、驚いて氷鯉が息を吸い込むと、煌牙の体にすがり、一心に首を横に振った。煌牙は目を閉じ、にやりと笑う。
「いいだろう。俺の体、お前に預ける。そのかわり……」
『姫を救えと申すか? 気は進まんが、まあ良いだろう。しばらく退屈せずに済む』
ドロリ、と、水晶から黒い塊が流れ落ちる。
「いけません煌牙様、体を預けるなど!」
叫ぶように氷鯉は訴えたが、煌牙は静かに笑うと、氷鯉の目をじっと見つめてその手を握った。
「氷鯉。どのみちこのままでは俺はもたない。お前の事も守れん。今は……これが最善だ」
「嫌です、煌牙様! 闇よ、煌牙様のお体、返してくれるんでありんしょうね!」
『煌牙の意思が余を上回れば、あるいは。そんな事はありえんと思うがな』
嫌だと泣きじゃくる氷鯉に、少し離れて見守っていた汐音も側に駆け寄る。
『時間が惜しい。その体、預かり受けるぞ』
夜霧が煌牙の体に、じわりじわりと染み込んでいく。氷鯉の手を握る煌牙の手に、一瞬強く力がこもった。
「ごめん」
声にはならなかったが、かすかに動く煌牙の唇が読めた。
「煌牙様……必ず戻ってくんなまし!」
小さくうなずいた煌牙がゆっくり目を閉じる。黒い霧が嵐のように部屋を吹き荒れると、それらは全て煌牙の体に吸い込まれていった。
風が収まり再び目を開けた時、すでに煌牙は煌牙でなくなっていた。
「煌牙様……?」
「――夜霧じゃ」
握りしめていた氷鯉の手を、冷たい表情で夜霧が振り払う。
その後すぐさま起き上がった夜霧は、空間を裂いて汐音を宮殿に送り込み、司令官とレンが世界会議に向かうため、船で移動するという情報を手に入れた。セイレーンの力もあって水上は有利と、運河で待ち伏せ、今に至ると言う訳だが、氷鯉は司令官の攻撃を防いでくれるまで、夜霧が本当に力を貸すのか信じられないでいた。
「まさか、本当にわっちを助けるとは」
しかし、気になることがいくつもあった。
姫を救うとはどういう事だろう。宮殿にいるよりも、夜霧の側にいる方が安全だとでも言うのだろうか。煌牙の言っていた「大きな闇」とは、何の事だろう。不便だと言って、闇を夜霧と名付けたのはなぜ?「闇」と「夜霧」を区別するため? それではまるで……
そこまで考えた氷鯉は「まさか」と、わざと声に出して笑い飛ばす。
それでも消えない胸騒ぎに、氷鯉は目をきつく閉じた――――