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5, 恐怖消去・痛覚残留

 邪魔なものが目の前に立ち塞がったときに、私はどうやってそれを掻い潜ろうかいつも悩む。それは物質的なものでもあるけれど、精神的なものでもある。

 例えば、今私の目の前でにこにこと腹の立つ笑みを浮かべて待ち伏せていた男、灰田とか。

 ろくに舗装もされていない林道を抜けて、日差しが暑いアスファルトの上に数時間ぶりにたった私を歓迎したのは他でもない彼だった。四十キロ制限の標識の下で、春先の暑い日指しの下で、優雅にハンカチで額を拭っていたところに遭遇したものだから私も運が悪い。彼に対する人間的評価を更に落としてしまったようだった。

 森野医院からの帰りである私のことを知っているのは家族以外にはいない。無論、途中で顔見知りの近所のおばさんと出くわした記憶が無いかと聞かれれば曖昧な返答になるが、まさか刑事ばりの捜査能力をこの男が駆使したとは思えない。やはり、彼は普遍的ではなかった。


「……何の用よ」


 あからさまに嫌そうな顔を仕向けて、私は灰田にそう問うた。


「そんな顔をしないで欲しいね。僕は別にナンパをしにきたわけじゃない」

「分かっているわ。で、用件は何」


 灰田はため息をついて、ハンカチをポケットにしまう。今日の服装は当然制服などではなく、もっと質素な服装かと予想していた私の期待を大きく裏切った格好だった。腰周辺にはチャラチャラした装飾に、ナウいなんて死語を吐かされそうなほどのセンスで構成された上着。春の日の下に良く似合う緑色のカーティガンを羽織っていた。

 靴はそれに対して不遇な下駄のようなサンダル。ラフと言えばラフな格好だった。

 ふと自分の服装を見てみる。赤いワンピースなど着る勇気も無いが、流石にパジャマ同然の服装で外に出たのはいささか間違いに思えてきた。


「君、森野医院に診療されに行ったのかい?」

「そうよ。見ての通り」


 気だるげに私は貰ってきた薬の袋を掲げる。灰田は興味無さそうに一瞥して、すぐに私に視線を戻した。


「ここは春先は虫が多いだろう?僕も何度か通ったんだけれども、少しあれだけは願い下げだね。君もそう思わないかい?」

「確かに虫は嫌いだわ。今回は出くわさなかったから別に良かったけど、次こんな状況があったら物凄い形相の私を目撃してしまうかもしれないわね」

「それは面白そうだ。是非とも次回森野医院に通うときは僕に連絡をよこしてくれ。例え火の中森の中でも駆けつけるから」

「森野医院にいたら既に森の中よ。全く、あなた見かけによらず変態ね」


 すると灰田は微笑して、そうみたいだね、と意外にも肯定してみせた。私はやはり気味が悪く、その灰色の髪の毛を見ないように勤めながら彼を横切って歩道を歩き始めた。

 胸糞悪い。皮肉を言ったつもりが全くそれに気付いていないようだった。私の後を飄々と余裕の笑みで付いて来る。本当にストーカーなんじゃないかと疑い始めていも良い頃だと思うが、私はそれ以上の何かを感じ取っていたため、程度の低い小学生のような思考は消し去ることにしていた。

 国道とはかけ離れたこの道路は一本の別れ道も無く続いている。車道の両端には白いガードレールがあり、その更に両端には延々と続く森林。伐採される計画は立てられていないようだが、山でもないこの森が一体どの様にして出来たのがは不明だ。噂ではやはり伐採のための養殖森林だという話もあるが、それにしてはあまりにも殺伐としすぎている。カブトムシでも取りに行ったら確かにいそうだが、野鳥観察には向かない、とこんな感じだ。

 そんな最中を歩いていた私の横に、灰田が追いついてきた。


「虫が嫌いな人って、何で虫が嫌いなんだろう?」


 唐突にそう聞いてきたものだから、私は苦い表情をして虫の気持ち悪さを少しだけ語ってやった。ある意味生き生きとした私の愚痴のような文句を灰田は一語一句逃さず聞いている。


「つまり、簡単に言えば気持ちが悪いのよ。眼といい羽といい、何もかもがね」


 はあ、と一度大きくため息をついた。


「じゃあもし、もしもだ、その気持ち悪いと感じる要因が無くなったら君は虫を好きになれるかい?」


 どういうことだろうかと思考を巡らす。虫が気持ち悪い要因と言えば、語った中でもあったが羽、眼、その他もろもろの形や手触り全てが要因だ。それが無くなることは、既に虫であることを止めているのではないだろうか。


「蜘蛛の足は八本だ。それが六本になったところで気持ち悪さは消えない。かと言って二本になったって蜘蛛は蜘蛛のままさ。僕が言いたいのはそういうことじゃない。つまり、君が虫に対して恐怖というものを覚えなくなったらどうだろうという話さ」


 一瞬理解が出来なかった。私が右斜め上を向いて考えていると、灰田がそんな私を見通してふっ、と笑みを漏らした。私よりも一歩前に出て、その瞳を細めていた。まるでこれから悪戯を起こそうとする子悪魔のように微笑んで。


「君は神経異常の患者が、どんな気持ちで生活しているのか理解できるかい?」


 いつもの通り状況に無頓着で、私の方を見てそう言う。


「神経異常って、あの痛覚とかが無くなるやつ?」

「そうだね。歯医者で麻酔を打たれた状態が永遠に続いている状態と言ったほうが良いかな」

「辛いわね、それは」


 正直な感想を簡潔に私は述べた。

 ――しかし、それに灰田は目を見開いた。

 鬼の形相というのは常世にて狂気と殺気と禍々しい妖気を含んだことを言うのだとしたら、彼のこれは何なのだろうか。

 私は胸の中心を細く、頑丈な指で引きちぎられたような激しい苦しみを覚えた。自然と息が荒くなり、額から汗が滲み出る。足が杭で打たれたように動かない。膝に打たれたのか、屈伸運動すらままならず、私の目は灰田にそれこそ釘付けになっていた。

 正直言って、怖かった。その瞬間だけ世界が凍りついていたに違いない。鳥のさえずりは聞こえず、道路を走る車の排気ガスなど路傍の石程度にも思わない。

 舞台に上がったのは、主人公の灰田と、私。


「神経異常、痛覚が無くなること。感覚が無くなること。それは辛いこと、面白い答えじゃないか。そうさ、辛いに決まっている。人としての一部を失うのだから、辛いに決まっている」


 何度も何度も反芻するように灰田は私の目を見てつぶやく。それは辛いことだと、辛いことだと、辛いことだと、何度も言い聞かせる。


「けれどもね、僕はこう思うんだ。痛覚を失うことは辛いことと同時に、嬉しいことでもあるんだ」

「……は?」


 思わず私からそんな間抜けな声が漏れた。

 今やあの壊れた人形のような目は灰田から消え去り、いつもの無頓着な彼に戻っていた。


「痛いことが無くなるということは、『痛みを伴う恐怖』を克服することに繋がるんだ。先端恐怖症の人間がいたとして、そいつに僕はナイフを突き立てる。当然怯えるだろうし、僕はだからと言って止める気も無く、その人間を刺す。きっと人間は気絶するだろうね。そして目覚めた時に僕を叱る。殴る。蹴る。けれども僕はまたナイフを突き立てるんだ。そうしているうちに、きっと人間は刺される恐怖から抜け出すことが出来る。――だって、痛みを感じないんだから」


 理屈は通っているのだろうと思う。先端恐怖症の多くは『刺されてしまう』という無限の妄想から恐怖を抱くパターンが多いという。程度は上下様々だが、鳥肌が立つ程度の人もいれば、震える手足に数分を要する重病な人もいる。

 刺されてしまうということは、『痛み』や『死』に直結する。つまり、その一点である痛みを取り除けば緩和されるということだ。それを刺して何度も認識させ、自然とそう思い込むまでに凶行を繰り返す。痛みがないと。

 だがそれは『被害者』である当本人以外には推測するべき事象ではないと私は思う。例えば、いじめや自殺の小説を書く人間が増えているが、その作者がそういった体験をしたことが無いのに想像だけで書いていては所詮は程度が知れる。物事を体験からではなく、推測で語るにはあまりに大きい話題だと思った。


「君は今、それは僕の推測でしかないと思っただろう?そうさ、その通りさ。僕のような何ら不自由なく生きている憎たらしいホモサピエンスなんぞに病気の重さは語れない。けれど…それは単なる比喩表現だ」


 思考を読まれたことに気味悪さを覚えながら、この男がやはりただものではないことを再認する。私は見えない何かに磔にされた手足をやっとのことで動かし、手の平を閉じ開きして感覚を取り戻した。多少痙攣のようなものを繰り返した指先が氷から溶けた液体のように動きが滑らかになる。


「僕が言いたかったのは、『恐怖心』というものが無くなることが、果たして辛いのか幸せなのかということだよ。だって、怖いものが無いなんてとても嬉しいことだろう?けれども神経異常の人に対して『辛いだろうね』と僕らは言うんだ。痛みなんていう不動の恐怖を克服出来るのにだよ?知らないうちに傷ついているから可哀想?そんなものは不注意でしかない。僕は思うんだ、感覚が無くなることは人にとって辛いのかもしれないけれど、本質的には別にどうでもいいことなんだ」

「……どこがどうでもいいのよ。怪我をしても気付かないだなんて危ないじゃない。ふとした拍子に大事故になることだって有り得るわ。あなたはそういう点楽観的すぎね」

「楽観的?違うよそれは。僕は真実を語っているだけだ。言っただろう、人間的にはそれはとても不自由で辛いんだ。それは僕も理解している。けれどもね、『痛みを感じない』という点においてはそれはとても嬉しいことなんだ。痛みを伴ってこそ人は成長するものだというけれどもあれは嘘だ。鉄は打って固まるかもしれないけど、人の心と肉体は打っても固まらない。弱い者は弱いまま。殴られて強くなれるわけじゃないし、痛いものは痛いまま。それを受け付けなくなるということは、既に人越とも言うかもしれない。痛みを知らずに育ってきて何が悪い。痛みを知ることが出来なくなって何の不都合が生まれる。痛覚なんてものは、いらないんだよ」


 巻くしたてる上げるように言い切り、それでも灰田は凛とした態度で私の横にいる。理論というものを三段ほど飛び越した灰田の論理に私は半ば凍りついていた。

 彼の意見を鵜呑みにすることは不可能だったが、理解できなくも無い。人間の危機管理能力の一つであること以上に確かに痛覚の意味合いは無い。かと言っていらないわけもない。こればかりは飛躍しすぎていると私は思いつつも、彼の言うことに深く考え込まずにはいられなかった。


「どちらにせよ、僕ら人間には痛覚がある。痛みを恐れる恐怖心がある。虫を見て怖がる恐怖心がある。けれども――」


 瞬間、再び世界が凍りついた。

 灰田は目を見開き、まるで面白い玩具でも見つけたような童心に溢れかえった表情を見せ、私の傍によって肩の上に手を滑らせた。その感覚が冷たく、私は思わず冷水を被ったときのような身震いをしてしまった。

 一つにこりと笑みを漏らすと、彼は視線を地面に落として指を刺す。私はそれに誘導されるようにして、何があるのか予想もついていないのに恐る恐る首を下に向けた。灰色のアスファルト、ガードレールと森林の木陰で冷たくなったそれの上に、黒っぽい何かが蠢いていた。六本足でじたばたと羽をうるさく羽ばたかせてのた打ち回る姿は滑稽。

 ――私は、反射的に踏み潰した。

 ぐちゃ。

 ぐちゃ、ぐちゃ。

 グチャグチャグチャグチャグチャグチャ!!

 と、私の中だけで音を立てて潰す。外界の灰田から見れば、それはほんの些細な出来事。私にとってもそれはほんの些細な出来事。足の裏に何が付こうが、別に何だって良かった。


「――けれども君は恐怖しない。は、ははっ。踏み潰してしまったよ、これは笑える、笑えるよ。命の尊さなんて頭の片隅に微塵も無いんだね?その足の裏に何がへばり付いているのか雑草ほどの興味も持たないんだろう?そして君は言うんだ……」


 私は灰田を見た。大口を開けて笑っている。その歯を砕いて、綺麗な髪の毛を毟り取って、澄んだ声が出る喉を潰して、輝く碧眼を抉り取って、流れるような四肢を引きちぎ。

 視界がブラックアウトした。脳みその裏側がちりっ、と焼けたように熱くなったかと思えば、視界が暗闇に支配されて私には何も見えなくなった。

 けれども口が動いた。彼と同じように、口が動いた。


『アナタハダアレ?』


 私の頭蓋は爆炎に包まれ、消え去った。

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