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番外編1下 『第一次マヨネーズ騒動』


「マヨネーズを作る上で必要なもの! まず第一に愛情!」


「はい、お任せください」

「そういうのはいいから」


 妹と姉の両極端な反応に挟まれて、スバルは拳を固めて力説していた。

 現在は場所を厨房に移し、執事服の上から簡易のエプロンを装着。やる気に満ち溢れた顔のレム(角はさすがに引っ込んでいる)と、退屈そうな眼差しを隠しもしないラム(皿洗い中)と協力し、いざマヨネーズ作りを、というところである。


「うろ覚え知識全開だが、それほど材料は多くなかったと思う」


「既存のものを混ぜ合わせるだけで作れるなら、難易度は高くはないわね。これがもし熟成させたり、発酵させたりしなきゃいけないならとても追いつかなかったわ」


「そんなややこしい手段でもなかったはず。母ちゃんが自家製のマヨネーズ作ったとき、もうちょいちゃんと興味持っとけばなぁ」


 今さら思い返しても後の祭りというやつだ。

 『マヨネーズ作りにさらなる発展を!』とスバルの母が発奮したとき、集めていた材料は特殊なものはなかったように思う。結果としては自家製マヨネーズは失敗し、飽き症の母親は即座に見限って市販のマヨネーズをマヨチュッチュしていたが。


「むしろ家の場合は親父の方が凝り性だかんな。けっきょく、自家製マヨネーズ完成させたの親父だし、市販には劣るって理由で食卓にも上らなかったけど」


 完成作は父親が責任を持って処理していた記憶。

 今になって思えば、一マヨラーとして家庭用と市販の違いを積極的に舌で確かめておくべきだったと思うが、それもアフターフェスティバルである。

 しかし、こうして時間を経てスバルもまた自家製マヨネーズに挑む機会が訪れるとは――血は争えない、ということだろうか。


「さて、過去回想はいいとして、そろそろ愛情以外の材料に入ります。えー、まずはやっぱり欠かせないタマゴ」


 マヨネーズといえばタマゴ。タマゴ料理大好き人間であるところのスバルにとって、切っても切り離せない王道材料である。もっとも、


「スバルくんの話だと鳥類のタマゴがいいとのことでしたので、そちらを用意させていただきました。普段の調理に使っているものと同じものです」


「それでいいさ。奇抜な方向にいくのはメシマズの第一歩だからな。特にこっちと俺の故郷とじゃ若干の差異があるから、そこには細心の注意を払わにゃならん」


 生態系の違いがあるから、完全に元の世界と材料が一揃えというわけにもいかない。料理関係はかなり似通っているとはいえ、同一でないことは忘れてはいけない要素だ。ちょっとの冒険のつもりが、予想外の大冒険に繋がることもあるだろう。


「なにせ料理の理は理科の理でもあるからな。科学系の実験と似たような心持ちで、冒険なんてもってのほかだぜ」


「スバルくんがお望みなら、材料ももっと高価なもので揃えたりしたんですけど」


「成功するか失敗するかわからないものに大金なんてかけてたら破産すんよ? ちなみに高級なタマゴってどんな感じの? 銘柄鶏的な?」


「飛竜のタマゴなどが極稀に、市場に流れる可能性がある最高級品ですね」


「竜のタマゴ使ってマヨネーズとか恐れ多いな!? そんでもって確かここって親竜王国とかってお国じゃなかったかしら!?」


 竜を崇めるはずの国で、竜のタマゴを食べる風習があるのはどうだろうか。

 そんなスバルの疑問にラムが呆れたような吐息を漏らし、


「竜と龍を一緒に考えてるからそんな誤解をするのよ。貴きドラゴン様と、種族としての竜種の間には越えられない壁がある。わかるかしら?」


「口で言われるとニュアンスの違いがイマイチ伝わんないんだけど……つまり、竜とドラゴンは扱いが違うってこと?」


 当たり前じゃない、とばかりに肩をすくめられてスバルは不満顔。と、そんなスバルの袖を引くレムが上目にこちらを見て、


「ですから心配しなくても大丈夫です。なんなら、今からでも飛竜のタマゴを調達してきますけど……」


「調達って言い方だと、買ってくるじゃなくて狩ってくるに聞こえる不思議! まぁ、別に最初はニワトリスタートでいいよ。舌が満足できなくなったら頼む」


 自他共に認める安物好き舌なので、高級感溢れる方向へ走る可能性は低いが、提案を無碍にされたと思えばレムの凹む姿が目に浮かぶ。保留という形で提案を受け入れ、レムの顔も立てたところで、


「はい、そんでもって材料第二弾、アブタカタブラ油!」


「もともとお屋敷で使用しているものは一級品ですので、こちらは問題ありませんね。壺で備蓄していますから、どれだけ使われても大丈夫です」


「しかし改めて考えると、屋敷のもんを完全に私用状態なんだけどそのへんって怒られたりしないのかな?」


 朝食の席に同席していたロズワールはこれといって言及していなかったが、目的がかなり私心に傾いた内容であることは間違いない。

 あまり調子に乗って、主との不和の原因に――とかは避けたいところなのだが、


「安心してください。私事に使った分はちゃんと、あとで実費で補填しておきます。スバルくんはなにも心配しなくていいんですよ」


「優しげな言葉に騙されそうになるけど、それ頼ると俺クズ過ぎねぇ!?」


 自分の貯蓄を切り崩すことを躊躇わないレムの言葉に、スバルは自分の給金が出たら折半することを約束して折り合いをつける。全額負担はレムによって固辞されてしまったため、そこで妥協するのが精いっぱいだった。


 身を削る献身を生き甲斐としてしまっている現状、やっぱりあまりよくないとスバルは思う。そんなスバルと妹のやり取りを横目にするラムの視線も、絶対零度の状態から温度を上げる予兆も見えない。

 先行き不安な依存状態のレムを相方にしたまま、スバルはため息を胸中で噛み殺してマヨネーズ作りの続きへ。


「んで、主な材料は以上。残りはえーっと、まず塩」


「ソルテですね」


「あとは胡椒?」


「ペッパもこちらに」


「砂糖……はいらなかったような気がするけど、一応」


「シュガーも用意してあります」


「砂糖だけなんのひねりもないのはなんだろな……」


 並べられた香辛料の数々を前に、スバルは「さて」と顎に手を当てる。

 タマゴに油、そしていくつかの調味料――主な材料はこんなところだったと記憶している。問題は、これらをどんな順番で、どんな配合量で合わせるかだが。


「まずは千里の道も一歩から。失敗するのは織り込んで着実にいこう」


「はい、そうですね。だから、失敗、しても、レムを、見捨てたり……」


「うおおい! なにが琴線に触れたの!?」


 スバルの袖を摘まみ、カタカタと小さく震えるレム。

 評価に対して異常に敏感な状態の彼女にとって、失敗前提の作戦はかなり精神的に辛かったらしい。つまり、トライアンドエラーの作業は相性が悪すぎる。

 小刻みに震えるレムをどうにかなだめて、スバルは安心させるように頷き、


「だよな、そうだよな。最初から失敗覚悟とかアンダードッグ丸出しな根性はよくねぇよ。何事もスパッと、一撃必殺で決めちゃう意気込みでいかなきゃな! そう、俺はもともとわりと空気読まずに一発正解を引く性質だったじゃねぇか。ちょろいちょろい」


 気負わない風を装って胸を叩き、スバルは内心冷や汗塗れで材料に向き直る。

 隣のレムが心配げにこちらを見ている以上、失敗覚悟で適当な組み合わせを試すという作戦はすでに取れない。

 ほんの数日前までの緊張感――それが早くも蘇り、スバルの心臓は痛いくらいの速度で血液を送り出し始めていた。


「マジ厨房は戦場だぜ……よし、やってみよう。レム、タマゴくれ」


「はい。二百個くらいで大丈夫ですか?」


「泳げるぐらいマヨネーズ作らせる気か!? 一個でいいよ!」


 レムの持ち上げる籠にはタマゴが山ほど入っていて、彼女の意気込みが伝わってくる。その勢いに逆に尻込みしつつ、スバルはタマゴを一個だけ回収し、とりあえず手近な器の中に中身を割って作業開始。


 器の中に落ちた黄身とにらめっこしながら、そこにかなり適当な感覚で塩と胡椒をぶんまく。迷いを見せてはいけない。隣に立つレムの信頼に満ちた眼差しを思えば、ここで戸惑って彼女の瞳を曇らせることなど言語道断。

 変な使命感に背中を押されたまま、スバルは自分と頭の中の両親を信じる。泡立て器でタマゴと調味料を掻き混ぜ、混ざってきたと思ったら油を投入する。思い出した。そう、なにはなくとも混ぜ混ぜが重要だと、両親は言っていた気がする。

 油を、もっと油を。情熱で器の中のマヨネーズが燃え上がるほど、一心不乱に油を注ぎ込み、親の仇にでも巡り合ったかのように泡立て器を走らせるのだ。


 息が切れ、額の汗が顎を伝い、次第に視界すら白濁とし始める。それでもなお、届かぬ領域へ届かせるように、想いを込めて混ぜに混ぜる。

 音が遠くなり、世界から色が消えていく。しかし、代わりに感覚は鋭敏になる。肌に触れる空気の動きさえわかるような超感覚の世界で、スバルは器の中のマヨネーズを見つめ続ける。そして、確信した。


「分離しちゃった」


 やっぱり勢いだけじゃ無理だった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――その後、マヨネーズ作りは熾烈を極めた。


 一進一退の攻防、といえば聞こえはいいが、勝敗ははっきり言って全敗。

 いくつものタマゴを犠牲にして、積み上がるのは累々とした失敗作の山。否、山ではなく、なんだか黄色っぽかったり白濁としていたりで、目にするのも嫌になるような訳のわからない液体の海だ。


 山ほどあったタマゴも数十個を犠牲にしたあたりで、スバルは命の浪費に耐え切れなくなって、


「クソ! また届かない! どうしてだ! やり方は間違っていないはず……なにが足りない!? どうすればいい。異世界にマヨネーズを持ち込むことに、まさか世界が干渉して阻もうとしているとでも言うのか――!?」


 異世界召喚もので、現代から文明を持ち込んで文化爆発させるのは一種の様式美。これといった知識のないスバルには遠い夢に思えたが、まさかこんな落とし穴が存在するとは思ってもみなかった。


「チクショウ、恐るべし、世界観の揺らぎ。マヨネーズでこんだけつまずくってことは、もっと大規模な知識は持ち込むことすら不可能か……」


 落胆で心が折れそうだ。

 かつてここまでスバルの心が、ここまで絶望感に打ちのめされたことがあったろうか。伸ばしても伸ばしても、手の届かない領域。

 それをこんな日常の一幕で思い知らされて――、


「いや、思い返すとけっこう絶望してるな、俺」


 わりと心が折れる的経験値は溜まってきている自覚。

 残念なことにこの手の経験値はいくら溜めても耐性には影響しないし、成長してレベルアップするということとも無縁の捨てパロメーターだが。

 ともあれ、そんな感傷が思い浮かぶ程度には失敗に失敗を重ねたわけで、さぞやラムとレムの落胆を招いたことだろうと肩を落として隣を見る。と、


「だいぶ形はできてきた気がしますけど、味が全然です。姉様はいかがですか?」


「油を少しずつ足して、ソルテとペッパで味を調節。掻き混ぜるのは根気がいりそうだから、ラムには向かない仕事だわ」


 器に泡立て器を差し入れて掻き混ぜながら、歓談ついでに作業をしていた。

 おまけにちらりと覗き見ると、


「あれあれあれれ? 俺より予備知識ないはずなのに、マヨネーズっぽい原型とかできてる気がするのはなぜにホワイ!?」


 ラムとレムの器、そのどちらにも微量ながら粘度の高い物体が生まれ始めている。若干、ラムの手製のものの方が理想形に近いようだが、


「な、何故に?」


「これが料理をするものとしないものとの違いよ。些細な知識の有無なんて問題にもならない。付け焼刃がなんの足しにもならないことを知るがいいわ」


「料理っつったって、お前の料理なんて蒸かし芋ぐらいしか見たことねぇけど!?」


 とっさの反論も負け惜しみオブ負け惜しみでしかなく、「ハッ」と見慣れた仕草で鼻を鳴らすラムに対してぐうの音も出ない。

 一方、差をつけられて落ち込むスバルを慰めるようにレムは微笑み、


「大丈夫です。スバルくんはスバルくんの思った通りのやり方をやってください。料理をするレムからすれば不合理で、理屈に合わない上に、正直タマゴに対して申し訳ないなぁと思わなくもないですけど、それもスバルくんの生き方ですから」


「久々にきたな、遠回しな毒が! 俺の生き方にまで言及するのやめてくれる!? マヨネーズ作りでそこまで判断されたくねぇよ!」


 フォローしている風で全然していないレムの言葉に叫び返し、スバルは二人の手元をうかがって違いを見比べる。

 と、スバルが目を皿のようにして眺める中、彼女らはその粘性のあるマヨネーズ未満の物体に少しずつ油を継ぎ足し、


「あー、なるほど。一気に入れないのか」


「たくさんの量を注いでしまうと分離が早まってしまいますから。あとは根気よく掻き混ぜることです。短慮さと根気――身につまされますね」


「わぁ! すごい! レムってば最高! よく気付いた! よくぞ見抜いた! 偉い偉い、ワンダホー!」


 自分の発言で勝手に沈んでいきそうなレムを、軽い賛辞の言葉で引き止める。言われたレムはパッと表情を明るくして、「そ、そうですか」と照れ笑い。

 若干、面倒くさい上にちょろい性格になってきている。


「そのあたり、うまいこと自覚させるためのマヨネーズだったんだけどなぁ」


 いちいち自己評価を求めるのは、自身への過小評価の強さが原因だ。

 故に、自信さえ持てれば今の『子犬的かまってちゃん』状態から抜け出せるに違いない。というのが、数多の漫画やゲームに触れてきたスバルの考えである。

 実際、屋敷の大半の仕事はレム抜きでは回らないというのに、それが当たり前になりすぎていて、その功績をたたえられることが少なすぎる。それすらも、彼女にとっては『まだまだ足りていないに違いない』と考える要因になっているのだろう。


 だからこそ、未知なるものに挑ませる意味でのマヨネーズ作り。

 彼女抜きでは完成し得ないだろう内容を達成することで、少しばかりでもレムの自信につながることを願う。

 そんな思いからの提案だ。よって、断じて私利私欲が全てなのではない。


「なのに、お前の方が調子よくてどうすんだよ。ホント空気読めねぇな、お前」


「風を読むのが得意なラムになんたる暴言。ラムの手元が見えないのかしら」


 じと目で小声の文句をつけると、ラムは鼻を鳴らして目で己の手元を示す。彼女の手の中の器、そこに生まれているのは小規模の風の渦だ。それが泡立て器の先端を掴み、人力では為し得ない超速での撹拌を可能としている。

 すさまじい速度の螺旋の中、着々とマヨネーズ未満がマヨネーズへとフォルムチェンジしていくのを見届け、スバルは「うんうん」と笑みで頷き、


「お前のその要領の良さが今は憎い」


「身体的なものは別として、頭が冴えてしまうのは仕方のないことじゃない? それにバルスの思惑はどうあれ……」


 こちらを流し目で見たあと、思うところがあるような視線をレムに向ける。レムはその視線に気付かず、自分の手元の泡立て器を回転させるのに一生懸命だ。

 そんな妹の横顔に、姉はわずかに口元をゆるめて、


「頼られれば、いいところを見せたいと思ってしまう。ラムの姉としてのちっぽけなプライド――それをどうこうする権利がバルスにあるとでも?」


 能力で妹に劣ると認めてはいても、それでも姉であることを自認するラム。

 スバルの思惑は彼女にとってもマイナスではないはずだが、ラムにもラムなりの、レムとの接し方への信念がある。となれば、そこへの言及は野暮でしかない。

 そうはいっても、


「けっきょく、お前が先に完成させちまったら、レムの自信にならねぇだろ。『やっぱり姉様はすごい。それに比べてレムなんて……』って負の螺旋に陥ったらどうする。これ以上、俺べったりになって面白くねぇのはお前も一緒だろ」


 ますますスバルへの依存度が上がるのは避けたいところである。これ以上にご褒美要求が過剰になると、下手すればトイレにまでついてきて、尻を拭く作業まで申し出てきかねない。恐怖である。

 そんなスバルの戦慄を余所に、ラムは吐息をこぼして「そんなことにはならないわ」と呟くと、


「そろそろ、ラムもマナの使用を控えないといけないから完成しない。道さえ示してあげれば、あとはレムが勝手に歩くでしょう。最初に道をつけたという事実があるから、ラムのプライドも傷付かない。落とし所はそれで満足? バルス」


「マジ可愛げねぇよ、姉様。――ひょっとして、無理させたか?」


 魔獣の森で、風の魔法を使いすぎて動けなくなった彼女のことを思う。

 もしも今回のことで負担をかけてしまったとしたら、それはスバルの落ち度でもあるのだ。が、彼女はそのスバルの問いには首を横に振り、


「純粋にラムの益がないからやめるだけよ。これを完成させても、喜ぶのはバルスだけでしょう。ああ、なんて心踊らない。もうやめるわ」


 言い切り、ラムはポイっとあっさり器を流し場へ投げ出してしまう。

 いっそ清々しいくらいの潔い見切りっぷりであり、今のがたとえ真実であっても、事実を隠すための方便であったとしても、スバルをいらつかせるには十分なほどの破壊力を秘めていた。


「姉様?」


「レム。ラムは疲れたから抜けるわ。食堂の方でお茶でも飲んでるから、お昼までは適当にバルスに付き合ってあげなさい」


 掻き混ぜるのに夢中で話に参加していなかったレム。その彼女の呼びかけに口早に応じて、ラムは憮然とするスバルの肩を小突くと厨房を出ていった。

 傍若無人な振る舞いに言葉もないまま、スバルはやれやれとラムが投げ出した器を回収し、


「んだよ、だいぶいい感じになってるってのに投げやがって。俺がここに到達することもできず、何匹のヒヨコの命を犠牲にしたか……」


 自分の連敗ぶりがいよいよ情けない。そんなぼやきを口にしながら、スバルは器の中に指を差し入れると、やや黄色がかったマヨネーズ未満を口に運ぶ。が、


「だいぶ、食感は近い気がするけど……うぇ、やっぱなんか違う」


 濃厚な油っぽさといい、見た目といい、だいぶ求めたマヨネーズに近い。のだが、肝心の味がそれとは完全に別物だ。

 なにかが足りない気がするのだが、塩や胡椒の多寡が原因ではない気がする。

 あくまで味付けの一環である塩や胡椒、それらとの違いはなにか――もっと肝心のなにかが抜けている。


「材料、なんか足らねぇんだよなぁ。なんだろ、わっかんねぇ……甘さとも、辛さとも、しょっぱさとも違う気がするんだが……」


 何度も器の中身を舐めて、首をひねるスバル。

 純粋に味として未完成なマヨネーズ未満、それをいくら舐めても油っぽさが先立つばかりであり、繰り返す都度に気持ち悪さが募っていく。


 そんなスバルの隣で同じように器の中身を口にするレム。彼女は瞑目し、口の中に広がる油っぽさを吟味しながら、何事か迷うように「ううん」と呟く。

 見た目だけなら完成形に近い。問題はあと一歩、なにかが足りないところにある。そんなスバルの思惑は、ふいに目を開いた彼女の一言に遮られた。


「――酸味」


「ほえ?」


「この味の雰囲気だと、少し酸っぱさが加わればおいしく感じる気がします」


 レムの提言に目を瞬き、スバルは確かめるようにマヨネーズ未満を口へ。

 濃厚な油っぽさの中に純粋な気持ち悪さが広がる。が、そこに舌が痺れるような酸味が加わればどうだ。――想像の中の形に羽が加わり、マヨネーズ未満が高らかに青い空へと浮かび上がる。今、答えが見えた。


「酸味! そうだ、酸味だ! 酸っぱさが足りないんだ! なんだ、なにを足したらいい!? 酸っぱいもの酸っぱいもの……ミカンとか!?」


「レモムの実か、ビネギーを足すのが一番いいと思います」


「レモン汁かお酢か! 俺も同意見だ! これで正解なら、夢広がるな!」


 レムの意見に従って、スバルは厨房の奥から調味料を引っ張り出す。レモン的な果物を潰して果汁を搾ると、喉の奥まで悲鳴を上げたくなるほど濃密な酸味の臭いがほとばしるお酢っぽい液体を流し場へ。

 二つの酸味が用意され、スバルはレムへ頷きかけると、ラムが投げ出した方へレモン汁を。レムが抱える器の方へお酢を注ぎ、


「あとは一心不乱に掻き混ぜる! 魂が、擦り切れるほどに……!」


 先ほどの反省点から、口調の勢いのわりには注ぎ足す量は少なめに。

 少しずつ少しずつマヨネーズ未満に加えて、逸る気持ちを押さえながらも撹拌して形を整えていく。

 時間をかけ、愛情を込め、気付けばスバルの目の前で、マヨネーズ未満はひとつのマヨネーズの形への進化を遂げていた。


 息を呑み、からっからに渇いた喉に痛みすら感じる。

 そんな状態でありながらも、心は水ではなく、眼前の粘性の高い物体を求めてやまない。


 振り返る。レムがいる。彼女は頷き、スバルの意思を後押ししてくれる。

 彼女に頷き返し、スバルは器に向き直った。漂ってくる油っぽい香りと、そしてわずかに鼻をくすぐる酸味――間違いない、とスバルの中のマヨラー精神が声を上げる。

 今、異世界において、スバルは新たな道を切り開いた――。


 指を突っ込み、すくってみせる。

 指先をまったりと白く染めるそれを愛おしげに眺め、スバルはそれを口に入れる。艶めかしく、どこかエロティックに指をしゃぶるスバル。隅々まで舐めつくし、音を立てて指が唇から引き抜かれる。

 陶然とした面持ち。そして、スバルはレムへ振り返り、


「――まっず!! 失敗してた!! これじゃなかったっ! おえっ!!」


「だ、大丈夫ですか!? 量が違ってたとかじゃなくて?」


「違う違うもう根本から間違ってる! ワサビとカラシとハバネロとが全部辛さの味が違うみたいに、これも酸っぱさのカテゴリーエラーだよ!」


 レモン汁での酸味付けは見事に失敗。

 口の中のマヨネーズ未満改めマヨネーズ外に変貌したそれを泣く泣く流し、スバルは濁り切った瞳をレムの方へ向ける。


 希望が先立っただけに、現状の不安の要素はあまりに大きい。

 レムの方まで失敗していたら、と思うととてもではないが立ち上がれない。だが、それでも確かめずにいられないのもまた事実。

 スバルの期待と負感情で混ざり合った視線を向けられ、レムは自分の手の中に、彼の抱く希望の全てがかかっていると理解したのだろう。


 自然、彼女の中にもその事実への覚悟が生まれてきたようだ。

 息を呑み、顔を上げた彼女の表情からは迷いが消えていた。そして、そこには自らの評価を求める、というような弱い感情も失われ、ただただ純粋な、目的のために挑む求道者のような佇まいだけが残されている。


「――レム」


 スバルの懇願に、レムは小さく頷く。

 もはや二人の間には言葉は不要だった。


 スバルの信頼に応えるべく、レムは器の中にそっと指を差し入れる。

 指先に付着する白濁した液体を、ジッと見つめて、ほんの数秒だけ制止。その数秒の停滞の間に彼女がなにを思っていたのか――それは誰にもわからない。


 ただその停滞が解けた瞬間、レムは躊躇わずにそれを口の中に入れていた。

 確かめるように舌が動き、白い指先を赤い舌が艶めかしく横断する。桃色の吐息が指先に残され、口の中に滑り込んだそれを目をつむるレムが味わい尽くす。

 短い時間、それだけの邂逅――だが、永遠にも似た停滞がそこにあった気がしていた。そして、彼女の目が開かれたとき、スバルはただ空白を口にして彼女に問う。


 それへの答えは――、


「今日、ここで生まれたこの味を――マヨネーズと名付けましょう」


 異世界にマヨラーを波及する、最初の一歩となる言葉であった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 マヨネーズ作りが見事に完成へ到達したのは、普段ならば昼食を作り始めていなくては間に合わない時間のことだった。


 喜びも束の間、決まったルーチンワークをこなせないかもしれない現実に冷や水を浴びせられかけた二人だったが、そんな二人を救ったのは他でもない。


「そんなことだろうと思ったから、準備はしておいたわ」


 と、自らの得意料理であるところの『蒸かし芋』の準備を終えていたラムだった。

 正直、彼女の蒸かし芋の味は保障されているものの、貴族邸の昼食メニューとして出すには些か問題があるように感じられる。

 が、その問題の解決に役立ったのは、それこそ問題の切っ掛けとなったマヨネーズであった。


「――そんなわけで、これが俺の故郷に伝わる究極の調味料マヨネーズである。素の蒸かし芋に付けることでより味がわかるテイスト。さあ、実食あれ!」


 さも、ちゃんとした昼食メニューを用意しなかったことには理由があるんですよ、とばかりのスバルの振舞い。

 豪奢なテーブルの上、きらびやかな食器の上に乗っているのは、温かな湯気の立つ蒸かし芋と、それにトッピングされたマヨネーズのみのシンプルなものだ。


「これはまーぁた、思い切った食事だね?」


「マヨネーズのすばらしさをみんなにもわかってほしくてな。ラムやレムには無理を言って、余計なものは一切合財取り払ってもらった。なにか文句があるなら全部俺に責任があっから言ってくれ。そしたら」


「そうしたら?」


「魔獣騒ぎの件での功績で、この昼飯の無礼をチャラにする……!」


「エミリア様の命を救ったときの件でもそうだけど、スバルくんってばかなーぁりご褒美の使い方が下手糞だよねぇ」


 ロズワールは苦笑してスバルの無礼を許容。

 彼からすれば、スバルの拙い言い訳などあっさりと見抜いていたことだろう。特にスバルの後ろで、申し訳なさそうに佇むレムの姿があるのだからなおさらだ。

 もっとも、蒸かし芋を出すことになんの躊躇いもなかったラムは、瓜二つの妹の隣で堂々と胸を張っている。大した胆力である。


 そうしたやり取りの傍ら、目の前のメニューに抵抗感があるのはロズワールだけではない。見れば、スバルにとってはもっとも反応が気にかかる相手であるエミリアも、マヨネーズのかかる蒸かし芋をしげしげと見回しており、


「どうよ、エミリアたん。食べられそう?」


「初めて見るから、ちょっと恐いっていうのが本音。レムが保障してるんだし、スバルがあれだけ言うくらいだから、おいしいって信じたいんだけどね」


 さすがに初見で躊躇なく口にできるほど、穏当な見た目はしていない。

 ここはひとつ、食べさせても罪悪感の働かない相手に食べさせよう、とスバルが決心して食卓を見回すが、


「あれ、ベア子は?」


「ベアトリス様なら、食堂に入った途端、メニューを目にして回れ右したわ」


「あのロリ、あとで覚えてろよ……」


 お残しは許しません、とスバルはあとで書庫にマヨじゃがを持っていくことをこっそりと決意。

 けっきょく、先陣を切らせる相手が見つからないままスバルはため息をつき、


「わかった、仕方ない。じゃあ、次点でパック頼む」


「ええ、ボク?」


 苦渋の決断とばかりに首を振り、スバルは先陣の栄誉を小猫に譲った。

 エミリアの隣の位置、皿に小ぶりの蒸かし芋が置かれ、その正面にちんまりと座る形でいたパックだ。

 手で顔を洗ったり、尻尾の毛づくろいをしたりと話の蚊帳の外にいる感を演出していたようだが、そうは問屋が下ろさない。


 スバルの熱視線にパックは困った顔でエミリアを見上げる。が、当のエミリアもそのパックにすまなそうに顔を曇らせると、


「パック、お願い」


「……リアに言われると弱いなぁ。もう、仕方がない」


 パックは不本意そうに頭を叩くと、ゆっくりと蒸かし芋に向き直る。

 それから黒い眼でスバルを見上げ、ピンク色の鼻を震わせてぽつりと、


「ちなみにもしもボクが死んじゃうと、周囲一帯をリアを除いて氷漬けにする道連れ式の術式を組んでいるんだけど……どうかそのことを忘れないで」


「さらっと恐いことを告白するな。そんな心配しなくても大丈夫だよ!」


 パックの今生の別れみたいな発言に突っ込みを入れると、彼はその小さな体を揺らして蒸かし芋に取りつく。そして、小さな口を開けるとその塊にかぶりつき、


「ほむほむ、おいしいよ」


「芋部分だけじゃなく、マヨネーズにもちゃんと取り組め」


「ばれたか。じゃ、あーん」


 芋だけで誤魔化そうとする姑息さを指摘され、パックは照れ笑いしてマヨネーズを舐める。芋とマヨネーズを口の中で咀嚼し、全員の注視を受けるパック。

 スバルもまた、完成品を自分の舌で確かめていたとはいえ、それが未確認の相手からどう評価されるかは未知の部分だ。自然、緊張感をみなぎらせてパックの反応を待つ。と、灰色の小猫はゆっくりとその場の全員を振り仰ぎ、


「――うん、おいしいんじゃないかな」


 と、肉球で蒸かし芋を軽く叩き、太鼓判を押してくれたのだった。



 パックのお墨付きがついたところで、昼食の席は正しく開始される。

 最初は警戒の色が消えないエミリアだったが、一度、観念したように蒸かし芋を口の中に放り込むと、そのマヨネーズの深みのある味に舌鼓を打ち、


「あ、おいし。やだ、止まらなくなっちゃう」


 と、不本意そうに蒸かし芋をいくつも口にして、ご満悦の様子だった。

 ロズワールも「これはおいしいねぇ」と貴族級の舌も満足させられたようで、マヨネーズ伝道者としてスバルも胸を撫で下ろす結果になってくれた。


「よっし、大成功と。レム、よくやってくれたな」


 思いがけず高評価の状態に満面の笑みを浮かべ、スバルは後ろでいまだに固まっていたレムの肩を叩く。

 レムはその呼びかけに恐れ多いように俯き、


「いえいえ、レムのしたことなんてそれほどでもないですから。これも全て、スバルくんの行動の賜物ですよ。レムは没頭しすぎて、昼食の準備も忘れてしまうくらいで……姉様とスバルくんがいなかったら、ロズワール様にどんな叱責を受けたか」


「なんでそうマイナス解釈すっかなぁ。俺とかラムの悪知恵を評価できんなら、自分のことももっとちゃんとプラスに見れねぇ?」


 レムの過小評価を受けて、スバルは肩をすくめるしかない。

 実際、ラムとスバルの行動は悪知恵の塊であり、その片棒を担がされる羽目になったレムが評価するようなことはなにもない。

 むしろ、仕事外のことをさせた結果、レムに後ろめたい気持ちを抱かせてしまったスバルの方こそ申し訳ないぐらいだ。


「レムのおかげでマヨネーズは完成した。これで俺も、こっちでも食卓という場所に花を咲かせられるわけよ。感謝してるぜぃ」


 が、ここでそれを蒸し返しても謝罪合戦に突入するだけだろう。

 ので、スバルは勢いで押し流してしまうことを選択する。


「――レムの、おかげですか?」


 そんなスバルの思惑に見事に乗っかり、パッとレムは顔を明るくする。

 彼女のお手軽感に内心苦笑しつつも、そこも可愛いところかと納得してスバルは頷き返し、


「おお、もちろん。レムがいなきゃ、今日の成功はあり得なかった。誇っていいぜ」


「お役に立てましたか?」


「もう、バリバリ。おかげでマヨネーズ依存症の俺の命は救われた。そりゃもうホントに危険域だったんだから」


「危険域……」


「危うくマヨネーズにどっぷり浸からなきゃ死ぬかもレベル。おかげさまで命拾いだ。神様、仏様、レム様、エミリアたんって具合だな」


 いよいよもって適当さが留まるところを知らないスバル。

 レムはそんなスバルの言葉に生真面目な顔でうんうんと頷き、


「わかりました。任せてください」


「――うん? わかった。超任せるぜ!」


 よくわからないが、レムの自信につながるのならばそれもありだ。

 サムズアップしてそれに応じて、スバルもまた大絶賛の昼食へありつくためにエミリアの隣へ向かう。


 その後ろで、レムが静かに決意を固めるように、ガッツポーズしているのに気付かず。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――マヨネーズ作りから一晩明けて、翌日の早朝。


 使用人としての朝は早く、スバルもまた早々にベッドを抜け出すと、欠伸を噛み殺しながら屋敷の廊下を歩いていた。


 昨日は色々と大変ではあったが、マヨネーズがこちらの世界で食べられるようになったのは得難い幸運だった。

 今後、食生活の違いに大きく悩むことも減るだろう。レム様様だ。

 と、


「そんなこと考えてたらまさに。おはよう、レムりん」


「――あ、スバルくん。おはようございます!」


 スバルより先に目覚めていたらしきレムが、廊下の向こうからこちらへと息を弾ませながら駆け寄ってくる。

 パッと顔を明るくして、スバルの反応を待っているような彼女に苦笑。それからスバルは「あー」と前置きして、


「昨日は色々とありがとな。おかげで故郷の味を思い出せて嬉しかったし」


「いいえ、とんでもないです。レムのしたことがスバルくんのためになってくれたなら、それより嬉しいことはありません。――褒めてくれてもいいですよ?」


 見えない尻尾をばたつかせるレム。彼女の青髪に掌を乗せて、その頭をゆったりと撫でてやる。鼻を鳴らし、気持ち良さそうに目をつむっているレム。

 なんだかいけないことをしているような気持ちになり、朝っぱらからなにをしているんだろうと自問自答しかける。と、


「そうだ、スバルくん。ちょっと、寝ている間に汗をかきましたか?」


「え、嘘、臭う? 確かに昨日とかちょい蒸し暑かったからなぁ」


 わずかに寝苦しさを覚えたのは事実であり、それを指摘されたことにスバルは驚いて腕を持ち上げる。自分で鼻を鳴らして嗅いでみるが、慣れ切った自身の臭いというものはどうにもわかりにくいものだ。

 首を傾げるスバル。が、レムが指摘するぐらいだからけっこうなことなのかもしれない。


「エミリアたんに気付かれるのも恥ずかしいしな。ちょっと水で体拭いてくるか」


「それでしたら、浴場へどうぞ。小さい浴槽の方なら、朝から使っても問題ありませんから。――なんでしたら、お背中を」


「流してくれなくても大丈夫。女の子、もっと恥じらい持つのがいーぜ?」


「残念です」


 冗談めかした態度で手を引くレム。そんな彼女の言い分に、しかしスバルはお言葉に甘えようと判断する。なにせ、わざわざ湯船を勧めてくるくらいだから、今のスバルの肉体から放たれるスメルは尋常でないのかもしれない。

 これがスバルに好意的なレムだからこの程度で済んだが、遭遇したのがラムやらベアトリスだったとしたら、想像するだけで心を折られそうな勢いだ。


「んじゃ、ちょっとお言葉に甘えるわ」


「はい。――ごゆっくり」


 どこか含むところのありそうなレムの言葉。が、一刻も早く汗を流すべしと判断していたスバルは気付かない。

 手を上げてレムと別れると、少し急ぎ足で浴場の方へ足を向けた。



 朝から風呂に入るという経験は、シャワーの存在しない異世界においては新鮮な感覚であった。

 ひきこもり時代はそれこそ昼夜逆転生活なので、気が向いた時間に風呂場に向かっては、シャワーだけで入浴を済ませていたことも多かった。

 こちらの世界ではそんな速成の入浴はできないし、そもそも意中の女の子のすぐ近くで、身だしなみに手を抜くなど言語道断である。

 よって、自然と入浴にも時間をかける傾向が深まりつつあるスバルだったが、


「こうして浴場をひとりで貸し切れるとなると、変に気持ちも高まるよな」


 広い浴場を見渡し、スバルは全裸で無意味に胸を張りながら呟く。

 銭湯の浴槽にも匹敵する、大浴場の方は今は水を抜かれており、大理石っぽい素材の浴槽が清掃されるのを待ち構えている。が、今のスバルの目的はそちらではなく、浴場の隅っこに設置された小型の浴槽の方だ。


 主であるロズワールが不在の際、無駄に湯を焚く必要を省くための浴槽だ。ひとりで入るには十分な大きさな上に、魔鉱石による湯沸かし機能も完備で実に使いやすい。

 そして、ふと浴槽に目をやると、


「ゆったりと昇る湯気……さては、レムが気を利かせたか」


 着替えを取りに部屋に戻ってから浴場へやってきたスバルだ。

 そのロスした時間の合間に、レムがこっそりと湯沸かししていったとしても、今の彼女の気の利かせすぎな部分を思えばあり得なくもない。

 なんにせよ、湯沸かし済みならなおのこと問題なしである。


 早朝の浴場で、全裸で、ひとりでいることの相乗効果――それらが思いのほか、スバルの精神に大きく作用した。

 その結果、


「一番、ナツキ・スバル――お風呂いただきまーす!」


 変なテンションで浴場を駆け抜け、スバルはホップステップジャンプを実行。濡れた床で滑る大惨事に直面することもなく、股間のイチモツを揺らしながらの飛び込みを敢行――宙で身が回り、湯船の中へと体が一直線。

 そして、


「――うぶぇ!?」


 どっぷりと、聞いたこともないような粘性の音を立てて体が沈んだ。

 予想外の感触と温かさにビビらされ、スバルはぬめる質感の液体の中で体を浮上させ、どうにかこうにか顔を水面へ――目が開かない。


「なになに!? どういう感触、どういう状況!? すごい、体がぬめる! ヤバい! しかも傷口になにかが沁みる! ヤバい、ホワイ! 死ぬかもしんない!」


 湯船から飛び出し、浴場の地面を派手に転がりながらスバルは絶叫。

 体中が粘性の液体に覆われ、立ち上がろうと試みる端から滑る、滑る。手を地面に着こうとしても、掌が滑る、滑る、滑る。


 意味がわからない。予想外の事態。

 いまだ目が開かず、暗闇に覆われた世界でスバルの脳内に警鐘が鳴り響く。命を脅かされる感覚、数日前に味わったばかりのそれを再び間近にして、スバルは自分の迂闊さに声もなく恥じ入っていた。


 馬鹿すぎる。なにを甘くみていたのか。

 異世界の運命を司る神様、その意地の悪さをどうして忘れていたのか。助かったと思った? 残念、BADENDでした! みたいな裏切りにどうして備えていない。


 呼吸困難の苦しみの中、喘ぐようにスバルは天井を仰ぐ。

 浴場の地面に大の字になって、体中を粘性の液体にまみれさせ、どうにも自由の利かない五感を必死で働かせ、スバルは思考を走らせる。


 声は出る。助けが呼べる。だが、これも罠だったら? 助けを呼んだとしても、呼ばれた相手を巻き込んでしまうんじゃないのか。しかし、助けを呼ばずにこうしていても、これを目論んだ相手の手でスバルの命運は断たれてしまう。ならば声を出さずしてなんとする――一瞬の間にめまぐるしく走る思考。

 それがふいに、口の中に生じた違和感によって中断される。


「俺が死んだら俺の死を三日隠せ……その間に根回しを……ん?」


 混乱の最中、遺言じみた言葉が漏れていたスバルは顔をしかめ、その口の中に生まれた感覚をじっくりと舌で味わう。

 粘性、油っぽさ、そして至高の酸味――その結論は、


「――レム! レム! こい!」


「はい! お呼びですか、スバルくん!」


 呼び出しに、まるで浴場の外で待ち構えていたかのようなレムの声が応じた。

 彼女は素早い動きでスバルの方へ駆け寄ると、持っていた手拭でマヨネーズだらけのスバルの顔をそっと拭い、


「どうですか、浴びるほどのマヨネーズ。スバルくんのご要望にお応えして、レムも頑張ってみました。――褒めてくれてもかまいませんよ?」


 褒めて褒めて、と言外に主張する彼女の微笑み。

 体を起こし、マヨネーズ塗れの全身を手拭で拭きながら、スバルは邪気のないレムの顔に微笑みを返して、


「バッカじゃねぇの、お前!?」


 早朝の浴場に、スバルのこれまでにない怒声が炸裂していた。


 魂の伴侶、マヨネーズを無駄にされたことも相まって、スバルの怒りの程はそれはそれはすさまじく、寝坊したラムが浴場へやってくるまで、正座させられたレムへのお説教は長く強く激しく、続いていたという。



 ――余談ではあるが、ロズワール邸においてマヨネーズは、「おいしいから、ずっとあると嬉しいかな」というエミリアの意見でその地位を確固たるものにして、『適量』の二文字を厳守して備蓄され続けることとなる。


 なお、レムに自信をつけさせるために始まったマヨネーズ作りではあったが、結果的にレムはこの一件でマヨネーズに強い恐怖心を抱いてしまい、能力的にマヨネーズ作りにも向いているという点が加味され、これがラムの仕事になったことも付け加えておこう。




 第一次マヨネーズ騒動終結――第二次マヨネーズ騒動へ続く。


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マヨネーズ心理教
[良い点] マヨネーズで死にかけるというのがシュールすぎるし、スバルが実際、死を経験したことがあるから現実味があるというww 全なろう界で一番好きな回です 最後のレムに対しての「ばっかじゃないの」が最…
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