11話 覚醒 〖挿絵アリ〗
吹き抜ける風に、レンの黒い髪がサラサラとなびいた。透き通るような白い肌が太陽に照らされ、瞳がいつもより一層紅く感じられる。
「どうしたの? 苦しそうだったよ」
異変に気付かれずに部屋から出たつもりだったが、見られていたのかと煌牙は舌打ちをしてレンから目をそらした。
「なんでもねえよ。お前、ずっと後つけてたのか?」
「だって変だったから」
「気のせいだろ」
煌牙はレンに背を向けると、再び歩き出す。
「待ってよ、煌牙っ!」
レンが煌牙の着物の袖をつかんだ。それが思いがけず強い力だったので、煌牙は驚いて歩みを止める。レンは袖を握りしめて、泣きそうな、怒っているような顔をして睨んだ。
「何か隠してるでしょ? ちゃんと言ってよ。さっきの煌牙は絶対おかしかった!」
「……お前には関係ない。手を離せよ」
「私、頼りにならない? どうしていつも子供扱いするの?」
レンの言葉に煌牙はふっと笑う。
「お前の事を子供だと思えたら、よっぽど楽だったんだけどな」
「何それ、どう言う事?」
予想外の返答だったのか、レンは煌牙を見つめながら眉間にしわを寄せた。
はーっと、煌牙は深く息を吐く。
煌牙は自分の中で、ざわざわと黒い感情が湧き起こるのを感じていた。
「もっと……闇に力が戻るまで、時間がかかると思っていたんだがな。俺は甘かったみたいだ」
煌牙は、レンが掴んでいる着物の袖に視線を移した。煌牙の指先から、うっすら黒い霧が揺れている。
「レン……宮殿を出て、どこか遠い所で一緒に暮らそうか」
煌牙がうつむいたまま、寂しそうにつぶやいた。
「煌牙……?」
いつもと明らかに様子の違う煌牙に、レンは思わず掴んだ着物の袖を離す。
煌牙の手が、だらん、と下がった。
「俺と二人で。俺以外、いない世界で」
その言葉と共に煌牙は顔を上げると、レンの腕をつかんで自分の方へと引き寄せた。
「一緒に行こう。レン」
声は優しいが、腕に込める力は強い。
「痛いよ、煌牙」
距離が近づいた分、煌牙の顔を良く見る事ができたレンは、煌牙の変わりように目を疑った。いつも澄んだ深い海の色をした瞳が、今は暗く曇っている。髪の色も、銀色の輝きはなく、薄墨色をしていた。
ひんやりと、氷のように冷たい煌牙の指先が、レンの頬に触れる。先ほどまでは見えていなかった黒い霧が、今はハッキリとレンの目にも見えた。冬の暖かな日差しの中で、まるで煌牙だけが日陰にいるようだ。
「煌牙、これ、まさか……闇……?」
レンは自分の声が震えている事に気付いた。声だけではない、指先も、足も。皮肉な事に、煌牙に腕をつかまれていなければ、膝から崩れ落ちそうなほどの衝撃を受けていた。
闇に対する恐怖ではない。
自分の全く知らない煌牙が、そこに存在していたからだ。
「煌牙、しっかりして! 元に戻ってよ!」
レンは煌牙の襟をつかんで揺さぶる。
「戻る? 何に? どこに? 俺は俺のままだ」
襟を握りしめたまま、レンは煌牙の黒い霧に目をやった。
――必ず助けるから
レンが口を開きかけた、その時、
「何事だ、煌牙! 貴様……闇に堕ちたのか!」
鋭い司令官の怒鳴り声。
レンが側にいるにも関わらず、問答無用で炎の塊が煌牙めがけて放たれた。煌牙は反射的にレンを突き飛ばすと、手をかざして防御魔法を発動する。
火柱が上がると同時に爆音が轟いた。
突き飛ばされたレンは爆撃を逃れたものの、爆風に飛ばされ、煌牙とやや距離のある石畳の通路に転がった。間髪入れずに、司令官は再び炎を放つ。通常の氷の防御壁ならば、ひとたまりもない攻撃のはずだった。だが、闇の力を得た煌牙は傷一つ付く事もなく、燃え盛る炎を飲み込み、再び黒い霧と共に現れた。
「巫女姫様! 何をしているのです! すぐに黒炎で煌牙を殺すのです!」
庭をはさんだ対面の廊下から、司令官がレンに向かって叫んだ。
……煌牙を……殺す……?
その一言で、レンの頭の中は真っ白になってしまった。
司令官の言葉はちゃんとレンの耳に届いた。
なぜそう言うのかもわかった。
自分の役目も存在する意味も理解している。
それでもレンは、首を横に振り「どうして」と、つぶやいた。
「巫女姫様! あなたはこの為に生れてきたのですぞ! さあ、早く!」
「私は煌牙を殺すために生まれてきたの?」
レンは煌牙に視線を戻した。禍々しい瘴気を身にまとい、離れていて表情を読み取ることができない。
闇と戦うために、生まれてきた。
だけど、その相手がまさかこんなに近しい者だとは。
それでも今日、今、この場所で闇を消さなければ、三千年前と同じように、この世界が危機に襲われる。
「できない……」
できない。できる訳がない。
レンは思考を止めてしまいたかった。いっそ、さっきの爆発に巻き込まれ気でも失えばよかったのにとさえ思った。
「レン!」
石畳の上にうずくまるレンの耳に、中庭にたどり着いたルージュの声が届いた。
「ルー……」
顔を上げたレンの瞳からは、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。司令官が放った魔法は、中庭の芝生を焼き、石の柱は崩れ、煙がくすぶっている。今やルージュの目でも確認できるほど、黒い瘴気をまとった煌牙。素早く状況を察したルージュが、瞬時に大太刀を出現させた。
「ル―。おまえはいつも本当に邪魔ばかりする」
煌牙が手をかざし、どす黒い霧を一点に集中させる。
「何のつもりだ! 煌牙!」
キラキラ光る氷の霧をまとったルージュが、レンを背にかばうように煌牙に剣先を向ける。
「消えろ。ルージュ……!」
まるで何匹ものヘビがうねるように、黒い霧の帯がルージュを包み込むように襲いかかる。ルージュは氷の霧の範囲を広げ防御しつつ、大太刀で迎え撃った。
氷が削れるように、煌牙の攻撃によって防御壁が少しずつ割れていく。ヘビのような黒い霧は、いくら切り落としてもあっという間に復活し、何度でもルージュに襲いかかった。
少しずつ、ルージュが押されながら後退する。
「ルージュさん!」
建物の影に身を隠していた香澄は、思わずルージュのもとへ駆け寄ると、無意識のうちに両手を煌牙へ向けていた。気絶しそうなほどアザは痛んだが、逆にその痛みのおかげで恐怖心など忘れる事ができた。
香澄はただ、ルージュの力になりたいと願った。
そして、その願いは白い光となって叶えられる。
香澄の両手から、圧倒的に輝く光が閃光となって、黒い霧を消し飛ばし、煌牙を飲み込んだ。先ほどまで黒く霞がかっていた中庭が神々しい光で一掃される。
「ぐっ……!」
崩れるように地面に膝をついた煌牙が、苦しそうに自分の胸に爪をたてた。
「巫女姫様! 今です!」
「早く!」
叫び声がレンに突き刺さった。
一方で
「煌牙様!」
「団長!」
と、煌牙を案じる声も上がる。
「レン……!」
ルージュは振り返り、レンの元へと駆け寄った。両手を地面につけ、うなだれているレンは「できない。できない。できない……」と繰り返しつぶやいている。壊れそうなレンを、ルージュは力いっぱい抱きしめた。
業を煮やした長老のうちの一人が、煌牙に向かって炎の攻撃魔法を飛ばす。光の力で弱った煌牙は無防備なままだ。
「煌牙様!」
叫ぶように煌牙の名を呼び、高い水の壁と共に現れた氷鯉が、向かう炎を打ち消した。
「煌牙様、しっかりしてくんなまし」
氷鯉は急いで煌牙を助け起こす。
「煌牙様から預かった、水晶の薄氷の膜が粉々に割れんした。嫌な予感がして、ここに来たでありんす」
煌牙は声が出せず、ぐったりとその身を氷鯉に預けた。
「氷鯉、お前まで闇に魂を売ったのか!」
司令官の言葉に、氷鯉は顔を上げる。
「なんとでもお言いなんし! わっちは煌牙様さえいれば……」
『騒々しいぞ。虫けらども』
ふいに喧騒を切り裂き、地の底から届いたような闇の声が辺りに響いた。その不吉な声に、その場にいた者たちは身をすくめる。
氷鯉の首にかかっている漆黒の水晶から、ドロッとコールタールのような塊が落ちると、それは人の形に変わる。だが、香澄の光の前で、まだ力を蓄え切れていない闇は形を保つのは難しいようだった。真っ黒い影のような人型が、スッと空を切る。すると、その切った部分に空間の裂け目が現れた。
『光の使い手が覚醒したとは、分が悪い。仕切り直しじゃ、一時退くぞ』
氷鯉は初めてみる闇の姿に恐怖したが、今ここに残っても自分も煌牙も無事でいられないと考え、煌牙を抱えて闇が切り開いた空間へと身をすべりこませた。それに続いて闇も空間へ消えようとする。
「待て!」
ルージュは片手にレンを抱いたまま、もう片方の手で闇めがけて鋭い氷の矢を何本も放った。だが、その矢は突き刺さるものの、底なし沼のように闇の中へみるみる吸い込まれていく。
『何に恐れている? 人と精霊の間に生まれた子よ』
真っ黒な影は、表情もないままルージュに告げる。
『こちら側に来るのは、お前だったかもしれぬからな。黒炎の姫が銀色の氷の皇子を選んだら、お前、平静でいられるか?』
その言葉に、思わずルージュは追撃の手を止める。
『予言して見せようか。姫は、氷の皇子を助けてくれとお前に懇願するぞ。その時、お前はどうする?』
空の切れ目へ吸い込まれた闇の言葉だけが、ルージュの耳に残った。
切り裂かれた空が閉じると、魂を抜かれたように放心する騎士団員や、恐怖で取り乱す精霊達の姿で中庭はパニックに陥った。
「巫女姫様っ!」
司令官が芝生を踏みしめ、レンに詰め寄る。怒りに反応して、芝生が燃えだすのではないかと思うほど、空気が熱い。
「あなた様は、ご自分の役目をお忘れか!」
その言葉に、ルージュがレンを抱えたまま反論する。
「お言葉ですが、司令官。幼いころから兄妹のように育った煌牙を消すというのは、あまりにも」
「だまれ!」
ぶわっと、熱風がつむじ風のように巻き起こる。
「二度目の失敗は許されませんぞ。次にまみえる時までに覚悟を決めて下され」
「……ごめんなさい」
レンはルージュの胸に顔をうずめたまま、小さな声で答えた。
「追って沙汰を致すまで、宮殿から出ぬように。香澄殿はまだ力に慣れていないご様子。無理に光の力を使わぬよう願いますぞ」
「わかりました……」
香澄がうなずくと、司令官は踵を返し、宮殿へと戻って行った。
「ルー、ごめん……」
「あやまるな。大丈夫、俺がいる。次は……必ず守る」
涙声のレンの頭に手を添え、ルージュはレンを抱きしめた。
頭の中で、闇の声が何度も繰り返す。
『黒炎の姫が銀色の氷の皇子を選んだら、お前、平静でいられるか?』
ギリっとルージュは唇を噛む。
不安をかき消すように、ルージュはレンを抱きしめる手に、さらに力を込めた。
『予言して見せようか。姫は、氷の皇子を助けてくれとお前に懇願するぞ。その時、お前はどうする?』
その時、俺は――――