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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第三章 『再来の王都』
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第三章25 『ひとり』


 幸せである、というのはどういうことだろうか。


 変わらないでいること、それが幸せの定義のひとつであるとスバルは思っている。

 今日と変わらない明日が、昨日と変わらない今日が、変わることのない日々が続くことを、幸せであるのだとスバルは思っている。


 無論、なにもかもが変わらないで生き続けることなどできない。

 時間の経過は変化を生み、摩耗を経て、進化か退化いずれかの終わりに辿り着く。


 ――ならば、こうして異世界に辿り着いた自分は前に進めているのだろうか。それとも、後ろに向かって退いているのだろうか。


 変化というべきなら、日常から非日常へ叩き落とされた今以上の変化はない。

 環境の変化を、状況を変質を、立場の変異を、生き方の変貌を、ナツキ・スバルはなによりも恐れ、なによりも嫌い、なによりも疎んできた。


 だから、なにもかもが変わり果ててしまった世界においても、変わらないものを探そうと必死で、躍起になっていた。

 一度手に入れたものを手放したくないと、縋りついてしがみついて、それでも。


 それでも――俺は。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 目が覚めたとき、見上げた天上の見覚えのなさにスバルは眉をしかめていた。


 無駄な豪奢さが見慣れてきたロズワール邸の天井でもなく、簡素だが手の行き届いた宿の天井でもない。もちろん、薄汚れた感が愛おしい自室でもないが。


 無意味なほどの天井の高さにそんな感慨を覚えながら、スバルはほんの数秒間の意識の曖昧な感覚に漂う。

 寝覚めの良すぎるスバルにとって、寝起きの亡羊とした感覚は縁遠いものだ。ささやかな普段との違いを味わい、手探りに記憶を掘り起こす。


 眠る前になにがあったのか、そもそもこの場所はどこなのか。


 こめかみのあたりが疼くように痛み、薄目を開いた眼にわずかに涙が浮かぶ。

 それが痛みによるものか、あるいは寝起きの感覚にもたらされたものなのかは定かではない。

 浮かんだ滴を持ち上げた袖でそっと拭い、ふとスバルは自分の目に入った右手首の違和感に気付いた。


 袖口のあたりから覗いた右手の手首、そこに記憶にない派手な傷跡があるのだ。

 手首の内側と外側、両方に刻み込まれたそれはかすかな痺れを伴っていて――、


「……思い、出した」


 自分がどれだけ無様な目にあって、こんな傷跡を残す羽目になったのか。

 そして、この傷跡が残っているということは、


「死ななかった……ってことか」


 その一言を口にしたことが、どれだけ不遜で傲慢なのかスバルは気付かない。

 さらに付け加えれば、無意識下で自分がなにを望んでいるのかにも、気付かない。


 ただ、


「スバル、起きたの?」


 その耳をくすぐるような銀鈴の声が、今はひどく居心地悪いものに思えた。


 首を傾けて、スバルは声が聞こえた方へと視線を向ける。

 横たわる寝台の隣、こちらへ向かって歩いてくるエミリアの姿があった。


 歩く彼女の姿は、先の王選の広間で見た格好と変わらない。

 白を基調とした衣装は貴族的な派手さはないが、彼女のまとう清廉とした佇まいによく似合っている。外を出歩く際にすっかりお馴染となった白いローブは綺麗に畳まれ、その腕の中に今は抱えられている。


 彼女のその姿と、窓辺から差し込む橙色の日差しを見比べて、スバルはほとんど時間が経過していないのだろうと判断する。

 おそらくは数時間か。王選の開始が昼前であったことを考えると、意識をなくしていたのはせいぜいが四時間ぐらいだろうか。


「傷の具合、どう? フェリスの治療だから変なところはないと思うんだけど……」


 憂いを瞳に宿して身を寄せてくるエミリア。そのアメジストの瞳がスバルの手首を見ると、そこに残った傷跡のひどさに痛ましげに目を細めた。

 その視線がこちらの体調を慮っているものにも関わらず、スバルは見たくないものを見られているような気がしてそっと右手を背の裏に隠し、


「あー、あー、まぁ、パッと見した感じだと具合悪いとこ見当たんねぇかな。いや実際、折れたはずの歯の感触まであんのは脅威だぜ」


 口の中で舌をもごもごさせて、なくなったはずの前歯の感触に戦慄する。

 治療の場面に意識がなかったのが悔やまれる。果たして折れたはずの歯は再生させられたのか、それとも再構成されたのか。

 口内の惨状を始めとして、体のあちこちの負傷も軒並み治療されているのがわかり、スバルは相変わらずのこの世界の治癒魔法の万能ぶりに感嘆する。


 四時間で骨折・裂傷・永久歯のリタイアなどが全回復するのであれば、元の世界での病院施設は商売あがったりだろう。


「いや待てよ。病気に対してアクションできると思えない。そう考えると、まだまだ病院にもアドバンテージが……」


「水の系統魔法は病気みたいな体の内側のものにも働きかけるから、スバルが心配するようなことはないと思う」


「マジ魔法万能説。さらば白いビックタワー。BJによろしく」


 適当な軽口を叩いて、舌の湿りを平時と同じにしようと試みる。が、そのあたりの内心の機微はエミリアも悟っているらしく、こちらを見る視線に雑じる哀切の感情には変化がない。

 そうして、『同情』されるのが一番、今の自分には堪えるというのに。


「ええっと、そういや王選の話し合いって無事に終わったのかな?」


 その視線と、無言の時間を避けるようにスバルは話題を提供する。それを受け、エミリアは小さく顎を引いて「ええ」と応じ、


「大まかには。お互いの言いたいことは広間での話し合いで言い合ってたから、あのあとにしたのは本当に細かい王選の詰めだけ。ほとんど、ロズワールが頷いてるだけで終わっちゃったから」


 こと、細かい内容にまで踏み込まれると、いまだ帝王学的なものを修めている最中のエミリアには荷が重いものがあったのだろう。自身の力不足を嘆くような響きが声にあるのを聞きとり、スバルはそこに安堵感を見出す自分に気付く。

 あの王選の場で、エミリアも自身の手が届かない感覚を味わい、悲嘆を覚えていたのであるという――そんな、惨めな共感によって。


 そんな自身の内側に生まれた暗い感情を誤魔化すように、スバルは顔を上げると早口に視線をそらしながら、


「で、そのロズワール様はどちらへ? わりと広間でも空気だった感が強いけど」


「私の支援者としての務めが終わったら、今度は宮廷魔術師としてのお仕事の方に回ったわ。あんなだけど、ここでは頼りにされてるみたい。……ロズワールなしじゃなにもできない私の言うことじゃないけど」


 堂々と、広間で自身の考えを主張したときとは打って変わり、今のエミリアの考え方はどこか後ろ向きで弱々しい。他の候補者と自分を見比べ、その上で凹んでいるのだとすれば、それは自身を過小評価しすぎているものとスバルは思う。


 確かに受けてきた教育や、そもそもの生まれなどを評価の条件とするならば、エミリアの旗色はハーフエルフであるという出自だけでかなり悪い。

 しかし、それらの部分を重要視せず、今後の己の在り方を評価してほしいと語った彼女の主張は筋が通っていたし、堅物丸出しであった老人をうならせるものがそのときの彼女の態度に溢れていたこともまた事実。


 彼女が自分に足りていないと嘆いているそれらは、後天的にいくらでも手に入る。

 彼女が王座を求める上でもっとも必要なもの――それを、彼女は最初から持ち合わせていると、スバルはそう思うのだ。


 だからスバルは彼女の悲嘆を的外れなものだと思うし、王選に挑む彼女にとって足りていないものはそんなものではないと思ってもいる。そして、それを彼女に自覚されることを恐れるように、


「それじゃ、ロズワールのそっちの話し合いが終わったら即行で宿に戻ろう。レム回収して、今後の方策を練らにゃ。と、まだ城でやることとかあったり?」


「スバル」


「ないならよしだ。ここじゃどこに目と耳が設置されてるかわかったもんじゃないし、できれば屋敷まで戻るのが理想だわな。そこでもうちょい詳しい話を……いや、せっかく王都まできてんだから、まずは有力者とか抱き込んだりする方が先……」


「スバル……」


「いやいや、むしろ逆にここは他の王様候補の連中とある程度の条件交わしといた方がいいかもしんねぇな。いつどこで、どう仕掛けるか難しいとこだし……」


「――スバル!」


 早口に、その場しのぎの言葉の弾幕を並べ立てるスバルを鋭く呼ぶエミリア。その声に思わず弾幕を中断し、スバルはそらしていた視線を彼女に合わせる。

 しっかりと、真っ直ぐに、紫紺の瞳が、スバルを見つめていた。


「――話を、しましょう」


 静かに、しかし揺るがしようがないほど、それはスバルに重々しく響いた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 身を起こし、寝台を椅子代わりにするスバルの正面、入口近くの壁に背を預けながら、エミリアは両手に抱えたローブを固く握りしめている。

 それはこれから始める話の内容が、決して和やかに笑い合いながらできる類のものでないことを、事前に彼女の指先が無意識の緊張で示しているが故だった。


「色々と、聞きたいことはあったんだけど……さっきは場所が場所だったせいで聞けなかったから。……ホントに、たくさん」


「……ああ、まぁ、そうだろね」


 手探りに、なにから話題にすべきかと戸惑うようにエミリアは唇を震わせる。

 そんな彼女の躊躇いが、揺らぎが、スバルには手に取るようにわかった。

 なにせ自分のやらかした出来事だ。いずれも彼女にとっては想像の埒外ばかりであったろうし、説明を求めたいことばかりだったろう。


 だから敢えて言葉にするのならば、エミリアは『今日のスバルの行動』の全てを問い質すのではなく、その真意を問い質すべきなのだ。

 それに対する答えなら、スバルは臆面もなくたったひとつの答えを返せる。

 だが、


「えっと、それじゃあ……どうして、ユリウスとその、戦うことになったの?」


 彼女の選んだ話題はスバルが望んだ内容ではなかった。

 そして、なにより聞かれて眉に皺が寄る類の部分でもあった。自然、彼女が言葉を選びながらも『戦い』と称してくれたことに皮肉な笑みが浮かぶ。


「……なに、そのすごーく嫌な顔」


「いや、別に。ただ、戦いなんてかっちょいい単語で表現できる華麗な内容だったと我ながら思えなかったもんで、つい」


 あれだけ一方的にやられたのだから、戦いというよりは蹂躙というべきだ。あるいはユリウス自身が称していた通り、『誅罰』とでもいうべきか。


 スバルの荒み切った内心はともあれ、エミリアはその返答に痛ましげな表情をする。普段ならば軽口で応じるスバルが、自嘲も露わにそう言ったのだから驚きも当然だろう。

 彼女はその淡い瞳の輝きに憂いの感情をにじませながら、


「なにかきっと理由が、あったんでしょ? スバルのことだから、きっと大事な……」


「理由、か……」


 控室で打ちひしがれていたスバルの下へ現れたユリウス。彼に誘われるままに練兵場に赴いたとき、スバルはこれが広間での無礼への返礼なのだと即時判断した。

 対戦相手であるユリウスと自身との力の差も、少なからず読み取っていた。本来なら腹痛を理由にその場を辞し、そそくさと相手の思惑を折るのがスバルという人間の性格であったし、事実そうするべきであると思っていた部分もあった。


 なのに、事実としてはスバルはあの場で木剣とはいえ剣をとり、勝てる見込みのない相手に挑んだ――結果、ボロクズのように打ち捨てられる様となったが。

 どうして、あんな真似をしたのか。その答えは、


「一矢、報いてやりたかったんだよ」


「……え?」


「広間でも、控室でも、あいつは……あの野郎は、俺が……ふさわしくないって言った。そんなのはわかってる。俺だって承知の上だ。力不足なのはそんなもん、誰に言われるでもなく俺が一番よく知ってた。だけど!」


 顔を上げる。目の前に立つ、銀色の美貌を、戸惑う瞳を見上げて、


「示したかった。捨てたもんじゃねぇんだってとこを。違う、そんなんじゃねぇ。俺はただ、並びたかったんだ。あいつに欠片でもそれを示せたら、俺は……もっと、マシになるんじゃねぇかって……」


 言葉がまとまらず、スバルは頭の中を掻き回していく激情に顔を俯かせ、膝の上に置いた拳を握りしめて唇を噛む。

 もっとうまく、言葉が出てこない自分が恨めしい。この胸の内に燻る感情の全てを、思いの丈をそのままぶつけられたなら、こんなもどかしい思いをせずに済むのに。


「スバル……」


「意地、だったんだよ。俺は無様だ、無用だ、邪魔な存在だって、俺を君から切り離そうとするあいつが憎たらしくて……それを撤回させてやりたくて、挑んだ」


 けっきょくは、そういうことなのだと思う。

 エミリアにふさわしくないと、あの場の誰より苛烈にスバルを糾弾したユリウス。だが、そんなことは誰に言われるまでもなく、スバル自身が一番わかっていた。

 それを悟られないようにしようと、スバルは必死で己を取り繕ってきた。その必死で取り繕ってきた仮面の下を、あっさりと暴いてみせた男が許せなくて。

 どうにかして、白日にさらされたそれを覆い隠そうと必死になって。

 その結果が、ああして血の海に沈む無様な結果につながったのだろうと思う。


 うなだれるスバルの力ない答えに、エミリアは小さく息を呑む。

 それは彼女の求めていた、もっと実のある答えとは違ったのだろう。どんな理想的な答えを彼女が求めていたのかはわからない。だが、彼女が信じたいと思っていた理想を、スバルの意地という現実は裏切っていった。

 その失望が、わずかに抜けるように彼女の唇からこぼれ、


「そんな、ことのために?」


「そんなことが、大事だったんだよ……ッ」


 そんなことが、スバルには譲れない大きなことだったのだ。

 そんなつまらないことを周囲が認めてくれるだけで、スバルは胸を張れたのだ。

 そんなつまらないことを意識しただけで、スバルは恥の感情に苛まれて、身動きが取れなくなってしまう。

 颯爽と前を歩いていく、その背中に追いつけなくなってしまう。


 だがしかし、その縋るようなスバルの思いはエミリアには理解されない。

 彼女は絞り出すようなスバルの答えに口元を掌で覆い、その指の隙間から震える言葉を押し出すように、


「それが……それ、が、スバルがああして戦った理由なの?」


「……ああ」


「あんなに痛い思いをして、苦しい思いまでして、なのに?」


「そうだよ」


「――使わないでって言った、魔法まで使って?」


 顔を俯かせて視線をそらし、まるで子どもがふてくされるような態度をとっていたスバルの顔が強張る。

 切り札、奥の手、最後の手段――どんな言い方をしたにせよ、それはユリウスの前には稚拙な策であると断じられた。


 スバルがこの世界にきて、曲がりなりにも得たはずの確かな力。

 二度目のループ――屋敷での一件で、これ以上ないほどに頼ったはずの力だ。それがああも容易く破られたことは、スバルに少なくない衝撃をもたらしていた。

 まるで、この世界にきてからの日々の全てを切り捨てられたような無力感が。


「ねえ、スバル、答えて」


「――――」


「本当に、それが理由で、スバルは魔法を……使ったの?」


「……エミリア、たんには」


 震える言葉が、無力感に苛まれるスバルに自供を迫る。

 それがどれほど残酷で無慈悲な行いなのか、問いを投げる彼女にはわからない。

 だからスバルは弱々しい声のまま、彼女を見ることもできずに、


「――エミリアには、わからねぇよ」


「――――」


 そう、言い放っていた。


 言ってすぐに、スバルはこれがどうしようもない八つ当たりの類だと自覚した。

 それも相手の理解の姿勢を拒絶し、心を断絶する最低の言い分だと。


 沈黙が落ちる。

 スバルは自身の発言がそれ以上の追及を拒む類のものであると知っていたし、エミリアにもそれははっきりと伝わったはずだ。


 これ以上、あの戦いの理由に踏み込まれることは避けたかった。

 どこを掘り返しても、どこを見返しても、エミリアが求める答えをスバルが返すことはできない。これ以上、この話題を掘り起こすことは、互いの傷を深める以外に他ならないのだから。


「――そう」


 顔を上げることができないままでいたスバルに、息の抜けるような声が届く。

 吐息に近い音程のそれはスバルの言い分を聞き入れたものであり、彼女の側からこれ以上、その話題を深く追及する意思がないと示されたものでもあった。

 その反応に安堵の感覚を得て、スバルは肩の力を抜いて息を吐く。

 それからせめて、彼女の求める答えを返せなかった分は、この先の彼女の役に立たなければならないと考え――、


「スバル、これからの話をしましょう」


「うん? ああ、俺もそれをしなきゃと思ってたんだ。とりあえず、もっと落ち着いて状況を聞いてからじゃなきゃ判断できないけど、まずロズっちと合流して……」


「私とロズワールは、明日にでも屋敷に戻ることになるわ。そして、スバルには王都に残ってもらいます」


 告げられた言葉の意味が呑み込めず、スバルは「は?」と疑問をそのまま音にする。

 無理解に首を傾げるスバルに対し、エミリアは極力感情を抑えた声音で、


「もともと、そういう約束でしょう? スバルが王都にきたのは、疲弊したゲートを治療してもらうのが目的だもの。フェリスにその約束は取り付けてあるから、あとはあの子の治療を受けて、ゲートの回復に専念して」


「いや、ちょっと待て」


「王都に残る間はフェリスの……というより、クルシュ様のカルステン家で面倒を見てくれるって話になってるし、レムも一緒に置いていくから心配しないで。無事に治療が終わったあとは、そのあとで話をしましょう」


「だから、待てって」


 早口に今後のこちらの予定を口にするエミリア。そこに自身の意思がまったく反映されていないのを理解し、スバルは声を荒げながら呼びかける。

 顔を上げ、それまでそらしていた彼女の顔を真っ向から見ようと。

 しかし、


「エミリア……」


「決めてた、ことだもの。治療に専念して」


 こちらに背を向けて、エミリアはそれで話は終わりとばかりに戸口へ向かう。

 表情の見えない、感情の伝わらない、そんな彼女にスバルは底冷えするような悪寒を覚えて、とっさに遠ざかろうとするその裾に指を伸ばす。

 ぐらりと、血の足りない体の不調がその行為を妨げようと視界を乱すが、どうにか指先は離れていくその背にかろうじて届き、


「どうしてそんな、急に? 俺は……」


「……だってスバルは、私がいるとそうやって無理をするんでしょ?」


 縋りつくスバルの情けない声に、エミリアは顔を向けないままそう応じる。

 その言葉に息を呑むスバルに、エミリアは顔を持ち上げて上を向きながら、


「初めて会ったときもそう。屋敷で色々あったときだってそうだった。それに、今日のことだって……全部みんな、私と一緒にいるからなんでしょ?」


「そんな言い方、しなくてもいいだろ……」


 拗ねたような、なんて言い方は可愛らしすぎてそぐわない。

 文字通り、それは明確な不服を孕んだ言いぶりであった。エミリアには珍しすぎる負感情の込められた皮肉に、スバルは言葉尻弱くそう答える。


 エミリアの言い方では、いくらなんでもスバルが報われなさすぎる。

 内容はスバルの口にしたものと同じでも、そこに至るまでの道筋が違う。


 せめて、それだけはわかってほしかったから。


「俺が言いたいのはそういうんじゃないんだよ。……俺はただ」


「ただ?」


「俺はただ、エミリアたんのために、なにかしてあげたいって、そうやって」


「私の、ために?」


 聞き返される言葉に、スバルは肯定の意を込めて頷き返す。

 それは背中を向けたままの彼女には見えない仕草だったが、その動きは気配で彼女にも知れたのだろう。わずかに顔を上に向けたままのエミリアはそれを聞いてどう思ったのか、ほんの数秒の沈黙が二人の間に落ち、



「――自分の、ためでしょう?」



 次いで紡がれた言葉のその響きに、スバルは絶句するより他になかった。


「――――」


 沈黙を越えて、空白がスバルの脳内を席巻する。

 混乱を押しのけて無理解が押し寄せ、言葉が浮かぶより感情がわき立つより、なによりも先に心が空虚な痛みに翻弄される。


 なにを言われたのかわからない。

 なにを言いたいのかもわからない。

 悲しいのか、苦しいのか、悔しいのか、哀しいのか、怒りたいのか、泣きたいのか。


「俺、は……ただ、君の、ために……」


 君が喜ぶことをしてあげたい。

 君が望むことの助けになってあげたい。

 君を悲しませる全ての要因から、君を守ってあげたい。


 スバルは自身の行動を、その根底にあるものがそうであるとばかり思っていた。

 そしてその行動はきっと、言葉にせずとも彼女に伝わるものと信じ込んでいた。


 そんな、他者の感情を省みない独りよがりな思い込みが、


「――わぶっ」


 柔らかい生地が顔面にぶつけられて、放心状態にあったスバルは驚きに声を上げていた。

 とっさに顔にかかったそれを払いのけて、寝台の上に落ちたそれが鷹の刺繍が入った純白のローブであったと視界の端で感じ取る。

 それが本来はエミリアの手の中にあったものであったことに気付き、そしてそれがスバルに向かって投げつけられたものだともすぐにわかった。


 だが、その乱暴な行動とエミリアの姿がいっこうに繋がらない。

 投げつけてきたのがエミリアであると理性は納得していても、感情がそれを認めたがらないのだ。


 だってスバルの目の前でエミリアはいつだって優しくて、慈母のような思いやりに満ち溢れていて、それを自分では認めたがらない意地っ張りではあったけど、それでも他者に施すことを止められないお人好しな女の子で。


 だからスバルには、目の前の現実が認められなかった。

 そんなことをしないものと信じ込んでいた少女から、そうしてか弱すぎるほどの乱暴を働かれたことに意識が停滞してしまって。


「え、エミリアたん……?」


 現実を認識できないまま、その名を呼んでスバルは目線を持ち上げる。


 すぐ目の前、指を伸ばせば届く位置に今もエミリアは立っている。

 先ほどまで背を向けていた彼女がこちらを振り返り、長い美しい銀髪が彼女の感情を表すように揺れていて、紫紺の瞳が真っ直ぐに自分を見下ろしていた。


 感情の波に揺れる、その紫紺の瞳を初めて見た。

 激情に震えそうになる唇を噛みしめる、強張った顔を初めて見た。


 何故だろうか、そんな表情も眼差しも、彼女にはまったく似合わないのに。

 その二つの矛先を向けられているのが自分であることは疑いようがないのに。


 場違いな感傷だとわかっていながら、スバルはそんな彼女を。

 そんな彼女の感情を露わにした姿を、美しいと思った。



「そうやってなにもかも、私のためだって嘘をつくのはやめてよ――っ」


 感情の波が涙の滴となって、その紫紺の双眸を満たしている。

 首を小さく横に振り、エミリアは溜め込んでいたものを全て吐き出すように、


「お城にきたのも、ユリウスと戦ったのも、魔法を使ったのも……全部が私のためだっていうの? 私はそんなこと、一度だってお願いしてない!」


「――――ッ」


「私がスバルにしてほしいって、そう思ってたことは全部お願いしてたはずだもの!」


「――――」


「ねえ、覚えてる? 私が、スバルにお願いしたこと」


「お、俺は……」


 はっきりと、彼女の口から己の行動を否定されて、スバルの思考は凍りついている。

 だから彼女の問いかけを、ぼんやりとした記憶の中を探ることができない。


 答えを返せないスバルに、しかしエミリアは答えを期待していなかったのだろう。彼女は小さく吐息し、その瞳を固く閉じると、


「私はスバルに、レムと一緒に宿で待っててってお願いしたの」


「――――」


「魔法を使ったら、これ以上、ゲートを酷使したら体がどうなっちゃうかわからないから、魔法を使わないでってお願いしたの」


 どちらの『お願い』にも、聞いた覚えがあった。

 いずれも彼女がスバルの身を案じて、大人しくしていてほしいとの思いを込めて告げた言葉だ。スバルはそれを聞き、しかしその上で行動した。

 それも全てなにもかも、自身の不調を押してでも、彼女の救いになる行動をとらなければならないと、半ば異常なまでの執着心に押されてのことだった。


 それらの願い事を蔑ろにすることも、それを踏みにじるだけの成果を持ち帰ればなんとでも取り繕うことができる。

 明確に言葉でそう思っていたわけではないが、そんな類の軽はずみな考えはスバルの根底に常にあった。

 だが結果として、スバルはエミリアの願い事を蔑ろにしたその上で、なにひとつまともな成果を出すこと叶わず、彼女の足を引いただけの有様をさらしている。


 だが、それでも、行動の源泉は、その始まりは確かに――、


「言うことを聞かなかったのは、悪かったと、思ってる。ホントだ。本当に反省してる。けど! でも、違う。違うんだよ。俺は、俺のためになんかじゃなくて……」


 根源にあるその思いだけは本物だと、それだけはわかってほしかった。

 しかし、スバルの舌は痺れたように痙攣し、それ以上の言葉の羅列を拒んだ。


 意に従わない自身の体の反抗に、スバルは苛立ちを隠せないまま口元を手で覆う。そんなスバルの醜態を、エミリアは悲しげな顔でじっと見ていた。


 その瞳に、居心地の悪い自縛の念に、スバルは身を小さくして弱々しく、


「エミリアは俺を……信じて、くれない、のか?」


 それはあまりにも身勝手で、自分本位で、独りよがりな言葉だった。

 言ってはならない言葉だった。それはついさっき、相手に対して理解を拒絶した人間の口にしていい言葉ではなかった。


「信じたいよ。……私はスバルを信じたい」


 泣きそうな声だった。

 事実、泣いているのかもしれなかった。


 でも、スバルにはそれを確認する勇気がなかった。

 顔を上げて、愛しいはずの少女の、その顔と向き合う勇気が持てなかった。


 泣いているかもしれないのに、泣かせてしまったかもしれないのに。

 その顔をさせたくないと、そうして走ってきたはずなのに、一番肝心な場面で、ナツキ・スバルは――。


「信じたいのに……信じさせてくれなかったのは、スバルの方じゃないっ!」


 感情が爆発する。

 穏やかで、理性的で、これまでも怒ったりすることがなかったわけではなかったけれど、それでも感情的になって枷が外れることは一度もなかったはずなのに。

 その枷が外れて、溢れる感情をそのまま口にするエミリアは、


「スバルは約束を一個も守ってくれないじゃない。約束……したのに、それを全部簡単に破り捨てて、こんなところまできちゃうんでしょう!?」


 踏みにじってきた。

 交わした約束を、つまりは信頼を。

 全ては彼女のためであると、自分自身にしか利かない大義名分を振りかざして。


「私との約束は守ってくれないのに、それでも自分のことは信じてほしいって……そんなこと言われたって、できない。できないよ……っ」


 違う、と声を大にして叫びたかった。

 しかし現実にはスバルの喉は震えたまま声を紡がず、首はまるで鉛で固められたかのように下を向いたまま動けない。


 震えて、涙を流し、感情に翻弄されて、スバルの誠実な答えを求めているはずの少女に対して、背を向けて裏切り続けることを否応なしに選択する。


 そうしてエミリアがなおも差し出す手を、子どもじみた感情で振り払うスバル。そんな彼の頑なな態度に、エミリアは小さな呼吸を繰り返して、


「……ねえ、スバル。どうしてスバルはそんなに、私を助けてくれようとするの?」


 それはきっと、エミリアが何度も口にしようとして躊躇してきた疑問だったのだろう。

 呼吸の短い間に、エミリアが何度も胸中でそれを反芻していたのかが伝わるほどに、その言葉はよどみなくスバルの側へ届いてきた。


 彼女は何度となく、傷だらけになってまで走るスバルの姿を見て、へらへらと笑いながら、あるいは痛いのをやせ我慢しながら、死地に飛び込むスバルの姿に、その疑問を抱いて、それでも口を閉ざしてきたのだろう。


 だからここで、この場で、それがついに表に出てきてしまったとしても、それは必然の流れだった。

 ここで吐き出してしまえなければ、エミリアは延々とその疑問を胸にしまい込んだまま、変わらず身を粉にして自分に尽くそうとするスバルの姿に、理由がわからないまま心を痛め続けるより他になかったのだ。


 エミリアがはっきりと、そうして救済の道を示してくれたことにスバルは気付いた。

 あらゆる言葉が薄っぺらで、約束を踏みにじった今の自分ではなにもかも届かないと思い込んでいたけれど、それでも、真摯に伝えられるだろう問いかけだった。


 ――どうして、スバルはこんなになってまでエミリアに尽くすのか。

 ――どうして、この世界にきてから彼女にこれほど執着しているのか。


 それは、


「初めて会ったときから、スバルは私を助けてくれた。あの盗品蔵でのことは忘れない。それに屋敷でもそう。ずっと、これまでそうだった。ねえ、どうして? スバルはどうして、私にそうまでしてくれるの?」


 スバルが自分に与え続けてくれていることが、エミリアには不可解でならないのだ。

 彼女から見ればスバルは唐突に出てきて、急に命を救ってくれて、理由も言わずにひたすらに尽くしてくれて、心を許せばそれを裏切って馬鹿をやる。

 そういうわけのわからない存在であるのだから。


 でも、スバルには明快な理由がある。

 彼女は自分がスバルになにもできていないと思い込んでいるようだが、そんなことは決してないのだ。

 スバルは彼女に与えられ続けている。そして、その与えられているものに匹敵するものを、少しでも返そうと躍起になっているに過ぎない。

 始まりは、スバルではないのだ。始まりは、彼女の方から与えてくれたのだ。


 だから、スバルの答えは――、


「俺が君のためになにかしたいと思うのは、君が俺を助けてくれたからだ……」


「私が……スバルを?」


「そうだよ」


 異世界に突然に招き入れられて、右も左もわからずに途方に暮れて、避けることもできない暴力にさらされて、あるいはそのまま終わるかもしれなかった世界で。


「君が俺にしてくれたことが、どれだけ俺の救いになってくれたか、わからないと思う。でも俺は……言葉にできないぐらい、あれで救われた」


 エミリアがあの場でしてくれたことは、ただスバルの命を救ってくれたというだけではないのだ。


 エミリアがあの場で救ってくれたのは、命ではなくスバルそのものだった。

 それをどうにかして言葉にしたいと思っても、それは言葉にできない類のものだった。だからスバルは曖昧な、形にならないそれを少しでも形作って、エミリアへの想いとともに伝えるしかない。


「わからないよ、スバル……」


 弱々しく、エミリアは消えそうに語尾を落としながら唇を震わせる。

 スバルはそうしてどこかへ消えてしまいそうな姿に、指先を伸ばすように縋り、


「わからないのも、仕方ない。でも、本当だ。俺は君に救われた。だから俺がしていることは、救われたことの恩返しで……でも今は」


 それだけじゃない、とそう繋げたかった言葉は、


「――わからないって、言ってるの!」


 首を振り、銀色の髪を振り乱し、感情を爆発させる彼女には届かなかった。

 エミリアは涙目のままスバルを見て、激情に息を荒くし肩を揺らしながら、


「私がスバルを助けてあげた? ……そんなこと、あるわけない。私とあなたが初めて会ったのは盗品蔵のことで、そこ以外でスバルと接点があったはずないもの!」


「違っ、話を……」


「あそこより前に接点があったら、それが本当なら、私は……私だって……」


 顔を掌で覆い、スバルの姿を視界から隠すエミリアは聞く耳を持たない。彼女は完全に殻に閉じこもろうとしていて、スバルの声はそれを止める力を持たなかった。


 いったいなにが彼女の弱い部分に触れてしまったのかわからない。

 わからないまでも、言葉を作らなければならない。

 だからスバルは感情に急き立てられるままに、


「わからないかもしれないけど、それでも聞いてくれ。本当の話なんだよ! 俺は君に、この世界にきて初めて君に――」


 瞬間――世界の制止が訪れて、スバルは己が禁句に触れたことに気付いた。


 時が凍りつき、あらゆるものの動きが停滞する世界。

 自身の激しい鼓動の音すらも、今まで聞こえていたエミリアの声も遠ざかり、甲高い耳鳴りの音の名残さえも消えゆく無音の世界が訪れる。


 自身の迂闊さと、状況を読まない執行者の影にスバルは怒りを堪え切れない。


 影が生まれる。スバルの内心の憤慨とは無関係に、無慈悲な執行者が姿を見せる。


 以前よりも鮮明に形作られる右腕は、指先から肩口までを即座に形作ってスバルの前へと迫りくる。そして、同様に生まれた左手は肘までというバランスの悪さ。


 左手は硬直するスバルの頬を、そっと愛おしげに撫でる。

 右腕は強張るスバルの胸中に忍び込み、生命を奏でる心の臓を慈しむよう触れる。


 噛みしめる歯の根が動かぬまま、激痛がスバルの全身をつんざいていく。

 身を引き裂かれるような痛みが、自分が消えてしまいそうになるほどの喪失感が、叫び出すことものた打ち回ることも許されない苦しみが、影の定めた禁を破ったスバルへの罰として一方的に降り注ぐ。


 苦痛の時間がどれほど続いたのかはわからない。

 数秒か、数分か、それとも数時間だったのか。

 時の制止した世界で時を数える愚かしさは、痛みをまぎらわすための手段には決してなり得ない、単なる思考の遊び、揺らぎに過ぎない。


 喪失する影、途端に動き出し始める世界。

 目の前のエミリアは依然として混乱の内にあり、それを止めなくてはならないと必死の覚悟でいたスバルは、ドッと溢れ出す脂汗に荒い息で応じるしかない。


 痛みが、苦痛が、呪いの影が、スバルの想いを遮ろうと邪魔をする。

 口にしようとしたはずの言葉が喉の奥へと転がり落ち、伝えるはずだった真摯な想いは行き場をなくして重石となってスバルの両肩にのしかかった。


「……また、なにも言ってくれないのね」


 諦めたような、失望したような、エミリアの感情の凍えた声が鼓膜を叩いた。

 泣き出しそうな激情も、胸を震わせるような情動も、その全てが波濤のごとく押し寄せて、エミリアの心中を掻き乱し、押し流していった。


 そしてそれをせき止める手段を持っていた唯一の存在であるスバルは、彼女に救いの手を差し伸べるでもなく沈黙を選んだ。

 事実としては違っても、彼女にはそうとしか感じ取れなかった。そしてそれを違うと否定しようとすれば、再び黒い影がスバルの臓腑を締め上げるだろう。


 場違いな怒りが込み上げてきた。

 行き場のない悲しみが胸を引き裂かんばかりに膨れ上がっていた。


 なにをどうしろというのか。

 真摯に想いを伝えようとすれば、エミリアはそれに聞く耳を持ってくれない。

 これまでの道筋の全てを語ろうとすれば、呪いの影がそれを妨げ、邪魔をする。


「俺が君を、君に、そうしたいと思うのは……君が、俺を、先に俺を……」


「……それは、私じゃないよ。スバル」


 弱々しく、たどたどしく、黒い魔手に怯えながら紡がれる言葉に、エミリアははっきりそれとわかる哀切の感情をにじませて否定し、


「私じゃない誰かを、私の中に見てるだけだよ」


「違う、そうじゃ……ないんだよ……」


 俯き、掌で顔を覆い、届かない否定の言葉をスバルは力なく漏らす。


 この世界に落ちたスバルを、初めて拾い上げてくれた少女エミリア。その記憶はこの彼女の中には存在していない。その歴史は、世界は、スバルの中にしかない。

 でも、それでも、確かにあれはエミリアだったのだ。


 同じ状況が用意されていれば、彼女は間違いなく同じ行動をとるだろう。

 スバルが路地裏で、無残にもその命を終えようとしていたとき、なにもなせずに無為に潰えようとしていたとき、救ってくれたあの瞬間は、必ず訪れる。


 この世界にそれが起きていなかったとしても、それは確かにあったのだ。

 仮にこの世界でそれがなかった歴史でも、スバルは延々と彼女に救われ続けている。


 言葉を尽くしても足りない感謝だけがあった。

 それなのに、それを伝えるだけの言葉がこの世のどこを探しても存在しない。


 それでも、彼女にはそれが伝わっているのだと信じていた。

 信じていたかった。だから側にあることを許されているのだと、自分を納得させていたかった。


「どうして、わかってくれないんだよ……」


「……スバル」


「俺は、エミリアたんなら……君ならわかってくれるって、思って……っ」


「スバルの中の、私はすごいね」


 悲しいぐらいの断絶が、心の隔たりが、その一言に込められていた。


 呆然と、顔を上げるスバルの前で、エミリアは視線をそらして横を向いた。

 口元に浮かぶのは寂しげな微笑で、それは自嘲しているようでもあり、わからないと子どものような駄々をこねるスバルを憐れむようなものでもあった。


「なにもかも、全部すべて、聞かされなくてもわかってあげられる。スバルの苦しみも、悲しみも、怒りも、自分のことみたいに思ってあげられる」


「……ぁぅ」


「――言ってくれなきゃ、わからないよ、スバル」


 否定された。打ち砕かれた。幻想は、粉々に崩れ落ちていく。

 肩が重くなり、全身に見えないなにかが覆いかぶさり、猛烈な吐き気がスバルを襲う。視界がぐるりと回り、濁り淀んだ感情が胸の中で渦を巻き――、


 エミリアは、なにも言わなくても全てわかってくれると思っていた。

 エミリアは、スバルの痛みも悲しみも、同じように感じてくれると信じていた。

 エミリアは、スバルの思いもなにもかも汲み取り、受け入れてくれると願っていた。


 ――それはあまりにも、儚く、傲慢で、独りよがりな押しつけだった。


「俺の……」


 否定された。否定されてしまった。

 こうしてこの世界に落ちてきて、信じて、寄る辺にしてきたはずのそれに。


 命を振り絞って、痛みにも歯を食い縛って耐えて、悲しみも涙を拭いながら乗り越えて、それもこれも全て、思い描いてきた偶像を守り続けるためだったのに。


 その、ありもしなかった身勝手な理想郷が、音を立てて崩れるのがわかって、


「これまで、全部……」


 唇が震える。目の奥が熱い。舌が痙攣し、心臓の鼓動がうるさいほど激しい。

 顔を上げる。エミリアと目が合う。紫紺の瞳が、悲しみだけたたえて見ている。その瞳に映る自分の顔が、あまりに惨めで、救われなかったから。


「――俺のおかげで、どうにかなってきただろ!?」


 金切り声で、控室を揺るがすような怒声を、張り上げていた。


「徽章が盗られた盗品蔵でだって! クソ危ねぇ殺人鬼から助けた! 体張った! 全部、君が大事だったからだ!!」


 シーツを掴む指先がわななき、爪の食い込む掌に血がにじみ始める。

 叫ぶ声は所々が裏返り、聞き苦しさに拍車をかけて響き渡った。


「屋敷でのことだってそうだ! あちこち齧られて、必死だった! 頭割られて、首吹っ飛ばされて、それでも村のみんなを助けたじゃねぇか! レムだって、ラムだって、きっと一番いい形になったはずだ! 俺が、俺がいたからだろ!?」


 自分の活躍を列挙する。

 思い描ける限りの、自分の功績を羅列し、遠のきかける彼女の影を追い求める。


「俺がいなけりゃもっとひどいことになってた! 誰も助かりゃしなかった! 誰も誰も誰も! 全部全部全部! みんな俺が! 俺がいたからだ!」


 盗品蔵で、エミリアは終わっていたはずだ。フェルトも、ロム爺もそうだ。

 それを乗り越えても屋敷で、レムが死に、村人が死に絶え、あるいは呪いは屋敷に残るロズワールやベアトリス、ラムにすら矛先を向けたかもしれない。当然、そこにもエミリアの命を脅威にさらす可能性はあった。


 それらを全て、排除してきたのは自分の功績だ。

 誇るべき、報いられるべき、ナツキ・スバルの行動の結果だ。


 これだけのことをしてきたのだから、こうまで尽くしてきたのだから、


「お前は俺に、返し切れないだけの借りがあるはずだ――!!」


 自分の行動の根源となっていたはずの思いまで裏切って、叫びが出た。


 報われることのなかった気持ちが、賞賛を求める虚栄心が、満たされることを望む渇望が、愛されることを願う利己心が、混迷の極みにあるスバルをそう導いた。


 そしてそれは、互いにとって、決定的な一言だった。



「そう、よね」


 ぽつりと、震える声が、額に汗を浮かせて息を荒げるスバルにかけられた。

 その響きは納得であり、諦観であり、決意であり、つまりは、終わりだった。


「私はスバルに、すごい、いっぱい、たくさんの、借りがある」


「ああ、そうだよ。だから俺は……」


「だからそれを全部返して、終わりにしましょう」


 はっきりと、告げられた言葉にスバルは跳ねるように顔を上げた。

 そして、こちらを見つめるエミリアの瞳に、空虚だけが広がっているのを見て、自身の発言を省みて、スバルは自分が取り返しのつかないことを言ったことに気付いた。


 勢いに任せて、感情の奔流に押し流されて、言ってはならないことを言った。

 自分の、もっとも純粋な、その感情の根源たる思いまで踏みにじって、子どもの癇癪じみた怒りで全てを台無しにした。


 自分と彼女の関係を、『貸し借り』で結ばれる関係だとしてしまえばそれは、


「違う……違う、違う違う違う、そんなことが言いたかったわけじゃ……」


 『貸し借り』の天秤が釣り合ってしまえば、そこでおしまいの関係ということだ。

 なにかをしてあげたいと、無償の思いを切っ掛けにしていたはずの行いに、打算を持ち込んでしまえばそうならざるを得ない。


「もう、いいよ。――ナツキ・スバル」


 親しげに、初めて出会ったときから、ファーストネームで彼女はスバルを呼んでいた。

 その彼女がスバルをフルネームで呼んだとき、スバルはもうどうしようもないのだと遅すぎる理解を得た。


 うなだれるスバルに、エミリアは手を差し伸べることをしない。

 彼女は振り切るように銀髪を揺らしてこちらに背を向けると、


「あとでレムがくるから、あの子に従って。王都に残ってからのことは全部、あの子にちゃんと任せておくから」


 返事をすることができない。そして、それを求められてもいない。

 歩き出すエミリアが遠ざかる。その背に指を伸ばすどころか、その背を見送る勇気すら今のスバルにはわいてこない。


 物理的に遠ざかる距離。そして、それ以上に遠ざかった心の距離がある。


「私、ね……」


 ふと、扉に手をかけたエミリアの足が止まり、そんな呟きが室内に落ちた。

 彼女はスバルに語り聞かせるというより、自分に聞かせるようにささやかな声で、


「期待、してたの。ひょっとしたらスバルは私を……スバルだけは私を特別扱いしないんじゃないかって。他の、普通の人と同じように、普通の女の子と同じように、区別しないで見てくれるんじゃないかって……」


 王選の広間で、公平な扱いを求めた彼女だ。

 ハーフエルフである事実は、そんなささやかなことすら願い事にするほど、彼女に苦痛の時間を強いてきたのだろう。

 だが、


「そんなの、無理だ」


 ぽつりと、スバルもまた小さく呟きで応じる。

 エミリアのひとりごとは、スバルに答えを求めるような響きではなかった。だからスバルの呟きも、彼女の言葉に対する答えの体でなく、自分に聞かせるためのものだ。


 彼女の口にした言葉を反芻し、スバルは弱々しく、力なく首を横に振り、


「たとえ世界中の全ての人間を引っ張り出してきたとしても、できない。エミリアを……君だけは、他の人間と同じ目で見ることなんて、できっこない」


 それだけは間違いようのない、本当の本音だった。


 扉が閉まる音がして、空気がさっと静まり返る。

 部屋の中にはスバルだけが取り残されて、寝台の上で丸くなる彼は視線をさまよわせる。


 ふと、寝台の端に引っ掛かり、床に落ちかけているローブが目に入った。

 手を伸ばし、それを手繰り寄せて抱え込む。まだ、そこにそれを抱いていた人の温もりが残っているような気がして、消えそうなそれを繋ぎ止めようとするかのようにスバルはそれを胸に抱きかかえて、




 ――そして、この日、ナツキ・スバルは初めて、異世界で本当にひとりきりになった。




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胸がくるしいここ
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