【64】
※本日四度目の更新。これで最後です。
恐ろしい予感がした。
このままでは、自分が自分で無くなってしまうような、そんな予感が。
ファウステリアに、悪魔としてのアイデンティティが崩壊させられてしまうような、そんな予感がしたのだ。
「――ねぇ、ファウステリア。これはほんの気まぐれなんだ。だけど、君にとっては、最後のチャンスだ。君に最後のチャンスをあげるよ」
そんな恐怖心がメティに、血迷った言葉を口にさせた。
通常なら、絶対にありえない、悪魔に相応しくない言葉を。
「もし君が望むのなら、君を解放してあげる」
300年以上もかけて、多大なる労力をかけて、ようやく得た魂だというのに。それをむざむざふいにするような、そんな言葉を、代償を求めるでもなく、メティは口にしてしまった。
「君の魂は長い年月をかけて、真っ黒に染まってしまった。もう永遠に、天国に行くことも、生まれ変わることも出来ないんじゃないかと思うくらいに。でもね、もしかしたら、そうじゃないかもしれない。罪を犯した時間より、さらに時間を費やせば、魂の穢れは消えるかもしれない。もし君の魂を僕が解放すれば、君はとても魔力が高いから、精霊としてこの世に留まることも出来るだろう。もし君が望むのなら、人間ではない別の生物として、また生きなおすことが出来るんだよ。いつかその魂が浄化される時を待ちながら」
そう言って、メティは手のひらに掴んでいたファウステリアの魂を、解き放つ。
「さぁ、行くといい。どこへでも、君が行きたいところへ。好きなところへ、行くといい」
ファウステリアの魂は真っ直ぐに上空へ浮いて、メティの顔の眼の前で止まった。
そしてどこかぎこちない動きで、メティの顔の近くに向かってきて、その腹でメティの頬を撫でた。
そっと頬ずりをするかのように。
メティは思いもしなかったファウステリアの魂の行動に、痛みを耐えるかの如く、くしゃりと顔を歪めた。
「ファウステリアっ…」
メティは沸き上がる衝動のままファウステリアの魂を腕の中に抱え込んだ。
「…せっかく僕があげた最後のチャンスを無駄にするだなんて…君ほど愚かな人間を、僕は今まで見たことがないよ…」
全ての真実を告げても尚、自分の元へいることを望むなんて、なんて愚かな人間だろう。
なんて愚かで、哀れな人間なのだろう。
メティの頬に、生暖かい何かが伝う。
なぜ視界が霞んで見えるのだろう。分からない。
胸の奥に広がる、奇妙な感情の意味も。
「……いいよ。ファウステリア。君が望むのなら、ずっと一緒にいよう。来るかも分からない僕の最期の刻まで、いつか終わりが来るその瞬間まで、一緒にいよう」
メティはファウステリアの魂に、そっと口づけを落とす。
魂が纏う白い光が、一層強くなった。
嬉しそうに、魂が小さく震える。
そんなファウステリアの魂の様子に、メティは小さく笑みをこぼした。
「――退屈でつまらないばかりの永過ぎる生だけど、君と一緒ならば、なんだか飽きることなく愉しめる気がするよ…」
隻眼の魔女王ファウステリアの死体は、聖剣ヘレンによって打ち倒された後も、魔術が解けて朽ちることもなく、若く美しいままで残っていたという。
その口元には、悪女には似合わぬ、穏やかで幸せそうな笑みが浮かんでいた。
まるで聖女のようなその死様に、見たものは皆驚愕を隠せずに狼狽したため、死してなお魔性を宿すかと、ファウステリアの死体はすぐ様焼き払われて城ごと浄化されたと、バレンタイヌの手記には記されている。
残虐な統治のうえで、栄華を極め、様々な欲望を叶えたファウステリア。
そんな彼女が最期まで手に入れられなかったものは、一体何だったのか。
当時の歴史を研究する後世の歴史家たちは、その謎を好んで議論する。
しかしファウステリアが、自らの死を持ってして望みのものを手に入れたのだという真実に、辿り着く者はいない。